わんこそばのごとく杯を重ねてべろんべろんに酔っ払ったわたしは、アパートの前まで羽鳥さんに送られて、何とか自分の安アパートに辿りついたようでした。着替えたり化粧を落としたりする間もなく、かろうじて布団を引っ張り出すと、そのままべた布団に突っ伏して再び寝入ってしまったようです。まさに墜落するような眠りでした。

 夢の中のわたしは、敬史さんの後ろ姿を追いかけています。ようやく追いついた、と思っても、彼のシャツを掴んだと思ったわたしの手はくうを掻いて、敬史さんの姿はかき消えてしまうのでした。そんな虚しい追いかけっこを繰り返すばかりの、実りのない夢――。

「敬史さん……」

 物悲しさだけを残滓に、わたしは自分の寝言で目が覚めました。

 締めっぱなしだった部屋の遮光カーテンの隙間からは、陽光が射し込んでいます。わたしは瞼をこすって、のろのろと身を起こしました。脱ぎもしなかったスーツは皺だらけだし、落としていなかった化粧と涙の跡で、顔もひどい有様です。

 ひとまず顔を洗ってカーテンを開けると、見えていたのは朝陽ではなく、夕陽でした。

 何ということでしょう。夜中に帰ってきて、十二時間以上眠ってしまいました。これにはヒエッと背筋が粟立ちました。救いは今日が非番だったことですが、何という勿体ない休日の過ごし方をしてしまったのか……。わたしは手前勝手な散財をしたのと同じくらいの後悔をしました。

 交番での仕事は休みでも、夜にはまた妖怪たちへの聞き込みがあります。わたしはとにかくスーツを脱ぐとアイロンのスチームで皺を落とし、シャワーを浴びて、ひとまずさっぱりしました。

 そうして迎えた、その日の夜。

 羽鳥さん、宇都見さん、そして敬史さんとの待ち合わせになっていた、閉業したガソリンスタンド。夜は更けて日付の変更が近づき、明かりは近くの街路灯と、時々雲に隠れる月だけです。到着した時には、まだ誰も来ていませんでした。そのことに安堵していると、宇都見さん、敬史さん、羽鳥さんがぞろぞろとやってきて、皆が集合しました。……敬史さんのことは、今日はまだ、直視出来そうにありません。

「皆集まったな。それでは今日も聞き込みを――」

「その前に宇都見さん、昨日の報告があります」

「何だ? 羽鳥」

「丸山の天狗から得た情報です。くだんの着物姿の少女が、隣の管区の茂山の方へ向かっていく姿を見たと」

 宇都見さんが、ほう、と片眉を上げます。丸山の天狗――以前会った丸ヶ岳坊さんでしょうか。わたしは声を潜めました。

「羽鳥さん、いつの間に」

「昨晩、綾ちゃんが酔い潰れた後だね。あの屋台に丸さんがやってきたんだ」

 羽鳥さんはぱちりと片目を瞑ります。何とまあ、わたしが酔い潰れた後にそんなことが。

 わたしたちは、揃ってここから西の茂山に向かうことになりました。しかし茂山は丸ヶ岳坊さんの住む丸山よりも、数倍は大きな山です。何でも、その南側では古墳時代の埴輪なども発掘された歴史があるとのことで、開拓もされず姿を残してきた古い山でもあるようです。

 わたしたち四人は羽鳥さんの車に乗り込み、とにかく移動を開始します。わたしは前方に見えてきた茂山の黒々とした姿を見やり、少々途方に暮れました。

「山といっても、一体どこから探せば……」

「羽鳥、天狗はそれ以上のことは?」

「何も。それ以上は見えなかったとのことです」

 助手席に座った宇都見さんは、少々苛立ったようにふーっと息を吐きました。ですがわたしは上司の機嫌よりも、後部座席で隣に座った敬史さんの方にばかり意識が向いてしまっていました。

 一晩経って思うようになったのは、彼に、わたしの気持ちを感づかれたくない、ということでした。

 彼女さんがいるのにわたしの気持ちに気付かれれば、……ごめんなさい、と言われるのが関の山ではありませんか。それは余計に悲しかった。追い打ちをかけられたくなかったのです。

 わたしは極力、敬史さんの方を見ないように努めました。見たら、目が合えば、何かが伝わってしまうような気がして、怖かったのです。

「とにかく行ってみるしかないか。麓に妖怪がいれば、また何か聞けるかもしれん」

「了解」

 言って、羽鳥さんはぐっとアクセルを踏み込みました。



 茂山――その標高は三百メートルといったところでしょうか。名前の通り木が生い茂り、この暗がりでは判然としませんが、近頃は紅葉の進んでいる山のようです。ですがその南側は、十年ほど前に行われたという発掘調査の後で土が露出し、未だに木々の生長が追いついていないようでした。

 麓の北側、東側には人間たちの大きな集落がある一方、西側は民家もまばらで、どこか物寂しい風景です。羽鳥さんが車でぐるりと茂山の周囲を一周し、わたしたちはその知見を得ました。

 そしてわたしたちは、民家の少ない西側を選んで車から降りました。人間に目撃される可能性は低い方がいい、とのことです。そして妖怪は、こういう人気のないところに潜む者が多いから、という理由もありました。

 車を降り、すっかり涼しくなった夜風に黒髪をなびかせた宇都見さんは、てきぱきと指示を出します。

「では、二手に分かれて証言の得られそうな妖怪を捜すか。組は――」

 ――その数分後。わたしは懐中電灯を手に、西側に広がる池を取り囲む農道を歩いていました。ですが――どうして、どうしてこの組に。

 わたしから数歩遅れて歩いているのは、敬史さんです。わたしは、わたしの事情を汲んでくれない宇都見さんを軽く恨みました。

「――すみません、丘野さん」

「はいっ?」

 急に話を振られ、わたしは驚いてつい足を止めます。

「妖怪には妖怪の気配があるって話でしたけど……俺にはさっぱりなんですが」

「それは――ええ、真田さんは人間ですから、仕方のないことです。わたしが真田さんの分まで気配を探りますので、ご心配なく」

「そうですか。役立たずですみません」

「いえ、そんなことは」

 以上、目を合わさずに交わした会話。

 再びわたしたちは二つの懐中電灯で辺りを薙ぎ照らしながら、どこか不気味な夜の中を歩いていきました。

 ……おかしいです。

 夜の景色は、泊まり勤務でのパトロールで慣れているはずなのに。

 そもそもわたしは妖怪なんだから、夜の闇くらい恐れるものではないはずなのに。

 見慣れない――いつもとは違う景色の中にいる所為でしょうか。何だか背筋がぞくぞくして、不安になるのです。

 あやかしの気配――あるとすれば、一つや二つではないでしょう。複数の気配が入り乱れているのか、逆にこれという気配を掴むことが出来ません。わたしは伏し目がちになって、気配を探ることに集中しました、

 ――聞こえてくるのは、虫の鳴き声。交番所にいる時に聞こえるのとは、別のものです。

 風の音。枝葉を靡かせる草木のざわめきが、静かに行き交っています。

 そして――人の声。

 芯の柔らかな、聴いていて心地いい声――そして、その声が戸惑っている。叫んでいる。

 そう、叫んで――って、

「うわぁ!」

聞こえたのは、敬史さんの声。わたしはばちりと目を見開き、夜道を振り返りました。

「真田さん!?」

 ただならぬ声は、農道と下草に囲まれた池――いえ、その水辺の方から聞こえてきます。わたしは懐中電灯の明かりを巡らせました。

「おか、丘野さん! こっち!」

 声に導かれて、わたしの懐中電灯が敬史さんの姿を捉えます。そこには、腰まで水辺につかり、何やらもがいている敬史さんがいました。真田さん、と叫んで草を踏み分けて駆け寄り、わたしも彼に手を貸します。

 ですが――水中からの力は強く。あっという間に敬史さんの上体が引き込まれ、繋いだ手ごと、わたしごと、わたしたちは池に引きずり込まれました。

 冷たい――冷たい水の感触が、五体を、五感を押し包みます。こんな季節に入るべき水温ではありません。薄暗い水の中で目を開くと、繁茂した黒い水草が揺れる中、敬史さんが水中でもがいて、盛んに気泡を吐いているのが見えました。その片足に、何かが執拗に絡みついているのです。何か――わたしはその正体の気配を捉えました。

 あやかしの、気配。

 ですが敬史さんの手が、繋いでいたわたしの手を振り払うように離しました。一瞬かち合ったその目は、わたしまでをも巻き込むまいという、彼の意思をわたしに伝えてきました。

 わたしは一度、水面から顔を出します。池の中央は、わたしの足では底に届かない深さのようでした。顔に貼りつく髪を手で払い、盛大に息を整えたわたしの脳裏にあったのは、彼を助けなければという一心でした。

「敬史さん……!」

 こんなところであやかしに捕まってもなお、わたしの身を案じてくれた敬史さん。

 そんな彼を、一体どこの馬の骨のあやかしが――わたしに断りもなく――奪い去ろうとしているのか。

 わたしには、急にむらむらと、沸騰するような怒りが湧いてきました。その勢いのまま、濡れて重いコートを脱ぎ捨てます。

「この……っあやかし風情がっ」

 わたしは鬼の巨腕に変じた両手を組み、高々と掲げると、

「敬史さんを――返しなさいッ!!」

 思いきり、拳を水面に叩きつけました。



 ――数分後。

 わたしの目の前には、水の干上がった池――いえ、その跡地がありました。その代わり、少し離れたところにある外灯と月明かりに照らされる池の周辺は、豪雨にあったかのように水浸しです。

 叩きつける拳の衝撃で池の水を吹き飛ばしたわたしは、少々疲れて息が上がっていました。その隣の敬史さんも、水の中から何とか生還して、せこんでいます。

「すいません……池の上で何かが光ってて、何だろうと思って近寄ったら……」

「真田さん……それ、近寄っちゃ駄目なやつです……」

 わたしは敬史さんの足を掴んでいた妖怪――河童が、目を回して倒れているのに目をやりました。

「妖怪、いましたね。お手柄ですよ、真田さん」

「証言が得られれば、でしょうけど」

 敬史さんは力なく笑います。わたしは河童のもとまで歩いていって、その上体を抱き起こしました。……頭の皿が空になっています。これでは目を覚ましてくれなさそうです。

「どこかに水は……」

 わたしは辺りを見回しました。けれどあれほどあった水は、全て辺りの土に染みこんで泥と一体化してしまっています。

「あ、俺、お茶なら持ってます」

 準備のよい敬史さんは、腰のベルトに携えていた小型の水筒を取り出します。彼は水筒のコップを回して外し、中のお茶をコップに注ぎました。

「……ホットなんですね」

「駄目でしょうか?」

「いえ……この際これでいきましょう」

 熱湯を自分の皿にもつ河童は寡聞にして聞いたことがありませんでしたが、他に方法はなさそうでした。わたしが河童の上体を支え、敬史さんが皿にお茶を注ぐ。――ほわりとした柔らかな湯気と、香ばしいほうじ茶の香りが立ち昇りました。

 その瞬間、

「――あっっうううううううッ!」

 河童は一気に目を覚まし、ぴょんぴょん跳び上がりました。

「おまはんがた、何を考えとりますん!? お湯って! 普通河童の皿にお湯注ぎます!?」

「ち、違います、お湯じゃなくてお茶です」

「五十歩百歩!!」

 河童はしばらく――五分ほど飛び回った後、ようやく落ち着いたようでした。いえ、単に疲れただけかもしれません。

「あーびっくりした……何のテロかと思うたわ……」

「そっちだって、人の足をいきなり掴んで水中に引き込もうとしたでしょう? 殺人未遂ですよ、殺人未遂。分かってるんですか?」

「丘野さん、もうその辺で……」

 敬史さんに言われて、わたしは強気の取り調べモードの矛を収めます。

 そうでした、そもそも妖怪を捜していたのは、あの着物姿の妖怪の少女について、有力な証言を得るためでした。わたしは素直に非を認めてみます。

「お湯の件は失礼しました。ちょっとお話をお聞きしたいんですが――着物姿の少女のなりをしたあやかしについて、何かご存じありませんか?」

 河童は表情をこわばらせると、一度しゃっくりをしました。それから顔を背けて――目に分かるほど身体を震わせます。――やはり管内の他の妖怪たちと同じく、あの鵺を怖れているのでしょうか?

「ひ、東の街を徘徊していた鵺なら、わたしどもが退治しましたので、ご安心を」

「鵺? あ――あれを退治したんか?」

「そうですとも。この、真田大先生のお力添えがありまして!」

 わたしは胸を張りました。「丘野さん、大先生って……」という敬史さんの呆れたような声は、聞こえないふりをします。

「そうか、あいつを倒したんか……なら……いや……」

 河童は何やらぶつぶつと、一人で呟いています。わたしたちは、その心が定まるのを待ちました。

「……お願いです、どんな些細なことでもいいですから。あなただって、もし自分の家族を奪われたら、いてもたってもいられないでしょう?」

 わたしの請うような眼差しが、河童の思いの外つぶらな瞳を捉えます。河童はしばし、気圧されたように瞬きしていましたが――やがてふいと目を逸らすと、こぼすように言いました。

「この茂山の山姥なら、何か知ってるかもしれへんけどな」



 約束の集合時間になって、わたしと敬史さんは停めた車のところまで戻ってきました。そのなりを見て、羽鳥さんが声を上げます。

「うわっ、どうしたの二人とも。びしょ濡れじゃないか。てか泥くさっ!」

「すみません……」

「俺が河童に引きずり込まれそうになりまして、それで……」

「でも、ひとつヒントをもらいました。この山には山姥さんがいるらしくて、彼女なら何か知っているかも、ということでした」

 宇都見さんが考え深そうに、胸の前で両腕を組みます。

「そうか。山姥が……行ってみるか。こっちは少女の妖怪が麓を歩いていた、という証言を得ただけだった。恐ろしくて跡などつけられなかった、ということだ」

「綾ちゃん、その山姥のいる場所って聞いた?」

「はい、おおよそですが――」

 わたしたちはしばし、山登りをすることになりました。



 砂利の敷かれた山道を途中まで登って行って、目印の大樹の脇にある獣道をひたすら東へ。するとやがて前方の深い林の中に、明かりらしきものが見えてきました。あれが、山姥さんの住まいのようです。

 近くまで寄ってみると、そこにあるのはところどころ苔むした茅葺き屋根の、黒ずんだ木造の小屋であると分かりました。明かりは、その窓からぼんやりと漏れているのでした。

「すみません」

 羽鳥さんが戸を叩き、挨拶してみます。

「こちらに、茂山の山姥殿はいらっしゃいますか? すみません!」

 しばらくすると、がたりと戸が動いて、中から人の顔が見えました。もじゃもじゃに乱れた長い白髪に、年老いて垂れ下がった顔の皮膚。恐ろしげなほどぎょろりとした大きな両眼が、印象的でした。

「……何じゃ、どなたかえ?」

「突然の来訪、失礼。私は護持委員会の宇都見」

「同じく、護持委員会の羽鳥です」

「丘野です」

「……一般人の真田です」

「少々お話を伺いたい。この辺りで着物姿の少女のなりをした妖怪を見ませんでしたか?」

 山姥さんは、わたしたち四人を順番に見やっていました。そして少しして、

「中、入れ」

と、しわがれた声でわたしたちを促しました。

 小屋の作りは簡素なものでした。部屋は入ってすぐの土間ひとつ。動物の毛皮や、乾かしている途中らしき薬草類、野菜、水甕、斧、包丁など、山での生活に必要なものが並べられています。中央の囲炉裏には火が灯って鍋がかけられていて、葱や肉などがことこと煮込まれるいい匂いが漂っていました。この灯りが一つだけの硝子のない窓を通して、外に漏れていたようでした。

 小屋の中は案外暖かかったです。――というか、湖に落ちたわたしと敬史さんの身体が冷え切っていただけなのかも。わたしたちは火の気配に触れた途端、揃ってくしゃみをしました。

「何じゃ、河童にやられたか」

「ああ、はい。その通りです」

「風邪を引くど。近くに綺麗な川があるで、そこで服を洗って乾かせばええ。それと」

 山姥さんは、目顔でわたしと敬史さんに「ついてこい」と促して、小屋を出ました。わたしたちがそれに続くと、小屋の裏手にはちょっとした空き地がありました。そこにあったのは、

「まさかのお風呂……」

 薪を燃やす土台の上に大きな釜、その上に大きな桶を乗せて作られた、五右衛門風呂です。こんな山の中にあるとは思わないものに遭遇し、わたしたちは驚愕しました。いえむしろ、こんな山の中だからこそあるのでしょうか? 何だか混乱してきました。山姥さんは簡素な掘っ立て小屋の中にある薪の山を指差しました。

「あれも使えばええ」

「御親切に……ありがとうございます」

 わたしがお礼を言うと、山姥さんは、くつくつと笑いました。

「いんや。こうして親切を働いて、その後きゅっと絞めて、その肉を頂いておるのでな」

 その発言には、わたしも敬史さんも凍りつきました。

 本当に――ここに来たのが隙だらけの敬史さん一人じゃなくてよかった。わたしは心底そう思いました。



 わたしたちはその後、ありがたく五右衛門風呂をいただいて、身体を温めることにしました。わたしが川で泥だらけの服を洗っている間に敬史さんが五右衛門風呂の火を焚いて下さって、戻ったわたしは焚き火で服を乾かしながらお風呂に浸かる。その間、敬史さんは川に行って服を洗って――そういう手順を踏みました。

 敬史さんより先にお風呂をいただくことには気が引けたのですが、彼が固辞したので先に入らせていただくことにしました。……ちょうどよい湯加減が心地よいです。外でこんな風にお風呂に入るのは、ちょっと開放的過ぎてどうかと最初は思いましたが――入っているうちに気にならなくなりました。

 そのうち、草を踏みしめる足音が川の方から近づいてきて――山姥さんから借りた浴衣姿の敬史さんが、絞った服を携えて帰ってきました。

「お帰りなさい」

「ただいまです。湯加減はどうですか?」

「ちょうどいいです。ありがとうございます」

「それは良かった」

 敬史さんは五右衛門風呂から少し離れたところに作った焚き火まで歩いていって、自分の服を干している様子です。彼はこちらに背を向けて、横たわった丸太に腰掛けました。

 わたしたちはただ無言で、水音と、火に舐められる薪のぱちぱち爆ぜる音を聞いていました。宇都見さんと羽鳥さんは、小屋で山姥さんと話をしています。あの二人なら、きっと山姥さんから何か情報を聞きだしているでしょう。

「宇都見さんも、羽鳥さんも――丘野さんも。妖怪、なんですよね?」

 不意に、敬史さんが口を開きました。そうですね、と答えると、

「全然、分からないです。皆さん、すっかり人間の姿をしているから」

「宇都見さんも羽鳥さんも、化けるのがお上手ですからね。わたしは……半妖なんですが」

「半妖?」

「人間と妖怪のハーフです。詳しく言えば、鬼の血と狐の血と、人間の血が混じっています」

「そうなんですか……」

 妖怪と人の血が交わることもあるんですね、と敬史さんは呟きます。わたしは――母のことを思いました。愛した人に拒絶された母のことを。わたしを殺そうとした母のことを。

 そんなことを思い出した薄暗い気持ちが、わたしの口を開かせたのかもしれません。

「わたしは――この人間としての姿で生まれてきました」

 わたしは湯を両手で掬い、焚き火に照らされて映りこむ自分の顔を見つめます。

「両親の顔は知らなくて、育ての親であるあやかしに育てられました。二十歳頃になるまで、自分の妖怪としての正体を、自分でも知らなかったんです。……でも」

「……でも?」

 わたしは、一度小さく唾を飲みこみました。どうしてこんなことを話してしまっているのか、自分でも分からなかった。でも、一度開いた口は止まらなくて、

「わたしも――昔は、人の肉を喰べました」

そう、告白していました。

「わたしたち妖怪には、護持委員会の『四ヶ条の掟』というものがあります。人間に正体を知られるな。人間を無闇に喰うな。人間世界を妖怪のことで騒がせるな。人間に妖怪への皆殺し意識をもたせるな。――そんな中、わたしは付き合っていた彼に妖怪としての姿を見られたことで、彼をやむなく殺してしまって。その時に、鬼としての本性に目覚めました。その後も、鬼としての飢えのままに、見ず知らずの人を殺しては喰べて――」

 思い出すのは、初めて人を喰べたあの雨の夜。脳裏に蘇る彼の血の色、臓器の色は、記憶の中にあるよりも鮮烈に、今も目の前に甦ります。二年以上の歳月を経て風化しているのだけれど、今も自分で、脳裏で色を塗っているのでしょう。自戒のために。

「でも、どうしても食べられない――いえ、鬼としてのわたしは食べたくて仕方なかったけれど、一方で人間としてのわたしが食べることを拒む人に出逢いました。……その人が大切だったからです。わたしは自分の身を傷つけてその衝動を堪えきって――結局、彼を喰べることはありませんでした」

 思い出すのは、傷だらけのわたしを抱きかかえた、敬史さんの温もり。温かった――いえ、もう、わたしにはその熱すら分からなかったはず。けれどあの時の温もりは、思い出すたびに、何よりも愛しく温かいのです。

「いろいろあって護持委員会の命令で警察学校に行って、警察官になってからのわたしは、……もう、人の肉を喰べていません。罪の意識が湧いて、喰べる方が恐ろしいのです。それに喰べてしまえば、また前のわたしに戻ってしまいそうだから……それが、嫌で」

 わたしは湯の中で、自分の拳を握りしめます。

「わたしは、本来なら警察官になっていいような者ではありません。誰かからの感謝も、受ける資格がない。わたしはこれまでに、誰かの家族を永遠に奪ってしまったのだから」

 この思いはきっと、生涯わたしの胸に刻印されて残り続けるのでしょう。委員会に生殺与奪を握られたわたしに出来ることは、……それを一生背負って、生きることだけ。

「宇都見さんや羽鳥さんはともかく――わたしは、そんなやつなんです」

 聞こえるのは、炎と薪が身を寄せ合って小さく爆ぜる音だけ。敬史さんからの返事は、ありませんでした。ただ、静かな吐息の音だけが聞こえました。分かっていても、そのことに傷ついている自分がいました。

 馬鹿みたいに――自分から、遠ざかるような、遠ざけるような真似をした。

 でも、それでいいのだとも思いました。

 ――好きでいてはいけないのなら。

 いっそ、遠く離れてしまいたい。離れてしまった方が、きっと楽なのでしょう。離れて、忘れることが出来たらどんなにいいか。なのに。

 なのに、ここから見える後ろ姿すら、慕わしいのです。彼がただ、そこにいるだけで。

 わたしは涙を拭うと、湯気立つ五右衛門風呂から立ち上がり、近くにかけてあった浴衣を手にしました。



 宇都見さんと羽鳥さんの話では、山姥さんはそのあやかしの少女を見ていないとのことでした。けれど、最近この山で変わったことがあるといいます。

「麓の方にくぐれぬ鳥居がある」

 くぐれない鳥居とは――? 不思議に思いつつ、わたしたちは示された方角に向かって方位磁針を使いながら山を下りました。

「……あれか。鳥居というのは」

 やがて、石造りの古い鳥居が見えてきました。鳥居の中では比較的小さなもので、陽が当たらない所為か、下の方から苔しています。上の方に結ばれた締め縄も途中で切れているし、ところどころ石が割れているしで、散々な有様でした。

「随分ともう、人の手が入ってないみたいだね。忘れられてるんだろう……」

 羽鳥さんは下生えの繁った道の跡を辿り、奥に小さな祠を見つけました。締められた格子戸の向こうには通常ならご神体があるのかもしれませんが、その鍵が壊れているところから、ここにはもう神様すらいないのかもしれません。

「にしてもくぐれない鳥居って、ちゃんと向こうは見えてるじゃないか」

「そうですねえ。古い鳥居……にしか見えませんが」

「羽鳥、くぐってみろ」

「えぇ? おれがですかあ?」

「では、誰がくぐるか多数決で決めよう。羽鳥に頼みたい人。一、二、三票。決まりだ」

「ちょっと綾ちゃん、先生まで!」

「ごめんなさい、羽鳥さん……」

「俺は嫌ですよ。でもこういうのは男が行くのがよさそうだから」

「うぅ……敵は身内にあり……」

 大きく肩を竦めた羽鳥さんは、やがて気を取り直したのか、両頬を両手で一度叩き、気合を入れたようでした。

「分かりましたよ、やってやりますよ! でも何かあった時はよろしく頼んます!」

「分かった分かった。さっさと行け」

 宇都見さんにしっしっという手つきで先を促され、羽鳥さんは意を決して走り出しました。向かうは『くぐれぬ鳥居』! ですが――、

「あれぇ?」

 気付けば羽鳥さんは、こちらに向かって帰って来るのでした。

「遊ぶな、羽鳥」

「遊んでなんかいませんよ! ちゃんとくぐって……えい! とう!」

 羽鳥さんが何度走り込んでも、彼はくぐった次の瞬間には、こちら側に向かって走ってくる羽目になるのでした。見かねた敬史さんが、鳥居の下に腕だけを差し入れます。

「これは全く、おかしな現象ですね……へええ、興味深い」

 敬史さんの作家という職業がなせる好奇心なのか、彼は目を輝かせています。敬史さんのくぐらせた腕は途中で見えなくなり、その手の先が同じところから出てくるという状態でした。その図には羽鳥さんが、「き、気持ち悪い……」と呻くほどでした。

「全く……こんなところに結界か」

 宇都見さんは軽く溜め息をつくと、車から持ち出していた一振りの打刀を取り出しました。それを音もなく引き抜き、正眼に構えると、気合と共に鳥居を一閃。その瞬間、鏡を割ったかのような薄く硬質な音が砕け散り、鳥居の向こうから生臭い魔風が吹き出し始めました。先程とは、様相が全く異なります。

「やあ、こいつは……お見事です。宇都見さん」

 わたしたちはぱちぱちと拍手を送りました。

「真田殿。帰るなら今のうちだぞ」

「俺ですか? ううん……」

 敬史さんは少々唸って、考える素振りを見せました。けれど、

「でも、人間だから出来ることもあるでしょう? この際ですから、お手伝いしますよ」

と、心を決めたようでした。宇都見さんが「そうか」と微笑みます。

 わたしたちは、湿って生温い魔風の吹き出る鳥居を睨みます。この魔風――わたしが河童と出会う前に感じたぞくぞくとした不安感を、どこか呼び起こします。おそらくは、これがあの感覚の源だったのでしょう。

 そんな場所に乗り込むことに、怖気づかなかったと言えば嘘になります。けれど、宇都見さん、羽鳥さんも一緒であることは心強く、そして敬史さんが一緒であることは、わたしに責任感じみたものを湧かせてくれました。

 そしてわたしは、宇都見さん、羽鳥さん、敬史さんに続いて、今度こそ、古びた鳥居をくぐり抜けたのでした。

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