自分の手の縄が外れた敬史さんは、自身の足首の縄を外し、わたしの足首の縄も外してくれました。ですがわたしの手首に貼られた符までは――敬史さんでも外せませんでした。

「すみません、ただの紙切れのはずなんですけど……」

 わたしの手首の符に触れる度に消耗するのか、彼のひたいにはびっしりと脂汗が滲んでいました。疲れ果てた様子の敬史さんに、これ以上の無理はさせられません。「無理はしないでください」と言って、わたしは彼に少し横になって休むよう勧めました。

 そうして敬史さんは、しばらく牢の中で横になっていたのですが――不意に、思いついたように勢いよく跳ね起きました。

「もう一つ、案があるんですけど」

「えっ、何ですか?」

「丘野さん。――協力してくれますか?」

 敬史さんは、わたしのワイシャツの肩を掴みました。



 それから、数分後。

「大変だ! 誰か! 誰かいないのか!」

 敬史さんは、地下牢中に響くような大声を張り上げます。その声は、見張り番ながら遊びほうけて居眠りしていた妖怪たちにも届いたようでした。やがて奴らが、ぞろぞろとわたしたちの牢の前までやってきます。

「ナンダ? 何ノ騒ギダ」

「何ヲヤッテイル?」

「この人が破水したんだ! 人間の子供! 子供が産まれるぞ!」

「うーっ、苦しい、苦しい、産まれるーっ」

 わたしは我ながら三文芝居だと思いながら、壁の方を向いて横たわり、必死に演技をします。わたしのお腹はそんなに膨らんでいないんですけどとか、一体誰との子なんだろうとか、そもそもわたしは半妖なんですがという、細かいことはどうでもいいようです。

「ナニ? 人間ノ子供ダト?」

「ここを開けてくれ、頼む! 早く処置しないと、子供も危ないぞ! 育つ前に死んでしまうぞ!」

 敬史さんは「子供」を連呼します。妖怪にとって――特に天鬼組の『お頭』にとって人間の子供は上物という、先程肉屋や出雲寺から聞いた情報からでしょう。ここの妖怪に人間の子供を確保するという好機と、それをみすみす失うかもしれないという危機感を抱かせるつもりなのです。

 ですがこちらまでやってきた妖怪たちは、鉄格子のあちこちにびっしり貼られた呪符を見て、後ずさりしました。

「無理ダ……オレタチ、コノ牢開ケラレナイ」

「だったら灯りだ! もっと灯りをくれ! ここからなら入るだろう!」

未だ縄で縛られている演技をしている敬史さんは、鉄格子の歪んだ隙間を目で示します。妖怪たちは慌てて壁にかかっている松明を一本取り、鉄格子の隙間からそれを差し入れました。

「ソラ、灯リダ。脚開ケ」

 ――それは、嫌!!

 わたしがこれ以上の演技は拒否しますと敬史さんを一瞥した瞬間、彼が動いていました。彼は松明を火のついている方にも関わらず掴み、油断していた妖怪の手から奪いました。妊婦の振りをして横たわっていたわたしも起き上がって、その火を伸ばした手首にかざします。すると――やりました! 符が燃えました! わたしの腕は鬼の巨腕を取り戻し、自らの手首の縄をやすやすと引きちぎります。その時には敬史さんが松明を持ち直して、わたしたちが入れられている牢の鉄格子、それを覆い隠している符を、内側から次々と焼いているのでした。その熱気が牢の中に充満し、顔をあぶられるようなわたしたちのひたいと背中には、汗がどっと滲みます。

「真田さん! 伏せて!」

 振りかぶったわたしは、思いきり、鉄格子に打撃を食らわせました。ゴシャ、と音を立てて鉄格子が折れて外れて、対面で何が起きているのかわかっていなかった妖怪たちを押し潰しました。

 既に足の縄もほどいていたわたしたちは、牢屋から飛び出します。そして石造りの廊下を音を立てて駆けて、三人の子供たちを捜しました。――いた。二つ隣の牢屋です。

「あやちゃん!」

 わたしの姿を認めた彩ちゃんが声を上げます。子供たちは、確かに生きてそこにいました。身体も透けたりなんかしていません。痩せぎすになった子もいないようですから、栄養状態は悪くないのでしょう。

 こちらの鉄格子にもびっしり貼られていた呪符に、敬史さんが火を点けます。符がチラチラと燃えかすとなって落ちていくのを確認してから、わたしは鉄格子に両手をかけました。そして思いきり、右手、左手と引っ張ります。鉄格子がひん曲がって、子供三人が一人ずつ出られるほどの隙間が出来ました。子供たちが順番に、鉄格子をまたいで出てきます。

 わたしはしゃがんで、彩ちゃんの細い両肩をブラウス越しに掴んでみました。そこには、生きた人間の確かな肉と骨の感触があります。華奢な手首をとって脈を探っても――大丈夫。この肌寒い地下牢で身体は若干冷えているようですが、彼女の身体は規則正しく脈打っていました。そのことに安堵し、また会える日が来るとは思っていなかったため感極まったわたしは、彼女を――いえ、子供たちを三人まとめて一度抱き締めました。

「行こう!」

 わたしたちに促された子供たちは、一緒に走り出しました。その中の江一くんが、

「こっち! 『にんぷ』のお姉さん!」

と、わたしたちを先導して走ります。

「ちょっと待って、それは違うんだけど――!」

 悲しいかな、わたしの必死の声は、風に紛れて彼に届きませんでした。

 江一くんは、妖怪たちの目の届かない道を巧みに選んでは進んでいきます。地下の用水路に、それを抜けた先の背の高い草むら、家屋と土壁の隙間――。

「ここに連れてこられてから、この世界の中をあちこち飛んで回ってたから、分かるんだ。こっち」

「どこに向かっているの?」

「いいからいいから!」

 城下町の外れ、その向こうに広がるのは妖怪たちの耕す畑、でしょうか。城下町の端に立った妖怪の見張り、その死角である草むらの中を、わたしたちは四つん這いになって進んでいきます。ちょうど今の時間はこちらが風下にあたるおかげで、人間のにおいが見張りに悟られることはなさそうでした。

 そうして人間世界とは少し時期のずれたとうもろこし畑やなすび畑を駆けていった先――照らすのは雲のあわいから梯子となって降り注ぐ月光のみという場所に、わたしは二人の姿を認めました。

「――宇都見さん、羽鳥さん!」

 羽鳥さんは近くの切り株に腰掛け、宇都見さんはその前で両腕を組んで佇んでいます。こちらに気付いた二人が、警戒を解いたのが分かりました。

「よお、綾ちゃんに先生」

「ご無事だったんですね!」

「そっちも。まあ、何とかな」

 そう言う羽鳥さんのスーツは土埃で汚れ、あちこち切り裂かれているのが見えました。それでも怪我という怪我は負っていないようです。わたしは安堵しました。

 二人は持ち運びに便利な、固形の携帯食料をもそりもそりとかじっています。それはわたしも警察官としての仕事の最中、よくお世話になっているものでした。羽鳥さんは上着のポケットから細い銀色の包みをいくつも取り出して、「皆で分けよう」と気前よく笑いました。宇都見さんが微妙に眉をしかめて、齧っている固形物を見下ろします。

「チョコレート味はないのか、羽鳥」

「残念ながら切らしてます。いつも宇都見さんが食べちゃうからですよ。プレーンとフルーツと……ベジタブルはお嫌いでしょう?」

「もっといやだ」

 宇都見さんは眉をひそめていーっと歯を見せましたが、人前であることを思い出したのか、瞬時にいつもの澄ました顔に戻ります。それを見て含み笑いをした羽鳥さんは、ここに至るまでの経緯を明かしました。

「あれから何とか妖怪の群れを振り切って――君たちを捜してたんだ。さっきの白い影にまた呼ばれた時は、もう信じるもんかって思ったけど……君たちが来るからここで待ってて、っていうから、賭けてみた……って、嘘だろ、その子たちは……!」

 警戒してわたしと真田さんの後ろに隠れていた子供たちの姿を認めた途端、羽鳥さんは思わず、持っていた携帯食料を取り落としました。宇都見さんも食事の手を止めて、驚きに目をみはっています。

「はい。幽霊や幻ではなさそうです。倉田江一くん、増岡彩ちゃん、有村晴くん、三人とも、地下牢に囚われてはいましたが、無事だったんです」

「そうか……よかったなあ君たち! 家に帰れるぞ!」

 三人の子供たちはここまで来てようやく安心したのか、家に帰れる、の言葉の所為か、それぞれ涙ぐみ始めました。彩ちゃんは、小さく嗚咽おえつを上げて泣き始めてしまいまいます。

 それはわたしたちも同じで、皆少なからずもらい泣きしてしまいました。後は、来た時の小山の鳥居に戻って、人間世界に戻るだけ。宇都見さんも羽鳥さんも無事だったことだし、希望が強く見えてきました。

「良かったですね」

「はい。真田さんも――」

 ありがとうございました、と言いかけたわたしは、ちらりと見えた敬史さんの手に、愕然としました。彼はわたしの視線に気付いて、慌てて手をウインドブレーカーのポケットに突っ込みます。

「ちょ……隠さないでください、今……」

「だ、大丈夫ですって」

 わたしは彼のポケットに手を入れ、彼の手を引き出しました。わたしがつい先ほどまでその感触やぬくもりに落ちつかなくさせられた彼の手は――今やまだらに赤く染まって水膨れがいくつも出来た、見るも無残なひどい火傷を負っていました。

「さ、真田さん、これ」

「あー……さっき、松明を握ったからですね。あの時は夢中だったから……」

 仕方ないです、と敬史さんは笑います。彼の両手の手首を握る、わたしの手が震えていました。

「水……冷水はありませんか!? 早く冷やして――」

 わたしの泣き出しそうな声に、晴くんが片手を挙げました。

「水なら、こっちに川があるよ。お兄さんこっち。ぼく、この辺りをよく飛んでたから知ってるよ」

「じゃあ、行ってきます」

 敬史さんは晴くんに連れられて、茂みの奥深くへと小走りに去っていきました。



 わたしは羽鳥さんから分けてもらった携帯食料を口にしましたが、敬史さんの火傷の具合が頭から離れず、まるで味を感じられませんでした。それでも少しでもお腹を満たして体力を回復しなければ、脱出の力が湧きません。

 しばらくすると、晴くんが先に戻ってきました。羽鳥さんから自分の分の携帯食料を受け取って、彼はわたしの隣に座ります。

「お兄さん、ちゃんと冷やしてるよ。安心してね、『にんぷ』のお姉さん」

「うん、だからそれは……」

「えっ何? 綾ちゃんいつの間にそんな身重に!?」

「違います、だからそれは作戦で……」

 わたしはもはや、ちゃんと訂正する元気もありませんでした。そして居ても立ってもいられなくなって、敬史さんが消えた茂みの方へと、足を向けました。

 ――確かに、水の音がします。

 わたしはその音を辿って、暗闇の中、岩や土の塊が転がる悪い足場に気をつけながら、歩いていきました。

 やがて、細い川と低い草に囲まれた沢が見つかりました。わたしがしばらく歩いてくと、白っぽい影が、沢にうずくまっているのが見えてきます。――敬史さんでしょう。

 真田さん、と呼びかけると、水流に両手を突っ込んでいる敬史さんが、顔を上げました。わたしはその隣まで行って、同じように岩の上にしゃがみ込みます。

「お加減は、どうですか?」

「水が気持ちいいですよ。大丈夫です。これくらい、帰って病院で診てもらえば、ちゃんと治ります」

 わたしも片手を伸ばして水に手を入れてみます。流れはごく穏やかで、この夜の異界の涼しげな気温通り、心地よい冷たさでした。

「でも……しばらくは、お仕事もバスケも、無理ですよね」

「それは……」

 敬史さんは苦笑いを見せます。

「でも、丘野さんも羽鳥さんも宇都見さんも、身体を張って戦ってるじゃないですか。俺はさっき、自分が何の戦力にもならないことが歯がゆかった。だからこれくらい、いいんですよ。あの子供たちも無事で見つかったんだから――これに勝る喜びはないでしょう」

 あなたたち警察官の皆さんだって、いつもそうなんでしょう? と、敬史さんは微笑みます。

「でも。……すみません。真田さんばかり、怪我させてしまって」

「いいえ、俺の方こそ。変な芝居に付き合わせてしまってすみません」

 敬史さんは思い出したのか、くつくつと笑います。でも、わたしは笑えませんでした。

 だって――わたしは、バスケが出来なくなって絶望していた、彼を知っているから。

「真田さんには、小説のお仕事も、大事なバスケの試合もあるのに……わたしたちが、巻き込んだから……」

 妖怪のそれに比べて、人間の一生はあっという間。彼のその短い時間から、また、バスケの時間を奪ってしまった。それが――あまりに、心苦しくて。

 わたしの自責のにじんだ声に、自分のことでもなかろうにとでも思ったのか、敬史さんが不思議がります。

「丘野さん……どうして」

 膝の上に乗せた両腕に顔を埋め、声を涙ぐませるわたしは、答えられませんでした。彼は何も覚えていない。わたしと過ごしたあの日々のことなんて。わたしに明かしてくれた、その過去や胸中なんて。

 一体、どうしたらいいのでしょう。

 いっそ、あなたが口にした妖怪の血は、わたしのものですと明かしてしまえばいいのでしょうか。あなたはわたしと暮らしていたのだと、全てを話してしまえばいいのでしょうか。

 どうせ彼は、既に妖怪の世のことを知らされているのです。わたしがかつて人を殺してその肉を喰らっていたことも。明かしたところで――何も問題はないのではないでしょうか?

 でも――この事件が終われば、また彼の記憶は失われる。何もなかったことになる。そして、彼には今の新しい生活がある。

 話したところで――何にもならない。わたしが過ごしたあの日々は、あの頃の彼とわたしへの気持ちは、もう帰ってこない。

 考えれば考えるほど――虚しい。虚しくてたまらない。

 何という静かな夜。聞こえるのは森の中でさえずふくろうの声と、絶えることのないせせらぎの音。対するわたしの胸中は、大声で泣き叫んでいました。帰ってこないあの村での敬史さんとの日々に、今もしがみ付いているのです。

 あの頃のように。

 素直に、衝動のままに、彼の胸に頭を預けられたら、どんなにいいか。わたしはその衝動を抑えるだけで、精一杯でした。

「……それ」

「え?」

 不意に敬史さんが顎で指したのは、わたしが持っていた、彼の分の携帯食料でした。

「俺の分なんでしょう? 食べさせてくれませんか? この通り、手を上げられないので」

 そんな風に言われて、かろうじて均衡を保っていたわたしの胸の奥は、大きく揺らぎました。

 わたしはかすかに震える手で包みの銀色の袋の端を切って、言われたままに中の固形物を取り出します。そうして手に取って、敬史さんの口元に運びました。わたしが持つのとは反対側を、彼がくわえます。ポキ、と音を立てて、敬史さんが端を噛みきりました。頬張ったそれを、頬返しをしては咀嚼そしゃくしています。飲みこむと、彼はまた口を開けて――。

 そんなことを繰り返す、どこか不思議に距離が近くて甘い時間。

 どうしてこんな時間が今になって訪れているのか理解できないまま――わたしは、涙をこらえながら、とても短い幸福な時間を過ごしました。



「この香り、反魂香はんごんこうだな」

 わたしと敬史さんが皆の元に戻ると、子供たちに顔を寄せた宇都見さんがそう判別していました。

「流石宇都見さん、そんなレアなもののにおいまで分かるとは……」

「委員会にも様々な押収品があるからな。この子たちが息をするように幽体離脱をするようになったのも、一度魂が抜けたことで、魂のあるべき座が不安定になった所為だろう」

「でも、反魂香は死者の姿を煙の中に映し出すのがせいぜいなはずでは……?」

「人間の世に伝わること全てが真実じゃないさ。そのあまりの効力ゆえに隠匿したり、わざと情報を矮小化していたりするものも多くない。人魚の肉の例が悪例だ。あれは不老不死という効力が世に流布されてしまったがために、人魚が人間に乱獲されることになった」

「つまり、この子たちが一度死んだのは事実で、こちらで反魂香によって生き返させられ、必要とされる時まで生かされていた――ということでしょうかね」

「人間の子供の肉が必要とされる機会――『お頭』の来臨ということか」

「間に合ってよかったなあ、ほんと……」

 わたしたちはしみじみと頷き合いました。

「じゃあそろそろ――」

 わたしが元来た小山の方角を振り返った時。

 わたしたちの周囲に、地から湧き出たように熱を持った明かりが灯りました。わたしたちは虚を衝かれながらも咄嗟に背を向け合い、四囲に灯った松明の灯りに相対します。そしてその松明を持つ妖怪たちの黒い影に向かって構えました。

「休憩の時間は、もう終わったかな?」

 聞こえてきた穏やかな声は――出雲寺。彼はこの場にそぐわぬ明るく暢気な声で笑いました。

「いやあ、私としたことが、ぬかったぬかった。子供たちにまで逃げられてしまうなんてね」

「出雲寺さん――」

「さあ、そろそろ仕事をさせてもらうよ」

 松明の灯りをそのかんばせに受ける出雲寺が、スゥ、と目を細めました。その剣呑さに怖じ気も見せず、羽鳥さんが一歩前に出ます。

「宇都見さん。ここはおれと綾ちゃんで道を開きます。子供たちと一緒に先に戻っていて下さい」

「羽鳥。しかし――」

「頼みます。この子たちが人間の世に戻った時必要なのは、宇都見さんの幻術と権力のはずです」

 確かに、死んだと思われた子供たちが突然、それも三人揃って現れたら、大騒ぎになるでしょう。その時の辻妻合わせには、宇都見さんの強力な幻術や暗示が必要となるはずです。――子供たちのここでの記憶は、恐らく現世に戻った時に消した方がいいでしょう。

「――分かった。ここは頼む」

 頷く宇都見さんに向かって、わたしも一歩前に出ながら、お願いします。

「敬史さんも、先にお願いします」

「でも」

 後ろから、やや困惑したような敬史さんの声がしました。

「あなたは……真田さんは」

 ――これが今生の別れになっても、何もおかしくはない。

 もちろん、易々やすやすと死ぬつもりなんてありません。けれど羽鳥さんと二人だけでこの場を凌ぐと思うと――無傷では済まないだろうな、という予感はありました。だから。

 わたしは、肩越しに彼を振り返りました。

「かつての彼女さんから、『今までありがとう』という言葉が欲しかった」

 失ったかつての日々を、敬史さんに知って欲しい――そんな欲を、わたしは捨てきれなかったのです。敬史さんが返事を見失って目を瞠りました。わたしは泣き笑いのような表情で、微笑みます。そうして羽鳥さんの隣に並びました。

「行ってください。宇都見さん、真田さんのことも、よろしくお願いします」

「ああ、任せろ」

 宇都見さんは子供たちの肩に手をやって、大きく頷きました。

 そして――わたしの両腕が鬼の巨腕に変じたことで、戦いの火蓋は切られました。

 おのおの武器を構えた妖怪たちが、わっと四方から襲いかかってきます。

 それと同時に、わたしの目の前にはぬうと色濃い黒煙が流れてきました。視線を向ければ、隣にいたのは羽鳥さん――ではなく、わたしたちが先日倒したばかりの――鵺。

 黒煙が辺りの妖怪たちの間に広がったかと思うと、どこに本体があるのか分からない鵺の爪先が、妖怪たちをあっという間に一網打尽にしました。黒い靄の間で、高く血飛沫と妖怪たちの断末魔が上がります。鵺に化けたのは、もちろん他ならぬ羽鳥さんでした。

 わたしも彼の猛攻に倣うように、鬼の腕を振りかぶり、風を切って前方に大爪を振るいました。それは爪痕を描くようにして目の前の妖怪を切り裂いただけではなく、その衝撃波はその妖怪の後ろにまで走り抜け、真っすぐ、一本の道として空隙を生じさせました。それを見逃す宇都見さんではありません。

「行くぞ! 遅れず付いてこい!」

 彼女は子供たちを叱咤激励し、彼らと一緒に一散に駆けていきます。江一くんが皆を先導するように真っ先に駆けて行き、その後ろでは彩ちゃんの手を晴くんが取り、はぐれないようにして江一くんと宇都見さんを追いかけていきました。

「臨――」

 その時、出雲寺の低くよく通る声が響いたかと思うと、素早く九字が切られていました。その効力か、鵺となった羽鳥さんを取り囲む黒煙が、さあっと消し去られていきます。姿を現した鵺に向かって、妖怪たちが殺到しました。出雲寺はさらに呪を唱え、

「――急急如律令!」

声と共に、振りむきざまにわたしに符を飛ばしてきました。前方の妖怪をほふったばかりで隙の出来ていたわたしに向かって、真っすぐにです。その速さに対応出来ないわたしは、符をこの身にくらった――かと思いきや。

 衝撃を予測して目を閉じたわたしと符の間に、飛び出してきた影がありました。白っぽい人影は出雲寺の符をまともに食らい、痺れが走ったかのように身を硬直させて、地面に両膝をつきます。

「真田さん!?」

「大丈夫……ちょっとビリビリするくらいです」

「何してるんですか、こんな所にいないで、早く――」

「あなたを!」

 急に発された大きな声に、わたしは思わず身を竦ませます、

「置いていけるわけ、ないじゃないですか」

 わたしをきっと見つめる敬史さんの黒い瞳が、近くの篝火かがりびの光を浴びながら、潤んで輝いているように見えました。言葉とは裏腹に、険しく寄せられた眉根。

 怒って、いる――?

わたしにはその理由が分からなくて、戸惑うばかりです。敬史さんはそんなわたしからぷいと顔を背けたかと思うと、出雲寺に向き直ります。

「彼は俺が相手をします。妖怪どもの方は、頼みます」

 そんなことを言っても、敬史さんは徒手空拳であの陰陽師に相対するつもりなのでしょうか。確かに妖怪ではない分、出雲寺と相対しても、わたしたちよりはダメージは少ないかもしれませんが――。

 ですがわたしが彼を庇いに行く暇もなく、わたしに再び妖怪たちの槍が襲いかかってきます。わたしは腕を交差させてそれを防ぎ、妖怪どもを跳ね飛ばしました。

「おや。いくら私も人間だとはいえ、舐められたものだね」

「別に、舐めてなんかいませんよ」

 ふふ、と出雲寺が薄く微笑みます。次の瞬間には、出雲寺の腕が鋭く伸びていました。その手にはいつの間に握られたのか、一本の短刀が閃いていました。それは咄嗟に身をひねった敬史さんの、ウインドブレーカーのお腹を引き裂いています。

「人を殺す度胸もない人間の相手など、容易たやすいものだ」

 出雲寺は片笑んで、さらに短刀をひるがえすのでした。

 ――どずん。

 最初は、花火でも上がっているのかと思いました。

 それくらい大きな、どずん、どずんという音が、どこからともなく響いてきたのです。それはこちらへと着実に近づいて来て――ふっと頭上から影が差して、わたしが咄嗟に「真田さん!」と叫び、彼に抱きつくようにしてぶつかって二人で地面を転がると。

 わたしたちがつい先ほどまで立っていた場所には、ドズン――と地響きと土埃を立てて、一匹の巨大な猿――いいえ、毛むくじゃらの狒々ひひが着地していました。その身の丈、おそらく三メートル近く。

「――御苦労、出雲寺。皆の衆!」

 狒々の肩に腰掛け、昂然と高らかな声を上げるのは、着物姿の少女でした。

 銀髪を優美に結い上げ、山吹色の豪奢な着物に、底の厚い草履を履いた彼女。そのどこか幼くもけんある面差おもざしには見覚えがありました。――そう、あれは――。

「あの時の……!」

 わたしがあの村で敬史さんと共に住んでいた頃、委員会と警察の捜査に怯えるわたしの目の前に現れた、見知らぬ妖怪。あれは委員会の手の者ではなく、天鬼組の彼女だったのです。わたしの驚愕に気付いた彼女が、可愛らしく首を傾げます。

「お久しぶりぃ。顔見知りであっても容赦するわけにはいかないわ。子供たちは『お頭』への献上品。折角集めさせて生き返らせたんだもの。逃げようったってそうはいかないわぁ。――そういうわけで、出雲寺!」

「はいはい、何ですか、小琥ここ様」

「あたしは子供たちを追う。ここは任せるわ。いいわね!」

「ええ、分かりましたよ。失敗しても、馘首かくしゅしないで下さいね」

「ほんっともう、あなたってばそういうところ――まあいいわ!」

 そういって狒々がくるりと反転し、目標を変えた時――その背中に食らいつくようにして掴みかかり、その進行を妨げたものがありました。よく似た、もう一匹の狒々です。――羽鳥さん!

 狒々が上げた咆哮からは、行かせるか、という、彼の声が聞こえるかのようでした。狒々に変じた羽鳥さんは拳を振り上げ、小琥の乗った狒々に殴りかかります。狒々の横っ面が殴り飛ばされたその衝撃で、小琥は宙に投げ出されます。

ですが彼女はその身体に重さを感じさせないような動きで地面に着地し、

「全くもう、野っ蛮やっばーん!」

と、優雅に着物の汚れを払うのでした。

 わたしは彼女に追いつきました。わたしもまた、彼女に宇都見さんや子供たちを追わせる気はありません。ですがわたしが鬼の腕を振り上げた瞬間――その右腕を襲った衝撃がありました。

 ――銃撃!

 小琥は懐から、一丁の拳銃を取り出していました。今しがたわたしの腕を撃ち抜いた銃の銃口からは、白い煙が上がります。撃たれ穿うがたれた傷口がちりちりと熱く灼けるようです。どぷ、と血が溢れて、わたしの白いワイシャツや地面に、赤い血糊がたっぷりとしたたりました。

「丘野さん!」

 敬史さんが振り向きざまにわたしを案じてくれましたが、その隙を逃さず、出雲寺の斬撃が彼を襲います。

「ほら、余所見をしている場合かい?」

「ッ!」

 敬史さんを助けに行きたかったけど――そんな余裕がありませんでした。小琥はさらに左手にももう一丁拳銃を構え、連射してきます。薬莢やっきょうの飛ぶ音がする度にわたしの周囲を銃弾が掠めていき、わたしはそれらを避けて絶えず駆け回るしかありませんでした。しかし小琥が全弾を打ち終わって無防備になったそのタイミング、わたしは地面を蹴っていました。跳躍し、頭上から小琥を急襲――そのはずだったのですが。

 ばっ、と、わたしの足許で赤が散りました。今度は腿を撃たれたのです。その銃撃の主は――敬史さんと相対していたはずの出雲寺でした。彼はこちらに一瞥もくれないまま、左手で銃を向け、わたしの腿をたがわず撃ち抜いたのでした。

「――このおっ!」

 一気に血が上ったらしい敬史さんが、拳を振りかぶって出雲寺に肉薄します。ですが短刀も拳銃も一転して惜しげなく投げ捨てた出雲寺は、敬史さんの突き出された腕を避けながらも掴み、さらに胸倉に手を伸ばし。その驚くほど無駄のない身体捌き――出で立ちからは想像させない鮮やかな背負落としが決まっていました。ぐあ、と呻き声を上げて地面に仰向けになった敬史さんの胸に、地面に両膝をついた出雲寺は、懐から取り出したもう一丁の拳銃を右手で構え、銃口を向けます。

 ――万事休す。

 わたしもまた、腿を撃たれて地面に這いつくばっている状態でした。この程度――頭ではそう思っているのですが、動く度に痛みが全身を駆け巡って立ち上がることも出来ず、眩暈めまいがするほどでした。小琥は新しい弾を装填そうてんした銃を片手に悠然とわたしの前までやってきて、彼女を見上げるわたしの脳天に、銃口を構えました。

「哀れねぇ……。あの時あたしと一緒に来ていれば、こんなことにはならなかったでしょうに。委員会の駒になんてなるからよ。ねぇ、つまらなくはないの?」

 小琥はわたしの前に、しゃがみ込みます。そして敬史さんを一瞥しました。

「折角の御馳走を目の前にしていながら、喰べもしないなんて――あなたらしくないわ。あの村にいた頃のあなたなら、我慢なんて出来ないでしょう?」

「っ……うるさい……! 今のわたしは、あの頃とは、違います……!」

 わたしは声を絞り出しました。小さく笑い、大きな瞳に憐憫と侮蔑を表した彼女は、わたしの汗に濡れたひたいを、銃口で、ぐり、となぶりました。

「そう。すっかり委員会と人間世界に洗脳された下僕ってわけね。異父姉ねえさまの娘として嘆かわしいこと」

「娘――? お母さんを、知っているの?」

小琥は、ふふ、と笑うのみです。

「知りたい? こちらに来るなら、会わせてあげるわ」

「……っ」

「委員会の手下なんて、止めておきなさいな。それ以上委員会にいたところで、どんないいことがあるっていうの?」

 わたしが右腕と腿の痛みにじっとりと脂汗を浮かべ、意識も朦朧もうろうとしてうつむいていると――気が付けば、辺りの景色は一変していました。

 闇。直黒ひたぐろの闇が、辺りに広がっているのです。羽鳥さんも狒々も、敬史さんも、出雲寺も、小琥すらいない。ただ、自分一人がこの世界で這いつくばっている――。

 どこからか、小琥の声が響いてきました。

「彼ももう、あなたのことなど忘れてしまった」

 少し離れたところに、佇む敬史さんの姿が浮かび上がりました。その隣には、わたしの見知らぬ女性が立っていて、彼と腕を組んでいます。やがて二人が口づけを交わし、これも暗闇の中から現れた寝台に倒れ込み――。やがて始まった二人の行為から、わたしは必死に目を逸らしました。

 ――こんなの、ただの幻覚だ。

 分かってはいても、泣き出したいほどの焦燥と悲しみが胸を支配します。嫌だ。――いやだ。こんなもの、見たくなどない。あってほしくない。

 わたしが目を閉じ耳を押さえ、必死に二人から意識を遮断していると――次にこわごわと目を見開いた時、また別のところにも、一人佇む敬史さんが見えました。

 背を向けていた彼がこちらを振り向いた時、どこからか、バン、と一発の銃声が響きました。――脳天を撃たれた彼はこの黒一色の世界に人形のように呆気なく倒れ伏します。みるみるうちに、彼の頭を中心に赤黒い池が広がっていきました。その光景に、ひっ、とわたしの喉から声が漏れます。

 なす術もなくそれを見つめるしかないわたしの耳元で、小琥の声がしました。

「彼はもう、昔とは違う。あなたのことなんか見ていない。必要としていない。あなたの欲を抑えてまで守ることなんてないのよ?」

 そしてまた、どこからか人影が現れたのでした。それは――他ならぬわたし自身。わたしは倒れた敬史さんの上に馬乗りになると、その首筋に噛みつき、生々しい音を立てて咀嚼を始めました。

「やめて……っやめて!」

 わたしは必死に目を背けました。わたしの隣に小琥が現れて、その手でわたしの頭を、倒れた敬史さんとわたし自身の方に向き直らせます。敬史さんの胸に食らいつくわたし自身。ひく、ひく、と未だ痙攣けいれんしている敬史さんの手足――。それを直視させられて、わたしの目の奥、そして喉の奥からは、熱いものが込み上げてきます。

「逃げないでよ。あれが、あなたの本性。彼は、今の彼女との結婚を考えてる。あなたの入る隙なんてない。そうでなくとも――あやかしを選ぶ人間なんていないわ。あなたの父親だってそうだった。結局、異父姉さまの正体を知って逃げ出した。彼だってそうよ」

「彼は――敬史さんは――」

 小琥の言葉は、わたしの心をじわりじわりと冷やしていきました。

 この感情を、人は絶望と呼ぶのでしょうか。

 小琥は手を離すと、一転して優しい手つきで、そっとわたしの頭を包みこみます。

「……可哀想な子。人間なんかに心を捕らわれて。委員会なんかにその身を囚われて」

 声は優しく、心底同情している気配に満ちていました。

「あたしたちが、助けてあげる。委員会の鎖なんか断ち切って、毎日おいしい食事をするの。人間なんか好きな時に助けて、好きな時に殺す。それが私たちあやかしの本性なのだから。それって、とっても幸せなことよ?」

「わたし……わたしは……」

 目の前がうつろになったわたしの目からは、力無く、涙がしたたっていきました。

 もう敬史さんに必要とされることはない――求められることはない――小琥の言葉はわたしの心をごっそりと抉って、理性を打ち壊していきました。

 かつてわたしがいたはずの彼の心の中には、もう既に、別の人間の女の人がいる――半妖である自分は、生涯、人間の女性に敵うことがない――きっと、どれだけあがいても。どれだけわたしがその座を望んでも。

 何て――なんて、虚しい。わたしばかりが。

 打ち潰された理性。根こそぎ掘り返された希望。それらの奪われたわたしの胸の奥は空虚で、滅茶苦茶に踏み荒らされていました。

「ふ……っ、ふふ、ふ」

 やがてわたしの喉の奥からは、何故だか笑いが込み上げてきました。そして衝動のままに鬼の手に変じ、身に込み上げる無尽蔵の力のままに、無茶苦茶に爪を振るいました。

 ぜんぶ、ぜんぶ全部! もう壊れてしまえばいい!!

 寝台の上の敬史さんと見知らぬ女性も、敬史さんを喰らうわたし自身も――そして隣の小琥の胸も。わたしは滅多矢鱈めったやたらに切り裂いていました。

 わたしの笑い声が響く中、黒一色だった世界が、今度は真っ赤に染まっていました。ですがそれは一瞬のことで、わたしがゆらりと立ち上がった時、世界はもとの、『庭』と呼ばれる世界に戻っていました。松明の燃える煙臭い木のかおり。傷つき倒れた妖怪たちの生臭く鉄臭い血のかおり。破れた臓器の鼻をつんざく臭い。そして硝煙の臭い。妖怪たちの発する、充ち満ちた瘴気。

 正面には、裂けて赤黒く染まった着物の胸元を押さえる小琥がいました。彼女は目を瞠り、歪んだ表情でわたしを見つめています。そんな彼女に対して、くくっ、とわたしの喉から声が漏れました。けれど、

「わたしは……そちらには行かない」

 わたしの奥底にあったのは、確かにわたしの本性でした。

 向こう見ずな破壊衝動。自分の望む事実以外を拒否する自分勝手さ。

 でも。

 それだけじゃなかった。

 そもそもそれらを呼び起こしたのは、絶望と悲しみあってこそ。自分の望みが叶わない悲しみ。じゃあ、自分の望みとは?

 それは結局、幸せでいたいという想い。小琥も語った幸せというもの。でもそれは、わたしの幸せではなかった。わたしの望む幸せは、破壊衝動や自分勝手さの末にあるものではなかった。

 わたしの頬を、涙が伝っていくのが分かりました。

「わたしは、これまでの自分を無駄にしたくない。わたし、もう、堕ちるのは嫌なの。ただそれだけ」

 敬史さんも、関係ない。わたしはただ、自分のために生きている。

「この……狗めがっ!」

 小琥が右手で銃を構えます。ですがそれより早く、わたしが動いていました。

「さようなら、叔母おばさん」

 わたしは彼女の耳元で囁きました。それは永訣えいけつの囁き。その瞬間、小琥の身体が血を噴きました。

「小琥様――」

 敬史さんに向かって銃を構えていた出雲寺が、驚いたように動きを止めます。その一方で、離れたところで取っ組み合って殴り合っていた狒々たちのうちの一匹が、殴り飛ばされて板葺きの民家を何軒も押し潰しました。

 そして一天かき曇り。空はびゅうびゅうと唸りを上げ始めました。吹き荒れ、吹きつけるこれは――天狗風?

「ええいひれ伏せ、天鬼組の蛮なる者共! 今宵の扇は血に飢えておるぞ!」

 響くだみ声、とどろく哄笑。

 それは――わたしたちのよく知る天狗殿でした。

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