鳥居をくぐり抜けた瞬間、わたしの足許は急に地面の感覚が消え失せました。落下していくこの身体、まるでジェットコースターに乗せられているかのようです。真っ暗な視界の向こうで、全てが歪んで渦になっていきます。土や、緑や、鳥居の向こうにあった小さな社や――ああ、見たことのない景色、それでいて懐かしいような景色も――まるで夢の中で、以前の夢で見た景色をもう一度見ているかのよう――五感がわんわんという不協和音の中で狂っていって――。

 気が付けばわたしは、気を失っていたのでした。

「――丘野。丘野、起きろ」

 最初に聞こえたのは、宇都見さんの声でした。まだ耳には先程の不協和音が残っているような気がします。かぶりを振ってそれを追い払うと――世界は一変していました。

「ここは……?」

 空は紫がかった鉛色。ぶ厚く不穏な雲があちこちでとぐろを巻いています。夜ではないようですが、薄暗いです。わたしがかさついた下生えの上に手をついて身を起こすと、わたしたちは赤い鳥居を背後に、小高い山の上にいるようでした。そして眼下を見渡せば――そこに広がっているのは、まるでタイムスリップしたように時代物めいた立派な山城と天主閣、そして城下町のようでした。その高い平垣に囲まれた城下町の外には、視界の端まで広々と雲海が広がっています。まさか――あの鳥居から、こんな場所に繋がっていたなんて。

「異界、というものかな。さて、ここを下りてあの門をくぐってみよう」

 私より先に目覚めていた宇都見さんが、落ち着き払った声音を発します。羽鳥さんや敬史さんも、目覚めて景色を俯瞰して、それぞれ驚いていました。

 拓かれた山道を下りて行った先、城下町の入り口となる門には、二人の青鬼が見張りとして立っていました。重厚で巨大な門扉の前、それぞれ鎧を着込み、長い槍の穂先を天に向けています。わたしたちは背の高い生垣の影に身を隠し、彼らを窺いました。

「宇都見さん、どうします?」

「私が皆に幻術をかけよう。あいつらの仲間に見える幻だ」

 言うと、宇都見さんはわたしの目の前に手を翳しました。得も言われぬ心地よい甘い香りが漂ったかと思うと、わたしの周囲の空気が、少し歪んでピントがずれたような感覚がありました。――これで幻術は完了したようです。

 わたしたちは二列縦隊を作って、門の前まで歩いていきました。

「よう、お疲れ」

 前を歩く羽鳥さんが、そんな声を門番にかけます。

「お疲れ。外からの帰りか?」

 問われて、ああ、と頷き何とか誤魔化します。門番は疑うこともなく門扉に手をかけ、二人で力を込めて観音開きの戸を開いてくれました。わたしたちが礼をいって、潜り抜けようとしたその時。

「――おい、待て。お前らやけに人間くさいぞ」

と、彼らはわたしと敬史さんを呼び止めたのでした。いかな宇都見さんの幻術でも、人間や妖怪といったにおいまでは隠せないようです、不味い――わたしたちの間に緊張感が走ります。

「え、そうか?」

 敬史さんが誤魔化そうとします。わたしも咄嗟に、嘘をつきました。

「きっと外で、人間を食べてきたばかりだからじゃないですか?」――と。

 門番たちは今にもよだれを垂らしそうになって、わたしたちを見やりました。

「おお、そいつは羨ましい」

「穴場を見つけたんだ。今度教えてあげますよ」

「ああ、そりゃあ楽しみだなあ」

 た、助かった……! と、わたしは胸を撫で下ろします。わたしの言い訳を、門番たちは鵜呑みにしてくれたようでした。

 結局わたしたちは、無事に門をくぐることが出来ました。目の前に広がるのは、妖怪たちの行き交う城下町。先程山の上から眺望した時に感じたように、城壁に囲まれた内部は、広大な土地のようでした。

 土壁でくぎられた区内には、板葺の建物が規則正しく並んでいます。背の高い土壁の所為で視界が利かず、まるで迷路の中にいるようでした。これもまさに、この国の現代に残る城下町の造りと酷似しています。おそらく敵の襲来に備えたものなのでしょう。

「こんなに大きな拠点が、こんなところにあったなんて……」

 遠くにそびえる山城を見上げ、わたしは嘆息まじりになります。一歩先を行く宇都見さんは振り返りません。

「もしかしたらここは、天鬼組の拠点かもしれん」

「それは……たった四人で乗り込むには、あまりにも無謀では……」

「ああ。だが折角ここまで来たんだ。あの少女の妖怪がここに出入りしていた可能性は高い。何とか手がかりを得て、殺された子供達の遺体を見つけねば」

 ――たとえそれが、もう骨になっているとしても。

 わたしたちは頷き合いました。

 城下町の建物の中には、店もありました。剣や槍などの武具を扱う店もあれば、野菜や器を売る店もあって。

 そして、中には――。

「ほう、肉屋か」

 むん、と独特の乾いた生臭いにおいがする店先で、先頭の宇都見さんが足を止めました。そこにあるのは豚や牛もありましたが、――どうみても人間の胴体や脚であるものもあり、わたしも思わず目だけを僅かに逸らしました。

 妖怪であり警察官である宇都見さんや羽鳥さんはともかく、敬史さんには少々――いえ、かなり酷な光景ではないでしょうか。警察官だって、事件や事故で目にする遺体などを見て、精神的なダメージを受ける方が多いのです。わたしが横目で敬史さんの様子を窺うと、彼はやはり少し蒼ざめていて、ほとんど目を瞑っていました。

「らっしゃい。いい肉入ってるよ」

 牛刀を手にした店主が、宇都見さんに笑いかけます。

「人間の子供の肉は入ってきていないか?」

「こんな店に子供の肉だなんて上物はねぇよ。人間の子供の肉は『お頭』の大好物だからなあ。献上品よ」

 わたしたちは敬史さんが限界を来す前に、肉屋を後にしました。羽鳥さんが、

「大丈夫かい、先生」

「いえ……まあ、何とか」

「少し休むか? 真田殿。顔色が悪い」

「いえ、お気遣いなく。倒れるほどではありませんので」

 敬史さんは気丈にも、小さく笑いました。ですがわたしは、彼をここまで付き合わせたことをやはり後悔していました。

 彼は、警察官でもない普通の人間なのです。普通に生きていたら、あのように切断された人間の身体など見なくて済んだはずなのですから。

 この事案が終わったら、敬史さんのこの件に関する記憶は消される――わたしはその時に、先程見た人肉のことも、敬史さんの脳裏から綺麗に消されることを祈りました。

「そういえば、『お頭』って誰でしょうね」

 羽鳥さんが、宇都見さんに問いかけます。

「おそらくは、天鬼組の親分だろう。その名は――いや、ここでは口にしない方がいいな」

 声や言葉には、力があります。みだりに扱って、使い方を誤ってはいけない――わたしも昔、景にそう教わりました。ただでさえ奴らの領域であるここで天鬼組の親分の名を口にすることは、強い災いを呼び起こす――宇都見さんはそう判断したのでしょう。

 次に羽鳥さんたちは、少女の妖怪の行く先を探ることにしたようでした。

 薬草や鉱物、動物の干物などを取り扱う生薬店に入ると、「ここで、着物を来た少女のあやかしを知らないか?」と店主に話しかけます。

「おめえら余所者か? そんなの、『お嬢』くらいだろうて」

「『お嬢』?」

「そうだ。この『庭』の一番偉いお人、小琥ここ様よ」

 小琥――それが、あの少女の名前のようでした。

「そうだったのか。いやあ、最近ここを紹介されたばかりなもんでな」

「そうかあ。ま、ゆっくりしてけ。それにしてもおめぇら、人間くせぇな」

「さっきまで人間の世にいて、肉を喰ってきたもんでね」

「ハハッ、それで『狗』に追われてきたか」

『狗』――それは多分、護持委員会のことでしょう。そしてこの異界のことを、彼ら天鬼組の妖怪たちは、『庭』と呼んでいるようでした。聞き込みから、少しずつ情報が集まってきます。

 すると、わたしの隣に人の立つ気配がしました。さっきまで羽鳥さんと話していた店主が、「旦那、いらっしゃい!」と親し気に声をかけています。

 ――人間?

 顔だけで振り向いたわたしの隣にいたのは、白の長着に藤色の袴、その上にグラデーションのかかった灰色の羽織という和装の、上品で、どこか世間離れした風情の三十代ほどの男性でした。

「やあ。いつものを頼むよ」

「へい、毎度!」

 言って、店主は何やら店の奥へと引っ込みます。

 わたしはつい、その男性をまじまじと見つめてしまいました。この気配――純然たる妖怪ではありません。どうやら元は人間で、そこにあやかしの気配がまざっているように感じられます。

 やがてわたしの視線に気付いたらしい男性が、こちらを振り向いて肩口までの色素の薄い髪を揺らし、首を傾げました。

「わたしがどうかしたかな? お嬢さん」

「あ……すみません。ここで人間と出会うとは思わなかったので……」

「別に珍しくはないさ。人間世界にいられなくなって、この天鬼組に逃げ込む――そういう例はかなりあるのでね。人によっては、人間世界より快適だというやつもいるよ」

 彼はふわりと笑います。人間世界にいられなくなった――この穏やかそうな人が、一体どんなことを起こしたというのでしょう。

「そういうご一行は、新顔かな?」

 彼はわたしたちを見渡して、問いかけます。話しかけられたのを好機とみて、羽鳥さんが口を開きました。

「ああ、紹介されてやってきたんだ。何でもこの『庭』の主は、小琥様とおっしゃるそうだが」

「そうだね。この『庭』はあの方のものだ」

「一体、どういう方なんだい?」

「そうだねえ……まあ、気分屋な方だね。癇癪持ちだが機嫌のよい時に話をすれば、そう怖い人ではないさ」

「小琥様を、直接ご存じなのか?」

「まあ、そうだね。これでも上に顔は利くんだ。ここでの暮らしに何か困ったことがあったら言ってみてくれ。対応できるかもしれないし、できないかもしれない」

 そうして彼は店主から紙袋を受け取って銭を払い、店を去っていきました。

「何だか……独特な人でしたね」

「うん……きっと、正直な人なんだろう」

 出来ないことを出来るとは言わない辺り、そうなのでしょう。

 わたしたちはその後も、いろんな店を回ったり、外でぶらぶらしている妖怪をつかまえたりしては、聞き込みを行いました。それらの情報を繋いで考えてみると、

「ここで得られた証言からして……どうやら子供たちは『お頭』への献上品として連れてこられた可能性が高いな。たとえそれが死体でも……だ」

「ええ。ですが奴らによると、子供の肉は殺して一週間以内が一番旨い、と。……攫われてから、ゆうに一ヶ月近く経っている子も……いますね」

 つまりそれは、もう既に遺体すら喰われている可能性が高い――そういうことでした。

「だからといって……手ぶらで帰るわけには」

「その通りだ。しかし骨を探すとなると……難渋しそうだ」

 ふう、と宇都見さんが溜め息をつきます。

 この『庭』にも、夜はやってくるようでした。そろそろ陽が傾き始めているのか、辺りが一層薄暗くなって、肌寒くなってきていました。――今日の潜入捜査は、ここまでになりそうです。

 わたしが想到した時、

「――?」

 視界の隅を、何やら白いものが霞めました。

「どうした、綾ちゃん」

「今、何かが……」

 わたしは通りを駆けて行って、白い影が消えた曲がり角の先に目を凝らします。

「いない……」

「何だ何だ、一体どうした?」

 羽鳥さんたちも、走って追いかけてきます。そうしてわたしが振り返ると、

 ――――!

 また、です。

 まるでわたしの背後をとるように、また白い影が見えたのです。しかも、それは。

「何があった、丘野」

「人の形をした白い影が――それが、まるで子供が」

 そうしてまた、影はわたしをからかうように、宙を走っていきました。

「ランドセルを……背負っていたような」

 それを聞いて、三人も神妙な顔になりました。

「……影は、どちらに行った」

「今は、あっちに」

 わたしは篝火の先の薄暗く細い路地を指差しました。

「……行ってみよう」

 わたしたちは頷いて、影の後を追ってみることにしました。



 追いかけ始めたその時から、影はまるで、わたしたちを導くようにして道の先を掠めていきました。等間隔に置かれた篝火がなければ闇に沈んでしまうであろう夜道に漂う白い影は、次第にわたし以外の皆さんにも、その目に捉えられるようになっています。

 ですが――、

「行き止まり……」

 追っていった先にあったのは、山城と城下町を区切る高い石垣の際であり、道のどんづまりでした。辺りを見渡しても、もう白い影は見当たりません。

「ここに何かあるのか?」

 わたしたちは懐中電灯で足許や壁を照らし、探ってみることにしました。

 けれどその最中、何やらまとまった大勢の足音が近づいてきたかと思うと――わたしたちが来た後から、妖怪の一団が現れました。彼らは殺気立ち、めいめい武器を構えています。

「罠、か……!」

 その言葉に、わたしの胸が裏切られたようにざわめきます。そんな――あの白い影は、天鬼組の者によって作り出されたものだったなんて。

「真田殿は下がっていてくれ」

 宇都見さんが刀を抜き放ち、羽鳥さんも油断なく構えます。わたしも、敬史さんを庇うようにして前に立ちました。

 わたしは敵の背後で燃える篝火に、そして敵の妖怪が居並ぶ列の真ん中に、人影を見いだしました。それは――昼間生薬店で話をした、あの和装の男性でした。彼はわたしと目が合うと、やはり穏やかに微笑みます。やられた、と思いました。あの時彼は、わたしを「お嬢さん」と呼びました。恐らくはあの時に――既に幻術は見破られ、わたしたちの素性はばれていたに違いありません。

 和装の男性が、振り上げた腕を下ろします。それを端緒に、妖怪たちが一斉に襲いかかってきました。たちまち、場は剣戟と銃声に満ちたものになります。宇都見さんの斬撃に妖怪の一人が倒れ、伏し、羽鳥さんの銃撃で打たれた妖怪がくずおれ、後列のものにふみつけられ、伸ばされた槍の穂先をわたしの鬼の腕が掴んで投げ捨て――。わたしたちが次々に妖怪どもを無力化しようと、群れは後から後から際限なくやってきます。

 そのうちわたしたちは数に押されて徐々に石垣側に追い詰められ、後退していきます。後ろでわたしたちの戦いを見守るしかなかった敬史さんもまた、退いていくしかなく。

 しかしその時、わたしの背後から急に光が差しました。乱戦のさなかに振り向けば、敬史さんの足許で、何やら土の上に描かれたまじないが白い光を発しています。そしてその光は、敬史さんをどんどん包みこんで、足許からその姿を消し去っていくのでした。

「真田さん!」

 わたしは身を翻して、敬史さんに向かって手を伸ばしました。彼もまた懸命に手をのばし、わたしの手を掴んだ後――。

 わたしもまた指先から全身を得も言われぬ光に包まれ、わたしは意識を失いました。


   *


 ――かびくさい。

 つめたい――さむい――ここは?

 冷ややかな感触を五体に感じるわたしの意識は、徐々に目覚めていきます。

 やがて少し離れたところから、複数のきいきいとした甲高い声がしました。

「コイツラ人間カ? 妖怪カ?」

「変ナ気配ダ、変ナ気配ダ!」

「オンナジ気配ダ、オンナジ気配ダ!」

 なに――。

 わたしは重い瞼をゆるゆると持ち上げました。自分の乱れた前髪の向こう――そこにあるのが黒ずんだ鉄格子と、その向こうの壁に掛けられた篝火の揺れる明かりだと認識してきた時。

 不意に、驚くほど傍近くから、敬史さんの声がしました。

「待ってください。丘野さん、動かないで、もうちょっとで――」

「え? ……っ」

 声に導かれるようにして眼差しを下げると、そこにあったのは敬史さんの黒い頭でした。そして彼の顔がちょうどわたしの胸元に当たっていて――わたしたちは互いに噛み合ったテトリスのような体勢で、冷たい石の床に横たわっているのでした。

 わたしは思わず悲鳴を上げ、身をよじって敬史さんを蹴り飛ばしました。転がって石壁に背中をぶつけた敬史さんが、痛みに呻きながら、弁解します。

「ち、違います、誤解です! 俺の所為じゃなくて、俺が起きたらこういう体勢になってたんです!」

「ほ、本当ですか……?」

「信じて下さい。あいた……」

 打ち所が悪かったのか、敬史さんは身体を折って呻いていました。「す、すみません。つい」

 わたしは改めて、自分たちの状況を捉えようと視線を巡らせました。ここは地下牢――でしょうか。その隅には見通せない闇の凝る、苔が生えそうなほどじめじめした石造りの壁と床。わたしと敬史さんは、そんな牢屋に入れられています。その鉄格子には、何やら外から白い長方形の紙がいくつもべたべたと貼られていました。そしてわたしと敬史さんは、後ろ手に両手首を縄で縛られ、足首もまた、両足を揃えて縛られているのでした。

 よりにもよって敵の拠点で、こんな状況に陥るなんて――。

 わたしがその危機感で途方に暮れかけたその時、

「こらこら、騒ぐでないよ」

と、牢の外の方から声がしました。声はちょうど、あの生薬店で出会い、妖怪を指揮していた和装の男性――それのものでした。

 手燭を掲げて階段を降りてきたのは、やはりその人。人をこんな所に押し込めておいてなお、暗い明かりの下で穏やかな薄い笑みを絶やしていません。

「あなた――さっきの」

「やあ。すまないね、こんな所に入ってもらって。ああ、私のことは、出雲寺いずもじと呼んでくれ」

 和装の男性――出雲寺は、ぴ、とわたしの腕を指差します。

「お嬢さん、あなたの腕は厄介だから、ほれ、その通り。ちょいと封じさせてもらった。そして君は……」

 彼は敬史さんの方を見やって、ふ、と微笑みます。

「うん、他人とは思えないね」

「……?」

 敬史さんは怪訝な顔をします。

「君はあやかしの気配が混じっているだけで、特別には大した力もないみたいだから、普通に縛らせてもらったよ」

「出雲寺さん。あなた、一体」

「わたしはこの『庭』で、陰陽師をやっている。まあ、小琥様に雇われているようなものだ。君たち護持委員会の侵入には気付いていたよ。雇われの身としては何もしないわけにはいかなくてね。この通り、捕えさせてもらった。君たちのお仲間も、これから捕まえねばならない。今日はなかなかに忙しい。いやはや、老体には堪えるよ」

 言って、出雲寺は片手の拳で、自分のもう片方の肩を難儀そうに叩きます。

「わたしたち……どうなるんですか?」

「小琥様と『お頭』次第だね。安易に殺されることはないだろうけど……まあ、真人間の男は重宝されるんじゃないかな? ここには仕事みたいなものもあるから」

「仕事……肉体労働とかですか?」

 淡々と話す出雲寺に、敬史さんが片眉を上げます。

「肉体労働といえば肉体労働だけど……妖怪の世、ことに天鬼組では、人間の子供が重宝されるんだ。美味しいからね。『お頭』なんか、そりゃあ大好物さ。だからわたしたち各『庭』は、『お頭』の御来臨があるたびに、子供の肉で『お頭』をもてなさなければならない。いちいち人間の世で調達してくるのは面倒だし、難しいんだよねえ。君たちみたいな、護持委員会が動くことになるから。それで委員会とやり合って殺される幹部もいるくらいさ」 

「それで……どうして、人間の男性がここで重宝されるんですか?」

「うん。それはね、だったら最初から、ここで人間の子供を作っておけばいい、という発想になったわけさ。喰われるためだけに生まれる子供――まあ、豚や牛とかの家畜と一緒だね。ここで必要とされるのは、真人間の男だけじゃない。女だってそうさ。喰うための子供を作らせる、ただそれだけのためにね」

 出雲寺が淡々と語る恐ろしいことに、わたしは生理的に受け付けないものを感じて、一気に鳥肌が立ちました。

「お、おぞましい……っ」

「何て下衆な……」

 それは敬史さんも同じだったようで、思いきり顔を歪めていました。

「駄目です! 真田さんをあなたたちなんかに渡せません!」

 わたしは敬史さんを庇うようにして前に立ったつもりでしたが、縛られた両足では自由が利かず、バランスを崩して床に倒れただけでした。

「まあ、君は既に妖怪の血の気配が入っているから、真人間とはいえないか。資格としては失格だから、その点については安心していいと思うよ。それでも能力によっては何らかの役職や役目に取り立てられることもあるし……そんなに夢も希望もないとまで絶望しなくてもいいと思う」

「誰が、あなたたちなんかに使われますか!」

 わたしの頑なな抗議にも、出雲寺はどこ吹く風です。

「長話が過ぎたようだ。さて、わたしは仕事に行かなくては。まあそこに居ればその辺の妖怪に喰われることはないから、安心して欲しい。君たちに対してはわたしたち幹部より、そこらの妖怪の方が即物的で容赦がないから、気を付けた方がいい。じゃあね」

 出雲寺は牢の出口である階段を上って、行ってしまいました。あとには憤然としたわたしと、牢の床に腰を下ろした敬史さんが残されました。

「あの人……陰陽師って言ってましたね。この紙、呪符ってやつでしょうか」

 敬史さんは牢の入り口に近寄って、鉄格子越しに長方形の和紙のひとつに手を伸ばしてみます。しかし、

「ッ!」

「真田さん!?」

「だ、大丈夫です……ちょっと、びりびり来ました」

 敬史さんは膝を使って、再び鉄格子から離れます。

「丘野さんは触らない方がいいかもしれません。もっと痛いかも……」

「きっと、妖怪の血に反応してるんですね。わたしの腕も……全然鬼のものになれないんです。この腕が使えればこの程度の鉄格子、どうにかなるかもしれないんですが……」

 わたしは後ろに回された腕に意識を集中し、もがいてみます。けれど縄は肌に食い込むほどきつく、人間の女の力ではとてもではないけれどほどけそうにありませんでした。

 わたしたちは薄暗い牢の中でふと目が合って、思い出して気まずくなり、お互いぎこちなく目を逸らします。……そうでした。さっきから普通にやりとりしていたから忘れていたけれど、この『庭』に来る前、山姥さんの家の五右衛門風呂で話して以来、わたしたちの間には――見えない壁のようなものが出来ていました。それを作ってしまったのは、恐らくわたしです。

 わたしが――自分の過去なんか語ったから。

 今も敬史さんは、こんなやつと同じ牢屋に入れられて、嫌な思いをしているのではないでしょうか。わたしは申し訳ない心地になります。けれど、わたしはどうなったとしても、敬史さんだけは――彼だけは、無事に人間の世界に帰さないと。それだけは、強く思いました。

 先程騒いでいた三人の妖怪たちは、この地下牢の見張り番のようでした。最初のうちは、槍をかついで通路を往復し、見張りの責務を果たしていたようですが、そのうち三人で机を囲んで集まって、花札に興じ始めたようでした。そしてそれも飽き始めた頃、三人揃って居眠りをし始めました。三人分の寝息――というか耳を塞ぎたいほどのいびきと歯ぎしりが聞こえてきたからです。

 そうして敬史さんとの会話のないままだったわたしも、壁によりかかってうつらとし始めた時、不意に、

「……あやちゃん?」

と、女の子の声が、聞こえました。

 うつむいていたわたしと敬史さんは、顔を上げます。声は、この地下牢――いくつか離れた牢屋から。微かに響いているようでした。

「誰?」

 どこか聞き覚えがあるような、ないような。わたしは自分の記憶を探りました。そうしている間に、わたしの返事を聞き留めた相手は、さらに言い募ります。

「わたし、ますおかあや! ね、交番のあやちゃんだよね?」

 ――うそ、と。

 瞬間的に、そう思いました。だって、彼女は――増岡彩ちゃんは。

 わたしはこのひと月余りの捜査の日々を思い出していました。情報提供を募る掲示物に載せられていた、増岡彩の名前と顔写真。わたしに毎日のように挨拶してくれた彼女は、あの犯人ら――沢森と内津に攫われて殺された。そのはずでした。

 でも――でも。声は確かに、彼女のものなのです。眠気の吹き飛んだわたしは息せき切るようにして、さらに返事をしました。

「そう――交番のあやだよ。そこにいるの!?」

「うん、ここにいるの。他に、二人の男の子も一緒だよ」

「真田さん――」

 わたしは助けを求めるようにして、敬史さんを振り返りました。彼が力強く頷きます。

「大丈夫。俺にも聞こえてます。……彼女の声は、あなただけに聞こえているわけではない」

 夢や幻ではない――そのことを確認させられたわたしは、一度唾を飲んで、まずは自分に落ちつくよう心の中で言い聞かせました。

「大丈夫? 怪我とか、してない?」

「……とってもこわかったけど、今はへいき」

「他の子たちは? お名前は?」

 わたしの質問には、確かに別々の男の子の声が答えました。

「おれ、くらたこういち」

「ぼくは、ありむらせい」

 倉田江一、有村ありむらせい――彩ちゃんと同じく掲示物に載せられ、ニュースでも報道された名前です。わたしは警察署にやってきて直接相対した、倉田夫妻のことを思いました。心労と捜索で疲れ果て絶望していたご夫妻の頼りない肩――それが、救われるかもしれない!

 わたしはその興奮で、この地下牢の中でも、視界が明るくなったように感じました。

「男の車に乗せられて、知らない部屋に連れていかれて首をしめられて……もうだめだって思ったけど。目が覚めたら、どこもいたくなかったんだ」

「ぼくたち、いいにおいがする部屋で、目がさめたんだよね」

「それからは……ここに入れられちゃったけど」

 などなど、三人の子供たちは、めいめいの経験を話しています。それらには具体性があって、彼らが生き返ったと思われること以外は、辻妻が合うように感じました。

 果たして、生き返ったのか、そもそも死んでいなかったのか。

 それは直接顔を合わせてみないと、わからないことかもしれません。

「でも、良かった……! 三人とも、ちゃんと生きてるんだね」

「うん、多分。でも……お空を飛べるようになったよ」

「……え?」

「この身体から、すうっと離れられる時があるんだ。おれ、さっきも地上でお姉さんたちを見たよ。だから、こっちだよ、助けてって、ずっと飛んでたんだ」

「まさか……さっきの白い影って……」

 わたしが助けを求めるように敬史さんを振り返ると、彼も承服しにくい顔をしながらも、

「まあ……何が起こっても不思議じゃないなというのは、俺もこの数日で感じるようになりましたから……」

「はあ……」

 わたしも半ば納得、半ば不信感を抱きながら、肩を竦めます。

「でも、宇都見さんなら何か分かるかもしれません。そうと決まれば、わたしたちもあの子たちも、ここから脱出して、宇都見さんたちに合流して、人間世界に帰らなくては!」

「その通りです」

 敬史さんも、口角を上げて笑います。

「それで丘野さん。俺考えてたんですけど」

「何ですか?」

「俺たちはこの牢に二人でいるんだから、何とかなるんじゃないかなと。自分を縛る縄は自分でほどけなくても、相手の縄ならほどけるんじゃないでしょうか」

「なるほど! やってみましょう!」

 わたしは一も二もなく、敬史さんの提案に乗ってみることにしました。この状況下、考えられる方法はどんどん試してみるべきだと思ったのです。

「じゃあ、俺の手首の縄を、まずお願いします。丘野さんのは符が貼ってあって面倒そうだから、後で」

「分かりました」

「お互い座って後ろを向いて、俺の手首を……そうです。手で見つけてください」

 わたしは敬史さんに背を向けて三角座りをし、同じく後ろを向いた敬史さんの手首を、手探りしました。彼の服を掴めるところまで身体の距離を詰めてから、服を伝っていって――わたしの手は彼のひんやりとした手を見つけました。

「これですね?」

「そうです。縄の結び目を探して下さい。俺にはどこにあるのか分かりませんが」

「分かりました。ちょっと、じっとしてて下さいね」

「了解です」

 わたしは指先で、敬史さんの手首に回された縄を、一周してみました。すると、縄の結び目はご丁寧に縄の下に隠されていましたが――何とか見つかりました。

「ありました!」

「結び目、ほどけますか? 爪で刺激すると、ちょっとは削れていくかも……」

「やってみます」

 わたしは押し黙って、両手の指先に全神経を集中します。

 もそもそもそもそ……。

 ぐぐ、ぐぐぐぐぐ……。

「……どうですか?」

「ちょ、ちょっと待ってくださいね!」

 結び目はばかみたいに固く、わたしの爪先では歯が立ちませんでした。爪は先日綺麗に切ったばかり、ですがやるしかありません。指先に力を入れ続けて何度も繰り返すと、ちょっと、本当にちょっとではありましたが、縄が動く感触がありました。ですが、わたしはだんだん、腕が疲れてきました。

「すみません、ちょっと、休憩……」

「はい。俺も、腕を若干持ち上げてるのが苦しくなってきました」

「ああっ、進みが遅くてすみません!」

「いえ、根気強くいきましょう?」

 敬史さんの声に励まされつつ、わたしは一旦、腕を脱力させて休ませました。こんなの……いつになったらほどけるというのでしょう。

 しばし横になって脱力しきって休んだわたしは、「では、もう一度」と体勢を立て直します。敬史さんの方も準備を整え、「どうぞ」と答えます。

 あまりに地味な、そして根気勝負の挑戦は続きました。

「あ」

「真田さん?」

「思いつきました。こうしてる方が、俺も疲れません」

 敬史さんの手が動いたかと思うと、その大きな手は、わたしの手の平から手首辺り――縄をほどく指先の邪魔にならない範囲を握りました。その瞬間、わたしの胸の奥で、心臓が不味いくらい高鳴るのが聞こえました。お互い掴まったりもたせたりすることで腕に入る力を軽減するということなのでしょうが――これは、ちょっと。

「丘野さんも、余計な力はかけずに俺の方にもたせて下さいね」

「はい……はい、あの……」

 駄目です、全然指先に集中出来ません。敬史さんの手の柔らかさやら胼胝の固さやらぬくもりやらで、頭がいっぱいになってしまいます。いえ、わたしの手の方が熱くて、その熱が敬史さんの手に移っているのかも――そのうちわたしの手のひらにはじわりと汗が滲んでくるし――ああ、こんなの感づかれたくないのに、感づかれないのは無理! 指先まで、汗で滑ってきます!

「えっと、ええと、ああっ、すみません!」

「丘野さん、落ちついて!」

 そうは言われても、敬史さんの手にこんなに長く触られるなんて、あの村での花火大会の夜以来で――ああ駄目です、こんなの、変な気持ちになってきます!

 湧きそうになる邪念を必死で打ち払いながら、わたしは励まされるがままに縄の結び目に挑戦し続けました。いっそ「離して下さい」と言えたら良かったのですが、離して欲しくない気持ちの方がずっとまさってしまって、そんなことは口が裂けても言えませんでした。

 どんなに手が汗ばもうと、期待を裏切るわけにはいかない――わたしは必死でした。歯を食いしばり、出来るだけ声を押さえて難渋していると――不意に、敬史さんはぽつりと呟きます。

「丘野さんは、そのままでいいと思いますよ」

「――え?」

 最初は、何を言われたのか分かりませんでした。

 それから――その言葉がかつて彼の口から聞いたものと同じであると認識すると、わたしの手はつい、その動きを止めてしまいます。

「あなたはちゃんと、自分の罪の重さと向き合っている。それを背負おうとしている。それに、確かにあなたがかつて奪った命があっても、逆にこうしてあなたが警察や護持委員会に所属して勤め、存在していることで、救われる命がある。それは……事実だと思います。だから――」

 敬史さんは言い淀みます。言葉を探しているのかもしれません。彼自身、自分の言葉に本当にそうだろうかという葛藤があるのかもしれませんでした。

 けれど、彼はその言葉をわたしに伝えてくれた。伝えなくてはと思ってくれた。

 わたしには、その想いだけで十分でした。その言葉をもう一度――しかもわたしの過去を話した上で聴くことになるなんて、思ってもみませんでした。不意に目の奥が熱くなって、嗚咽が喉の奥から込み上げそうになって、わたしはきゅっと唇を引き結びます。

「以前……同じことを言ってくれた人がいました」

「……そうなんですか。その人とは、今は?」

 わたしはいいえ、と呟いて、小さく首を横に振りました。

「でも……今でも、一番大切な人です。一番……大好きな人」

 わたしは背中越しに、その本人に向かって言いました。これはきっと、背中合わせだったから、言えました。伝わらなくてもいい――いいえ、伝わって欲しかった。

 どんなに自分を抑えても、言い聞かせても、気持ちが溢れてしまう。困らせるかもしれなくて、拒絶されるかもしれなくて、でも――今もう一度。敬史さんが距離を詰めてくれたのが、心底嬉しかった。

 わたしの爪先が、縄の結び目である輪を捉えていました。指が汗で濡れた分、縄も湿り気を帯びて、繊維がほどけやすくなっていたのです。

 その僅かな隙間に指を差しこんで、ゆっくり引っ張って。

「縄――ほどけました」

 こんな状況なのに。

 わたしは心のどこかで、この拘束が終わってしまうことを惜しんでいました

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る