十四
「とりあえず、まず森。昨日、鹿子姉さんの車の中から見たかもしれないけど、けっこう広い。道はそんなに難しくないけど、けもの道とかに入ると迷うから、歩く時はそこだけは注意してくれ」
まず、真っ先に森を指し示す。
「歩く時は、ってことは、今日はここには行かないの?」
「行きたいんなら案内するけど、どうする?」
白としては、どうせ後で行くことになるので、後回しにしたかったのだが、さしあたっては幼なじみの気持ち優先だと割り切る。莉花は、少しだけ唸ったあと、首を横に振った。
「興味はあるけど、また今度でいいかな。それよりも、白が決めてくれたコースの方が楽しそうだし」
ハードルが上がり、薄っすらと強まった緊張感に顔が強張るのを感じつつも、左様か、などとどこか古風な言い回しをしてしまう。莉花は、なにその言い方、とくすくす笑ったあと、
「うん、サヨウサヨウだよ」
意味が理解できているのかいないのか、よくわからない言い回しで応じた。
果たして楽しんでもらえるだろうか? 鳴りを潜めた疑問が再び白の中で浮かびあがってきた。
「ここら辺はずっと畑か田んぼだな」
「すっごい広いね」
畦道に立ち、キャップ帽越しに額に手刀の人差し指部分をあてて辺りをぐるりと見回す莉花。
見渡すかぎりの水田と夏野菜や果物の畑、それにぽつぽつと小さな向日葵畑がいくつか並んでいる。少なくとも、白と莉花が住んでいる街ではお目にかかれない規模の、田園と畑の並びがあった。とりわけ、農地自体物珍しく感じる土地に定住しているこの幼なじみにとって、どこまでもと言うのは大げさにしても端から端まで歩ききるのに一苦労する農業地帯というのはなかなか衝撃的に映るのは想像に難くない。
しかし、少女の顔は楽しげではあっても、驚きというのは薄いように見えた。
まあ、行きの電車で散々見たっちゃ見たしな。すぐさま、似たようなだだっぴろい田畑が広がる車窓の景色を思い出し、もはや物珍しさはないのだろう、と結論づける。
「シロのお祖父ちゃんは、農作業はしてないの?」
唐突に投げかけられた疑問に、ああ、と頷く。
「田んぼも畑もかなり持ってるらしいけど、管理は親しい人に任せてるっていう話だったはず」
「そうなんだ……」
「ああ、でも。昔は少しやってたって言ってたかも。たしか、母さんは普通に田植えとかしてたらしいし。俺はやったことないけど」
そう言えば、椎葉家がそれなりの旧家であり半ば地主みたいなものなのだった。普段は忘れがちな事実を思い出す。であれば、さほど名産品や観光名所もない片田舎に住んでいる以上、周囲の人間が生きるための手段には多少なりともかかわっていてもなにもおかしくはない。もっとも、白の代には受け継がれなかったようだが。
「そっかぁ。もしかしたら、農業体験ツアーとかあるかなって覚悟してたんだけど」
「残念だったな」
応じながらも、そんな軽い気持ちで臨んでいいのだろうか、いう疑問が浮かぶ。帰るたびに見慣れている景色ではあったが、米や野菜作りには少しもかかわることはなかったため、徹底追尾他人事なところがあった。
「残念、ざんねん、ねぇ……いや、あんまりそういう感じはしないんだけど」
そう言って莉花は畑で土いじりに精を出す、くたびれていそうな麦藁帽子を被った老女を、どこか遠い眼差しを向ける。
「なんとなく、ここで過ごしていたかった気もするなぁって」
口にした幼なじみ本人も自らの願いすらおぼつかないような声で、ぼんやりとしていた。その様子を見る白の方も、莉花の心の機微がいまいち理解できずに、戸惑うほかない。
「椎葉さんのとこのぼんじゃないか」
聞き覚えのある声に振り向けば、麦藁帽子を被った中年男性が走り寄ってくるところだった。
「お久しぶりです、浅井さん」
ランニングに長ズボン姿の男性の名を呼びつつ、その両の手にはもぎたてとおぼしきトマトが二つが握られている。これはもらえそうだな、と経験則的に実感しながら、再び幼なじみの方に振り返れば、早くも涎を垂らしそうな面持ちだったので、現金なやつだ、と苦笑いした。
「うんで、見ての通り川。ここら辺は流れが速いのと岩が多めだから、もしも泳ぎたくなった時は注意しろよ」
紹介してから、そもそも泳げるところだという説明をしただろうか、と白は思い出そうとするが、
「ねぇねぇ、飛び込みとかできるとことかあったりする?」
明らかに話を聞いてなさそうな莉花に、大きく溜め息を漏らしてから、帽子の上から軽く小突く。イタッ、と短い声を出してから睨みつけてくる幼なじみに、ちゃんと、話を聞け、逆に見つめ返した。
「ここら辺は地元民でもたまに流されたりする。あんま舐めてると、溺れるぞ」
「悪かったよ……けどさ」
一転して、上目遣いを向けてくる幼なじみは、
「私が溺れたら、シロが助けてくれるでしょ?」
信頼と期待がたっぷりと込められた声で聞いてくる。白は左掌で顔を覆ったあと、
「できるかぎりのことはするつもりだけど、あんまり期待するな。っていうか、そもそも溺れるようなことはしないでくれって話なんだが」
呆れとともに言葉を連ねた。莉花は、ごめんごめん、と両手を合わせる格好を見せてから、
「こういうとこでシロと遊べたら楽しいだろうな、って思って……ついね」
などと言い訳する。白は幼なじみの言葉を、おそらく本心だろうと察しつつも、破目を外し過ぎないでいてくれるに越したことはないのだが、と淡い願いを抱いた。もっとも、こちらに来てから普段に輪をかけて元気になった莉花のことだから、いつかなんらかの大事を起こしそうな気がしなでもないのだが……。
心を落ち着けるべく川に目を落とす。早い水の流れが大きな岩に辺り、細かな飛沫を散らしていた。その手前の水の中では幾匹か連なった魚が泳いでいる。流れを遮っている岩に目を移せば、一匹の小さな蟹が白たちの方を見上げていた。
再び顔を上げて対岸を見やれば、馴れた手付きで釣竿を振るう若い男性の姿があり、目が合う。顔見知りだったのもあって、すぐさま竿を持っていない方の手を振ってきたので、程なくして振り返した。
「シロは、こっちの友だちも多いんだね」
「友だちと言えるかどうかはともかく、それなりにこっちに通ってるから、知り合いはけっこういるな」
おかげで、さほど人口が多くない土地なのにもかかわらず、子供の頃から白は遊び相手に困ったことがない。ここのところは一人で散策ばかりしていた都合上、やや付き合いが悪くなっていたが、それでも最低限の挨拶や返事を欠かしていなかったのもあってか、ごくごく一部を除いては比較的親しい付き合いが続いていた。
「そうだよね。ちょっと……自信なくなっちゃうな」
ぼそり呟く莉花の言の葉に首を捻る。
「何の話だ」
「ううん。なんでもない。こっちの話」
その言い方は明らかになんでもある話だろう、と察しながらも、これ以上、聞いてくれるな、という顔をする幼なじみに、ついつい及び腰になってしまう。白の心情を知ってか知らずか、莉花はサンダルで水を、えいや、と蹴りあげる。飛び散ってはまた川に戻る水を見ながら、
「転ぶなよ」
と注意をすると、莉花は、
「うん」
不自然なくらいににっこりと笑った。
「まだなの?」
「もうちょいだから、頑張ってくれ」
ほんの少し呼吸を乱して尋ねてくる幼なじみに、先行する白は勇気づけるようにして激励を送る。
歩きはじめてから三十分程。川の脇道から、延々と山登りをしている。ここまでやってくるまでにもそれなりに時間を費やしている上に昼が近いのもあって莉花は空腹も感じているのだろう。幼なじみに我慢を強いているのを心苦しく感じながらも、今から行く場所はなんとしてでも連れて行きたいところであったため、ゆっくりと、それでいてたしかな足どりで進んでいた。幸い、両脇の背が高い木々や茂みがいくらかの日光を遮っているのもあり、暑さはそれほどでもないが、しきりに小さな虫は飛んでいたし、大きめな蜘蛛の巣がかかっていたりもして、その度に足を止めたり避けたりして時間を食う。中でもスズメバチが飛んでいたり、蛇が横切った際は少しばかり肝を冷やしたが、そういう時にかぎってなぜだか異様に落ち着いた莉花が、待とう、と宣言したのもあって、少しずつ着実に上へ上へと向かっていった。
そして、脇道から上りはじめておおよそ五十分。
「着いたぞ」
道が開けるのと同時に振り向けば、莉花は目を丸くしていた。その顔が見たかったんだ、と思い、白自身も真正面を見据え、ゆったりとした足どりで歩く。
道の先は切り立っていて、落下防止柵が設けられている。そこからは、この辺り一帯が望めた。先程見た川も、田畑も、森も。そしてぽつぽつと点在する一軒家や小さな駄菓子屋や大きめの商店。いくつかある家屋や店の中でも大きな存在感を有している椎葉家のお屋敷も。全てが窺えた。
「白は、私にこれを見せたかったの?」
隣に並び、柵に手をかけた莉花が尋ね返してくる。
「ああ。おさらいにもなるから、ちょうどいいなって思って」
もちろんそういう意味合もあった。しかしそれ以上に、白の腹のはもっと原始的に、ただただ莉花にこの景色を見せてやりたい、という欲望が転げていた。思い出の中にある少女と向日葵畑を別とすれば、この丘から眺められる景色こそ、白がもっとも美しいと思っているものである。だからこそ、もっとも親しい相手には是非とも一度は見せたかった。
「どうかな?」
わざわざ感想を求めるのは無粋なんじゃないのかとか、たいしたことはないって思われたらどうしよう、という不安が湧いたものの、なにかに迫られた心地になり、尋ねる。少女は無言で二三度、瞬きをしたあと、一度頷いてみせ、
「いい、と思う」
噛みしめるように呟いた。途端に白は、成し遂げたような気分になる。
「それは、良かった」
ついつい無愛想に漏らしてしまいながら、良かった、と胸を撫で下ろす。
白の横で莉花は、唐突に吹きだした風に合わせて、キャップ帽を押さえつけたあと、
「なんだろう……こういう景色をずっと昔から見たかった気がする」
なんでかわからないけど。などと夢見心地に呟いた。
とにかく、気に入ってくれてなによりだ。白は心から安堵しながら、自らもまた景色を見下ろした。誰よりも親しくしたい相手と時をともにできる幸福に溺れながら……。
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