三
彼――敬史さんは小首を傾げます。
「……? 俺のことを知っているんですか?」
わたしははっとして、口元を手で押さえます。そうでした、彼は委員会の手の者の力で、わたしに関する記憶を失っているのでした。
「そういえば、あなたはなぜこんな時間に?」
元木さんが彼に質問すると、敬史さんは軽く両腕を広げて、自分の格好を示しました。長袖の白いウインドブレーカーに、黒のショートパンツと足首までのレギンス、そして灰色のランニングシューズ。そんな出で立ちの通り、彼は「日課のジョギングです」と答えます。
「時間はちょっとずれこむことがありますし、コースも日によって違いますが」
「へえ。いい身体してますね。何かスポーツでも?」
「一応、バスケットボールを」
――え?
わたしは虚を衝かれて、元木さんと話し込む敬史さんの横顔を見つめてしまいます。そんな、敬史さんはもうバスケが出来なくなっていたはずでは……?
やがて元木さんとの話は終わったのか、二人は互いに会釈し合って離れました。元木さんは機動捜査隊の人と話しに行きます。敬史さんはわたしにも軽く一礼して、踵を返しました。
あ。
ああ――行ってしまう!
ええと、ええと――、わたしは意を決して、声を上げていました。
「ご、ご協力ありがとうございました! あの――」
盛大な勇気を振るって話しかけたわたしに、敬史さんが足を止めて振り返ります。
「あの……
わたしが敬史さんを知っている理由。その接点――それは、敬史さんの作家としての面――咄嗟に思いついたのは、それしかありませんでした。
「そう……ですけど。ああ、その筋で俺のことを知ってたんですね」
彼がにこりと微笑みます。ですがその笑みは、いわゆる営業用――あの村にいた時に、彼がわたしに見せてくれていたものとは若干違う、とは感じました。
彼がデビューしてすぐ個人情報が広まった所為で、「別にもういいか」と思い、インタビューなどにも気軽に顔を見せるようになった、という話は、あの村に住んでいた頃聞いていました。ですが今の彼からは、どこか薄い警戒感を感じました。普段読者とこんな風に接触することはないからでしょうか。ああ、そもそも彼は、見ず知らずの人に心理的距離を詰められすぎるのは好きではないような。
けれど――今、話しかけなければ、次はない。そんな気がして、わたしはもつれそうになる舌を懸命に動かして話しかけていました。久しぶりすぎて――夢に見るほど会いたかった存在に、声が、足が、情けなく震えています。
「あの、ぜ、全作読んでます!」
「それは、ありがとうございます」
「これからも、頑張ってください。応援してます。新作も、楽しみにしてますので」
「ありがとうございます。頑張ります」
敬史さんは一笑すると、またぺこりと頭を下げて、夜道を軽快に走り去っていきました。
……行ってしまった。
…………ただのファンになってしまった。
彼のウインドブレーカーの白い影が見えなくなるまで見送ってから、わたしは盛大にうなだれました。もっと、もっとこう、どうにか……何か、話せたんじゃないだろうか、などという後悔が胸に渦巻きます。けれど同時に、彼に再び会えて、言葉すら交わせたという興奮が、足の先まで、耳の先まで、じんわりとした熱と同時に満ちていきました。
こんなところで会えるなんて、思いもよりませんでした。
果たして彼は、どこに住んでいるのでしょう。前のあの村は、ここから遠すぎます。きっと引っ越したのでしょう。日課のジョギングだと言っていましたし、財布や携帯も持っているかどうかという軽装でした。ここからさほど遠くはないはずです。
――また、会えるでしょうか。
撤収し始めたパトカーの行き交う中、わたしは熱に浮かされたようにぼうと空を見上げ、しばし立ち尽くしていました。
*
それらが、その夜警察が児童誘拐未遂と道路交通法違反、並びに公務執行妨害および銃刀法違反で取り押さえた二人の名前です。
子供を乗せようとした後に逃げたのが沢森、わたしに包丁を持って襲い掛かってきたのが内津。彼らは今回のことはともかく、他の行方不明事件への関与は否認していました。
ですがちょうど別件で捜査が進んでいた、中学校のホームページ掲示板への悪質な書き込みが内津の携帯電話と沢森のパソコンからの書き込みだったことが判明し、両者の家宅捜索が行われました。すると、沢森のアパートからは子供のランドセル三個が発見。さらに発見された毛髪と血痕に対して、行方不明となっている子供たちの親御さんの協力を得てDNA検査を行った結果、子供たちのものであるとも断定されました。
数日に渡る取り調べの結果、内津は沢森が子供を誘拐しているところを目撃し、それをだしに彼に近づいたと吐きました。中学校への脅迫は遊び半分で続けていたことで、沢森と知り合ってからは彼の家のパソコンで自分がやっていたとも言いました。しかし、自分は沢森が子供を攫うのに協力はすれど、子供を殺したのは沢森で、自分ではないと主張しています。
「子供の怯えた顔を見るのが楽しかったんだ。だから沢森に協力して、一緒に子供をいびっていた。沢森は遊び仲間みたいなものだった――でも、子供を殺したのはオレじゃない」
そう、話したといいます。
取調室から出てきた羽鳥さんは、署の自販機前でコーヒーを片手に眉を寄せました。
「内津が嘘をついているようには見えないが――問題は沢森だ」
沢森は自分が子供たちを殺したことは自白しています。けれど問題は、その遺体をどうしたかです。彼は最初、近隣の山の麓に埋めたと供述しました。しかし、彼を連れて現場に向かうも、土を掘り返しても遺体は一つも出てこず。そもそも、土を掘り返した跡すらなかったといいます。沢森はその後供述を二転三転させ、その度に遺体の捜索は空振りに終わりました。――どう考えても、その場しのぎの嘘をついているのです。
すると一階から、覇気のある「お疲れさまです!」の声が次々に聞こえてきました。来客――いえ、これは。羽鳥さんも「おいでなすったな」と唇に笑みを上らせます。
やがて端正な靴音を立てて階段を上り、わたしたちの元にやってきたのは、一人の凛然とした女性でした。艶やかな黒髪をシニヨンに結い、すらりとした黒のスーツに身を包んだ彼女――県警本部の宇都見
「手に負えないようだな、羽鳥。だが無理もないか。――今回のこの誘拐事件、あやかしが絡んでいる」
宇都見さんは声を低く潜めます。
「そのようです。監視カメラの映像、御覧になりましたか」
宇都見さんが頷きます。わたしは小声で訊いてみました。「監視カメラ、ですか?」
「ああ。他の精査員も言っていたんだけど……映像のあちこちに、不可解な黒い影が映っていてね。カメラに何かが付着したとは思えないものだったし、これは何だって話にね。で、俺も確認したんだけど――どうも、あやかしの気配だった」
沢森たちの犯行や、現場を行き来するバンが確認できなかったのは、その所為もあったみたいだ、と羽鳥さんは話しました。宇都見さんが話の接ぎ穂を引き取ります。
「犯行に協力したあやかしがいる――そして沢森が嘘の供述を繰り返すのは、そこにあやかしが絡んでいるからだ。恐らく脅されて口を割らないでいるか、あるいは暗示にかけられているかだ」
「それで、宇都見さんの出番ってわけ」
「なるほど……暗示や幻術は宇都見さんの得意分野ですもんね」
そういうことだ、と二人が頷きます。そうして二人は取調室に入っていきました。
沢森にかけられていた暗示を宇都見さんが取り除き、さらに供述を促す暗示をかけると、彼は話し出したといいます。
「子供たちの遺体は、着物を着た女に、やった」
「――女?」
「女というか、あれはまだ子供だったな。そのくせ、大人びた、年寄りくさい口を利く子供だったが。『始末に困るだろう、自分に任せれば、足がつかぬようにしてやる』と言っていた。だから、渡した。死体に興味はなかったし、後始末に困っていたのは事実だったから」
「その女子供は、どこへ向かっていった?」
「西の方へ向かっていった。そしてまるで幽霊みたいに、消えて行ったよ。そのくせ、おれが子供を殺すたびにやってくるんだ。あれは黄泉からの迎えなのかもしれない」
宇都見さんの暗示のままに口を割っていく沢森は、どこか夢見るように言ったといいます。
「死んだ子供を、連れに来たんじゃないかな」
*
毎朝のように挨拶してくれていたあの女の子が、既に殺されていた――。
その事実は、ご遺族だけでなく、わたしの心にも少なからぬ衝撃を与えていました。それは最悪の事態として半ば予測されてはいたものの――犯人の口から明かされれば、それはもう揺るぎのない事実。胸の一画に風穴が空いたような虚しさと同時に、湧き上がるこの感情は、犯人に対する「どうして」という憤り――なのでしょうか。
こういった事件に遭遇して心打ちのめされるのは、自分の無力さを思い知らされるのと同時に、過去に自分が起こした事件の残酷さを再認識させられるからです。どんな人にも、家族がいる。その人を大切に思う人たちがいる。それを奪ったのが、自分なのです。人間としてのわたしは、吐き気を催すほどの後悔と、罪の意識でもう二度と立てなくなるほどの重圧を感じ、目の前が暗くなるのでした。
……そんな時に、この間会えた敬史さんのことを思い出すのは、不謹慎でしょうか。
彼の存在は――もはや遠い存在で。わたしの心の中の想い出だけがぬくもりに溢れたものだった彼の存在は、こんな時でも、わたしの目の前を仄明るく温かな光で照らしてくれるのでした。
二度と会えなくてもいいと思っていた。雑誌のインタビューを見る度に、喜びと同時に、もう手の届かない存在であることを改めて突き付けられて、胸が締めつけられた。
でも、また会えてしまった。会えてしまったら、また、それ以上を望んでしまう。
もっと話したい。また、前のように――、櫻子さん、とあの声で呼んでほしい。営業じゃなくて、前みたいなくだけた笑顔で笑って欲しい。ああ、願いが募るほど、――やっぱり苦しい。ひりりとした渇きすら覚える。
その時わたしの警帽の上から、ぽふん、というごく軽い衝撃があって、わたしは振り返りました。
「こりゃ。時間が出来た時にさっさと進めておけよ」
相手は所長でした。彼は丸めて棒状にした雑誌で、わたしの頭を軽く一叩きしたようです。ああ――そういえばわたしは、未決処理の最中だったのでした。
「じゃ、パトロールに行ってくるよ」
「はい、お気をつけて」
所長を見送ると、交番所の一階はわたし一人になりました。
……静かです。
相談や通報の電話も鳴らない。道案内を頼んでくる人も、駆け込んでくる人もいない。外の交差点で車が行きかう音と、電線の上で可愛らしく囀る雀の群れの声だけが、辺りに響いています。未決処理を進めるには、確かにもってこいの環境です。
わたしは緑茶を煎れた自分の湯飲みに手をかけて一口啜ったところで、所長と元木さんの使った後の湯飲みが出しっぱなしになっていることに気付きました。それらを奥の給湯室に持って行って、軽く洗剤で洗います。
昼食を摂ってからほどよく時間の経った昼下がり。……何だか、お腹が空いてきました。ですがつまめるようなお菓子もなく、わたしは軽く音を立てるお腹を押さえます。――そういえば、最近は時間のかかるような手の込んだ料理は作っていません。本来なら非番である日も、捜査に駆り出されていた所為です。次の非番には何か作って、羽鳥さんの家や独身寮の同期にお裾分けでもしましょうか。
ああ、そういえば。
わたしがふと思い出したのは、あの村にいた頃の食卓の時間でした。
菊さんや永井さん、美緒ちゃん、そして敬史さん――皆、わたしの作った料理を喜んで食べてくれました。美味しそうに、食べてくれました。そしてやっぱり一番嬉しかったのは、敬史さんの「ごちそうさま」という笑顔でした。彼に食べてもらうのが、一番――。
……ああ。
何をしていても、彼を思い出してしまう。
わたしはたまらなくなって、目の奥に熱を覚えました。もう、あんな生活、望んでも無理に決まっているのに。――だからこそ、これ以上ないぬくもりと輝きと優しさを持って、想い出は眩しい。
そうしてわたしが込み上げかけた嗚咽を押さえた時。
「すみません」
交番の入り口の引き戸が開く音と、人の声がしました。わたしは涙が滲んでないかを慌てて確認して、はい、と給湯室から顔を出します。
ですが、そこに立っていたのは。
わたしは洗ったばかりの湯飲み二つを取り落とし、見事に割ってしまったのでした。
「そこで落とし物を拾ったんですけど」
現れたのは、女物の財布を片手にした敬史さんだったのです。今日はジョギングの格好ではなく、黒のポロシャツに紺のジーンズという、比較的余所行きな格好をしています。
「お、落とし物ですか。ありがとうございます」
わたしは声の上擦りを必死に抑え、所員として対応すべく心掛けました。
ああ。ああ。まさか――また、こんなに早く、会えてしまうなんて。
緊張で、キャビネットから書類を取り出す手が震えます。
「一緒に、中身の確認をお願いします」
そうしてわたしたちはスチールデスクの上で、財布の中身を改めました。出てきたのは落とし主の保険証とポイントカード類、そして現金七千六百四十円。保険証もありますし、落とし主はこれを見つけないとさぞ困ることでしょう。
「報労金は、どうします?」
「ほうろうきん。――ああ、一割ってやつですか」
「ええ、でも正しくは一割じゃなくて、双方の合意があれば五パーセントから二十パーセントを受け取ることが出来ます」
「あ、いいですそういうの」
「では、受け取らないという書類にサインを」
「はい、はい」
わたしが必要事項を記入し、差し出した書類に、敬史さんはサインをします。懐かしい彼の、少しまるっこい字。変わっていません。
わたしはあの村で敬史さんの家に家政婦として住まわせてもらっていた時、夜に小説を書く彼の夜食として、おにぎりを作っておいたことを思い出しました。
わたしが「お腹が空いたら食べてください」と書いたメモを置いておくと、朝には空になったお皿と一緒に、わたしが書いたメモの裏を使って、「おいしかったです。ありがとう」と走り書きがされていました。――あの時のメモは何故だか捨てがたくて、ずっと取っておいたことを、今も覚えています。
「――ありがとうございます。記入していただくものは以上です」
「そうですか。じゃあ、これで」
言って、敬史さんがペンを置いた時。
ポツ、ポツ、と。
どこからか雨音が響き始めたかと思うと、外は急な冷たい雨が降り出しました。確かに今日は少々曇っていましたが、ちょっと驚くほどの勢いです。わたしも敬史さんも、外を見て呆気にとられてしまいました。
「しまった、傘持ってきてない……」
外から冷雨の涼しさが忍び込む戸口の引き戸を開け、敬史さんは困惑しています。
「あの……よろしければ、雨が弱くなるまでここでどうぞ。お茶くらいなら出せますので」
わたしにとっては、密かに、かなりの緊張感を
ですが彼は少し考える素振りを見せ、そしてもう一度、急な豪雨に押し包まれた屋外を見やると。
「――じゃあ、すみません。お願いします」
と、頷きました。そしてスチールデスクの前のパイプ椅子に、腰かけたのでした。
……本当は、交番の奥の部屋には貸出可能なビニール傘が何本もあったのです。
でもわたしは、それに気付かないふりをしました。この遣らずの雨を利用するように――ああ、何ともずるい奴です。
わたしは所長たちと一緒に飲んでいた後の出涸らしを捨てて、いつもより濃い目に緑茶を煎れました。言ってしまえば、今のわたしにとっては、警察署長よりも敬史さんの方が上客でした。
そうしてお客さん用の湯飲みで温かいお茶を敬史さんに出したものの、わたしはこの雨により閉鎖されたこの空間で二人きりになり、一体何を話せばいいのだろうと焦りました。折角二人きりになれたのに――過去のわたしに関する記憶を消された敬史さんとでは、一体どんな話題が……共通点が……ああ、分からない。どうしよう。せ、世間話とか……!?
わたしが一人で内心混乱しきっていると、お茶を口にしていた敬史さんが、不意に言い出しました。
「ニュースで見たんですが」
「――はい!」
「この間の犯人の事件、子供たちは……やっぱり、もう駄目だったみたいですね」
「……はい」
わたしも先程まで考えていた話題――救いのない話題に、わたしにも神妙な気持ちが舞い戻って来ます。
「でも、真田さんが身体を張って下さったおかげで、犯人が捕まりました。ご遺族にも……少しは慰めになるかもしれません」
「そうでしょうか。まだ生きているかもしれないという期待がもう抱けなくなって、現実を突き付けられて……余計つらいだけかもしれません」
「それは……」
敬史さんの言う通り、なのかもしれません。……犯人が捕まったからといって、攫われた子どもたちが帰ってくるわけではない。……帰ってきてくれたなら、どれほど良かったか。
わたしもまた――かつては誰かの家族を永遠に奪ってしまった。そして犯人として、名乗り出てすらいない。罪滅ぼしのようにしてこの仕事に就いているけれど、今回はこんな結果になってしまった。何もできなかった。――ただただ、無力さに悔恨ばかりが募ります。
ですが敬史さんの口から出たその話題は、わたしには余計に、深刻な重圧となって響きました。わたしの過去の、逃げ場などない事実。そんな出口のないことが頭の中で渦を巻いて
吐き出したものを流水で流しながら、わたしは口元を押さえて小さく呻きます。情けなさと羞恥で、一層苦しくなりました。敬史さんにも、不快な吐瀉音は聞こえてしまったでしょう。申し訳ない。恥ずかしい。もういっそ消えてしまいたい。苦しさのあまり眩暈は余計に強くなるばかりで、その場に立つことも出来ません。
視界が白と黒に明滅していました。胸苦しさのあまり、涙も湧いてきました。わたしはぎゅっと目を瞑って、苦しさが消えるのを待ちました。――その時、
「大丈夫ですか?」
と、近くで敬史さんの声がしました。気付けば彼は隣に来ていて、遠慮がちにタオルを差し出しています。
「すみませ……」
「お構いなく。……顔色が悪い。少し横になった方がいいのでは? 休める場所はあるんですか?」
「二階に……仮眠室が」
「休んだ方がいいですよ。交代できる人がいるなら、その人に任せて」
「大丈夫、です――」
わたしは大人しくタオルを受け取り、胃液と唾液で汚れた口許を拭き、押さえました。
「どうした、丘野巡査」
ちょうどその時、二階から元木巡査部長が降りてきました。敬史さんが、「気分が悪いみたいです。吐かれたので、少し休まれた方がいいのでは」と、代わりに伝えてくれました。
「そりゃあ……。いいよ、今は特に騒ぎもないし、上で寝てろ。交代するよ」
「すみません――」
わたしがふらつく足で二階に行こうとした時、交番の入り口に雨の中人影が現れました。
「すみません。丘野さんという方は、こちらですか?」
やってきたのは、清潔感のある白いシャツにスーツのパンツという格好をした、四十代ほどの女性でした。仕事帰りのキャリアウーマンという風情です。
「はい、丘野はこの交番勤務ですが――どうかされましたか」
元木部長が代わりに応えて、「大丈夫か」と目顔でわたしを促しました。わたしは頷きます。女性の方に見覚えはありませんでしたが、その後ろからひょっこりと顔を出した小学生くらいの、眼鏡をかけた男の子――彼には見覚えがありました。
「うん、あのお姉さんだよ、ママ」
少年は、先日の夜、塾帰りのところを沢森と内津に攫われかけた男の子でした。
「あの時の――」
どうやら仕事というのは、その緊張感や責任感で、体調の悪さを幾許か軽減させてくれるものらしいです。どうして彼とそのお母さんがここに――? 何かあったのかと、わたしの胸はざわめきました。けれど、
「この間は、助けてくれてありがとうございました、お姉さん」
少年とそのお母さんから深々と頭を下げられて、わたしはぽかんとしてしまいます。
「この子の危ないところを助けて下さって、ありがとうございました。事件の犯人が捕まって、他に攫われた子どもたちが、もう――。そう聞いて、私もぞっとしました。いつもはこの子の塾の送り迎えもしているんですが、あの日は仕事が長引いて迎えにいけなかったもので。あの日この子も攫われていたら、と思うと……」
言って、母親である女性は涙ぐんで声を詰まらせました。
「本当に、ありがとうございました」
「い、いえ! それがわたしたちの仕事ですし、わたし一人の力ではありませんでしたので――」
わたしは頬が熱くなりました。こんなお礼を頂くことは、わたしには分不相応のような気がします。あの時だって、羽鳥さんが駆けつけてくれたおかげで、この少年を守れたのです。――でも。
誰かを、たった一人でも助けられた。その一助となれた。
その事実は、わたしの胸を押し潰し、胃液を吐かせた無力感、罪の意識を、ほんの少しだけ和らげてくれるようでした。何よりも、この親子の笑顔が。
今のわたしには――思いがけない救いとなったのです。
そうしてお礼を告げた親子が帰っていくと、隣で元木さんがにやにやしていました。
「良かったな。丘野」
「いえ、そんな……元木部長や羽鳥部長たちに助けていただいたおかげです」
「こんな時まで謙遜か? 全く、お前ってやつは」
元木さんがその大きな口で笑います。わたしも少しだけ、つられて笑いました。
気付けば、雨は上がっていました。打って変わって晴れ渡ってきた西の空には、見事な虹が架かっています。
「じゃあ、雨も上がりましたし、俺はこれで」
お茶、ごちそうさまでした、と言う敬史さんは、微かに微笑んでいます。
「あ、すみません真田さん、このタオル、汚してしまって――」
「いえ、いいんです。たまたま持ってただけですから」
でも、とわたしには申し訳ない気持ちが湧いたのですが、不意に思いつきました。
「――今度! 今度洗ってお返しします!」
ですがわたしは言ってからはっとしました。人が吐いた後の口を拭いたタオルなど、いくら洗った後ととはいえ、むしろ返してほしくなどないのでは――と。
わたしが自分の言ったことを後悔して泣きそうな顔になると、敬史さんはくすりと笑います。
――じゃあ、また今度ここに来ます。
そう言って、彼は帰っていきました。敬史さんがそう言ってくれたことに、わたしは深く安堵していました。別に二人きりで会うわけじゃなくても、また会えるという確約が出来た。先程の親子の件もあって、わたしの心はこれ以上なく浮き立ちます。
ですがそんなわたしを横目で見て、元木さんが水を差しました。
「来ると言って、永遠に来ないかもな」
「ッ!」
敬史さんと再会する日を思い描いていたわたしは、ぎぎぎっと首だけを回しました。
「そんな……元木部長、無情……」
「『また今度』は社交辞令の常套句だぞ? そんなのを真に受けて、おれは丘野が詐欺にでも遭わないか心配だよ。丘野は警察官になったわりに、未だに純粋だからなあ。あの人、作家なんだろ? ファンをいちいちそんな風に構うかよ」
そうして元木さんは、警察官の結婚がいかに難しいかを滔滔と語るのでした。
…………。
………………………。
わたしは、今すぐアパートに帰って、布団の奥深くに潜り込んで、一人外界の全てを、遮断したい気分でした。
……敬史さん。
やっぱり……ただの社交辞令なんでしょうか。
*
警察――いいえ、物ノ怪課は、この事件をこれで終わりにはしませんでした。
その夜、ようやく非番となったわたしと羽鳥さんは、街の片隅にある廃業となったガソリンスタンド、その跡地に集合していました。ここで宇都見さんと待ち合わせをしているのです。
「どうしたの綾ちゃん。
「いえ、別に……」
物ノ怪課としての仕事の時のデフォルトであるスーツの上に、秋物の地味なコートを着込んだわたしは、片手をコートのポケットに突っこんだまま、ずずぅと紙パックのいちご牛乳を啜っていました。むしゃくしゃしている時は甘いものに限ります。
やがてどこからか靴音を響かせて、宇都見さんがやってきました。今は昼間とさほど変わらない、灰色のスーツを着込んでいます。どこにいても目に付くような堂々とした雰囲気に、憧れるほど端整なその姿――彼女のような人をクールビューティーというのでしょうか。
そして宇都見さんは、前置きもなく本題に入りました。
「沢森が会ったという少女を捜す」
「子供たちの遺体を引き取りに来たという、着物姿の少女ですね?」
「ああ。沢森が会った少女が、おそらく妖怪だ。通常、人間の警察は遺体の捜索をするが、今回は奴らの手に負えまい。我々が代わりにその妖怪の足取りを追い、子供たちの遺体や骨だけでも取り戻す」
――あの女の子たちの、遺体を。
宇都見さんの言葉は悲しいものでもあり、それでいてあの増岡彩ちゃんの死を知った時からわたしの心にあった無力感を、鼓舞に変えました。遺体だけでも、親御さんの元に返す。新たな目標を得て、わたしは羽鳥さんと目顔で頷き合いました。
「しかし宇都見さん。どこから手をつけます? ご存知だと思いますが、今回のこと――ここらの妖怪たちは非協力的です。天鬼組の手が伸びているのではとおれは思うのですが――」
人間たちと同じ手段、同じ範囲の捜索はもう無駄だと、わたしたちは了解していました。ということは、あとの頼りになるのは妖怪世界の情報網です。このひと月余りの行方不明事件の捜査の合間に、わたしも羽鳥さんも、近隣の妖怪たちへの聞き込みはもちろん行っていました。けれどその辺りの妖怪たちは揃いも揃って、あの丸山の丸ヶ岳坊さんのように、何かに脅えたように口を閉ざすばかりだったのです。
「分かっている。だが、妖怪たちが口を閉ざしていようと、人間の犯人たちは捕まったんだ。状況は少しは変わったはずだ。それに口を閉ざしているなら」
宇都見さんは近くの大きなコンクリート片に右足を乗せると、その膝に右腕を乗せ、
「――無理矢理開かせろ。以上」
と、凄みました。美人が凄むと迫力が違う上に、宇都見さんは護持委員会の中でもわたしたち平の妖怪とは立場が違います。逆らえるはずがありません。わたしと羽鳥さんは、「りょうかい……」と異論を飲み込みました。
そしてその晩から、わたしたちの妖怪世界への聞き込み捜査は再開されました。三人それぞれ一人ずつに分かれて、管内のあちこちで――管内を南北に貫流する河川の水辺にいる河童さんや、夜道にふと現れるぬりかべさんや、魚屋さんの周囲をうろつく猫又さんや――様々な妖怪と出会いました。けれど彼らはやはり揃いも揃って、わたしたち物ノ怪課の妖怪を見ると算を乱して逃げたり、身を隠してしまったりするのでした。
こうも避けられていると、何だかいじめに遭っているような心地になってきます。「あの子と喋っちゃダメ!」という、あの
「――お願いです、話だけでも聞いてください!」
わたしはその晩、ヒールでの長距離走の末何とか追いついた小鬼の一匹を腕に捕まえました。
「どうしてそうも逃げるんですか!」
「だ、だってよう、おまえらに協力したら……協力したら……っ」
「協力、したら?」
「く、喰われっちまう! あいつらみたいに!」
「あいつら? 誰に、誰が喰われたというのです?」
その時ふと、わたしたちの視界に背後からぬうと黒い影が伸びました。わたしの腕の中の小鬼さんが、「ひぃい!」と怯えて再び逃げようとします。それをぎゅっと胸に抱きしめて、わたしは勢いよく振り返ります。
「綾ちゃん、おれ、おれ!」
オレオレ詐欺――ではなく、そこにいたのは散開したはずの羽鳥さんでした。
「首尾はどうだい?」
「それが……どうも妖怪たちの間では、誰かに誰かが喰われたことが広まって、それで怯えられているようです」
「ほう」
羽鳥さんはわたしの胸元でばたばたと暴れている赤い小鬼さんを見やります。そうしてかかんで小鬼さんと目線の高さを合わせると、
「ねえ君。おれたちはその誰かを喰った奴を退治しに来たんだ」
「羽鳥さん――?」
勝手な話を始めた羽鳥さんは、小鬼を見つめたまま、わたしを片手で制します。
「教えてくれないことには、退治も出来ない。君たちだって、そんな危ない奴、いなくなってくれた方が助かるだろ?」
「たいじ――ほ、ほんとうか?」
「ああ、そうだとも」
羽鳥さんは大きく頷きます。小鬼はしばし、希望を見出したかのように目を輝かせましたが――やはり恐怖が勝つのか、首を横に振ります。
「いや! でもあいつは、あいつはこわい奴なんだ! おまえらの手になんか、おえるもんか!」
「そんなの、やってみなくちゃわからないだろ?」
「いやだ! 分かりきってる! おまえらがしっぱいしたら、おれたちが喰われるんだ!」
口を割らせるにはあともう少し――そう思えたのですが。
わたしと羽鳥さんは顔を見合わせて、肩を竦めました。小鬼さんはわたしの胸にすがって、おいおいと泣くばかりです。
「――これ、何の騒ぎかと思えばだな」
そこへ現れたのは、一人のお年寄りでした。――いえ、その化け姿がどろんと解けて、現れたのはかなりの御老体と思われる古狸でした。皺としみだらけの顔で袈裟を着た古狸さんは、左手で杖をつきながら、よぼよぼの二足歩行でわたしたちのもとにやってきます。
「やあやあこれは、
羽鳥さんはお知り合いなのか、親し気に近寄って古狸さんと握手を交わしました。羽鳥さんの紹介によると、この古狸さんは管内のお寺の庭に住む由緒ある狸一族の統領さんとのことです。つまり、権力者――この古狸さんを何とか口説き落とせれば、何らかの情報が得られるのではないでしょうか。それは羽鳥さんも想到したところらしく、わたしたちは密かに頷き合いました。
「物ノ怪課の小僧共が、何をしておる」
「いえまあ、近頃この辺りが物騒ってことでして。おれたちはその何奴かの退治にやってきたんですが、その正体を誰も教えてくれなくて困っているんです。じいさん、何かご存じありませんか」
古狸さんはしばし辺りを見渡しました。気付けばわたしたちを遠巻きに囲むようにして、複数の妖怪の気配が溢れています。しかし敵意は感じません。皆、事の成り行きを見守っているのでしょう。
「んん~~~~~~、寺に引きこもっておるじじいには、とんと分からんのぅ」
「そう言わずに。何か些細なことでもいいんです。ご存じありませんかね?」
羽鳥さんがそう食い下がっていると、わたしはやがて気付きました。古狸さんは袈裟の下から、その可愛らしいしわくちゃな手を、ちょい、ちょいと動かしているのです。これはまるで――そう、何かを待っているかのような。
はっと気付いたわたしは抱えていた小鬼さんを解放し、コートのポケットに手を入れました。中には、わたしがこっそり夜食にしようと思っていた酒饅頭が一つ二つ、ありました。わたしはそうっと、古狸さんの手にそれを載せてみます。
するとそれを受け取った古狸さんは小声になって、
「ムムッ! これはとうとう屋の酒饅頭! 毎日十時と十四時にのみ焼き上がる限定品!」
と言うが否や、かぷりと酒饅頭にかぶりつきました。
「んんん! ほっかほっかでわないか、娘! ほっかほっか、んまい!」
「ふふ、この懐に入れて温めておきましたから」
それに加えて、アパートの電子レンジで軽く温めてきたからでもあるのですが。
袖の下を受け取った古狸殿は、周囲の妖怪が涎を垂らしながら眺める中、あっという間に二つの酒饅頭を平らげました。そして盛大に大きなげっぷをします。
「うむ……、それで何の話だったかの」
「うん、この辺りを徘徊している危ない奴って話だけど……」
どんどん話を発展させていく羽鳥さんに、腹が満ちた古狸殿はすうと東の方角を指差しました。
「近頃、あの大きな病院の前の
ようやく得られた証言に、わたしと羽鳥さんは喜びに顔を見合わせます。
「じいさん、ありがとよ! 絶対、退治してくるからな!」
古狸のおじさまと固い握手を交わし、辺りの妖怪たちに見送られて、わたしたちは早速病院――管内で一番大きな総合病院のことでしょう――の前の大通りに張り込むことになりました。
「でも羽鳥さん、相手は何者なんでしょう。勝算は?」
「知らないよ。が、とにかく妖怪たちにこれ以上のことを話させるには、これしかないだろう」
「それは確かにそうですけど……」
「綾ちゃん、宇都見さんに連絡を入れてくれ。宇都見さんにも手を貸してもらわないと」
「貸してくれますかね……了解です」
わたしは懐のスマートフォンを取り出し、宇都見さんの番号を呼び出します。少しして、
『どうした』と宇都見さんの応答がありました。
「あ、宇都見さん。羽鳥さんとの聞き込みの最中、S病院前に、近辺の妖怪を喰べて皆を脅しつけている妖怪が現れるとの証言を得ました。これから――」
「待て、綾ちゃん」
羽鳥さんが唇の前に人差し指を立て、静かに、とわたしを制します。
『丘野? どうした』
返事のなくなったわたしに、宇都見さんが不審そうな声を上げます。ですが声の上げられないわたしは、そのまま固まるばかりです。
わたしの耳にも、どこか規則正しい、その足音が聞こえてきました。
気配。そう――何者かの気配が、こちらに向かって近づいてきます。隣では羽鳥さんが音もたてずにスーツの上着の内ポケットに手を入れます。拳銃――は、非番なので持っていないはずです。ハッタリをかますのかもしれません。果たして妖怪相手に、それが通用するのかは分かりませんが。
そして足音が近づいて来た時――羽鳥さんから合図の目配せをもらったわたしは、スマートフォンを通話状態のままポケットに戻し、通りに駆けだしていました。
「動くな!」
片手をスーツの内ポケットに隠した羽鳥さんが叫び、
そこに。
そこに、現れたのは。
年は二十代後半ほどの、一人の青年。
髪は黒。白のウインドブレーカーに黒のレギンスとショートパンツ、そして灰色のシューズ。
それはちょうど、わたしが数日前にあった
「さ――真田さん!?」
わたしは呆気にとられました。そこにいたのは、数日前と同じジョギングの格好をした敬史さん、その人だったのですから。
羽鳥さんも、相手がただの人間だと分かって、気が抜けたように肩を竦めます。
「何だ、知り合いかい?」
「ええ。彼は作家の真田敬史さんで……」
「へえ、作家先生」
羽鳥さんは胸元に入れていた片手を出して警戒を解き、敬史さんに向き直ります。
「で、その作家先生がどうしてここに?」
敬史さんの方も、相手の一人が先日会ったわたしだと分かったようです。つまり、わたしたちが警察の面々であると了解したのでしょう。
「いえ、あの、ジョギング中なんですけど……そういうお二人は? お仕事中ですか?」
「まあ、そんなとこです。いやあ、失礼しました」
「いえいえ。お仕事頑張って下さい」
敬史さんは軽く一礼し、ジョギングを再開してわたしと羽鳥さんの脇を通り過ぎていきました。
ですが、
「――待て」
不意に、羽鳥さんが低い声で彼を再び呼び止めます。
「作家先生。――あんた、何者だ?」
敬史さんが、静かに足を止めました。
わたしのコートのポケットからは、宇都見さんからの『丘野。丘野どうした?』という声が、くぐもって響いていました。
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