終章
桜の季節がやってきました。
わたしは署から交番に向かう道すがら、つい自転車を降りて、ゆっくりと桜並木を歩いています。
冬が過ぎ、陽光が降り注ぎ、草木が再び芽吹き始めたこの季節。立ち並ぶ桜の木は、若葉を伸ばすよりも早く満開の花を咲かせ、道行く人々の目を楽しませていました。
わたしにとって、桜の花は、複雑な想いを呼び覚ますものです。絶望するほどの傷跡も、哀しみもあった。怒りもあった。そして何より、素晴らしい出逢いもあった。わたしの胸に刻みつけられているこれらの想い、記憶。
たとえ何年経とうと、何十年、何百年経とうと、桜が花を咲かせる度に、わたしはこれらの記憶を、想い出を、揺り起こされて、蘇らせるのでしょう。
緩く温かな風が吹いていました。今日は警察署であった行事のため、珍しく正装の膝下までのスカートを履いているので、ストッキングの脚に触れる風が心地よいです。春にはやはり、スカートを履きたくなる。
そしてさらさらと音を立てて舞い散る、桜の花びら。通勤ラッシュを終えて人気のなくなった桜並木は、今はまるでわたしだけのもののようでした。青空を背景にした桜並木の爽やかさ。桜吹雪に
――いえ。
他に、人がいました。
この桜並木の向こうから、一人の男性――でしょうか。こちらに向かって、歩いてくる人がいます。
桜に満悦して、一人でにまにましていたのを見られていなかったでしょうか。
わたしは急に恥ずかしくなって顔を伏せ、焦りから、さっさと通り過ぎてしまおうと思いました。
風に鳴る桜並木の下、わたしたちがすれ違う、その瞬間。
「丘野さん」
思いがけなく名を呼ばれ、わたしは顔を上げました。
そこにいたのは、
「……真田さん」
あの児童連続行方不明事件が解決して以来、一度も会っていなかったその人。敬史さん。まさかまた会える日が来るとは夢にも思っておらず――わたしは完全に虚を
わたしは
それでも――わたしは返事一つ出来ませんでした。確かに彼はこの管区に住んでいるようでしたが――もう会うことはないと思っていましたし、事実、会うことはありませんでした。それに。
事件を一緒に解決した時の記憶を、彼は護持委員会によって消されているはずだから。
彼に、丘野さん、などと親しげに話しかけられる理由が、まるで思い当たらなかった。それ以外に、わたしたちにこの街での接点はあっただろうか、とわたしは記憶の糸を慌てて
戸惑うばかりのわたしに、彼は追い打ちをかけてきます。
「いえ――櫻子さん」
それは、忘れられていたはずの、かつてのわたしの名前。
「……どうして」
わたしの喉から、頼りない声が漏れていました。もう二度と彼の声で呼ばれることはないと思っていたその名前――。彼は物柔らかな光を宿す瞳を細め、わたしを見つめました。――まるで、あの村で一緒に過ごしていた時のような、あの眼差しで。
わたしの意識が、一瞬であの日々に引き戻されます。わたしは警察官の制服を着ていることも、出勤中だということも忘れて、「櫻子」に戻ったかのような心地でした。何の枷も、責務もなく、ただただ穏やかに幸福に彼と過ごした、あの頃に。
「短い髪も、似合いますね」
そんな風に言う彼の瞳も、わたしと同じように潤んでいるように見えました。
わたしの
「あの児童連続行方不明事件を解決した後――記憶を消しに来た宇都見さんに俺が頼んだのは、事件を解決するまでの記憶を、あなた方のことに関するものを含めて、奪わないでほしい、というものでした」
事件解決に協力する代わりに、何かひとつ、願いを叶える――確かにそれは、宇都見さんと敬史さんとの間で交わされた交換条件でした。そういえばわたしは、結局その願いが何だったのかを、宇都見さんから聞いていません。
「でも――良かったんですか? 願いなら、もっと他にいいものがあったんじゃ――それにわたしたちに関する記憶を持っていたら、また何か危険が及ぶかも――」
敬史さんは、首を横に振ります。
「それを承知の上で、です。何故かというと――何か大事なことを、あともう少しで思い出せそうな気がしていたんです。……特に、あなたとのことに関して」
「わたしとの……」
わたしは惚けたように呟くしかありません。
今となっては、早く、早く彼の言葉の続きが聞きたかった。
「そうして一度、かつて過ごした祖父の家に帰ってみた時、やっと思い出したんです。あの山村の河川敷であなたと出逢い、祖父の遺したあの家で共に過ごした、あの半年足らずの日々のことを。そして死に絶える一歩手前になったあなたを抱きしめながら迎えた朝、やってきたあなたの育ての親――彼に、あなたに関する記憶を奪われたことを」
わたしたち妖怪の一部が使う暗示――特に記憶を消すものは、厳密にいえば、記憶を根こそぎ奪い取るようなものではない、という話を聞いたことがあります。正しくは、記憶の在り処をその人の脳の別の場所に移すことで、日常的にその記憶にアクセスすることがなくなるようにするのが実態だということを、そういえば景から聞いたことがありました。
そのため、何かの拍子にその記憶にアクセスしてしまうことで思い出したり、強い意志力によってその記憶へのアクセスの回線を手にしたりする人も、中にはいると――そういう話でした。
恐らくは敬史さんもまた、そうなのでしょう。わたしという存在をきっかけに、自力で、移された記憶にアクセスした。それで、失われたはずの記憶を取り戻した。
そんな――そんな、ことが。
両手で口元を覆ったわたしの目尻に、抑えようもなく涙が伝っていきました。
「お久しぶりです。本当に――」
彼は改めて、噛みしめるように言いました。
同時に、わたしも気付きました。敬史さんもまた――変わった、変わってしまったのだと。
彼の姿は、思えば不思議なほどに、あの頃から変わっていませんでした。かつて異界で敬史さんに「他人とは思えない」と言っていた陰陽師の男、出雲寺。自らを年寄りと称した彼は恐らく、妖怪の一部をその身に取り入れたことで、若き姿を残したまま年を取っていたのでしょう。
わたしの血を口にし、癒えぬはずの病が治った敬史さんもまた、そうなっているのだとしたら? その代わりに、衰えぬ姿と遠い鵺を射抜くほどの人間離れした運動神経を手にしているのだとしたら?
「敬史さん、あなたは――」
わたしの問うような眼差しに、彼は小さく頷きました。敬史さんのその微笑みは、純然たる人間ではなくなった自分への寂しさと――けれどそれを上回る希望に満ちているようでした。
宇都見さんへの願いを決めたのは、わたしのため? それとも、自分自身のため?
けれどどちらにせよ、彼はその右手を差し出します。未だ薄っすらと火傷の痕の残る、その大きな手を。
「思い出すのも、彼女と別れてくるのも、遅くなってしまったけれど。今度こそ、俺と一緒に幸せになってくれませんか。櫻子さん」
こんな――夢みたいなことが。
わたしは大粒の涙と共に、嗚咽をこぼしました。緊張の糸が切れたかのように、それらがもう止まらなかった。うつむき、顔を上げられなくなったわたしの左手を取った敬史さんが、その手を引いてわたしを抱き寄せます。わたしの警帽を指先で取って頭を抱えてくれる彼の腕は温かく、泣き声を上げるわたしを支える胸板は、堂々としていて。
彼の腕の中に閉じ込められ、泣きながら陶然とするわたしは、脳裏に詠嘆の声を響かせました。
――ああ。
ああ、どうしよう。
果たしてわたしは、この人を喰べずにいられるのでしょうか。
いえ――今のわたしなら、きっと。
きっと、もう大丈夫。
わたしは、わたし自身を信じられる。
〈第二部・『櫻鬼』完〉
櫻鬼 季島 由枝 @kishima_y
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