「――どういう意味ですか?」

 敬史さんが振り向きます。

「あんたは、おれたちと同じにおいがする」

「ちょ、ちょっと、羽鳥さん……!?」

「綾ちゃん、君は分からないのか?」

 そんな風に言われても、わたしには何のことだか見当もつきませんでした。敬史さんは敬史さんで――あの頃と変わっていないように見受けられます。

 敬史さんもまた、怪訝けげんそうに首を傾げました。

「におい……警察ということですか? だとしたら俺は違いますけど」

「そうじゃない。あんたは」

 羽鳥さんは、刑事の顔で敬史さんを睨みつけました。

「あやかしに属する者、という意味だ」

「それは……」

 敬史さんが僅かに狼狽しているのが、わたしにも分かりました。けれどそこに敵意や後ろ暗さは見いだせず、彼はただただ、困惑しているという風情ふぜいでした。

「おっしゃる意味はわかりません。ですが……代わりに、俺の身に起こった不思議なことなら、お話しできます」

「不思議な……こと?」

 わたしたちは近くの自動販売機で缶コーヒーを買いました。夜闇の中の小さなオアシス――そう呼ぶにはジャンクな自動販売機の明かりに照らされながら、敬史さんはぽつりぽつりと話し出します。

「俺は数年前まで、F県内の山村に住んでいました。祖父と祖母が亡くなって以来無人となった家があったので、そこに住まわせてもらっていたんです」

 それはわたしもよく知る事実でした。彼の証言に嘘はないことを、わたしは横目で羽鳥さんに伝えます。

「その時俺は、一編の小説を書いていました。ですが……どうもその頃の記憶が曖昧なのです。けれど、確かに俺の書いた文章がある。それは事実です。それが、のちに出版された『輪廻』なんですが」

「綾ちゃん知ってる?」

「もちろんです」

 それはちょうど、わたしが病院で目覚めた時に発売されていた新刊でした。わたしも退院してから本屋に向かい、買って読んでいます。

「ある朝俺が目を覚ますと、家の蔵への木造の分厚い扉が壊れていました。まるで、バールや斧でぶち破ったような跡でした。その向こうには――まだ新しく、おびただしい量の血の跡があったんです」

 血の跡――わたしは目を伏せます。わたしがあの日死にかけた時の血痕でしょう。あの時敬史さんは、身を挺して駆けつけてくれた。意識が途絶え行くわたしを抱き締めてくれた。けれど――委員会の者に記憶を消された敬史さんは、もはやわたしとのことを何も覚えていないのです。あの頃のことを他人事のように話す敬史さんは、それを改めて突き付けてくるようでした。

「あの時の俺が、何を考えていたのか……自分でも、よく分かりません。けれど俺はその時、誘い込まれるようにして、まだ乾ききっていないその血を指にとって、一口舐めたんです。――俺の身に変化が起きたのは、その日からであったように思います」

「変化?」

「俺は高校三年の頃から、……まあ、不治の難病にかかっていました。激しい運動は禁物で、熱中していたバスケにもドクターストップがかかっていました。月に一度、病院に検査に行って、投薬され、病が進行していないかを見る……そんな生活でした。けれどあの日の一件があって、次の診察で検査を受けた時、俺の病はすっかり治っていたんです」

「そりゃあ……何とも」

「ね、不思議でしょう? 心当たりがあるとすれば、やっぱり、あの時の血を舐めたことくらいなんです」

 時に妖怪の血肉には、不思議な力が宿るといいます。有名なのは、不老不死をもたらす人魚の肉、などでしょうか。わたしの血にそのような力があるとは考えたこともありませんでしたが――わたしは血筋だけは力の強い妖怪のものを引いているそうですから、そんな不思議なことが起こってもおかしくない……のでしょうか?

「あやかし……確かに俺は、あの村であやかしなるものに化かされていたのかもしれませんね。そしてあの血は、人ならざる者のものだった。だから俺の身にこんな奇跡のようなことが起きたのかもしれません」

 そうして敬史さんは、缶のカフェオレをぐっと煽りました。

「お話は以上です」

 羽鳥さんはううんと唸りました。

「なるほどなあ……それであやかしの気配が身に染みついたってところか」

「いいんですか? 羽鳥さん。こんな……」

 わたしは不安になっていました。敬史さんがあやかしでないことは、あの村にいた頃からよく知っています。わたしの血を体内に取り込んで若干変質したとはいえ、彼は妖怪ではないはずです。そんな人に、あやかしの存在を露見させるようなことを話してしまっては――護持委員会の四ヶ条の掟に抵触するのでは。わたしはそれを案じていました。

「ううん、どうしようなあ。彼はどうも一応人間みたいだし」

 半妖ですらない彼を前に、わたしたちは逡巡しました。敬史さん自身も、どうしたものかと肩を竦めています。

 ――その時。

 ヒョウ――ヒョウ――と、どこからか鳥の声がしました。

 聞き慣れない鳥の声に不思議と意識を引っ張られ、わたしは辺りを見渡します。

 すると――これはどうしたことでしょう。辺りにはどこからか黒い靄が立ち込めてきました。月影さやかだった空にも黒い煙のようにして暗雲が広がり、――鳴き声はそれらの中から続いているようでした。羽鳥さんも「何だ?」と顔を上げ、わたしたちは辺りを見渡し探りました。

 ヒョウ――ヒョウ――。

 鳥の声――いえ、そういうにはどこか不気味な声は近づいてきます。やがてわたしは、雲間から差し込んだ僅かな月光に照らされる、病院の一番小高い建築物の上に――その姿を認めました。

 ヒョウ――ヒョウ――。

 あっと思った時には、影が跳躍しています。影はしなやかに、しかし確かな重量感を持って、わたしたちの前に飛び降りてきました。その獣がまとう長く豊かなマントのように、黒い靄もまた交差点のコンクリートの上にぶわりと波打って展開しました。

 覗き見える化け物の顔は猿。身体は虎。そして長い尻尾は蛇。その異様な姿に似合わない、トラツグミのような鳴き声――改めて声高く響く、その不気味な声の正体は――ぬえ

 靄と共に立ち込めるのは、肺に迫るような強い瘴気。わたしたちは突如現れた大物を前にして、立ち竦みました。

 もしかして、もしかしなくても、これが、病院前に現れるあやかしの正体。

「そういえば……夜中に鳥がうるさくて眠れないっていう相談が最近多かったような……」

「これ鳥じゃないよね? ――ええい、作家先生、下がっててくれ!」

「それは喜んで」

 敬史さんは既にこちらに背中を向けて走り出していました。何という逃げ足の速さでしょう。

 猿の顔が、わたしたちを威嚇してシャアと鳴きました。虎の身体が前傾姿勢を取り、前足が地を掻きます。尾の蛇が鎌首を高くもたげ――わたしたちめがけて襲いかかってきました。わたしと羽鳥さんは二手に分かれて、それを避けます。

「ッ!」

 わたしはコートを脱ぎ捨て、半袖のワイシャツ姿になりました。踵を返して靄の中心に腕を――鬼の巨腕となった腕を振りかぶりましたが、爪の斬撃は空を切るだけでした。黒いもやはわたしを嘲笑あざわらうかのように、背後に回ります。

「伏せろ、綾ちゃん!」

 聞こえるのは羽鳥さんの声と、続く銃声。反射的にうつ伏せになったわたしの背後を、弾が掠めていく音がしました。振り向けば、羽鳥さんは自分の手だけを拳銃に変化させています。――なるほど、変化の得意な羽鳥さんなら、非番で拳銃を署に預けていても問題はないようです。

 黒煙は踊るようにしてわたしたちの間を漂っていきます。その動きは伸縮自在で無形。煙や靄を、わたしの鬼の腕がまともに捉えられるはずがありません。――これは、厄介な。

 けれど、近辺の妖怪たちに約束してきた通り、このあやかしをどうにかしないことには始まりません。わたしは鵺が黒煙の間から姿を見せる度に急襲しました。――が、やはりその動きに追いつけません。それは羽鳥さんも同じようで――むしろ銃は下手をするとわたしの方に当たりそうだと危惧し、封じたようでした。

「ああもう全く!」

 羽鳥さんが柄にもなく苛立っています。わたしが鵺の前足を避けて踵を返した瞬間、

「羽鳥さん!」

 彼の背後を、ぬっと現れた鵺の尻尾が襲うのが見えました。わたしはコンクリートの地面で助走をつけ、鎌首をもたげた蛇めがけて襲いかかりました。ですが、

「っう!」

 ぎゅるん、と急速に渦になった黒煙から現れた後ろ足に打ち払われ、わたしの身体は宙を舞いました。強烈な一撃――横腹にくらった打撃に息が詰まり、すぐには立て直せません。刻々とコンクリートの地面が近づくその一瞬に。

 わたしの身体は、不時着を免れていました。空中でわたしの身体を抱きかかえて支えたその人――それは、

「大丈夫ですか」

「さ――真田さん!」

 とっくに遠くに逃げたものだと思っていた、敬史さんでした。その顔の距離の近さに頬が一気に火照ったわたしは、はい、という返事が尻すぼみになりました。膝をついて地面に下ろされると、変化していた鬼の手も何だか恥ずかしくて、するすると人間のそれに戻してしまいます。

「綾ちゃん、女になってる場合じゃないって!」

「そ、そんなんじゃ――」

 羽鳥さんが黒煙に押されるようにしてこちらに駆けてきました。互いに背を向けて集まったわたしたち三人を取り囲むように、嘲笑うように、黒い靄はぐるぐると回転し始めます。

「でもこれで分かったよ」

「何がですか?」

「監視カメラの映像に映っていた黒い靄みたいなもの正体さ。どうやら、このあやかしだったみたいだね」

 確かに、その通りのようでした。しかし今はそんなことより、この妖怪をどう退治するかです。わたしたちは迫りくる黒煙に押し包まれつつありました。このまま完全に包み込まれれば――その時はきっと、他のあやかしたちのように。四囲からの濃厚な瘴気に、手の甲で口と鼻を隠しても、眩暈がしそうです。半妖であるわたしがそうなのだから、人間である敬史さんは尚更のことで――実際、彼はウインドブレーカーの袖で口元を隠しつつも、苦しそうに膝に手をついていました。ですがそんな状況の中で、

「あの――これって鵺、ですよね?」

敬史さんが声を上げました。そうだろうね、と羽鳥さんが答えます。

「確か『平家物語』には、鵺退治の話が載っていたような――」

「おお、流石博識だね。作家先生」

「いえ、俺の専門じゃありませんし、鵺については諸説あると思いますが……」

 敬史さんは続けます。その話にならってみるのはどうでしょう、と。

「なるほど……といっても、おれもうろ覚えだけど。試してみるのは悪くないかもね」

 というか、今はそれしか方法がありません。わたしは過去に目を通した、『平家物語』の記述を思い起こしてみました。

 時は平安末期、天皇の住まう御所・清涼殿に、毎晩のように黒煙と共に不気味な啼き声が響き、天皇は恐怖のあまり病にかかってしまい――そういう話だったように思います。

「そうだ、かつては源義家が弓を鳴らして怪事を止ませたんだったっけ。それに倣って、天皇の側近たちは弓の名手・源頼政に怪物退治を命じた――そういうあらすじだったかな?」

「鳴弦――魔を払う儀式、ですか。試してみましょうか?」

「お、いいねえ! でもやるなら先生に頼むよ。おれたち妖怪がやって効果があるかどうかは分からないからね」

 言うが否や、羽鳥さんは一組の木製の弓矢に変じていました。敬史さんはそれを慌てて宙でキャッチします。

「お願いします、真田さん」

「俺がやっていいのかな……まあ、やってはみましょう」

 そう言って、敬史さんは弓に矢を番え、静かに瞼を閉じました。そして両腕を上げ、ギギッと大弓をしならせて――その姿は思いの外、様になっています。彼は矢を放たずに弦を離しました。弦が振動し、辺りに音を響かせます。

 その瞬間、わたしはぶるりと身を震わせました。敬史さんは二回、三回と鳴弦を続けます。ああ、これは――よくない。わたしにとってはあまり嬉しくない、そんなぞわぞわとした背筋を掴まれるような感覚がありました。わたしも半分は妖怪である所為でしょうか。

 ですがすると――わたしたちを取り囲んでいた黒煙がざわざわと蠢いたかと思うと、引き波のように退いていきました。そうして辺りの見晴らしがよくなって、空気も清澄になって――病院の一番高い建物の頂上に、月光を背にした鵺の姿、その本体がありありと見えました。

「やった!」

 わたしが声を上げると、敬史さんはそのまま弓に矢を番えます。そして構えた矢を――一息に放つ! 放たれた矢は、まるで意志を持っているかのように鵺を目がけて飛んでいき――何と、この距離にも関わらず見事に命中しました!

 げうっ、という声が、わたしたちのもとにも届きました。鵺の身体は、そのまま建物の屋上から落下していきます。

「綾ちゃん、使って!」

 弓矢の姿から一度人の姿に戻った羽鳥さんは、今度は一振りの日本刀に変じます。それを手に取ったわたしは、建物の下まで全力で駆けました。普段対刃防護衣や拳銃で重しを纏って生活している分、それらの装備がない今は、身体が軽くて仕方ありませんでした。

 そしてこめかみを矢に射られ、地面に落ちた衝撃で苦しげにもがいている鵺の前に、わたしは辿りつきました。羽鳥さんが化けている一振りの太刀、それを黒漆の鞘から引き抜いて――一刀のもとに、鵺の首を斬り落としました。

 その肉を断ち、骨を砕く生々しい感触の後、辺りには鵺の断末魔が、ヒョウ――と一声、寂しげに響いたのでした。



 鵺の死体を前にして、羽鳥さんが隣の敬史さんを一瞥します。

「いやあ、完全に作家先生を巻きこんじまったなあ」

 それはそれで困ったことになった――頭を掻く羽鳥さんに、答える声がありました。

「そうだな。勝手なことをしてくれたな、羽鳥」

 どこからか――夜闇の中から響いた女性の声に、わたしと羽鳥さんはびくりと背筋を伸ばします。

「う、宇都見さんっ」

 いつの間にかこの現場に到着していた、長い黒髪の美女――宇都見さんは、両腕を胸の前で組んで、わたしたちをじろりと睨みます。

「いやでも、肝要なことは何一つ話してないわけですし」

 わたしもその隣で、羽鳥さんの言葉にこくこくと頷きました。ですがこの場合――あやかしの存在を夢物語ではないと知った敬史さんの処遇はどうなるのでしょう。もし、敬史さんに害が及んだら――わたしは気が気でありませんでした。

 宇都見さんはわたしと羽鳥さんからついと目を離します、

「さて、作家先生とやら。先程の戦いを見ていたが――よくやってくれた。ご助力、私からも礼を言う」

「さっきから思ってたんですが、その作家先生というのはちょっと……。真田といいます」

 敬史さんは先生と呼ばれることが気恥ずかしいのか、首筋を軽く掻いています。

「では、真田殿。貴殿の腕を見込んで頼みたい。この事件を片付けるため、しばし我々に力を貸してはくれぬだろうか?」

「ちょ……、宇都見さん!?」

 わたしはつい、口を挟んでしまいました。

「宇都見さん、今回はたまたま上手くいったから良かったものの、今後どんな危険があるか分かりません。そんなことに真田さんを巻きこむなんて――」

「だが、彼は人間としては異常なまでに身体能力に優れているようだし、我ら妖怪とは違うからこそ出来ることがある。違うか? 協力してくれたら心強いだろう」

「それは……でも……」

 わたしは言葉を失ってうつむきます。敬史さんはといえば、ううん、と困ったように唸っています。

「危険とか危険じゃないとか以前に、俺もそんなに暇ではないんですけど……」

「何か急ぎの用事が?」

「原稿の締め切りとか、バスケの練習と試合とか、まあその他にもいろいろ」

「ですよねえ……」と、羽鳥さんが頷きます。宇都見さんは言い募りました。

「その代わり、この捜査が終わったら、私たちに叶えられる願いなら一つ叶えて差し上げるが。例えば、そのあやかしの気配。消してやることも不可能ではないよ。そんなもの持っていたって、こういったことに巻き込まれるだけだろうしね」

「……それでも、嫌だと言ったら?」

「捜査に協力してもらった場合も、捜査が終了すれば貴殿のこの件に関する記憶は奪わせてもらうが――そうでない場合も、今日ここで私たちと出会ったこと、話したこと、起こったことは、忘れてもらう。早急に、強制的にね」

 敬史さんは黙りこくりました。きっと、様々なことを頭の中で天秤にかけているのでしょう。先生、と羽鳥さんが口を開きました。

「今回の事件っていうのは、先生も協力してくれた児童連続行方不明事件のことなんだ。おれたちは、殺された子供たちの遺体や遺骨を探している。せめてそれをご遺族に返すためだ。事は、もう人間の警察の手には負えなくなっている。だからおれたちがこうして暗躍しているんだ。それに協力してくれる人が一人でも多いと――正直、助かります」

「羽鳥さん……」

 わたしはそっと、隣の敬史さんの様子を窺いました。彼は一度目を閉じて――それから次にその黒い瞳を見せた時には、

「――分かりました、協力しましょう。この捜査が無事に終わるまで、ですね」

と、肩を竦めました。羽鳥さんが安堵したように微笑み、宇都見さんが口角を上げます。

「ご協力感謝する。これからいろいろと話すことになるが、それらは絶対に他言無用で頼む。そうでなければ――次はあなたの身に危険が及ぶことになるのでね」

「それは怖い。分かりました」

 宇都見さんは力を失った鵺の死体を見下ろし、自分のスマートフォンを取り出します。

「この死体は委員会の方で処理するから心配するな。今夜はこれで解散とする。以上」

「綾ちゃん。さっきのじいさんたちに報告に行こう。鵺は倒したから心配するなって」

「そうですね」

 わたしと羽鳥さんは同じ方角に足を向けました。敬史さんは自宅があるらしい方角に踵を返して、「では、俺はここで」と軽く頭を下げます。

「あの――真田さん!」

「はい」

 わたしの呼びかけに、敬史さんが振り向きます。その黒い瞳が、夜の中でもこちらに真っすぐに向いているのを感じて、わたしは頬や耳に火照りを覚えました。

「今日は……本当にありがとうございました。どうぞ、お気をつけて」

 敬史さんは、小さく一笑します。

「どうも。丘野さんたちも、お気をつけて」

 わたしはしばしそこに立ち尽くして、彼の後ろ姿が大通りから消えるまで見送っていました。それから、ようやく気が付きます。

 敬史さんに、初めて「丘野さん」と呼ばれたことを。

 下の名前ではないけれど、彼の声で、また名前を呼んでもらえた。たったそれだけのことなのに、頬がこれ以上なく緩んでしまいます。彼の柔らかな声で呼ばれた自分の苗字は、昼下がりの心地よい雨音のように、わたしの中で何度も繰り返され、染み渡っていきました。

 ですが視線を感じて振り向けば、羽鳥さんがにやにやと口元を緩めてわたしを見ています。宇都見さんからも視線は感じましたが、電話がつながったらしく、彼女はふいと余所を向いて、知らぬ顔をしました。

「良かったなあ、綾ちゃん」

「なな、何のことですかっ。さ、い、行きましょう!」

 わたしは羽鳥さんのスーツの背中を、両手でぐいぐい押しました。

「でも……どうしてわたし、真田さんに漂うあやかしの気配を感じとれなかったんでしょう。事件の後、真田さんとは何度か顔を合わせてたのに……」

 羽鳥さんは、「それは多分ねえ」と笑います。

「自分のにおいというものは、自分では分からないものだからじゃないかな」


   *


 その後日のことです。

 わたしはいつものように、交番で泊まり勤務を行っていました。――もう朝です。東から差してくる朝陽は何とも明るく、立番に出ているわたしの重たい瞼を刺すようです。

 ですが夜闇の通り過ぎた後の東の青色の空が、暖色のグラデーションで彩られていくその様子は、知らずこの胸を希望で満たしてくれます。今日も一日頑張ろう――と。わたしは、こうして迎える朝の立番が、嫌いではありません。

 するとほぼ無人だった交差点の向こうから人影が見えました。わたしが目を凝らしていると、その格好と徐々に明らかになる顔立ちから、相手が誰であるかが分かりました。わたしの胸は期待とときめきで大きく脈打ちます。

 彼もまた、わたしに気付いてぺこりと軽く頭を下げてくれました。

「真田さん!」

「おはようございます。お勤めご苦労様です」

 白のウインドブレーカーなど、いつものジョギングの格好で軽快に走ってきた敬史さんは、早朝のジョギングの最中なのでしょう。わたしが「お早いですね」と言うと、「昨夜はジョギングに出られなかったので」と答え、わたしの前で足を止めます。

「よければ、交番の皆さんでどうぞ」

 そういって彼が差し出したのは、コンビニエンスストアのビニール袋でした。微かに透けて見えるのは――肉まんか何かのホットメニューでしょうか。

 敬史さんからの差し入れ!

 先日苗字を呼んでくれたことに続いてのこの事態に、わたしは天にも昇る気持ちでした。しかし、

「いえ、本職、勤務中ですので……すみません」

 仕事中、しかも不動の仁王立ちである立番中に、何でもほいほい受け取るわけにはいきません。折角敬史さんがくれたものに断りを入れなければいけないのは、何とも心苦しかったのですが――。彼はわたしに差し出した袋を持つ手を引っ込めて、ううん、と困ったように唸りました。

「そうですか……じゃあどうしようかな。俺も三つも食べないし……」

 その時。

 ぐうーっ、と。わたしは自分のお腹が急に鳴きだして、硬直しました。かなりの……かなりの音量でした。やはりというか、それは敬史さんにも聞こえていたようで。

 一呼吸ののち、彼はくっと笑い出します。頬に、一気に熱が上がるのが分かりました。なんて、なんて恥ずかしい! わたしは居たたまれなくなりながらも、ええいこの際だと自分に正直になることにしました。

「あの……やっぱり、いただいてもよろしいでしょうか……? あとで、あとで食べますので……!」

「はい、どうぞ」

 敬史さんが笑いを噛み殺しながら、再び袋を差し出してくれます。受け取った袋の底はやはり温かく、肉まんの柔らかさがありました。わたしは交番所の中にいる所長や、あとで戻ってくる元木さんに食べられないように、包み紙にマジックで名前を書いておかねばと、心に決めました。

 何だか敬史さんの前では、格好悪いところばかり見せてしまっているような気がします。わたしはまだ熱の残る頬を押さえながら、一旦交番所の中に戻りました。そしてそうだと思い出して、いつでも取り出せるよう一階のキャビネットの中に入れておいたタオルを取り出します。

「これ、ありがとうございました。念入りに! 洗っておきましたので!」

 わたしは最敬礼の角度でタオルを差し出します。敬史さんは、はは、と笑って、「ありがとうございます」とタオルを受け取ってくれました。そしてちょうど汗をかいていたのか、畳んであったタオルを開き、自分の首にかけています。

 わたしにはこの間の夜から、一つ心に引っかかっていることがありました。

「――どうして、捜査に協力してくれることになったんですか?」

「俺ですか? そうですね……願いを一つ叶えてくれるというのは悪くないと思ったし――もちろん、亡くなった子供たちとご遺族のために、何か出来ることがあるのなら、とも思いました。あとは、あなた方『あやかし』に対する興味、でしょうか」

 この間の夜の羽鳥さんとわたしが妖怪としての正体を見せたわけではありませんでしたが、少なくとも、抱かれたのは興味であって嫌悪ではなかった――。わたしはそのことに、少なからず安堵します。

「警察には、あなた方のような者がいると考えていいのでしょうか? 全国の警察に?」

「……絶対に他言は無用ですよ、宇都見さんに何されるか分かりませんからね」

 わたしは前置きをして、

「全国に、です。警察だけじゃありません。この国の様々なところで、妖怪は今も息づいています」

と、声を潜めました。

「それは興味深い」

 敬史さんが目をまるくします。

「だけど、彼らが今回のような事件に関与するのだと思うと、ぞっとしないな」

 その言葉は、わたしの胸にもツキリと突き刺さりました。これは――自業自得です。

「……あやかし皆がそういうことをするというわけではありませんよ。無害なものも多いです」

 わたしには、極力表情を抑えてそう話すのが精一杯でした。

 敬史さんはしばし、眼差しを落としたわたしを見つめていたようです。彼の手の甲が、こし、と鼻の頭を一度擦りました。

「……やっぱりそうだ」

「え?」

「不思議ですね。あなたを見ていると、自分が昔書いた小説のヒロインのことを思い出すんです」

「ヒロインって……」

 思いもかけない敬史さんの言葉に、今度はわたしが目をまるくする番でした。

「『輪廻』の咲良さくら。彼女と一緒にいるみたいだ」

 敬史さんの『輪廻』は、もちろんわたしも読みました。何度も、何度も繰り返し読みました。

 あの作品は、敬史さんがあの村にいた頃に書いたものらしく、あそこでの暮らしをモデルにしたらしい描写が頻繁に出てきました。そしてヒロインの「咲良」は――普段は物静かだけど天真爛漫で、紆余曲折を経て最後には主人公と結ばれる――そんな役回りであったことを覚えています。

 その「咲良」が、わたしに似ている――?

 思いもよらない敬史さんの言葉に、わたしはどう反応すればいいのか分かりません。狼狽するわたしを見て、

「あ――すみません、おかしなことを言って」

 敬史さんは「口説いてないですよ」と付け足して、自分の首筋を掻きました。ああ――その仕草、変わってない。

「い、いえ! おかしなことだなんて――わたし、あの作品が一番大好きなんです!」

「そ――そうでしたか」

 敬史さんが、安堵したように笑います。その笑みに、わたしはあの村で敬史さんと共に住んでいた頃に、彼が見せてくれていた笑顔の片鱗を見つけました。そのことにまた、じんと胸が熱くなるのです。

 ジョギングを再開して遠ざかっていった敬史さんを見送って、わたしは頬を緩めました。

「……口説いてくれてもいいのに」

 頬にも胸にも、軽い火照りが残っていました。寝不足だろうが、非番を駆り出されようが、今日はこれで一日頑張れる――わたしは一人、手袋をはめた拳を握り締めました。



 その日は午前中に退勤し、わたしは帰宅した昼間、アパートで昏々と眠りました。そして夜になると、またスーツに着替えて物ノ怪課のお仕事です。

 鵺を倒して以来、妖怪たちへの聞き込みはスムーズになっていました。もう過ぎてしまったことながら、先の誘拐犯の犯行や、その逃走を見ていた妖怪たちもいることが分かって――ああ、もっと早く、こうしてボトルネックを解消できていれば、という後悔ばかりが浮かびます。そうすれば、早く犯人たちを捕まえられたかもしれないのに。犠牲者は一人でも少なかったかもしれないのに。

 それは聞きこみに回るわたし、羽鳥さん、敬史さんの三人皆が感じたことのようでした。ですが無力感に打ちひしがれて足を止めていては、前に進めません。わたしたちは、犯人たちに協力していたあやかし――着物姿の少女に関する聞き込みを、根気強く続けました。

 ですが今夜は、その少女の妖怪に関する有力な証言は得られませんでした。ただ一つ得られたのは、その少女があの鵺を焚きつけて、のあやかしをこの近辺に配置していたようだということだけです。

「――仕方ない、今日はこの辺りにしようか。おれもそろそろ刑事課の方に戻らないといけないし」

「はい……」

 すっかり歩き通しだったわたしも、ヒールを履く踵に痛みを感じていました。どうやら靴擦れが出来ているようです。

 その時、わたしたちの間で軽快な電子音が突如鳴り響きました。

「ん? 誰のケータイだ?」

 わたしもつい、コートのポケットに収めたスマートフォンを探ります。ですが発信音の持ち主は、どうやら敬史さんでした。

「――はい。――うん、今、外。ジョギングしてる」

 電話をとった彼は、わたしと羽鳥さんに片手を上げて断りを入れ、後ろを向いてしばし話し込みました。

 一体、誰と話しているのでしょう。随分と、くだけた様子で話しています。耳に届いてくる素の敬史さんの喋りは、わたしの心を和ませました。わたしは心底、この人の声や喋り方が好きなのだと、実感させられます。

 でも――いえ、むしろ、これは。

 ふと過ぎった嫌な予感に、わたしの背筋が、さあっと寒くなっていきました。この話し方……同性に対するものとは思えません。敬史さんの柔らかい声が、一層優しくて――これでは――まるで――まるで。

「うん。じゃあ、明日。はいはい、お休み」

 ぴ、と音を立てて、彼はスマートフォンでの電話を終えました。

「すみません、失礼しました」

 羽鳥さんが「いえいえ」という傍らで、わたしは表情を凍りつかせています。

 これは。これは――もしかして。

「彼女さん――ですか?」

 敬史さんは否定もせず、ただはにかむばかりでした。


 *


「うう、う、ううううう~~~~~~っ!」

 敬史さんと別れた十分後、わたしは道中で見つけた行きつけの屋台ラーメン屋さんに駆けこんでいました。泣きながら、注文した「とんこつラーメン、チャーシュー葱チーズもやし海苔コーンのトッピング全部乗せ」をずずずずっと物凄い勢いで食べていくわたしの隣では、ギョーザを注文した羽鳥さんが、お箸で水の入ったグラスをチーンと鳴らします。

「はい、残念でしたー……」

 羽鳥さんは哀れなものを見るような目つきで、ラーメンの汁まで飲み干すわたしを見ていました。

「おおお、おかわり!」

「止めときなって綾ちゃん。こんな夜遅くにそんなカロリーの塊を二杯も……太るよ」

「太りません……! こんな生活してたら、太る余裕なんて……っうううう!」

 羽鳥さんは涙と洟でグズグズになったわたしの頭を、「おおよしよし」と撫でました。そして大将に、「親父、日本酒を冷やで」と注文します。「あぁいッ! 冷や一丁!」と威勢のよい声を上げるのは、ラーメン屋の大将である、赤ら顔の三吉鬼さんです。

 この屋台ラーメン店は、妖怪の、妖怪による、妖怪のためのラーメン店でした。この近辺で不定期に現れる人気店なのです。ちなみに妖怪のための店とはいえ、人肉は出しません。その辺り、わたしでも安心して注文できるので、見かけた時はどんなに遅くてもつい入ってしまいます。

 今のところ、今夜のお客はわたしと羽鳥さんのみ。というか、もしかしたらわたしのこの勢いと憔悴ぶりが、他のお客さんを遠ざけているのでしょうか。ですが今は、そんなことどうでも良かった。ただ泣きたかった。泣いて食べて飲んで食べて、この絶望を消し去りたかったのです。

「あぁいッ! 冷やお待ちぃ!」

 声に似合わない丁寧な手つきで、大将がわたしの前に日本酒の徳利とっくりとお猪口ちょこを並べました。既にびしょびしょになったハンカチで顔を覆い、すん、すんとはなをすするわたしに、羽鳥さんは取り調べモードの優しい声で語りかけます。

「真田さんと村で一緒に住んでたあやかしって、綾ちゃんなんだろ? ……つらいよな。相手は何にも覚えてないんだから。折角再会できたのになあ。しかも彼女まで作ってて」

「はい……はいぃ……」

 ぐず、ぐず、と洟を鳴らすわたしの頭を、羽鳥さんが片腕で抱き込みます。

「よし! 今日はおれが奢ってやるから、まあ飲め! 飲んで癒されることもある! 酔い潰れても送って行ってやるから、後のことは気にするな!」

 言って、お猪口になみなみとお酒を注いでくれるのでした。わたしはお猪口を両の指先で持ち上げ、ぐぐっと一息に飲み干します。比較的甘くて、喉ごしがよくて、わたしにも飲みやすいお酒でした。

「そらいけ、どんどん行け!」

 わたしは煽られるがままに、何杯もお猪口を飲み干しました。敬史さんへの慕情、彼女さんへの嫉妬、あやかしなんかである自分自身への憤りと悲しみ――杯を重ねるごとに、それらはぐるぐると渦になって、一つに溶けてマーブル模様になって、何がなんだか分からなくなってきました。一つ一つの感情を認識して、そこからまた新たな感情が生まれて苦しくなるという、頭の働きもすっかり麻痺したようでした。

 ただただ、対刃防護衣も拳銃も帯革も外して制服も脱いだ時のような解放感と浮遊感が、わたしを支配していました。そうして空でも飛べそうなくらい身が軽くなり、わたしはその感覚に身を委ねたところ――椅子に座ったまま後ろの地面に倒れて、その晩は気を失ったのでした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る