「丸ヶ岳坊さん!?」

 その声により現実に引き戻されたわたしは、頭上を仰ぎ見ます。

「そりゃ、そりゃ、そりゃーっ!」

 天狗殿――丸山の丸ヶ岳坊さんは、今夜はちょっと違うぜと言わんばかりに神通力も乗りに乗っているようです。滅茶苦茶に振り回される開かれた扇は、わたしの爪など敵わないほど、唸りをあげています。

 ビュンビュンと音を立てて、まるで強力な台風のような暴風が吹き荒れます。妖怪たちは立っておられず、巨体を持つ狒々さえそれは同じで地に這いつくばり、わたしたちもごろごろと地面を転がされて、合戦場は混乱の渦に陥りました。

「わ、わ……っ」

 地面からも引き離され、宙に浮いたわたしの身体を、後ろから抱きかかえて建物の影に引き込んだ影がありました。

 ――敬史さん。

 彼の片腕が、きつくわたしを抱きかかえていました。建物の影で若干弱まった風の中、髪をあおられるわたしたちの視線が絡み合います。

「丘野さん、あなたは――」

 敬史さんの問うような、くような眼差しに、わたしはただ、微笑み頷きます。

 そこから少し離れた土壁の影では、小琥が着物の裾を振り乱して暴れていました。

「あっつぅい! なにこれあっつ!!」

 炎が、彼女の身を押し包んでいるのです。わたしと視線のかち合った小琥は、そんな場合でもなかろうに、わたしに忘れず抗議をしてきます。

「ちょっと! 『おばさん』はないんじゃない!?」

「……そこ?」

 あれほどの怪我を負い、炎に包まれながらも元気なこと、大した生命力です。

 不意に、わたしを呼ぶ声がしました。この気配は。

「景!?」

 どこからともなく降ってきた景は、お気に入りの人間の青年の姿で、わたしと敬史さんのもとまでやってきます。

「よう。援軍は必要なかったか?」

 そしてわたしの怪我に気付いて、「傷を見せろ」というと、懐から取り出した包帯で、応急処置をしてくれました。

「宇都見と子供たちは、無事に現世に戻ったぞ。死んだと思われてた子供たちが生きて帰ってきて、今頃大騒ぎだろうな。ま、あの宇都見なら何とかうまくやるだろう」

「そっか……良かった」

 わたしと敬史さんは、安堵のあまり、顔を見合わせて微笑み合います。

 しかし――その時。

 ずずん、と地が大きく揺れました。地震――? 何事かと思っていると、次に轟きを上げるのは、この異界の空。

 雲間に月を浮かばせていた蒼い夜空が、どこから湧いてくるのか、どんどん厚い雲に覆われていきます。その様子は、まるで雲が何者かの指先で動かされているかのようでした。

 やがて雲のあわいを割って現れたのは――遠い月など指先で覆い隠す、巨大な緑の片手。

「お、『お頭』……!」

 小琥が怯えたように呻きます。

 巨大な片手には、ちょうどわたしの鬼の手のように鋭い爪が生やされ、それで山に触れれば見事な山襞やまひだを作るかと思われました。次に見えたのは、これも巨大な鬼の顔。ぎょろりとした大きく赤いまなこが地上を舐めるように見回して、睨みつけます。圧巻――その迫力に、地上の全ての生き物の背筋に、冷たいものが這い上がりました。まさに蛇に睨まれた蛙。

 これが、『お頭』。天ツ鬼あまつおに

 わたしがかつて遭遇した落ち武者や、先日のぬえなどとはまるで比べ物にならないほど濃密で、せかえるような、猛毒に近い負の気配でした。少しでも気を抜けば、その気にあてられて気を失ってしまいそうです。この『庭』に元々漂っていた瘴気などは、現れたこの悪しき鬼のものに比べれば、ただの水のようです。

 わたしたちが身動きを忘れていると、雲が、空が叫びました。天狗風の次は、百雷です。眩い雷光を放ちながらあちこちに炸裂する雷で、山城は崩れ、民家は焼け焦げ、狒々の一匹は黒炭になって絶命し――。

 わたしたちの足許にも、雷は容赦なく落ちてきました。そして地が悲鳴を上げてひび割れて砕け――その下に現れたのは、底知れない奈落。

 足許が崩れ落ち、わたしは悲鳴を上げて奈落へ滑り落ちかけました。その腕を掴んだのは、景と敬史さんです。彼らは片腕ずつ掴んだわたしを呼び、わたしを落とすまいと、地上で身をふんばりました。わたしは敬史さんが負っていた手の火傷、その感触に、さあっと寒いものを感じます。こんな風にわたしを掴んでいては、ひどい痛みが走っているはずです。

「真田さん! 無理しないで!」

「おい、おれは?」

「景は頑張って!」

「こ、ん、にゃ、ろ、う!」

 その言葉を掛け声に、二人は無事にわたしを引き上げてくれました。

 地上の全てを焼き焦がす勢いの雷撃は、今も続いています。敵も味方もお構いなしでした。先程まで調子に乗っていた丸ヶ岳坊さんも、今は土壁の影で、「あわわわ」と頭を抱えて小さくなっています。

 地割れと雷を器用に潜り抜けて、わたしたちの元に一匹のむじなが走りこんできました。これは――羽鳥さんです。彼はわたしたちの足許で円を描くようにしてちょろちょろ走り回り、焦ったように言いました。

「どうしたもんか。これじゃあ鳥居に辿りつけないぜ」

 陰鬱な雲間から現れた圧倒的な大妖怪、地上を襲う天変地異、阿鼻叫喚あびきょうかんを上げて右往左往する皆――まるで世界の終焉のような光景。打つ手のないわたしたちは、物陰で身を低くして耐えるしかありません。何とか鳥居まで行き着きさえすればあとはどうにでもなるものの――羽鳥さんの言う通り、この状況では駆け出したところを雷に撃たれて黒炭になるのが関の山です。

 この異界という敵地で逃げ場すらないわたしたちには、焦りと絶望ばかりが募りました。

 けれど――不意に。

「――その辺りにしておいては如何いかが? あなた」

 凛、と響いたのは鶴の一声。女の人の、嫣然えんぜんたる一声です。

 厚くか黒い雲に覆われた異界、その未だ崩壊を免れている天守閣の屋根の上に、赤と黒と金の絢爛けんらんとした着物をまとった、一人の妖艶な女性が優雅に腰を下ろしていました。天を覆わんばかりに顔を出していた天ツ鬼の両眼が、ぎょろりとその女性を見やります。彼女はそんな巨大で威圧的な目玉の眼差しにも、怖気づく様子ひとつ見せませんでした。

「人間のわらわを喰べそこねたのは口惜しいでしょうけど、またいくらでも調達できますわ。委員会の鼠共も――ね」

 口元を隠すようにして開かれた扇の上から、ちらり、とこちらへ視線が流されます。その冷ややかな一瞥に、わたしは背筋に、ぞ、と冷たいものを覚えました。

 けれど隣の景は立ち上がり、相対するように彼女を凝視しています。

れい……!?」

 その時土壁の影から小琥が飛び出したかと思うと、彼女は両手両膝をついて空を仰ぎ見、全身を哀れなほどに震わせました。

「お、『お頭』に異父姉おねえさま、どうかお許しを! そう――あたし、代わりの案があるんです! これからお見せ致します!」

 言って、小琥は身を翻していきました。

 異父姉さま。その言葉に、わたしも敬史さんの肩に手をついて、思わずその場に立ち上がります。

 あれが――お母さん?

 おかあさん。お父さんを殺して喰べ、わたしのことも、殺そうと、した。

 今やわたしとお母さんは、完全に目が合っていました。

 わたしのこと、どうおもってるの。どうしてそんなところにいるの。わたしのこと――。

 わたしのこと、ひつようと、してくれる?

 ――訊くのが、こわい。

 こちらを見つめるお母さんの瞳には、親子の情など感じられませんでした。目尻に鮮やかに紅を刷いたその目許。冷酷なまでの眼差しに、わたしは怖ろしさのあまり、全身の力を引き抜かれそうになります。

「玲!」

 わたしの正気を取り戻させたのは、景の一声でした。

「玲、お前……!」

「久しいわね、景。ほぅら、さっさとお行きなさい。折角私が出てとりなしてあげたのよ。この人の気が変わらないうちに行っておしまい。さもなくば――毛皮を剥いで襟巻きにしてあげるんだから」

 玲――扇を畳んだお母さんは、楽しげにころころと笑いました。その様子は、あまりに美しかった。親を慕う子の情が、この胸に抑えようもなく湧いてしまうほどに。

 景はしばらくお母さんを睨みつけていましたが、

「――行くぞ」

と、わたしの手を掴んできびすを返します。

「でも、景」

「死にたいのか!」

 叫ぶ景の様子は、いつものような飄飄ひょうひょうとしたものとは、あまりに違っていました。その切迫感――それはわたしたちと、天ツ鬼やお母さんたちとの実力の差を如実に物語っていました。

 わたしたちは景の後に続いて駆け出しました。その後を、丸ヶ岳坊さんが「お、置いていくでない!」と慌ててついてきます。景に導かれるまま、この異界に来た時とは違う道筋を辿っていくと、やがて青い鳥居が姿を現します。躊躇いもなくその鳥居をくぐった景に続いて、わたしたちも飛び込むようにして鳥居をくぐります。

 その背中を、最後まで、お母さんが見つめているのが分かりました。


  *


 鳥居の先に広がったのは、静まりかえった濃紺の夜空。何の変哲もない、方々でちらちらと瞬く明かりの灯った夜の街の風景。駆け込むようにして鳥居をくぐったわたしたちは、あともう少しで目の前を囲うフェンスにぶつかりそうになって、たたらを踏みました。どうやらここは――廃ビルの屋上のようです。

「あれは――」

 誰ともなしに声が上がり、わたしたちは空を仰ぎます。

 空――そこに広がるのは、白い――淡い燐光を放っているかの如く白い、人間の骨組みでした。街並みに両手両足をついて四つん這いになっているその妖怪は――すなわち、がしゃどくろ。それがから眼窩がんか、舌のない口でけたけたと哄笑を上げているのでした。

 この街並みにいかにも不似合いな姿を現した巨大な骸骨は、残念ながらわたしたちだけに見えているわけではありませんでした。人間たちも、その存在に気付いたようです。家々の窓から空を見上げ、悲鳴を上げる人や、歓声を上げる人。そんな人たちが次々に数を増していって、すっかり大騒ぎになっていきます。

「まだ早いと思っていたけど――仕方がないわ。思い知れ人間ども! 我ら妖怪の力、その脅威を!」

 声の主は小琥でした。わたしたちとは別のビルの屋上にいる彼女の姿が、ここからも見えました。ふんと薄い胸を張る小琥の声に応えるがごとく、がしゃどくろが声を上げます。そして手足を上げて振り下ろした先で、数件の家屋が悲鳴を上げてもろくも倒壊しました。

 ――なんということでしょう。これでは護持委員会の掟が破られたも同然です。これほどまで多くの目撃者が出来て、被害や人間の犠牲者まで出して――ああ、その後始末の筆舌に尽くしがたい膨大さに、わたしは眩暈を覚えました。

「どうすんだ、あんなでかいもの」

「羽鳥さん、変化して対抗です!」

「無茶言うな、真似して変化するにも限度ってものがある!」

 そして貉姿の羽鳥さんは、「おれはもう疲れた! もういやだ!」と転がって、駄々をこねるのでした。

 しかしこのままでは――。空中には、テレビ局のものらしいヘリコプターが飛び始めています。自衛隊のヘリや戦闘機が出動するのも時間の問題でしょう。

 わたしたちは何か手はないかと、解決策を探るやら現実逃避気味になるやらで、屋上をあちこちうろうろするのでした。

 その時です。敬史さんの動きが一旦止まったかと思うと――彼は廃ビルのフェンスに突き当たるまで走っていって、すうと息を大きく吸いました。

「この、骨だけ野郎っ!!」

 彼は両手でメガホンを作るようにして、がしゃどくろが覆う夜空に向かい、叫び始めました。

「脳味噌のない、カラッポ野郎! IQゼロ!! 悔しかったら言い返してみろ!!」

「た、敬史さん?」

「先生……? 一体何を」

「いいから、皆さんも! ――視力ゼロ! 胃袋なし!」

「う、うん? まあ、とにかくじゃあ――歯槽膿漏! カルシウム不足!」

「骨密度ゼロパーセント! 軟骨すり減り!」

「複雑骨折、全治百年!」

 わたしたちは敬史さんに促されるままに、がしゃどくろに向かって罵詈雑言を叫びまくりました。やがて――がしゃどくろがその声に気付いたのか、その首がぎぎぎっ、とこちらに向きなおります。敬史さんは、喉がれるほど、なお叫びました。

「悔しかったら、ここまで来い!!」

 わたしはその時になって、気付きます。何を考えているのかは分からないけれど、彼はあの骸骨をこちらに引きつけようとしている。

 がしゃどくろはその腕を動かし、薄い雲と瘴気をまといながら、地響きを響かせてこちらにゆっくりと、ゆっくりと近づいてきます。しかし敬史さんはがしゃどくろをこちらに引きつけて、それからどうするのか――わたしたちは説明を受けていませんし、彼の意図が分かりません。がしゃどくろはなおも距離を詰めてきます。詰めて、詰めて――それからどうするのか。皆が焦り、困惑して敬史さんを見やったその時、敬史さんは一度その場で上体を折りました。敬史さんが持ち上げたもの、それは古びたバスケットボールでした。

 彼は拾い上げたボールを、胸の前で構えます。

 がしゃどくろとの距離――それはまさに、スリーポイント・シュート。

 一旦膝を軽く折った敬史さんが、お手本のようなスマートなフォームでボールを放ちます。ボールはまるで吸い込まれるようにして――がしゃどくろの片目があるべき空ろな眼窩へと、美しい軌跡を虚空に描いて、落ちていきました。その瞬間、瞬きも出来ずにそれを見ていたわたしには、試合終了のホイッスルが聞こえたような気がしました。

 その途端。

 ――――――――!!!!!

 がしゃどくろの凄まじい叫び声が、辺り一帯の夜闇に木魂こだましました。その大音量に、わたしたちは思わず耳を塞ぎます。がしゃどくろは後ろの足だけで立ち上がり、両手で目を――眼窩を押さえて暴れます。そうしてそのまますうっと、闇夜にその姿を消していきました。あとには流された雲と、何事もなかったかのような星空が残されました。ですが地上の人間たちのざわめきと歓声が、これが夢でなかったことを如実に物語っていました。

 とはいえあまりの呆気なさに、わたしはぽかんと口を開けてしまいます。それは他の皆も同じようでした。羽鳥さんが呟きます。

「なるほど……骸骨であっても、目に異物が入れば痛いんだな……」

「そ、そういう問題!?」

 小琥にとっても、これは大きな誤算のようでした。

「ああもう何なの!? あんな人間風情に――」

 その場で地団太を踏む小琥の声が途絶えたその瞬間、彼女の頬の横には刃が下りていました。どこからか現れた宇都見さんが、後ろから打刀の刃を彼女に向けたのです。

「動けば殺す。大人しくしてもらおうか」

 宇都見さんの背後には、スーツ姿の男たちの集団がついてきていました。恐らく、人間に化けている護持委員会の手の者たちでしょう。彼らはそれぞれ銃を構え、その銃口を小琥に向けています。

「両手を挙げろ。委員会本部まで同行願おうか」

「ううっ……そんなぁ……」

 万事休すの小琥が、細い両手と共に情けない涙声を上げました。――しかし。

 突如としてごうっ、と辺りに吹き荒れたのは、強い魔風。わたしたちはその場に引き倒されました。再び顔を上げた時には、小琥たちがいるビルの屋上、そのフェンスの上に一人の和装のおじいさんが立っていて、小琥の首根っこを捕まえています。

「全く、勝手なことをしおって、『お頭』はご立腹じゃぞ、小琥」

「と、稔爺としじい!」

 稔爺と呼ばれたおじいさん――その方も妖怪のようでした。あれ、とわたしは目を凝らします。街の明かりを受けて見えたその顔と声に、わたしはどこか、心当たりがあるような気がしました。

 そしてしばし考えて思い出したのが、

「あ、あなた――あの時のおじいさん?」

 わたしが敬史さんと出逢う前にいた街で、和菓子屋のアルバイトをしていた頃――和菓子を買いに来てくださったおじいさん。目の前の稔爺は、まさにあの時の鬼のおじいさんのように見受けられました。

 おじいさんの方も、わたしを見下ろして眉を顰めます。そして「んん?」と首を傾けてわたしを凝視し――、

「おお。何じゃ、いつかの和菓子屋の嬢ちゃんでないか。嘆かわしい、委員会の手先になっておるとは」

「それはこちらの台詞です。あなたが天鬼組の者だったなんて……」

「まあ、袖触れあうも他生の縁。顔見知りということで、ここは見逃すから、おぬしらも見逃せ。ではな」

「待てッ!」

 宇都見さんが咄嗟に追いかけましたが、稔爺と小琥はビルの屋上からするりと身を投じてしまいます。その後何度か軽々と跳躍して建物と建物の上を器用に飛び回り――そのまま何処かへと消えて去ってしました。

 そうして、長かった一夜はようやく終わりを告げたのでした。


   *


 それから夜明けまでは、そう長い時間はかかりませんでした。

 わたしたちは廃ビルの屋上で、朝を迎えました。全てが終わってみれば、身体を動かす気力はほとんど残っていませんでした。景が調達して来てくれたスポーツドリンクとサンドイッチなどで軽い食事をしつつ、じくじくと痛む身体を休めます。人間の姿を取り戻した羽鳥さんは、その脇で病院に連絡を取ってくれていました。これから、銃撃を受けたわたしと、火傷を負った敬史さんを、妖怪の医者に診せるためです。

 細くたなびく雲が暖色の光に溶かされる――見事な朝焼けでした。寝不足の瞼には痛いほどの眩さです。けれど、死んだと思われていた子供たちが三人揃って戻ってきた日には相応しい朝陽にも思えました。あれから宇都見さんとその配下たちが、逃げた小琥たちをすぐさま追っていきましたが――果たして小琥は捕まるのでしょうか。ですが右腕と左腿の痛みに若干朦朧とし、眠気すら覚えているわたしには、そこまで想到して心配する気力はありませんでした。わたしが半分目を閉じながらサンドイッチを頬張っていると、隣でスポーツドリンクを飲んでいた敬史さんが、こちらを見やりました。

「丘野さん、頬に煤が」

「え?」

 敬史さんの手の甲が、すい、とこちらに伸びてきます。ですがその手は何かを思い出したかのように途中で落ろされ、眼差しを落とした敬史さんとわたしの間には、不自然な間が漂いました。敬史さんは代わりに、ポケットからハンカチを取り出して、わたしに差し出します。

「あ、ありがとうございます……」

 わたしはそのハンカチで、頬を拭いました。

 白い、綺麗にアイロンをかけられたハンカチ。

 敬史さんは、いちいち自分でハンカチにアイロンをかけるほど、マメな人ではありません。それは以前同じ屋根の下に住んでいた時から知っていることでした。ということは、これはきっと、彼女さんが――。

 敬史さんは、わたしに手を伸ばしたあの一瞬に、きっと彼女さんのことを思い出したのでしょう。

 渡されたハンカチを握りながら、わたしの胸の奥では、ツキリと電流が走るような鋭い痛みが走っていました。闇の中で小琥が見せた幻と、彼女の言葉が蘇ります。敬史さんは今の彼女との結婚を考えている――事実かどうかは分かりませんが、小琥はそう言っていました。

 泣き出したい気持ちでした。渡されたハンカチなど、地面に叩きつけたいような心地でした。わたしはこんなものが欲しいんじゃない、と。

 でも――どれだけ泣いたって、喚いたって、どうにもならない。それにわたしはただでさえ、半妖だから。今はそうでなくとも、かつては人を殺して喰った半妖だから。醜い半端な妖怪だから。そんなわたしでは――もう、他の人間の女性に心を決めてしまった敬史さんには、この手は届かない。

 目の前にいるのに――もう。

 彼の横顔を見つめるわたしの視界は、涙で滲みました。彼に悟られないようにうつむくと、閉じた目元からはぽたぽたと涙がしたたり落ちます。

 事件解決の日々の中で縮まっていた距離から、急に突き放されたような心地でした。それは再会などせず、雑誌のインタビュー記事で彼の活躍を追っていただけの日々などより、余計に衝撃が大きく、つらいものでした。――いっそ、再会などしなければ良かったと後悔するほどに。

「今、迎えの車が来るよ。二人とも、あとしばらくの辛抱だ」

 病院との電話を終えた羽鳥さんが振り向きました。敬史さんがお礼を言って立ち上がります。そうして彼は、徐々に普段の生活を始めていく眼下の街を、フェンス越しに眺めるのでした。今頃この現世では、護持委員会の手の者たちが駆けずり回って、がしゃどくろの一件の記憶や記録を、人々の間から消しているのでしょう。

 羽鳥さんは自分もスポーツドリンクを口にしながら、敬史さんの前まで歩いてきます。

「真田先生。ご協力、ありがとうございました」

「ああ、いえ――さほどのことは」

 羽鳥さんの言葉に、わたしは悟りました。ああ、事件が終わったのだと。終わってしまったのだと。

 宇都見さんと敬史さんの「契約」は、この事件を解決するまで。もう、これで――敬史さんの一連の記憶は消される。彼との縁もまた消失する。

 わたしは立ちあがって、羽鳥さんに視線をやりました。わたしの請うような視線に、羽鳥さんは悲しげな眼をした後、目顔でわたしを促しました。

 お別れをしろ、ということでしょうか。

「……真田さん」

 呼吸を整えて口を開いたわたしに、敬史さんが振り向きます。彼の瞳は、どこかわたしとの間に一枚の薄い皮膜を隔てているようでした。その他人行儀な目は、まるで――自分の一切の心を、抑えるかのような。この事件の前に再度出逢ったあの時のような。

 わたしもそれにならって、警察官としての自分を思い出しました。

「今まで、ありがとうございました。短い間だったけど……あなたと一緒に過ごせて、よかった」

 嬉しかった、というには、子供たちが恐ろしい目にあったのは事実であったことから、不適切な気がしました。だからわたしにとってはその気持ちが真実でも、口には出来なかった。

 そう、短い間。人間である彼の二週間なんて、――あの村での半年足らずの日々なんて。あやかしであるわたしにとっても、瞬きに等しいのでしょう。

「一つだけ、我儘わがまま言って、いいですか?」

「何ですか?」

「このハンカチ――返さなくてもいいでしょうか?」

 これが最後だから。洗って返す機会は、もうない。でも――たとえこれが彼女さんの手を介したものであっても、彼の何かが欲しかった。……この手許に、生涯残る何かが。

「――ええ。そんなものでよければ、どうぞ」

 敬史さんは微笑みます。その一瞬、彼の笑顔に痛みのようなものが走ったのは――きっと気の所為なのでしょう。

 忘れたくない。想いも、想い出も、風化させたくない。

「わたしは……」

 言葉を一つ発するごとに、別れが近づいてくる。泣いてしまいそうになる。この胸の全てが溢れてしまいそうになる。それでももう、時間は止まらないのです。

「たとえどんな別れになっても、ありがとうって言うって、決めましたから」

 あなたが。あなたが、かつて必要としていた言葉だったから。

 いつか、彼が高校時代の彼女から離れたように――彼女を必要としなくなったように。

 今の彼に、もうわたしは必要ない。病に未来を奪われ、わたしに殺されてもいいだなんて言った彼は、もういないのだから。

 病が癒え、自由と希望と未来を手に入れた今の彼には、同じ時を生きる人間の女性が相応しい。

 きっと――そうなんだ。

 もう会えなくても。関われなくても。違う世界に生きる人でも。

 今さら何を言っても、届かないなら。

「ずっとずっと、あなたを応援しています。あなたの幸せを、願ってる」

 たとえ、隣にいるのがわたしではなくても。

 せめて最後は、背筋を伸ばして、凛としていたい。

 視界が滲んで、目の前にいる彼の姿が、涙に溺れました。いやだ。もっと、最後まで、彼の姿を、微笑みを、この目に焼き付けておきたいのに。

「ありがとうございます。俺も――」

 朝陽がまばゆく彼の姿を照らし出します。まるで彼の顔を、姿を、余すところなくわたしに焼き付けさせるためのように。

「あなたと出逢えて良かった」

 これは、天の采配さいはいでしょうか。

「丘野さんも、お仕事お気をつけて。そして――お幸せに」

 この優しい声を――わたしは生涯、忘れたくない。


   *


 ――それから。

 委員会は無事に、がしゃどくろの一件の「後始末」をつけたようでした。世のニュースはその代わりに、一度は殺されたと報道した三人の子供たちの無事と生還を、驚きと喜びをもって報道していました。

 とはいえ、子供たち三人にも、殺された際の記憶や異界での記憶は既にありません。彼らは仮死状態に陥って埋められた後、発見されて、近くの民家で一時保護されていたということになっていました。

 以前警察署で出会った倉田夫婦の、安堵と喜びのあまりその場に溶けてしまうのではないかと思うほどの幸福感に充ち満ちた泣き顔。帰ってきた、彩ちゃんの朝の挨拶。取り戻された、三人の子供たちの今と未来。……事件がひとつ無事に解決して、わたしにも、日常が戻って来たようです。



 その日、深夜になって勤務からようよう解放されたわたしは、とっぷりと暮れた夜の中、一人署を後にしました。

 年の暮れが近づくこの頃、今夜は雪がちらついています。自転車に乗って走ると冬の寒風は耳や鼻をむしり取るかの如く冷たさで――雪でタイヤが滑る危惧きぐもあって、わたしは歩いて自転車を押していきました。コートの上、首に巻いたマフラーを引き上げて寒い口許を隠しながら歩いていた時、

「よう。お疲れ」

 脇道から白い息をたなびかせてひょっこりと顔を出したのは、久しぶりに会う景その人でした。

「景!」

「ケーキ、食おうぜ。クリスマスだろ?」

 彼はそう笑って、小ぶりな紙の箱を片手で持ち上げるのでした。

 そういえば、そうでした。あまりに多忙な日々が続いていたからすっかり忘れていたけれど、今日はクリスマス。道理で街の人通りにカップルが目立ち、電飾が方々で明るいわけです。

 この寒さなのに、景は通りの大きな公園に入って、そこのベンチでケーキの箱を開けました。中に入っていたのは、表面に白い生クリームをたっぷり塗られた、ブッシュ・ド・ノエル。丸太を象った可愛らしいその姿が、外灯の白い明かりの下に明らかになります。景は箱の中に添えられていたプラスチック製のフォークを二つ取り出して、わたしに片方を差し出しました。わたしたちはいただきますと両手を合わせたのち、それぞれ反対方向から、ケーキをフォークで崩しては口に運びました。

 何とも濃厚な生クリームとふわふわのスポンジ生地が、口の中で絶妙に絡み合って溶けていきます。疲れた身体に染みる、その心地よい甘さ。甘いものは疲れた心と身体をかくも癒すものなのか――わたしは舌鼓を打ちながら、次々に切り分けたケーキを頬張りました。

「ねえ、景」

「なんだ?」

「景が、わたしのお母さんのことを好きで、だから見ていられなくてわたしを引き取ったっていう前の話――あれは、嘘なんじゃないの?」

 ケーキをあらかた平らげた頃――わたしはずっと心の中にあった疑問を、景にぶつけていました。

「この間、異界で景とお母さんが顔を合わせた時――その間にあるのが恋愛感情だとは、思えなかったけど」

「……おれは……」

 わたしの質問に一度瞠目した景は、ケーキの最後の一口を咀嚼しながら、しばし黙っていました。ですが口の中のものを嚥下えんかして、次に口を開いた時、

「まあ――そうだな。お前ももう成長したことだし、話してもいいか」

と、腹を括ったようでした。

「おれがお前を引き取って育てたのは、そもそもはおれの兄貴の命令だった」

「……景の、お兄さん?」

 ああ、と景は頷きます。

「おれの兄貴は、委員会の幹部でな。よく好き勝手ぶらぶらしてるおれと違って、委員会の運営に精を出すことが趣味な、御堅い奴だよ。玲とおれと兄貴は……まあ幼馴染だった。だからおれは玲のこともよく知っていたし、よく傍にいた。あいつが天鬼組に流れるまではな」

 お母さんが天鬼組に流れたタイミング――それは恐らく、人間であるわたしのお父さんに拒絶されて、お父さんを喰べた直後、でしょうか。それはわたしにも予想がつきました。

「おれや兄貴と付き合いのあった玲は、委員会の重要な情報も握っていた。そんな奴が天鬼組に流れたんだ。当然、あいつへの追捕は苛烈なものになった。だが、相手はあの玲だ。天鬼組で幹部として迎え入れられたあいつの力は、委員会においても幹部級だ。生半可な追っ手なんかじゃ敵うわけもない。そうしておれも玲への追捕に向かわされた時――お前と出会った」

 お母さんが、天鬼組の幹部――その事実は、この間異界で遭遇した時のことを思い出したわたしの胸には、やはり、と腑に落ちるものでした。

「厳しい追捕の中でお前を産み落とした玲に追いついて――我が子を殺そうとしていた玲を止めたのは何故だったか。ただただ、あの時は玲への説得に必死だったとしか言いようがないな。そうしている間に他の奴らが追いついてきて、玲はお前を置いて一人で逃げた。おれは残されたお前を拾って帰った。そうして懐に入ってきた窮鳥きゅうちょう――つまりお前は、いつか玲に対する切り札になると考えられて、委員会に保護されたんだ。そうしてしばらくすると、兄貴はおれに、お前の養育を命じたんだ」

「切り札……わたしが?」

 景は苦笑します。

「こんな話、お前にとっては気持ちのいいものじゃないよな。だから、……言わなかったし、言えなかった。それにもし、おれが玲に対して憎からず思う気持ちがあったとしても――それを表に出すことは許されないだろうな」

 景はあの異界での夜を思い出すように遠い眼差しになり、白い息を吐きました。わたしはフォークを握ったままの手を膝の上で重ね、うつむきます。

「でも……わたしは、お母さんへの切り札にはならないと思う。だってお母さんは、別にわたしのことなんて……」

 あの時わたしに向けられたお母さんの視線には、親子の情なんてものはなかった――そう実感しているわたしには、切り札という自信など持てませんでした。

 しかし委員会はわたしが切り札になると思ったらからこそ、わたしをかつての罪で処罰せずに生かし、こうして手の内で働かせているのでしょう。委員会とわたしは、思いのほか近しい関係にあった――そのことには、心の一画がどこか他人事のように驚いていました。

 つまりは、利用されている。景がこの話をずっと胸に秘めていたのは、その所為なのでしょう。

 ですが――だからといってそれを不快に思って委員会に刃向かう気も、そうする度胸もそうする必要性も、わたしにはありません。まあ、きっと死ぬまで委員会にこきつかわれるのだろうな、という気はしました。けれどそれが、わたしのかつての罪に対する償いになる――そういうことか、と思っただけです。

 わたしの沈黙をどう受け取ったのか、景はベンチに腰掛けながらも、わたしに向き直ります。

「――玲とのことがどうであれ、お前はお前だ」

 顔を上げた先、雪と共に煌々と降り注ぐ白い光を受ける景は、思いの外真面目な顔をしていました。

「昔は、まだ赤子のお前の面倒を見ることになって――兄貴も無茶を言うって思ったさ。おれにはそんな経験もないんだから、そりゃあ大変だったよ。お前ときたらおれの作ったミルクは飲まないし、飲んだら飲んだで戻すし、粗相はするし、言うことはきかないし――」

「うん……なんか、ごめんね……」

 物心もついていない頃のことを言われてもわたしにも困るのですが、わたしはつい謝ります。景が破顔しました。

「でも、なんだかんだで楽しかったし、寝食を共にしている間に、可愛いとも思うようにもなったさ。二十年以上も面倒見てきたんだ。最初は命令から始まったとはいえ――お前はもう、おれの娘だよ」

 ――娘。その言葉は、わたしの眼を瞠らせました。

 親の顔も知らなかったわたし。親のことも知らなかったわたし。妖怪としての自分を知らなかったわたし――気付けばわたしは、それらの全てをほとんど知ることになっていました。

 そうして血の繋がりがなくとも、家族だと言ってもらえた。確かな繋がりが、出来ていた。それは、わたしが心の底で求めていたもののひとつ。確かな止まり木、それでした。

 景にわしわしと頭を撫でられながら、わたしは、数年前までの自分とはすっかり変わっている自分に気付きました。

 ――ああ、本当に。

 人とは、変わっていけるものなのですね。

 わたしはかつての――敬史さんからもらった言葉を思い出していました。

「景……」

 わたしの頬が、巻いたマフラーの中で照れくさく緩みます。笑みをマフラーの中で隠したわたしは、立ち上がりました。公園の脇の道路を、見慣れた赤い暖簾を提げたラーメンの屋台のトラックが走っていくのが見えたからです。

 わたしは景の腕を取って、屋台を指差しました。

「あの屋台のラーメン、おいしいんだよ。寄って行かない?」

「おいおい、まだ食う気か?」

「晩御飯食べてなかったんだもん。まだお腹ぺこぺこ」

 わたしたちはケーキの食べ跡を片付けて、のろのろと走っていく屋台のトラックを追いかけました。やがてトラックが今夜の店の位置を定めて停車したところで、追いついたわたしと景は暖簾のれんを持ち上げます。何とも食欲をそそるスープのかぐわしいにおいと、この寒空にはありがたい熱気の中――店主の三吉鬼さんはいつもと変わらぬ赤ら顔、大きな口でニヤッと豪快に笑い、わたしたちを出迎えてくれました。

「ぃらっしゃいッ!」


   *


 それから、どれくらいの日々が過ぎたでしょうか。

 晴天に恵まれたその日の朝、慌ただしく朝食を済ませたわたしは、アパートの玄関まで行ってから、忘れ物を思い出してワンルームの居間に取って返しました。

 ベランダに繋がる引き戸を開けると、物干しの洗濯バサミに挟まれて風に翻っていたのは、一枚の白いハンカチ。年が変わってどこか新鮮な雰囲気と未来への展望が見えるような高く寒い青空から陽光を浴びて、それは心地よさそうに風に踊っていました。

 わたしはそれを取り込んで、胸にそっと抱き締めます。そしてそれを綺麗に折り畳み、通勤時の上着であるジャケットのポケットに仕舞いました。生憎今日は、アイロンをかけている暇がないけれど。

 これは、わたしのお守り。

 戻れない過去への物悲しさと同時に、前に進む勇気をくれるお守りなのです。

 再び玄関に舞い戻ったわたしは、玄関の扉を押し開けながら、誰もいないワンルームを振り返りました。

「――行ってきます」

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