十一

 暗く、暗く、どこまでも暗く――星が微かにまたたき夏の果てが近づく夜が来ました。

 わたしは丑三つ時もとうに過ぎた頃、一度入った布団から起き出して、浴衣から黒いワンピースに着替えました。音を立てないように気を付けて、布団も畳みます。二階からの物音はしません。――そろそろ、敬史さんも眠っている頃だと思います。

 景が帰っていった後――わたしは、この家を出て行くことに決めていました。警察と護持委員会の手を逃れるため、景と一緒にどこか遠くへ行く。――その覚悟を決めました。

 持ち物は、鞄に入れた敬史さんの三冊の著作だけ。それで十分でした。後のことは、景と一緒に行けばどうにでもなります。

 けれど最後にどうしても、わたしは一目、敬史さんの顔が見たかった。足音を立てないように気を付けて、二階への階段を上っていきます。パソコンのキーボードを叩く音もせず、部屋は静まり返っています。――わたしは彼が眠っていることを願いました。

 部屋の襖をそっと開けると、敬史さんは印刷した原稿を広げたまま寝入ってしまったのか、布団も敷かずに畳の上に横になり、パソコン用の眼鏡を掛けたまま眠りこけていました。小さく笑んだわたしは彼の眼鏡を外して机の上に置き、部屋の隅で畳まれた布団の上にある、タオルケットを彼のお腹にかけてあげました。

 ――このまま傍にいたら、わたしはきっと、自分を御しきれずに敬史さんのことを喰べてしまいます。

 それは嫌なのです。わたしに流れている半分の人間の血が、彼を喰べることを拒否していました。彼には生きていて欲しい。彼は生き延びるべき人だ。そう思うのです。

 どうせ、わたしはもう敬史さんの傍にはいられないのです。――そう、限界。わたしはここでの日々に限界が来ていることを従容と受け容れることにしました。彼を喰べて委員会の手にかかって死ぬか、彼を喰べずに離れるか。どちらかしかないのです。

 わたしはここから去っても、敬史さんをずっと想い続けます。彼に生きて幸せになって欲しいから、彼を喰べずに去るのです。そうして、景からも敬史さんを守る。それでいい。それでいいのです。

 敬史さん。……敬史さん。

 ありがとう。

 ここに来た時のわたしの傷は、あなたのおかげで癒えていったように思います。人間がわたしたち妖怪を受け容れてはくれないものだと分かっていても、あなたと出逢えたことを、わたしは嬉しく思う。あなたが病にかかったことを無駄ではなかったと言ったように、わたしもここでの日々が、無駄ではなかったと思える。

 あなたの傍にいるだけで、わたしは満たされていたのです。あなたとの日々が、わたしに束の間の幸せを与えてくれた。かつて、わたしが喰べたあの彼のように――いえ、あの彼よりも、あの頃よりも、ずっと、心の奥まで染み入るような幸せを。

 あなたがいつかまた、思う存分バスケをできる日が来ますように。あなたが本当にやりたいことができますよう。あなたの幸せを願っています。

 あなたが好きです。――あなたが好きです。

 横たわる敬史さんの頬に、わたしの涙が一筋落ちました。わたしは涙を拭い、立ち上がります。

 直接お別れは言えなさそうです。いえ、それで良かった。朝が来る前にここを去らなければ、景が敬史さんを喰べに来てしまいます。そうならないために、わたしは早く、村の入り口に行って、彼を待たなければ。

 わたしは襖に手をかけました。けれどその時――うん、と後背こうはいから唸り声がしました。

「……櫻子さん?」

 声がしました。

 もう二度と聴くことはないと思っていたその声に、――夕方も聞いたばかりなのに、不思議に懐かしいくらいのその声に、わたしの目の奥から雫が湧きます。

「どうしたんですか。こんな夜更けに……そんな格好で」

 わたしはいつも、寝間着には浴衣を着ていました。外へ出るようなワンピース姿、それに鞄を携えているわたしに、敬史さんは不審を覚えたようでした。最初まだ眠たげな風情が残っていた彼の声は、徐々に意識を覚ましていきます。

 振り向いたわたしは、無理やり笑顔を作りました。

「……新しく、住む場所が見つかりました。だから、ここを出て行きます」

 必死に平静を取り繕い、咄嗟の嘘をつきました。けれどまばたきした際に、睫毛に乗っていた涙が一筋、したたりました。敬史さんの黒い瞳は、じっと射抜くようにわたしを見ています。

「――嘘ですね」

 彼はタオルケットをどけて立ち上がり、わたしの前まで距離を詰めてきました。

「警察が来たからですか」

 わたしは肩を震わせて、眼差しを落としました。反論できない。わたしは――多くの人間を喰らってきたあやかしです。人間の社会でいえば、人殺しをした犯罪者です。

 それがたとえ事実でも、敬史さんにそんな目で見られることは、……耐え難く思いました。自業自得だというのに。

「……知っていました」

「え?」

「俺が眠っている間、時々、雨の夜に櫻子さんが外に出て行っていたこと。『何か』の後、血に濡れて帰ってきていたこと」

 わたしはしばし、言葉を失いました。

「いつから……気付いていたんですか?」

 彼の態度は、ずっと変わりませんでした。永井さんのように、わたしを警戒することもなく。――一体、いつから。

「あなたを最初に、連れて帰って来た時から」

 全くの予想外の答えに、わたしは呆然としました。敬史さんが苦笑します。

「嘘をつくのは、あんまり得意じゃないんですけどね」

 あの桜並木の河川敷で倒れていたわたしを連れ帰って来た敬史さんは、びしょ濡れ、泥まみれのわたしを着替えさせたそうです。誰かしら女性の方に頼もうとしたのだけど、その日は町内会の温泉旅行で――皆が出払っていた。だから仕方なく、彼がわたしの身を清拭し、浴衣に着替えさせていたのだと、敬史さんは明かしました。

「変なことは一切してませんから、安心して下さい」

 敬史さんは今更、そんなことを言います。

 けれど脱がせてみて驚いたのが、わたしの下着は血で真っ赤だったこと。黒いワンピースも、洗ってみればどんどん赤いものが流れ出てきたといいます。わたしが怪我をしていないことは、清拭した時に分かっていました。だったらこの血の量は何なのか――彼は当然訝しみました。わたしが何か事件に巻き込まれて逃げて来たのか、それともわたし自身が、何か事件を起こしたのか。

 それでも敬史さんは、高熱にうなされ涙を零すわたしを放っておけず、警察にも病院にも連れて行けずに、看病をしてくれたのです。

「他の人に相談するにも相談出来ず――結局、あなたが快癒して目覚めるのを待っていた。あなたが何者なのか、様子を見ていたと言えばその通りです」

「でも……わたしが『何か』をしていたことには気付いていたんでしょう? どうして、放っておいたんですか?」

 そんな危険な相手と一つ屋根の下で暮らすなど、生きた心地がしなかったのではないでしょうか。なのに――敬史さんの態度はやはりずっと変わらなかった。最初にわたしがここで目覚めた時からずっと、優しくて物柔らかで、――秘密主義で、毒舌で、ひねくれていて、でも――優しくて、正しい人。それが敬史さんでした。

「あなたに対する好奇心――それがまず立ったから、でしょうか」

「好奇心?」

「ええ。血塗れの衣服でこの村に突然現れた女性。何があったのかを、この耳で聞いてみたかった。そういう下世話な、野次馬的な好奇心ですよ。でも――」

 敬史さんは視線を下げます。

「何度も、あなたに問いただそうとはしました。でも、出来なかった。考えれば考えるほど、事は警察沙汰である気がして――そして訊いてしまえば、この日々が終わるのだと思いました。あなたとの時間は、思いのほか居心地が良かった。俺の好奇心は、『あなたの身に何が起こったのか』から、『あなた自身』に向かっていった。ここに来るまでに何があったのかを訊けば、あなたが警察の手に落ちれば、きっと二度と会えなくなる。……俺には、それが耐え難かった」

 こんなの、善良な市民としては間違っていますね。敬史さんは自嘲の笑みをこぼします。

「俺は、櫻子さんが殺人犯だろうが何だろうが、構わなかったんです。殺されたら殺されたで、仕方ないと思った。俺は、櫻子さんになら、殺されてもいいと思ってた」

「……どうして」

 わたしは軽い眩暈を起こしたような心地で、半歩下がりました。

「どうして……そんなことを言うんですか」

 彼の言葉は、わたしのここから出て行くという決意を踏み潰しました。そしてなぜ敬史さんがここまで言うのか――わたしには皆目分からなかった。

「生涯癒えることのない病に侵され、本当にやりたいことも出来ない生に、何の意味があるというんです。……生きながら死んでいるようなものですよ」

「だって……小説は?」

「小説は……もう、仕事ですから」

 悲しげに微笑む彼からは、諦観の滲んだ死の匂いがしました。

 以前、やれるものならまたみんなと一緒にバスケをやりたいと言っていた彼。目を赤くし、声を湿らせていた彼。――敬史さんはわたしの予想以上に、バスケに焦がれていた。彼の絶望は、わたしが思っていたよりもずっと深かったというのでしょうか。

「敬史さんは……もっと強い人だと思っていた」

「あんなの、ただの強がりです。……幻滅しましたか?」

 わたしは首を横に振りました。その絶壁の前に佇むような絶望が、わたしまで悲しかった。そして死さえ望む彼の弱さに――わたしはますます惹きつけられただけでした。

 涙の伝った頬に、敬史さんの手が触れます。

「行かないでください。ずっと、俺の傍にいてください。警察にどう勘繰られようと、知らぬふりを通せばいい。ここに居られないというのなら、二人で遠くへ逃げたっていい」

 わたしの頬から首へ、首から背中に回った腕が、わたしを抱き締めました。思っていたよりも頑丈な――それでも内側を癒えぬ病魔に侵された敬史さんの身体が、熱かった。耳元に触れた吐息は、それよりもなお熱かった。

「俺は、あなたと一緒だと幸せなんです」

「敬史さん……」

「昔の彼女のことも、自分のことも……あなたに聞いてもらったことで許せた。あなたと一緒にいて幸せでいたいから、許せたんです。心にしこりが残ったままでは……本当に幸せにはなれなかったから」

 わたしの強張った身体の緊張を奪う心地よい抱擁の中で、わたしは涙腺が壊れたように泣きました。まるで夢を見ているかのように嬉しかった。わたしも、あなたと一緒だと幸せです、と、泣きながら囁きました。

 久しぶりの人肌の――敬史さんの温もりの心地よさに、わたしは恍惚として身をうずめました。支えてくれる腕は力強く、景との待ち合わせの刻限が迫ることなど忘れてこのまま時が止まってしまえば、どんなに幸福であろうかと夢見ました。

 わたしを抱き締める腕が拘束をやや緩めると、視界に敬史さんの顔が入ります。

「一人で出て行くというのなら、俺を殺してから行ってください」

 わたしの両手をとった彼は、その手を自分の首へと導きました。このまま力を込めれば、彼を縊り殺せる――あの人たちと同じように、容易く。

 けれど――嫌です。そんなこと、出来るわけがありません。

 わたしは首を横に振り、敬史さんの首から無理矢理手を離しました。彼の黒く艶めいた瞳も、潤んでいました。見つめられ、見つめ返すと、一息に柔らかな唇を重ねられます。

 壊れ物を扱うような、優しい口付け。わたしたちは言葉を失った代わりに、絡めた指と触れる唇で、意思と想いを伝え合いました。

 求められた分、求め返して。口付けは次第に貪欲なものになりました。支えを求めて彼の背中に手を伸ばし返した時、わたしの腕から鞄が落ちました。畳の上に転がった鞄からは、敬史さんの三冊の本が覗きます。それに一度視線を向けたわたしの余所見を咎めるように、敬史さんはゆっくりと、わたしを押し倒しました。その力に、わたしも抗いませんでした。彼はわたしが最初に喰べたあの彼よりも不慣れな手つきで、もどかしそうにわたしのワンピースのぼたんを外していきます。

 ――それすら、愛しい。

 求められて、求め返して。目の前にある敬史さんの喉仏が上下するさまを、わたしは見つめました。(この)(喉仏を)指で触れれば、彼がくすぐったそうに小さく笑います。(喰いちぎって)(ああ)(ああ、なんて)(なんて美味しそうな)(このひとの血は)(肉は)(髄液は)(どんな味が)(するの)(かしら)――。

 逆光になった敬史さんをうっとりと見ていたわたしは、慄然りつぜんとして目を瞠りました。恍惚と紛れ込んでくる妖怪としてのわたしの声。彼の背中から肩に回していた自分の右手が、あやかしとしてのそれに(これに)戻っていました。わたしは戦慄し、思わず左手で敬史さんを押しのけます、

「――いや!」

 右手を隠すように胸に抱いたわたしは部屋を飛び出し、階段を駆け下りました。左右を見渡すと、台所前の廊下の先にある、蔵に飛び込みます。木製の引き戸に、中から鍵をかけました。――敬史さんに、この姿を見られたくなかった。想いの通じ合ったばかりの彼に、拒絶されるのが怖かったのです。それに――、

「櫻子さん!」

 遅れて、敬史さんが追いかけてきます。鍵の掛けられた扉の向こうに、少し上がった息を整える彼の気配があります。(ああ)(ごちそうが)妖怪としてのわたしが(この向こうに――)彼の気配に歓喜しています。膨れ上がるその欲求――ああ、だめ、抑えられない!

「――いやだったのなら、謝ります。そんなことを強いることもしません。だから」

「違う……違うんです!」

 妖怪としての姿に勝手に戻った右手が、扉の鍵を外したがっています(早く)わたしは残った人間としての左手と理性で(ここを)(開けて)それを必死に抑え込みます(おなかが)今にも敬史さんを喰べに行ってしまいそうな自分を(すいたの)搔き抱いて抑え込み(たかふみさん)喉の奥で嗚咽を漏らしました。

(げんかい)(限界)(げんかいだ)そう、もう――隠しきれない。

 わたしはバケツの底が抜けて水が一気に流れ出すように、口早に真実を語っていました。

「わたしは、あやかしです。妖怪なのです。人を化かす狐なのです。人を喰らう鬼なのです。どちらでもあって、どちらでもないんです……!」

「櫻子さん――」

「わたしたちは、化けるのです。人間を喰べるのです。わたしは、敬史さんを喰べたいんです、嫌、――いや! 違う! 喰べたくないんです! 喰べたくて仕方ないのに、敬史さんを失いたくないんです! 敬史さんには、生きて、いて、ほしいのに……っ」

 扉に背中を預けたわたしは両手で顔を覆いました。もはや両手は、あやかしとしてのそれに戻っています。鋭い爪が、わたしの切り揃えた前髪を掠めました。

「なのに……殺されてもいいだなんて……そんな悲しいこと、言わないで……」

 生きてさえいれば、可能性はゼロじゃない。どんな夢も、いつか叶う時が来るかもしれない。死んでしまったら、それまでなのに。

「櫻子さん……」

 わたしたちの間の静寂に、わたしの嗚咽がひび割れのように響きました。扉の向こうから聞こえた声もまた、途方に暮れているようでした。わたしは真っ暗な蔵の中で――いえ、ゆるゆると払暁ふつぎょうの近づきつつある空の僅かな明るさが高窓から流れ込む中、大きな爪の生えた両手で、止まらない涙を拭い続けました。

 喰べてしまったら、もう逢えない。たとえ、わたしが敬史さんに化けられるようになっても――鏡に映る『敬史さん』を見ても、それは敬史さんじゃない。わたしが望んだのは、ここでの暮らしみたいな――(けっこん)穏やかで、幸せな(むり)(限界)(だったらいっそ)(喰べてもいいって)代わりなんていない。この世に敬史さんがいなくなる――その哀しさに耐えられない。なら、遠く離れていても(喰べてもいいって)隣にいるのがわたしじゃなくても(喰べてもいいって)あなたが生きていてくれた方がいい!(死んでもいいって)もう決めたの! 揺さぶらないで!

 半端なあやかしの血なんか要らなかった。人間が良かった。人間が良かった。――人間が良かった!

 わたしにあやかしの血を混ぜた、母を憎みました。憎んでしまいたかった(お父さん)なのに、憎めないのです(お母さん)(ひどい)(ひどい……)愛してくれなかったのに、肯定してくれなかったのに、(愛して)(ほしかった)わたしは母を憎みきれないのです。

 敬史さんを愛していながら、敬史さんの気持ちに心震える歓喜を覚えながら、彼に身を委ねることもできない(おなかが)身を委ねれば、それと同時にわたしはあやかしとしての本能で(すいた――)彼を喰べてしまう。その一方で(もう)一番喰べたいものを――敬史さんを喰べることを(げんかい……)人間としてのわたしが拒んでいる。

 どの気持ちも解き放てない(たかふみさんなら)(きっと)母への憎しみも(ゆるしてくれる)敬史さんへの想いも(受け容れてくれる)(喰べてもいいって)人として彼に身を委ねたいという気持ちも(喰べてもいいって)(たかふみさんの)彼と離れたくないという気持ちも(血)(肉)(骨)(どれもきっと)彼を喰べてしまいたいという欲求も――(すごくおいしい)(甘い)(いつかの血の味)(きっと何よりも)(誰よりも)(いちばん)(おいしいごちそう)(扉の向こう)(喰べたい)(喰べたい)(喰べたい)(喰べたい!)――違う、違う違う違う違う違う! 望んでない! 望んでない!!

 わたしは滅茶苦茶な悲鳴を上げました。今すぐにでもこの鍵を開けて彼のもとに行きたい(喰べさせて)彼を喰べてしまいたいという欲求と闘い(おねがい)自らの腹に爪を立てました(おなかすいた)ワンピースの生地が裂けたその下にあったのは(のどかわいた)もはや妖怪としての醜い姿(ひからびて)その肌でした(しまう)わたしはじぶんの鋭利な爪で(たりない)その肌を引きさきました(いたい)何度も何ヶ所も(いたい)引き裂きました(いたい)そうでなければ(いたい)この飢えを、渇きを(いやだ)欲求を、おさえることができなかった(いたいよ)わたしの人間としての理性に抗う妖怪としての身体が(やめて)何度も蔵のとびらに体当たりをしました(邪魔)(しないで)敬史さん、にげて(いかないで)と、わたしは悲鳴をあげながら叫びました(わたしは)飢餓に暴れる自分をおさえるために(いくの)牙を腕にたて(あっちに)爪をより深く食い込ませました(かれを)爪は骨をわり(喰べに)その中の袋状の内臓をもきり裂きました(いくの)いくつも切り裂きました(いたい)わたしは自分が動けないように(いたいよ)動かなくなるように(もう)そのいたみに絶叫を上げながら(やめて)自らを力が続く限り(やめて……)切り裂きつづけました。

 ――吐息は浅く(いや)荒いものに変わりました(いや……)自らを殺傷する爪が、凍りついたように動かなくなります(しにたく)妖怪であるわたしにも(ない)生命が自死をこばむ古い意志はやどっていたのか(ああ)恐怖でその手を止めようとします(いきたい)それでもわたしは(いきたい)ふるえながらも(しんだら)泣きながらも(どこへ)爪を振るいました(いくの)そうしてやがて――震える膝が力を失って(きえるのは)蔵の冷たいゆかの上に倒れました(こわいよ――)

 薄日に浸され始めた視界を(いたい――)赤い(あかい――)池が広がっていきます。血の臭いが(ちからが)体液の臭気が蔵のなかに充満して(はいらない)わたしの嗅覚と頭の芯をジンと支配しました。

 その時、わたしが鍵をしめた扉に、硬い衝撃音がぶつかりました。(何かを)破れた胃の腑を縮ませるような音はなんども(わるような)繰りかえしぶつかって(破壊の)(おと)扉を削って(刃物)やがてかけらを落としたようでした(おもい)割れた扉から差しいれられた(はもの)敬史さんの腕が鍵をはずし(それで)彼は小屋からとってきたらしい斧を片手に(わたしを)蔵にはいってきました(殺すの――?)

「……櫻子さん……」

 敬史さんのきらした息が、蔵の中に響きます。

 彼の手から、斧がおもい音を立てて捨てられました。

 未だうすぐらい蔵の中を(……いたい)彼が一歩、また一歩と倒れたわたしに向かって歩を進めます(こないで)自らをひき裂いて血で汚れて(こないで)ぼろ雑巾のようになったわたし――ああ(喰べても)敬史さんにはみられたくなかった(いいの?)こんなわたし、こんな、醜くはんぱな妖怪の姿なんて(もう)(すべては)(終わり――)

 ――前頭部から伸びた、二本のつの。

 獣に近い耳(狐)(お祖母さん)大きな牙を秘めた口もと(鬼)(お祖父さん)顔は人間に(お父さんに)似ているかのようで人間ではなく――。

 二本足で立つ身体は頑強なわりに(いたい)背筋がまっすぐ伸びることはなく(いたい……)臀部には三又のふさりとした白い尾があります。

 手足は大きく(おなか)爪は鋭く(すいた……)その力はにんげんのそれを優に越し。

 わたしはその爪と牙で(うごけ)(ない)我が身をきずつけつくしました(いきが)鋭利な爪はわたしのはだかの肌をやぶき(くるしい)肉を裂き(のどが)内臓までやすやすとたっしました(からから……)破いた内臓からは、血と、生臭かったり酸っぱかったりする液体が溢れでています。

 起きあがるちからをなくしたわたしの脇に(くる)血と体液の池の中に(しい)敬史さんがへたりと両膝をつきました。

 わたしのよわよわしい吐息だけがあかつきのしじまに響くなか(くる)かれはしばし(しい……)声もなくわたしを見下ろしているようでした(ああ……)みにくく無惨なすがたを彼の目にさらすわたしには(みないで)泣きたくなるほどの(みないで……)痛々しいほどの沈黙でした。

 ――それでも。

 わたしの両目から、(あつい)おおつぶの涙がにじみます。

「……たかふみ、さん」

 わたしは、決めたから。

 たとえどんな、さいごになっても。

 あなたに(かれには)つたえると、(つたえられなかったぶん)きめた、から。

「いままで――ありが、と……」

 わたしののどが、こわれた嗚咽のおとをたてました。彼が、息をのんだけはいがありました。

 やがてその手は、おそるおそる(さわら)わたしにのばされます(ないで)彼はまだわたしの身体に(よごれて)熱がのこっているのを感じとると(しまう)わたしを抱き起こしました(いたい)血でよごれることも、かまわずに(どうして……?)

「……何だっていいって、言ったじゃないですか」

 わたしの頬に、ぽたりとしずくがおちました。これは――なみだ?

「『俺』を見つけてくれて、傍にいてくれた櫻子さんが……俺にとっての『あなた』なんです。あの日苦しいと、泣いていたあなたが……」

 櫻子さん。櫻子さん。敬史さんが、なんどもわたしを呼びました。かれに介抱されたあと、わたしがとっさに名のったあの名前を。

 わたしは敬史さんに、この名前でよばれるのが好きでした。心になじむ、彼の心地よいこえが好きだった。

「いかないでください。俺を置いて――」

 声をつまらせた敬史さんが、ぐっと息をのみこみます。わたしのもとまでつたい落ちる涙にしめりきった声が、どこかあまくかなしくささやきます。

 わたしはその時になって、『わたし』が敬史さんからいちばん欲しかったことばがなんだったのかを知りました。

 わたしは、たぶん。

 人間であるじぶんと妖怪である自分に、まどっていたのでは、なく。

 みにくい、おそろしい、あやかしでもあるじぶんを、じぶんじしんで、受けいれられなかったのです。

 そして、おかあさんと、おなじように。

 妖怪であるじぶんも、あいしたひとに、受けいれてほしかった。

 けれど――ああ。

 ああ。

 とめどなく流れでていくわたしのちしおも、涙も、敬史さんのうでもなみだもといきも、こんなにもあついはずなのに。

 まぶたが……もちあがらないのです。

(いたい)指さきから、 つまさきから (いたい) ちからとねつを失っていく (さむい) わたしは――(さむい……)わたしは、

 もう、 その、 こえに (おなか) こたえ る (すい) こと  が、 で き   な   イ



<第一部・完>

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