第8話


 中等部の頃、誰にも告げず家を飛び出して、この団地に来たことがある。

 祖母がまだ生きていて、だから祖父もまだこの団地に引っ越してないとき――祖父がここに引っ越すと聞いた時は本当に驚いた。

 バスに乗る前、通り道のコンビニ、たぶんローソンかファミリーマートでオカカのオニギリとかコーンマヨネーズパンとかプリングルズのサワークリームオニオンとかカロリーメイトココア味とかペプシコーラとかカルピスソーダとかモンスターエナジーなんかを買いこんだ。歯ブラシセットは家から持ってきた。

 ちょうど日が暮れてから団地に着いたので、誰の目にもつかずに、空き部屋を見つけることが出来た。この時ですら、ここはもう廃墟同然だった。世代交代に失敗した多くの団地と同じ運命を辿っていた。

 私はそれからの数日、暗い部屋の中でジッと座ったまま過ごした。リサイクル店から盗んだウォークマンは持ってきていたが結局、最後まで聞かなかった。ただ何もせず、何も考えず、ただ座っていた。埃まみれの床の上に私のものじゃない、まだ血が滴るような誰かの耳が落ちていて、それをただジッと見て座っていた。

 持ってきた食料が無くなったので家に帰った。天井の隙間から這い出してきたトカゲかイモリを捕まえて食べれば、あと一日ぐらいはそこにいれたかもしれないけど、私は家に帰った。

 その週に予約されていた心理分析のカウンセラーに、団地でのことを包み隠さず話してみた。彼はそれを私のフィクションだと思ったらしい。私の知らない耳の落ちている映画の話を長々とした。私が性的な欲求不満状態にあると診断した。彼は次の週にも同じ診断をした。彼はどうしても私が性的な欲求不満であってほしいらしい。


 次の日もジャンボジェットが頭上を過ぎる時間、あの少女が三号棟の屋上に現れた。幻ではなかったようだ。まるで私を待っているように、私を見ている。だからといって私が彼女に会いに行く義務も動機もない。

 私は朝食の時に一人言のように祖父に少女のことを話した。祖父は納豆を混ぜる手を止め、箸を置いてから当然のように窓から見える空の上を指差した。


 最高気温を再び更新した午後、集会所の突き出した屋根の下に生協のトラックがやってきた。

 私は集まってきた老人の中に、ツバの広い真っ白な帽子を被ったヨー子さんを見つけた。私はヨー子さんに新しい住人を知らないかと聞いた、私と同世代の女性の住人。

「私が住んでるのは六号棟だから、三号棟のことはよく分からないわね。ちょうど自治会長さんが来ているから聞いてみましょうか?」

 私はこの団地にそんな役職の人がまだいることに驚いた。

「ミチヒコさんこんにちは。毎日こう暑いと大変よねえ。この可愛い女の子は知ってるでしょ、キョウイチさんのところのお孫さんでサヤちゃんよ。サヤちゃんが聞きたいことがあるんだって」

 私はそのミチヒコさん、フルネームでノムラミチヒコさんという老人に頭を下げた。彼はこうして生協のトラックに買い出しに来るときに何度か見たことがあった。ミチヒコさんはこの暑さにも関わらず、長袖のシャツを着て、首元にはアスコットタイなんかを締めた、紳士という雰囲気の老人だった。彼こそが自治会長だという人物だった。

 トマトを両手に持って吟味していたミチヒコさんが、私に優しく微笑む。私は彼にもあの少女のことを聞いた。

「公団からは新しい入居者が来るなんて連絡はありませんでしたねえ。公団はあれで几帳面なところがありますから、連絡ミスはないと思うんですが、トシヒロさん、マスミさん、知りませんか?」

 声をかけられた老人も首を横に振る。

「ここには時々、暴走族や家出の若者達が遊び場と勘違いしてやってくることがあるので、そういう若者の一人でしょうかねえ」

 私は過去の自分のことを言われた気がしてドキリとした。

「女の子の姿は見なかったですが、怪しい男がウロウロしているのは見ましたよ」

 マスミと呼ばれた老人が言った。怪しい男って、まさかナリアキだろうか?

「暑いのにお葬式に出るような真っ黒なスーツを着て、空き部屋なんかを調べていましたよ」

「葬儀屋ですか?」

「まさか、違いますよ」

 老人達は一斉に笑う。

 ナリアキはそんな格好はしないから、それはナリアキではないだろう。

「それじゃ郵便局の人じゃない?」

 ヨー子さんがすかさず聞いた。

「あれは郵便局の人じゃなかったですよ」

 すぐに否定され、ヨー子さんはがっかりした顔を見せる。

「実は私も見ました。あれは刑事か何かですかねえ。前のようなことを調べてるのですかねえ」

 トシヒロという老人が心配そうな表情を見せる。

「前のようなこととは?」

 私はこの平和な団地に似つかわしくない刑事という言葉に思わず聞いた。老人達は顔を見合わせ、私にそれを言うべきか迷っていたが、結論が出る前にヨー子さんが答えた。

「昔ね、この団地が人目につかないのを利用して暴力団が覚醒剤を密造していたことがあったのよ。私達は静かに暮らせれば、誰がここに住んだっていいんだけどね、実際ヤクザの人達は誰にも姿を見られないように息を潜めてここにいたからね、私達は問題にしてなかったんだけど、ある朝に警察がパトカー何台も引き連れてここにやってきて、それはすごい騒ぎだったのよ、あの醜悪なマスコミまでやってきて、私達の生活は無茶苦茶に荒らされたのよ。大変だったわ」

「そうです、あの時は大変でしたねえ」

「大変でした」

 老人達は肯き合う。

「私はその男を見てないので何とも判断のしようがありませんが、もしその男が警察関係者だとして、今回は麻薬なんかの捜査じゃないんじゃないでしょうか。みなさんを脅かすつもりはありませんが、もしかすると街を騒がせているあの事件の犯人を捜しているんじゃないでしょうかねえ」

 自治会長ミチヒコさんが眉をひそめ言った。街を騒がせている事件といえば、あの連続バラバラ殺人事件しかない。朝のワイドショーによると、警察は街全域を対象とした徹底的なローラー作戦を決行したにも関わらず、まだその手がかりすら得られていないようだった。

 老人達の顔に不安の影がよぎる。

「警察も念のためにここまで来ただけでしょう。何かが見つかれば、前のような騒ぎになっているはずです。しかしみなさん、これをいい機会として、戸締まりには注意することにしましょう。サヤさんもキョウイチさんが一人になる時は気をつけてあげてください」

 私は肯きながら、その警察が捜しているがあの少女で、あの少女が連続殺人犯で宇宙人だなんてバカな妄想をしてみた。

 上昇する気温で溶けた脳味噌の現実逃避。


 ……昨日、北区のビル建築現場で発見された女性の死体は損壊状況が酷く未だ身元の判明には至っていません。警察からの正式発表はありませんが、現場の監視カメラが意図的に破壊されており、その時間から深夜一時以降に遺棄されたと考えられています。臓器の一部が持ち去られたという未確認情報もあり、警察ではこれまでに起きた七件の類似事件との関連を含め……


 その夜から戸締まりはしっかりして、夜の散歩は自粛することにした。

 夕食の片付けが終わって、祖父も眠りについた。私も布団の上に寝そべりながら、聞くともなく、いつかナリアキが私に勧めてくれたイギーポップじゃなくポップグループなんてフザケた名前のバンドのアルバムを聞いていた。

 音楽が耳から入ってこなくて、エアコンは相変わらず生暖かい空気しか運ばず、私は我慢できなくなってカーテンを開けて、窓も開けた。

 あの少女がまた隣の棟の屋上に立っていた。

 転落防止の柵に体重を預け、私のいる部屋の辺りを見ている――ような気がする。

 私は試しに手を振ってみた。間をおかずに、少女も私に手を振り返す。やはり私を見ているようだ。

 彼女に何の権利があって私の生活を覗くことが許されるのだろう。私はバカにされている気がして腹がたった。確かに私はバカにされてもしかたないけど、それでも腹がたった。腹がたった私が彼女に文句を言いに行くことにしたのは、それでも三日後のことだった。

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