その日は早朝からしとしとと物静かな雨が柔らかく降っていました。

 その雨に濡れたわたしたちK峰警察署の署員たちは、次々に帰署します。署員がかなり出払っていたため閑散としていた署内は、一気に騒々しくなりました。

「やっぱり、ただの悪戯いたずらだったか」

 はあ、と溜め息をつくのは、捜査一課の羽鳥さん。彼は今回の事案の担当になっていました。管内の中学校の爆破予告。それが今回の事案です。

 もともとの始まりは、中学校のホームページの掲示板への匿名の書き込みでした。最初は、その中学への文句や口汚い嘲りだけだったのですが、次第にそれはエスカレート。「職員の車を壊す」だの、「生徒を刺す」だの、脅迫的なものになっていったのです。

 実際、授業中に職員の車が傷つけられたり、帰宅途中の生徒が刃物を持った人物に追い回されたりする事件もあり――そこで中学からK峰署に相談と被害届が出されました。最初は生活安全課の署員が書き込みに答え、説得を試みたり、その真意を探ったりしたのですが、どんどん過激になる犯人の発言は止めようがありませんでした。

 そして刑事課と県警のサイバー班が腰を上げ、掲示板から犯人のIPアドレスなどを探って身元を割り出そうと取りかかった矢先のことでした。

『爆弾を仕掛けた。十一日の午前十時に爆発させる。止められるものなら止めてみろ』

と、何とも挑発的な書き込みがあったのです。

 結果、刑事課の羽鳥さんたちや非番の交番員であるわたしまでもが駆り出され、昨夜から夜を徹して、校内の爆弾探索が行われたのでした。朝になっても爆弾は一向に発見されませんでしたが、大事をとって学校は休校。学校の周囲を閉鎖し、警察と学校職員が見守る中、午前十時を迎えました。ですが――寂として爆発は起こらず。

 そうしてわたしたちは、文句たらたらに引きあげてきたのでした。――いえ、何事もなかったのは幸いだったのですが。

 わたしは羽鳥さんが開いたノートパソコンの画面を後ろから覗き込みます。くだんの中学の掲示板には、警察を手玉にとったことに喜々とした様子で、警察と中学教師たちの面々を嘲笑う書き込みが新しく増えていました。

「愉快犯、でしょうか」

「まあ、そうだろうね。でもこの事案に限らず、ネットに書きこんだ言葉というのは、必ず誰かの目に触れるもんだ。そんな所に書きこんだ悪口や人を貶めるような言葉ってのは、巡り巡って自分に害をもたらすものだよ。たとえ匿名でもね」

 そうして羽鳥さんは、パタンとノートパソコンの画面を閉じます。

「そんなわけで、こいつの身元が割り出せれば、威力業務妨害で逮捕。まさに実害として自分に返ってくるわけだ」

「……羽鳥さん、何だか嬉しそうですね」

「そう? そんなことないさ。息子の五歳の誕生日を爆弾探索に費やされて怒っているとか、そんなことはないからね」

 どうやら、笑顔で喜んでいるのではなく怒っているようです。徹夜で爆弾を探していた羽鳥さんの目の下には、軽くクマが出来ていました。彼は帰りに買ってきた栄養ドリンクを一息に飲み干し、「じゃ、現場行ってきます」と、掛け持ちの事案のために刑事課を出て行きました。わたしはその出がけに、「絶対捕まえてやる……!」という、羽鳥さんの鬼気迫る低い声を聞いたような気がしました。



 わたしも交番に戻るために署の一階に降りてくると、入り口付近でうろうろして、何やらまごついている様子の男女の姿を見つけました。

 お二人は、一見してご夫婦のように見受けられました。署に来たのはいいけれど、どの課に相談すればいいのか分からない、どの課がどこにあるのか分からない――そんな風情であるようです。わたしは声をかけてみました。

「どうされました? 何かお困りでしょうか」

 近寄って見て分かったのは、女性は自分の髪や衣服を整えるのもそこそこに、ここに来ているということでした。やや血の気を失って、ひどく疲れているようにも見えます。それは隣の男性も同じでした。

「息子が……小学三年の息子が、昨日から帰らないんです」

 三十代後半ほどの、短く刈った黒い髪に白いものが混じり始めている男性が口を開くと、同じく三十代ほどの女性が、涙で声を上擦らせました。

「一晩中探して――近所の人や学校の先生にも手伝ってもらって、探したんです。でも、見つからなくて――」

 女性――母親の疲労に満ちた目から、ぼろぼろと涙が溢れました。わたしは近くの受付から箱ティッシュを持ってきて女性に差し出すと、お二人を促しました。

「お話伺います。こちらへどうぞ」


   *


 事故か事件かはたまた家出か――こういったことは判断が難しい、と羽鳥さんは話します。

 三日前に署にやってきたご夫婦――倉田夫妻のお子さん・江一こういちくんは、その行方の手がかりが未だに掴めません。小学校からの帰り、いつもの帰宅路の途中でお友達と別れたのが、彼の姿が見られた最後のようです。周辺地域の聞き込みや捜索、周辺店舗・道路の監視カメラの精査など――この三日間、K峰警察署は交番での勤務が非番のわたしも駆り出して捜査にあたり、近隣署の協力も得て捜査範囲を広げていますが――未だなしのつぶてです。

「時には、身元引受人としてやってきた犯人の親を見て、『ああ、これは子供が非行に走っても仕方ないな』とか、『子供が精神的に病んでも仕方ないな』って感じることもあるよ。でも今回のご両親は――今のところ、不審な点は見当たらなかった。夫婦仲も悪くないみたいだしね」

 取調室でご両親や関係者を取り調べ、また聴取を得た羽鳥さんは、私物の車を運転しながら話します。助手席でそれを聞くわたしは倉田夫妻が署にやって来た時、奥さんの震える片手を、励ますようにして、旦那さんが力強く握っていたことを思い出しました。

 わたしもこれまでの交番勤務で、非行少女や非行少年の補導や取り調べをしたことがあります。一概には言えませんが、彼らが非行に走る理由には、ご家族――特にご両親の不仲、またはその不在、あるいは親から被る暴力などが一因となっている場合が多いと感じていました。

 本来心休める場所であるはずの自分の家で、精神的な主柱となるべき両親がいないこと、または両者の関係が安定していないこと、さらには親が自分を守ってくれる存在でないことは、ただでさえ精神的に不安定な子供たちの健全な成長を著しく阻害する――そのように認識しています。

 ですが、あのご両親は――そんな風に江一くんを傷つけるような親ではないのではないかな、などという思いを、わたしは勝手ながらいだいていました。本当に、心底、自分の子供の無事を祈っている。今日の夕方にお二人が署にやって来た時も、お二人は少しやつれてきたように見えました。きっと江一くんの安否を考えると、食事もまともに喉を通らないのではないでしょうか。

 その夜わたしたち物ノ怪課の二人は少ない休憩時間を都合して、羽鳥さんの銀色のセダンで目的地に向かっていました。連日の勤務と捜査でお互い寝不足です。コーヒーのカフェインと、寝不足すぎて逆に意識がハイになっていることで、何とか起きているといっても過言ではありませんでした。

 そうして目的地――丸山の麓へ到着。そこから山道を登った先で、

「またお前か」

羽鳥さんは捕獲した丸山の天狗・丸ヶ岳坊の右頬を、警棒の先でぐりぐり抉りました。羽鳥さんもわたしも、寝不足と疲労で若干機嫌が悪いため、短時間で的確に行われた捕縛は少々手荒いものになりました。丸ヶ岳坊さんは口角泡を飛ばして、警棒を振り払います。

「犯人違いだわボケェ!」

「なんでだよ、この間と同じ幼くて可愛い男の子、お前の好みドンピシャだろうが」

 ぴっ、と羽鳥さんは江一くんの写真のコピーを取り出します。

「それは確かに否定はせぬが! だがワシではない!」

 疑うならこの山中捜せばよいわ! と、丸ヶ岳坊さんは喚きました。天狗殿をぐるぐる巻きに縛ったワイヤー入りの縄の端を握るわたしは、辺りを見渡し、夜の静寂を乱す気配がないかを探ります。

「でもまあ羽鳥さん。確かに今のところ、この山に人間の気配はありませんが……」

「じゃあ、何か知っていることはないか?」

「知らん。知っておるのはワシが犯人ではないということだけだ」

「無知の知みたいですね」

「何だ、使えん天狗だな」

「使えんとは何だ! 無礼な奴め!」

「だって考えてもみればさ。天狗というのは人間の歴史でいえば古代末期から中世には既に記録されてるわけで、それはもう古株の妖怪なわけだろ? 特に丸ヶ岳坊殿たち烏天狗なんて、江戸時代前の存在じゃないか! いやあ、俺たち若造の妖怪とは格が違う。空は飛べるし神通力は使えるし、ありがたい仏法の敵! 人は喰うわ病気や死をもたらすわで、そりゃあ人間たちから恐れられること限りなしの、妖怪中の妖怪じゃないか、くぅう、格好いいねぇ、痺れるねぇ。妖怪ってのはそうでなきゃ。そう思わないかい? 綾ちゃん」

「仰る通りです」

 わたしは羽鳥さんの口上に、こくこくと頷きました。縛られながらも起き上がって草の上に座り込んでいた丸ヶ岳坊さんは、しばしそっぽを向いていました。が、これはどうも照れていたようです。急に丸ヶ岳坊さんを中心に魔風が湧いたかと思うと、天狗殿を縛っていた縄は微塵に切り裂かれていました。調子に乗ったことで、神通力も上乗せされたようです。

 自由の身を取り戻した丸ヶ岳坊さんは、空中でその翼をはためかせます。

「ええい見ておれ、小僧っ子一人、ワシが本気になれば見つけることなど朝飯前だ! 警察や委員会の無能、ここに知らしめてやるわ!」

 そうして鳶の姿に変じた丸ヶ岳坊さんは、夜の彼方へと飛び去っていったのでした。

「よし、これで空からの捜索と捜査がタダで出来るな」

 羽鳥さんとわたしは、力強く頷き合いました。



 ですが、丸ヶ岳坊さんを上手いこと焚きつけたにも関わらず――江一くんは一週間経っても見つからないままでした。

 それどころか、また別の小学生が一人、新たに行方不明となったのです。


   *


 交番勤務の署員の間でも、管内で起きた行方不明の事案は、日々話題になっています。

 元木さんは先程やってきた異性間トラブルの相談の調書をパソコンでまとめながら、その話題に水を向けました。

「また子供が行方不明か……しかもそこの小学校の子だって?」

「はい……」

 わたしは力なくうつむきます。

 わたしも、署から受け取った行方不明者の情報提供を求める掲示物を見て驚きました。配布された資料に載せられていた写真、それはわたしに朝の通学時に挨拶をしてくれていた「ますおかあや」――増岡彩ちゃんだったからです。彼女の場合も、先の倉田江一くんと同じく、何の変哲もなさそうな家庭の子が突然下校中に失踪し、事故の形跡もなく、誘拐犯などからの連絡もないという、空を掴むような手ごたえのなさなのです。

 その夜もそれぞれ休憩時間を手に入れたわたしと羽鳥さんは、再び丸山に登りました。丸ヶ岳坊さんへの聞き込みに向かったのです。わたしたちは藁にも縋るような心地でした。

 すると姿を見せた丸ヶ岳坊さんは、

「大きな黒い車だ」

と、ぽつりと言いました。

「見たのか?」

 羽鳥さんが片眉を上げます。丸山の頂上付近、拓けた草地で焚き火にあたっていた丸ヶ岳坊さんは、わたしたちに背中を向けました。

「それ以上は知らん。ワシは何も知らん。もう帰れ。この件でワシが力になれることはもうない」

 丸ヶ岳坊さんは火を踏み消すと、ばさりと翼を広げてあっという間に飛び去って行ってしまいました。

「大きな黒い車……バンか?」

「どうしちゃったんでしょう、丸ヶ岳坊さん……?」

 あんなにやる気だったのに、と呟き、わたしはしゃがみ込んで火の消された後の焚き火跡に手をかざします。最近は無情な秋風の所為で、夜は半袖では耐え難いほど肌寒くなりました。

「……奴らが関わってるかもな」

「奴らって、まさか」

「ああ、天鬼てんき組だ」

 羽鳥さんの言う天鬼組とは――人間の世界で言う反社会的組織、それの妖怪版といったところでしょうか。いえ、実際、天鬼組と人間の世の反社会的組織には繋がりがありました。

 天鬼組は、人間と妖怪の共存を旗印に掲げてここ二百年近く大手を振っている大日本妖怪護持委員会に反する者共のグループです。彼らは人間世界と護持委員会が作り上げている現代の日本で、真っ当に暮らしている人々を食い物にして、金品を巻き上げたり、違法な物品を流通させたり、そして文字通り人間を喰べたりして、暴力を武器に好き勝手に暗躍しているのです。とにかく未だに、謎の多い組織でした。そもそも物ノ怪課は、個々の妖怪のちょっとした悪戯を処理するためではなく、奴ら天鬼組に対抗すべく創設されたとも聞きます。

 わたしのような「前科持ち」を委員会が吸収したのも、天鬼組への妖怪の流出を防ぐためでもあったのでしょう。……実際、あれらの事件を起こしたわたしが委員会の手を逃れようとすれば、普通は天鬼組に逃げ込むくらいしか手はなかったはずです。それよりは、人材としてわたしを確保してこうして使う方が良かった。……そういうことでしょう。

「あの丸さん、奴らが怖くて口を閉ざしたのかもしれないな」

 羽鳥さんは無精ひげを剃ったばかりの顎に手を当て、丸ヶ岳坊さんの飛び去った物言わぬ深更しんこうの空を見やりました。

 山の上にいる所為か、何だか空が近く思えます。切れ切れに漂う雲の合間で、きらりきらりと飛行機のランプが微かに瞬き、ゆっくりゆっくりと動いているのが見えました。モールス信号のごとく輝くランプ――それが今は、この日本のどこかに蔓延はびこる天鬼組の交わす、彼らだけに分かる信号のようにも思えてきます。

 こんな地方の町にも――天鬼組は手を回しているというのでしょうか。



 そうしてまた、一週間後、子供が一人、ひっそりと消えました。

 警察の懸命の捜査と捜索にも関わらず、三人とも、手掛かり一つ見つかりません。

 週刊誌では警察の無能をあげつらう記事が躍り回り、ニュースやワイドショーも右に同じく。泣きっ面に蜂のように、お上からの厳しい叱責の声と早く見つけろという圧力が届きます。

 事案に関わる皆さんが日に日に疲弊していくのが、わたしの目にもありありと見えていました。わたしも非番の度に駆り出され、休みを取る暇もありません。

 本当に――あの子たちは、一体どこへ消えてしまったというのでしょう。


   *


 リーリリ、リーリリ――と涼しげな虫の声がするのは、近所の公園からでしょうか。

 今日は少々、慌ただしい一日でした。昼間には万引き犯の逮捕と現場の実況見分を行い、夕方には保護したDV事案の被害者を署に移し、夜には繁華街で酔っ払って暴れた人を公務執行妨害で逮捕し――。

 そうして遅れて出前のお蕎麦を胃に入れた頃には、二十二時近くになっていました。ようやく一息つけて、わたしはほっとします。とはいえ今夜は、未決処理に追われることでしょう。仮眠も十分とれるかどうか、といったところです。

「丘野、パトロールに行くぞ」

 食べるのが早い元木さんは、既に準備を終えていました。わたしも急いで後に続きます。

 元木さんが呼称運転するミニパトの助手席に乗り込んだわたしは、通り慣れたいつもの夜道に目を凝らしていました。最近は夕方から夜にかけて、交番勤務のわたしたちだけでなく、他の課の警察官も頻繁にパトロールに出ています。それはもちろん、連続して発生し、未解決となっている児童の連続する行方不明があってのことです。

 これまで、児童たちが消えたのはいずれも小学校からの帰路の途中。そもそもこの時間に出歩く小学生というのは多くないはず――とはいえ、不審者への警戒に越したことはありませんし、これ以上の理由も不明である行方不明者を出すことは許されませんでした。

 目の前の信号が赤になって、元木さんが車をスウッと停止させます。帰宅ラッシュは過ぎた時間ですが、国道や県道には、まだまだ乗用車や長距離運送トラックが多く走り続けています。この小さな交差点はその限りではなかったのですが、不意にわたしの目を奪ったものがありました。

 ――あ。

 黒い、バン。

 目の前を横切っていった、何の変哲もない黒いバン。わたしは丸山の天狗殿の言葉を思い出していました。

 大きな黒い車だ、と。

「元木さん」

「何だ?」

「今の黒のバン……尾行つけて見ませんか」

「どうした、何か不審な点があったか?」

「いえ、その――」

 そうこうしている間に、信号が青になりました。黒いバンは遠ざかっていくし、後続車からはクラクションを鳴らされてしまいます。迷っている暇はありません。

「け――刑事課の、羽鳥部長が! 目撃者がいて、黒いバンに目をつけていると! 言っていたので!」

「目撃者? 署からはそんな話――」

「確かなことはまだ言えません! でも、唯一の手掛かりかもしれないんです!」

 元木さんは、その大きな顔に浮かぶくりくりとした小さな目で、虚を衝かれたようにわたしを見つめています。響くクラクションの音。切羽詰まった様子のわたし。

 そして信号が黄色に変わる寸前で――元木さんは左折信号を出し、アクセルを踏み込んでいました。

「黒いバン、だな? 桜台方面に向かったやつ」

「――はい!」

 わたしはつい表情を緩ませ――そして口元をきゅっと結んで、前方に目を凝らしました。アクセルを法定速度ぎりぎりまで踏み込んだ元木さんの運転に、前方の車との距離が縮まります。次に右折する時、三台前にあの黒のバンが見えました。わたしは携帯電話のカメラでその後背部を撮り、拡大して車のナンバーを確認しました。

 ただの徒労に終わるかもしれない。けど、今は僅かな証言に賭けてみるしかない。そんな心地でした。

 やがて、数台分の距離を開けながらくだんの車を尾行していくと、煌煌と明かりのついたビルから、わらわらと若者が出てくるところに出くわしました。

「学習塾――」

 その学習塾は全国チェーンのもので、中学受験から高校受験までを扱う塾のようでした。授業を終えて出てくるのは、中学生や小学生のようです。もし、児童を狙って誘拐しているような輩が、こんな時間に一人で帰っていく彼らを見つけたら――?

 元木さんも同じことを考えたようです。頷き合ったわたしたちは、ミニパトを目立たない場所に駐車して、学習塾から徒歩で帰っていく少年少女らを見守りつつ、その後をついていってみました。

「あの男の子――小学生かな」

 元木さんが指差したのは、今しがた塾から出てきた、眼鏡をかけている男の子です。身長や体格から見て、中学生にしてはまだ小柄でした。空振りに終わるかもしれない賭けでしたが、わたしたちは二手に分かれて、彼の後を静かに追跡しました。

 男の子は、この近辺に住んでいるのでしょう。彼は他の塾生徒の多くが足を向けた駅方面ではなく、街路灯がぽつりぽつりと点る住宅街の隙間を、明かりを拾うようにして歩いていきました。

 すると前方の曲がり角から、車のライトがこうと差しました。車はそのまま、男の子の歩くこちらに曲がってきて――電信柱の陰に隠れるわたしは眩しさに目を細めながらも、驚きました。車のナンバーは、先程わたしと元木さんが尾行した、あの車と同じだったのです。

 現れた黒いバンは、躊躇ためらうかのようにゆるゆるとスピードを緩めて、男の子の脇で一時停止しました。運転手が窓を開けて、男の子に話しかけている様子が、こちらにも伝わってきます。そして運転席から人が降りてきて――何か揉み合う物音や声。「騒ぐな!」という男の声が飛びました。わたしは走り出していました。

「動くな! 警察だ!」

 わたしが声を発するより早く、脇道から同じように飛び出してきた元木さんの、鋭い声が飛んでいました。男の怯む様子が見て取れました。わたしと元木さんが犯人に掴みかかるより早く、男は運転席に舞い戻り、一気にアクセルを踏み込みます。危うく、わたしは轢かれそうになりました。

「君、大丈夫!?」

 男に突き飛ばされたのでしょう。男の子は、その場に尻もちをついていました。わたしの呼びかけに、最初は呆然としていましたが、やがて小さく頷きます。その隣では、元木さんが無線を開局しています。

「K峰交番からK峰署。桜台二丁目にて、少年を車に引きこもうとした男と接触。攫われかけた少年一名を保護した。男は室岡集落方面へ車で逃走。車両特徴は黒色バン、ナンバーは――」

「君、立てる? 何年生かな?」

 わたしは男の子の気持ちを和らげようと、手を貸しながら話しかけてみました。

街灯に照らされた小柄な男の子は、眼鏡をかけ、賢そうな顔立ちをしています。最初は言葉が声にならないようでしたが、少しすると「五年生です」という微かな返事がありました。彼が自分を取り戻すには、少し時間がかかったようです。

 元木さんの無線を皮切りに、無線は一気に慌ただしく駆け始めました。あちこちに飛びかうのは検問の指示です。次々に了解を告げるのは、頼もしい先輩方、同期たちの声です。

「丘野、その子をここから一番近い津宮交番まで頼む。俺もミニパトで封鎖に行く」

「了解しました」

 指示を告げると、元木さんの後ろ姿はどんどん遠ざかっていきました。わたしはそれを見送ると、少ししゃがんで、男の子と目線の高さを合わせます。

「ごめんね。怖かったし、早く帰りたいよね。でも少しだけ、お姉さんと一緒に交番まで来てくれるかな? さっき車に乗せられかけたことで、お話聞きたいんだ。交番に着いたら、おうちにも連絡入れるから――来てくれる?」

 男の子はわたしをじっと見つめて話を聞き終わると、「はい」と頷いてくれました。彼なりに、今自分がすべきことを了承した様子です。何だかひどく大人びて、しっかりした子のようでした。

「よし、じゃあ行こう」

 わたしは男の子の背中に軽く手をやり、管内の津宮交番に向けて歩き始めました。

 ――その瞬間。

 前方の明かりの届いていない夜闇の中で、何かがきらりと光りました。それを何だろうと思う前に――背筋に寒気を感じたわたしは、反射的に男の子を抱きかかえ、夕方の雨で濡れた後の湿ったコンクリートの上を転がっていました。

 生じたのは、人間の気配。視界の隅を、きらりと光るもの――刃物が霞めました。

 ――もう一人、いた!

 起き上がった時には、わたしの警帽が地面に落ちています。濃淡のある闇の中からぬうと現れていたのは、黒いニット帽と長袖の黒っぽいジャージの上下を着込んだ男でした。先程この男の子を攫おうとした時にこちらの死角で車から降りていて、そのまま車に乗り損ねていたのかも――わたしはそう推察しました。

 男の子を抱きかかえたまま、わたしは相手がもう一度振りかぶった刃――包丁らしきものを避けました。――分が悪いのは否めません。

 わたしは男の子から手を離し、包丁男が空振りした後の隙をついて、犯人に抱き着くようにしてタックルしました。男の子には、叫ぶ勢いで指示を飛ばします。

「下がってて!」

 男の体格は、身長一六五センチほど。ガタイはそれほどよくありません。わたし一人でも何とか制圧できるか――いや、とにかく後ろの男の子の身を守ることが第一でしょうか。

 男がわたしを引き剥がすようにして無理矢理起き上がると、わたしは転げ落とされます。それでも転がりながら体勢を立て直し、腰から金属製の警棒を引き抜きました。

 それを伸ばしきり、わたしは男と間合いをとります。立ち位置を入れ替わり立ち替わりしながら何度か刃物と警棒が交差する間に、包丁を持ちながらもこのような実戦慣れはしていないらしい男の隙が見えてきました。無駄の多いその動作。わたしは相手が刃物を突き出した後の間隙を縫い、警棒の中ほどで男の右手首を思いきり打ちました。ぎゃっと呻き声を上げた男の手から、刃物が飛びます。――ですが、その方向がよくなかった。

 次に聞こえたのは男の子の悲鳴。よりにもよって男の子が身を縮めていた方向に、男の包丁が飛んだのです。わたしは血の気を失って振り返ります。見れば幸い、男の子に直撃はしなかったようですが――気を逸らしたのが悪かった。

「ッ!」

 次の瞬間、わたしは後ろから男に両腕で首を羽交い絞めにされました。身長差が十センチもなかったことで、わたしの足が宙に浮くということはありませんでしたが――わたしはつま先立ちにさせられ、首の骨を折られんばかりの力に喉を圧迫されて、喘ぎました。この両手で男の腕を掴み、爪を立てて掻きむしりましたが、男の腕はびくともしません。

 ――これは――まずい。いきが。ほねが。

 鬼の手が使えれば、こんな相手。それは分かっているけれど、目の前に守るべき男の子がいる以上、あやかしとしての姿を見せるわけにはいけません。わたしがそれに躊躇している間にも首はみしみしと音を立てて圧迫され、頭が破裂しそうな心地になって、他の誰かを守るなどと言っている場合ではなくなります。

 かくなる上は、――腰の拳銃。

 しかし下手に気付かれて相手に拳銃を奪われれば、こちらが撃たれる恐れもありました。――でも。

 わたしの限界が迫る脳裏に浮かんだのは、毎朝のように通学時に挨拶をしてくれた、あの女の子の笑顔、それでした。もしかしたらこの刃物男たちが児童たちの誘拐を続けていて、彼女の行方を知っているのかもしれません。それどころか、彼女に暴行や危害を加えている恐れすら。

 ――こんな、やつらに。

 そう想到すると、拳銃の件で怖気づいた気持ちが覆され、歯を食いしばったわたしは、あやかしとしての殺気がお腹の底からふつふつと湧いてくるのが分かりました。その気配は、わたしの背後にまわっていた男にも伝わったようです。男からの拘束が、少しではありますが、怖気づいたように緩みました。わたしはその瞬間両足を地につけて、男の無防備な腹に向かって渾身の肘鉄を食らわし、突き上げました。男が噎せ込むようにして身を折り、わたしは解放されます。わたしもまた、喉を押さえて咳き込みました。

 頭が酸欠でくらくらしていました。ですがまだ――まだこの刃物男を制圧してはいません。起きあがら、ないと。せいあつ、しないと。明滅する視界と眩暈の中、わたしは地面に落ちていた警棒を何とかこの手に握りしめました。ですがその瞬間、男は既に逆光の中で立ち上がっていました。

 黄ばんだ明かりの中のその影は、あまりに大きく見えて。

 ――ああ。

 終わるのかな、わたし。

 ふっと気が遠くなりかけたその時。

 誰かが、わたしを呼ぶ声がしました。

 激しい衣擦れの音に、響く高らかな靴音。

 そして翻る、カーキ色のジャンパー。

 わたしの目の前に現れたその人影と刃物男が揉み合ったのは数瞬。決着は呆気なくつき――鮮やかな一本背負いが決まっていました。わたしの目には、それがスローモーションのように見えました。

 どしゃり、という音と呻き声を上げて、わたしと相対していた刃物男が地に伏します。その腕を掴んでいるのは、駆けつけてくれた羽鳥さんでした。逆光の下に見えたその焦げ茶色の瞳にも、ありありと殺気じみたものが漂っていました。その口元は、いつものようなへらりとしたものではなく、不敵さが滲んでいます。

「はい、公務執行妨害および銃刀法違反で逮捕、だね」

「羽鳥部長――」

「時間とって」

「は、はい――二十二時四十五分です」

 わたしは慌てて腕時計を確認。カシャン、という音を立てて、刃物男の手首に手錠がかけられました。刃物男もそれで諦めたのか、ぐう、と唸って脱力しました。

や がて追いついた羽鳥さんの刑事課のペア、わたしの一年先輩であるすみ巡査が、コンクリートの地面まで飛んで男の子に拾われていた包丁を、手袋をはめた手で受け取ります。そして、咳き込むわたしを一瞥しました。

「大丈夫か? 丘野巡査」

「はい、何とか……すみません」

 わたしは、一人でこの相手を制圧できなかったことを少々恥じていました。女だから――そう言われても仕方ありません。ですが男であるとか女であるとか以上に、わたしの腕が未熟だったとしか言いようのないことです。

「まあ、間に合ってよかったよ」

 男の身をその首根っこを掴んでぐいと引き起こし、コンクリートのブロック塀に両手をつかせて所持品検査をする羽鳥さんは、けろりとしたいつもの柔らかな雰囲気に戻っています。

「俺もあれから監視カメラを精査し直して、黒いバンを探して動きを追ってたんだ。……まあ、天狗から得た証言だなんて言えないからね。確たる証拠が得られるまではおれが個人的に目をつけていただけだったけど」

 澄さんに所持品検査を任せた羽鳥さんは、天狗、のところは声を潜めました。

「でも……羽鳥さん。黒いバンならもう走っていきましたけど」

 どうしてここに、とわたしが問うた時、無線がプツ、と音を立てて声を発しました。

『K峰捜一、逃走犯確保』

羽鳥さんも無線を開き、『同じくK峰捜一、桜台二丁目にて逃走犯の相方確保』と報告を入れます。そしてようやく日常に戻れることに安心したように、すがすがしく笑いました。

「まあ、なんだ。トイレ休憩してたら、出遅れたんだよね」



 わたしは保護した男の子を交番に送り届け、署から駆けつけた署員に任せた後、元木部長を追って逃走犯が捕まった現場に急行しました。すると赤色灯を輝かせた数台のパトカーが逃走犯――いえ、誘拐未遂犯が乗っていた黒のバンを前後で挟み込むようにして止まっているのが見えました。黒のパーカーを来た一人の男が、捜査一課の刑事さんに手錠をかけられて、ちょうどパトカーに乗り込むところでした。

 わたしが元木さんの姿を探すと、パトカーの間から声がしました。

「全く、無茶をする人だなあ!」

 元木さんが、誰かと話しています。驚いたような、それでいて賞賛と非難が入り混じったような声音です。

「お疲れさまです。どうしたんですか?」

「ああ、丘野巡査――」

 元木さんは振り向いて、肩を竦めます。

「いや、犯人を追跡中、一般人が犯人の車の前に飛び出して車を止めさせたんだ。全く……犯人に轢かれて一巻の終わりだったかもしれんのに、勇気があるというか、無謀というか……」

「それはすごい……」

「こりゃ表彰もんだな」

元木さんは両腕を胸の前で組んで、うんうんと頷きます。

「そうだ、さっきは男の子と二人だけで残して済まなかった。犯人がもう一人いるとは気付かなかった、おれの判断ミスだ」

「いえ、そんな……。羽鳥部長のペアが駆けつけてくれたので、何とかなりましたし」

「そうか……無事でよかったよ。けどともかく、報告書にはおれが判断ミスをしたと書くからな。変に庇うなよ」

 元木さんのこういうところには、わたしも好感を覚えます。普段は暑苦しいくらい正義感の強い人ですが、自分にも厳しい人なのです。

 わたしはふと、街灯の下にいる一般人とやらを見やりました。これまで元木さんと話し、パトカーの向こうの犯人を見ていた様子のその人が、半身で振り返ります。

その瞬間、わたしは呼吸を忘れていました。

 だって、そこに、立っていた人は。

 細身でありながら、何かスポーツをやっているのか、服の上からでも分かるしなやかな筋肉をつけたその体躯。街路灯が照らすのは彼のかんばせ。まだ年若いその人は、二十代後半くらいでしょうか。さっぱりと整えた黒髪は、先程身を挺して犯人の車を止めた所為か、僅かに乱れています。黒曜石のように黒々とした瞳。鼻の上に微かに見えるそばかす。

――見覚えのある、その顔。あまりに懐かしい――いいえ、忘れもしません。

「……敬史さん」

 わたしの声に、彼の双眸が、わたしを捉えました。

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