第二部
一
返照に輝く小川は絶え間なくせせらぎを奏で、
やがて夕暮れの後には夜の帳が下り、小山に隣接した住宅街は寝静まりました。街よりなお遠いところで輝くのは、未だ眠りを知らない繁華街です。
星々は街のネオンに霞み、夜空には巨人の吐息のような音を立てて飛行機が飛んでいます。辺りに立ち込めるのは、未だ肌に寄り添う晩夏の生温い空気。上空から吹きつけるのは、夏を攫い行く涼やかな風。頬に触れたその気配に、わたしは空を仰ぎました。
ちぎれた灰色の綿雲が孤独に浮かぶ透明な夜空に、影が一つ。夜鷹でしょうか。――いえ、そうでないことは、この気配が物語っています。影はやがて地上から伸びた大樹の枝に降り立ち、背中の翼を仕舞ったようでした。
「もしもし、そこの天狗さん」
わたしのよびかけに、影は昂然と顎を上げてこちらを見下ろします。
「そこの天狗、ではない。ワシには
ここからすぐそばの丸山――どこにでもあるような名前の、どこにでもあるような小山です――を住処とする天狗は、少々仰々しい名前を名乗られました。
「では、丸ヶ岳坊さん。ちょっとお話、しませんか。――その、背中に乗せている男の子のことで」
わたしは彼のご両親から預かった写真のコピーをぴらりと閃かせ、
「
天狗――丸ヶ岳坊さんは、後ろに背負ったものを一瞥しました。その影から返事はありません。背中の子は、眠っているか気を失っているのでしょう。
「喜田村涼馬くん。六日前から行方不明で、ご両親が捜索願を出されています。ご両親、とても心配されています」
「それがどうした、小娘。ワシはこやつが気に入った。だから傍においておる。それのどこが悪い」
誘拐犯・丸ヶ岳坊さんは、悪びれもせず、フン、と鼻息を荒くします。
「それは妖怪の世界の理屈です。その子は人間ですから、人間の世界の理屈で生かさなければなりません。わたしどもといたしましては、その子を丸ヶ岳坊さんの手からご両親の元へと返さなければならないのですが」
「フン、なるほど。委員会の手先か」
丸ヶ岳坊さんは背中の子供を、樹の太い幹と枝にもたせて預けました。
「嫌だと言うたらどうするつもりだ。委員会の
懐から扇を取り出した丸ヶ岳坊さんは、大きく振りかぶって一扇ぎ。辺りにびゅうびゅうと怪音を立てて魔風が巻き起こると、その矛先は真っすぐに地上のわたしに向かってきます。
ですがわたしとて、はいそうですねと従容とそれを受けるわけにはいきません。
袖口から伸びるのは、長く鋭い爪を生やした一本の太い鬼の腕。魔風がわたしに迫る瞬間、まるで丸ヶ岳坊さんの仕草を真似るかのように手のひらで一扇ぎします。すると、自分で言うのも何なのですが、その風はさらに勢いを増して矛を逸らし、わたしからみて十時の方向に向かって地を駆けていきました。運悪くそこにあった樹齢数十年の樹々が、めきり、どずんと音を立ててへし折れ、辺りの樹々の枝葉を絡ませてさらに巻き込みながら倒れていきました。天狗倒しとはこのことか――いや、あれは物音だけだったか、などと、わたしは一人考えます。
そうしてわたしと丸ヶ岳坊さんは、樹々の伏した後の静寂の中、無言で見つめ合ったのでした。
「その子を、返していただけますね?」
「…………うむ……」
丸ヶ岳坊さんは扇を懐に仕舞い、居心地悪そうに頷きました。
大日本妖怪護持委員会。その末端組織である、各地方警察署の
それが、委員会の配下である妖怪による、対妖怪専門の部隊です。
半年前、その一員となったのが、わたし、「櫻子」――いいえ。
「
*
二年前のことでした。
とても長く、長く――数年分の一続きの夢を見るほどに、眠っていたような気がします。
わたしが久方ぶりに瞼を持ち上げると、そこにあったのは見知らぬ――清潔感のある白い天井でした。
枕元からは、ポン……ポン……と、何やら規則正しい電子音が聞こえます。視線を巡らすと――それはちょうど、心拍数を計るパルスのようなものが電子板に映っていました。心電図、というのでしょうか。さらにわたしの口元は、酸素吸入のマスクに覆われていました。
腕を持ち上げようとしただけで、身体のあちこちに刺されるような痛みが走りました。感覚を探ってみれば、薄くて軽い布団の中では数本の点滴の針が身体に射されていることが分かりました。起き上がるのを諦めたわたしに分かるのは、ここはベッドの上であり、病院であるということくらいでした。
一体全体、これはどうしたことか――わたしが静かに瞼を伏せると、気を失う前のことが徐々に思い出されてきました。そうでした、わたしは自分自身で、死んでも無理はないほどの重傷を自らに負わせたのでした。そして、
――櫻子さん。
甦るのは、この耳と心に心地よく響くあの声の、涙まじりの囁き。
そうだ――敬史さん!!
卒然と目を見開いたわたしは、点滴の針や酸素吸入マスクの存在も忘れて、勢いよくベッドから身を起こしました。次の瞬間、ほとんど全身に至る激痛に呻くことになります。
でも、それどころではなかった。
あの朝から、一体どれほどの時が経ったというのでしょう。景の待つ村の入り口まで行けなかったということは――景は、敬史さんを。
背筋を怖気に震わせ、ぞっとする思いに急き立てられたわたしは、包帯だらけ、点滴の打たれた身体に鞭打つようにして、ベッドから降りかけました。
その時ちょうど部屋の引き戸が開いて、人影が現れました。その気配は見知った彼のもの――彼がよく化け姿に使う、茶色の長い髪を後ろで一つに結んだ、お洒落な格好の年若い青年姿。
「景――」
わたしが今しがた思い出したばかりの育ての親。敬史さんのことを喰ってやると言っていた張本人。わたしは彼に掴みかかる勢いでベッドから片脚を下ろしました。ですがその所為で固定されていた点滴の針が動いて、わたしは身を抉られるような痛みに襲われました。そうして痛みに苦悶の声を上げるわたしを、景は表情も変えないまま、ベッドの上に押し戻します。
「景……敬史さんは」
景は涙目になったわたしにも、表情を微動だにさせません。ああ――やはり。
わたしはもう一度身を横たえたベッドの上で、絶望と喪失感と憤りのままに、腕を振り下ろしました。両の目の奥から湧いてくるのは熱い涙。ベッドの端に腰を下ろした景の腕を、何度も何度も叩きました。この不自由な身では、景に掴みかかることすらできなかった。
「ひどい――ひどいよ、景……!」
もう、敬史さんはいない。
景が彼を、わたしの代わりに喰べてしまった。
その事実は、わたしを奈落へ落とすかの如く打ちのめしました。わたしの脳裏で、赤黒い色彩がばっと閃きました。それはわたしが最初に喰べたあの彼の生々しい最期――わたし自身がこの爪で、牙で、その肉体を切り裂き、解体し、喰い荒らした時の記憶。敬史さんのあの熱い身体もまた、わたしが喰べた彼のように切り裂かれ、解体され、分解され――ああ、そんな無惨なことを考えるだけで、喉の奥には正体不明の衝動が込み上げました。
全てはわたしが景のもとまで辿りつかなかった所為であり、それは敬史さんへの食欲を抑えきれず、こんな風に自分を傷つけて死にかけた所為であり――ああ。
決まりきっている。わたしの、所為だ。
敬史さんにお別れをしたのは、彼を守り、生かすためだった。そのはずだったのに、全部、全部無駄になってしまった。彼はわたしと違って、この世に、人々に、必要とされる人だったのに。生きるべき人だったのに。彼を――彼の未来を、救えなかった。守れなかった。
――櫻子さん。
わたしのことをそう呼んだ心地よい声も、あのはにかみも、もう存在しない。
その事実は、気を失う前にわたしの中にあった敬史さんへの食欲という衝動すら、自分の内臓を失ったかのような喪失感で押し流しました。
わたしはいつしか拳を振り下ろすのも忘れて、景の腕を掴み、縋りつき、恥も外聞も遠慮もなく声を上げて泣き続けました。景への悪態の代わりに、嗚咽ばかりがこぼれました。
ですが、まるでその悲嘆を存分に聞いた、聞き飽きたという頃、景がようやく口を開きます。
「真田敬史は、生きてる」
わたしは最初、何を言われたのか分かりませんでした。瞼を泣き腫らしたわたしは、ぽかん、と間の抜けた顔で、景を見上げてしまいます。
「あれから新刊も出版して、元気にやっているようだぞ」
それから景は、眉根を寄せた不機嫌そうな顔で、わたしを見やりました。「おお
「景……彼を、喰べなかったの? ……どうして?」
「どうしてもこうしても……」
そこで、溜め息。
「なら――なら、早くそう言ってよ!」
「言ったところでどうなる」
わたしの文句に、景は口をへの字に曲げます。
「奴のお前に関する記憶は失われた」
え、とわたしはその場で凍りつきます。
今――なんて?
「とにかく、奴は無事だ。それにお前のことも。委員会の手を借りて、あの村の人々のお前に関する記憶を消してきた。お前が起こした事件も、警察に入り込んでる委員会の手の者によって揉み消された、というか、辻妻を合わせて処理された」
わたしは呆然としました。確かに景は、自分と逃げさえすればあとは委員会がどうにかすると言っていましたが――敬史さんの中の、わたしに関する記憶まで触れられるなんて――そこまでは、予想していませんでした。
敬史さんは無事。それはいい。けれど彼の中に、わたしはもう――。
その事実は、しばしわたしの一切の思考を停止させました。
……そうだ。それにどうしてわたしのために、委員会がそこまでしてくれるのでしょう。それがわたしには皆目分かりません。
いえ――わたしのため、ではなく、他の妖怪たちのためでしょう。一殺多生。それが委員会の精神だと、そういえば聞いたことがあります。
けれど当然、見返りは必要だったのです。
「お前は委員会に借りを返す必要が出来た。だから――」
だから、警察の――護持委員会の息のかかった「物ノ怪課」に、新米警察官の「丘野綾」として配属されることになった。
景のその言葉の後、わたしには、新しい人生が用意されたのでした。
*
警務課、交通課、警備課、地域課、刑事課、生活安全課――この国の警察署に「物ノ怪課」などという組織はありません。それが人間世界の常識です。
ですが、護持委員会は今や人間の世界に深く深く混じりこんでいます。それは警察も例外ではありませんでした。というより、わたしたち妖怪が何か人間社会に悪さをした場合、それは警察に嗅ぎつけられるというのが当然の流れです。ならば最初から警察に
委員会に大きな借りができ、それを返さねばならなくなったわたしは、委員会の指示と手回しの通りに警察官となり、物ノ怪課に配属されることが決まりました。委員会に生殺与奪を握られたわたしに、異論は一切認められませんでした。
そうしてわたしは退院後、人間に混じって警察学校に入学し、職場実習も経て、地方都市のK峰警察署地域課に配属されたのでした。
その日もわたしは、住居となっている安アパートから出勤しました。アパートの裏手に置いてある自転車にまたがり、K峰市管内を走り抜けていきます。
K峰市は県内で三番目に人口が多く、中小企業の多い都市です。その割に産業の中には国内で九十パーセント以上のシェアを誇る分野もあり、そのことで有名でもあります。駅の周辺は繁華街として賑わっていますが、街の中心部から少し離れれば一級河川が南北に貫流し、周辺の平野に広がるのはのどかな田園風景。そして住宅地があちこちに点在しています。わたしの住む安アパートも、そんな集落の片隅に建つものでした。
八時前にはK峰警察署に到着。四階建ての署の、一階にある交通課、警務課、会計課、地域課のデスクの脇を抜けて、二階の女子更衣室へ。挨拶をして入室すると、交通課の先輩が着替え終わったところで、挨拶を返してくれました。
定刻には四階の道場で朝礼が始まりました。井上署長の挨拶と訓令が終わると、皆は解散。わたしはこれから、勤務先の交番に向かうことになります。
四階からの階段を下りていると、背後から声がしました。
「やあ、おはよう。丘野巡査」
声をかけてきたのは、
「この間の夜の話だけど――」
羽鳥部長はほどほどの長身をかがめ、わたしの耳元で囁きます。この間の夜。わたしは何のことかをすぐに察しました。
「首尾は、上々だったみたいだね?」
そして彼は、続けて「よくやった」と晴れやかに笑いました。
この間の夜――そう、わたしが丸山に棲む天狗・丸ヶ岳坊さんから、行方不明になっていた少年を取り返した件です。
羽鳥部長――羽鳥
表向き刑事課に奉職する刑事をやっていますが、彼も物ノ怪課の一員であり、わたしの直属の上司となっています。
彼は刑事という仕事に似合わずどこか
とにかく、この署にいるあやかしは、現在は彼とわたしだけ。そのためわたしたちは、妖怪絡みの事件が起こると人間の警察官としての仕事の他に、物ノ怪課としての仕事が増え、恐ろしく多忙に過ごしているのでした。「人員増やしてくれって、いつも言ってるんだけどなあ」と、羽鳥さんはとほほとうなだれます。
「おれも刑事課の事案で忙しかったから、初めて綾ちゃん一人に任せて、ちょっと不安だったけど――成功して良かったよ。あの気難しいらしい天狗殿相手に、一体どうやったんだい?」
「どうって――普通にお話しただけだったと思いますが……ああ」
「何?」
「天狗風、というものを初めて見ました。鬼の手で十分返せるものなんですね」
「……なるほど」
わたしたちの間に一体どういうやりとりがあったのかを、羽鳥さんも何となく察したのでしょう。「丸さんも鼻っ柱を折られて、不憫なこって」と、丸山の方角を見やりました。とはいえ、その口調はむしろ楽しそうだったのですが。
「あ、また羽鳥部長が新人を口説いてる」
その時階段の踊り場にやってきた女性警察官の先輩が、話し込むわたしたちを見て口を尖らせました。
「口説かれてません」
「口説いてない口説いてない」
お互いきっぱり言って、さっと距離を取りました。物ノ怪課の仕事のために連絡を取ることの多いわたしたちですが、たまにこういう風に言われるのには閉口します。羽鳥さんには、羽鳥さんと同じ種族の妖怪である奥さんとお子さんがいらっしゃるのに。誤解の起こらないよう、わたしも前に一度、奥さんやお子さんにご挨拶に行ったことがありました。何とも優しくて、素敵な奥様でした。羽鳥さんは尻に敷かれているそうですが。
「じゃあね、期待の新人。これからも頼りにしてるよ」
羽鳥さんは器用に片目を瞑って、自分の所属部屋に向かいました。羽鳥さんの上司である刑事が、入口から「くぉら、羽鳥! 遊んでんな!」と凄みを効かせていたからです。
わたしはそれを見送って、自分も署を後にしました。ここから管内の交番までは自転車です。
近頃は、すっかり風が気持ちよくなりました。
*
わたしが交番に到着して挨拶すると、泊まり明けである
「何を見ていらっしゃるんですか?」
わたしが二人の輪に加わると、地図の上に広げてあったのは、一冊の週刊誌でした。
『事件か家出か神隠しか!? 一週間ぶりに発見された行方不明少年!』
週刊誌の灰色がかった安紙にでかでかと書かれていたのは、そのような見出しでした。
「これは……」
自分で言うのも恐縮ですが――これは先日、わたしが丸ヶ岳坊さんと相対して解決した事件のことでしょう。
実はあの事件は、警察の必死の捜索にも関わらず、涼馬くんの足取りが一向に掴めなかったのです。もちろん、市や県をまたいでの合同捜査も行われました。けれど甲斐はなく――そこでわたしや羽鳥さん、近隣の署の物ノ怪課の捜査員たちが妖怪の情報網を駆使して聞き込みを行った結果、丸山の天狗が捜査線上に上がったのでした。
丸山の天狗――自らを丸ヶ岳坊と名乗る天狗は、ここ最近丸山にやってきたようです。もとは隣県の大山に住まう天狗たちの仲間だったようですが、仲間割れを起こして山にいられなくなり、一人日本の空を彷徨った挙句、あの小山に居を定めたとの噂でした。
その天狗が、近頃夜な夜な人間の男の子を背負って空を舞っている――そんなタレコミがあって、わたしが現場に派遣されたのです。その結果は、御覧の通り。
「好き勝手書かれたもんだよなあ。いくらこの辺りに、昔天狗の言い伝えがあったからって」
そう言って苦笑するのは、もう五十に差し掛かる杉田所長です。まだ二十代半ばの巡査部長である元木さんは、正義感の強い彼らしく、不機嫌そうに湯呑のお茶を啜りました。
「何が天狗だ、神隠しだ。人間のやったことに決まっている」
わたしはちょっと失礼して週刊誌を手に取り、その記事を読んでみました。
……なるほど。この管内や近隣が徹底的に捜索されたにも関わらず、七日目にひょっこりと現れた涼馬くんのことが、やはり不思議がられているようです。わたしは保護した彼が目覚める前に、交番のすぐ傍のベンチに、彼を横たえてきました。その際、わたしの報告を聞いて本部から駆けつけた別のあやかしが、彼に暗示をかけたのです。
「お父さんやお母さんが心配しているよ。すぐ前の、交番に来るんだ」
そうして、天狗と共に過ごした六日間のことも、あやかしは忘れさせてきたのでした。
「どうせ少年を自分の家に連れ込んでいた犯人がいるんだ。『何も覚えていない』だって? きっと犯人は顔見知りで、少年は犯人を庇っているんだろう!」
徹夜明けの元木さんは、唾を飛ばす勢いで息巻きます。
「でも、これ以上の捜査は不可能なのでは……? 涼馬くんの証言でもない限り――」
「ああ。それが歯がゆいもんだ!」
本部から来たあやかし――
しかし、涼馬くんがあの天狗により何らかの悪戯や暴行を加えられた可能性は捨てきれません。その後の調べで外傷は見つからなかったそうですが――万が一、彼が心的外傷を負ったとすれば、記憶は消しても彼の人生に悪影響が起こる可能性があります。そのため妖怪の精神科医により、彼の精神的な治療は継続して行われるそうです。
わたしたちは妖怪とはいえ、護持委員会の指揮の下、人間と共存するためにここまでのことをしていました。しかし犯人が妖怪である以上、人間の警察があの天狗を捕まえることは出来ません。というか、委員会が捕まえさせません。では、妖怪の世界であの丸ヶ岳坊
人間の世界の司法に比べれば、護持委員会の妖怪に対する司法は、甘いといえるのかもしれません。――それは、わたし自身の事例が物語っていることです。
彼ら委員会が本気になれば、わたしなど一捻り、あっという間に殺されておかしくありません。しかし生殺与奪を握った上で、利用できるものは利用する――それが委員会のやり方であることも知りました。羽鳥さんや景によれば、わたしのような例はかなり存在するようです。警察組織についても、署によっては妖怪自身が署長を勤めている署もあるとの噂。――まあ、そもそも県警本部や警察庁にすら妖怪は入り込んでいるのだから、今更驚くべきことではないのでしょうが。
こうして護持委員会に命を握られた身とはいえ、わたしにも、善良な警察官として生きることは許されているようでした。生きていれば――生きていさえすれば、また流れが変わることはある。
それは、事件や不慮の事故に遭遇したご遺体を見る度に、わたしが改めて想到するところでした。
その日泊まり勤務であったわたしは、交番で一夜を明かしました。泊まりとは朝からの二十四時間の勤務のことで、夜間には班に分かれ、仮眠は交替で四時間ほどとることになります。
今回は幸いというべきか、夜間パトロール中、在所勤務中も大きな事件は起こらず、溜まっていた書類仕事も順調に片付いています。仮眠も三時間ほどは取れました。そうしてわたしは早朝の交番の外で、立番を行っていました。
制服の上に身に付けた対刃防護衣や
近頃、朝晩はすっかり夏の気配が遠ざかり、秋が来るんだなあと感じるような涼しさです。半袖の制服から伸びた腕が、その涼気に微かに震えるほどです。かと思うと、東に見える遠い山々の輪郭の向こうから暁光が差してくると、その陽光はまだじりじりと肌を焼く暑さをもたらすのでした。わたしは未だ残る眠気を振り払い、徐々に増えてくる大通り――通称さくら通りの交差点の車の流れ、人の流れを、じっと眺めていたのでした。
そして泊まり勤務の終盤に行われるのが、交番から南二キロほどにある小学校、その小学生達の集団登校を見守る、交通
「おはようございます、あやちゃん!」
通り際、口々にそんな風に挨拶する子供たちに、わたしも「おはよう」と笑います。わたしが交番勤務の警察官の中では一番年若い所為か、小学生たちはわたしに親しみを持ってくれているようでした。微笑ましく、嬉しいことです。
既に顔見知りとなった小学生たち――その中でも一際人懐っこいのは、「ますおかあや」という名札をつけた、二年生の女の子です。前にわたしがこの子たちに名前を訊かれ、「おかのあや、ですよ」と答えると、「わたしも『あや』なの。いっしょだね!」と嬉しそうに微笑み、以来わたしの名前を覚えてくれたようでした。
時折、思うのです。
警察官として働くようになったこの日々は、「償い」なのだと。
わたしは昔付き合っていた彼を妖怪として殺してしまった上、彼の遺体を喰べました。その後雨の夜の中を歩き続けた時も人間を殺し、あの村に住んでも人の味が恋しくなって、また妖怪としての食事をしていました。
そうして奪った、人々の命。
わたしが生粋の妖怪なら、そういったものに罪悪感を抱くことはなかったのでしょう。ですがわたしは、半分は人間です。やはり冷静になってみれば――そしてこの仕事で様々な事件に遭遇して被害者を前にしたり、また人の命の儚さやご遺族の言いしれない悲しみに直面したりする度に、人の命の重みというものが、この身に拭いがたくのしかかるのです。
怪我が治って警察学校に放り込まれた時は、それまでの大学生活やアルバイトなど比較にならないくらいの、厳しい一年強の日々でした。それまで受けたことのなかった厳しい叱責の声。体力的についていけない運動と訓練。外出もほとんど許されず、早寝早起きの規則正しい生活に、日々進んでいく法学、一般教養、術科・体育、実務などの勉学。
特に、外出も許されない最初の一ヶ月はつらかった。睡眠時間も足りなくて気力体力共に消耗し続けるだけでなく、鬼としての飢えに悩まされ、同期や先輩方、教官たちの顔がただの食すべし肉塊に見えるほど朦朧としたことも一再ならずでした。
けれど。
講義のマラソンで遅れがちになったわたしを、背中からそっと押してくれた男の子。
土日の自主的なジョギングに付き合ってくれた女の子。
食堂での昼食のからあげを、「しっかり食って体力つけろよ」と分けてくれた男の子。
試験前、問題を出し合って一緒に勉強した皆。
わたしにとって警察学校での日々は、途中で失ってしまった大学生活の代わりのようなものでした。わたしは、日々労苦を共にする仲間たち、そして優しさの裏返しである厳しさを見せる教官たちに支えられたのです。そんな彼らを本能のままに鬼として害するということは、彼らを裏切ることに等しかった。また、わたしが委員会に処罰されて殺される未来にも繋がり、与えられたチャンスを無に帰すということでもありました。
わたしは必死に、飢えを
こうして生き延びてしまった以上、わたしにはやるべきことがある。警察官となって市民の方々を守り、委員会に属するあやかしとして、敵対するあやかしを退治する。そうすることが、わたしの『食事』で犠牲になった人々への償いなのだと。わたしはそうして償いをすることしか許されないのだと思いました。わたしは、前に進むしかなかった。
……羽鳥さんは、親切な妖怪です。それに、刑事としても物ノ怪課の妖怪としても優秀。非番の日は、二人で飲みに行くこともあります。彼は今年この署と交番に配属されたばかりのわたしの相談に、いつも親身になって乗ってくれています。
ですが羽鳥さんのそれらの行為は、わたしの監視も兼ねているのでしょう。わたしは「前科持ち」ですから、無理もないことです。以前のように、そこらの人間を勝手に食べることは、もう許されません。
とはいえ、警察学校での日々や警察官としての日々は、結果的に、わたしに克己心を育ててくれました。初めのうちは、警察学校で週末の休日が来る度に、景に連れられて妖怪専門の――つまり人肉を扱う店に連れていかれて食事をし、理性を休ませていたわたしでしたが、警察学校での日々が続くにつれて、その間隔も間遠になりました。
そして学校を卒業する頃には人の肉を食べなくても平気になり――というか、逆に食べると罪の意識が募るだけなので、食べる方が気持ち悪くなりました。
わたしにはもう、こうして目に入る市井の人々を食べようという気持ちは湧きません。むしろ、一口でもまた食べてしまったら、鬼としての本能にスイッチが入ってしまいそうで、それが怖くて食べられないのです。
――きっと、幸いなことに。
交番勤務を終えたわたしは、未決済の書類を携えて署に戻りました。それぞれの課に書類を提出し、拳銃と警察手帳を署に預けるなどの処置をすれば、非番は目の前です。
更衣室に戻って制服から私服に着替えると、ロッカーの奥で、パタリと紙袋が倒れて音を立てました。ああ――仕事が終わったら読もうと思っていた、先日本屋で買ってきたばかりの文芸雑誌です。月刊であるその雑誌の表紙では、有名人がお気に入りの本を片手にポーズを決めています。わたしはそれを一めくりし、目的の記事を探しました。
ほどなくして――作家に新作に関するインタビューを行った特集ページが見つかりました。そこでインタビューを受けて微笑んでいる人物――それは。
わたしは久しぶりに目にした彼の姿に、思わず口元に笑みがこぼれました。たまらなくなって、そっと雑誌を胸に抱き締めます。
今も変わらず、大好きな人。
今も変わらず、わたしの「一番美味しい人間」のひと。
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