数日後の昼下がり。暑さはまだしずまることなく続いていて、洗濯物を干したり取り込んだりするために庭先に出るだけで、汗をかいて、容赦なく照りつける陽射しで眩暈を起こしそうです。

 わたしが洗濯物を取り込んで、テレビを見ながら扇風機の前で洗濯物を畳んでいた時です。玄関の外で車が止まる、いつもの――敬史さんの車のエンジン音が聞こえてきました。彼が帰って来たのです。やがて「ただいまです」と言って台所に入って来た彼の片腕には、数冊の本が抱えられていました。図書館に行ってきたのでしょう。

「お帰りなさい。外は暑かったでしょう。麦茶でも飲みます?」

「はい。――というか櫻子さん、エアコンつければいいんですよ。倒れたらどうするんです」

「いえ、今日は風がよく通ったので……」

「それはそうかもしれませんけど」

 窓を閉めた敬史さんは、エアコンのリモコンを手に取り、冷房のスイッチを入れました。吹き出し始めた冷ややかな風が、わたしの前髪を揺らします。後ろ髪が伸びてきたおかげで、最近は一つ結びが出来るようになっていました。

 グラスに入れた麦茶をわたしから受け取った敬史さんは、テレビ――お昼のワイドショーに目を注いでいました。

「……人間って、人の不幸やゴシップが好きですよね」

その眼差しと口調は、どこか冷めています。敬史さんは、ぐいと麦茶を呷りました。

「俺も作家になってすぐ、あれこれ言われましたから」

「そうなんですか?」

「ええ。個人情報をさらされたりね。最大の味方は、最大の敵に変わるのもあっという間ということです」

 ……それはもしかして、この間話を聴いた、高校時代の彼女さんのことでしょうか。お付き合いをしていれば、お互いのことも知り尽くすものなのでしょう。そして二人は、あまり円満な別れをしたわけではなさそうでしたから。……いえ、わたしと彼ほどではないでしょうけれど。

「人は、自分にとって都合のいいように話すものです。場合によっては、自分がしていることを人がしていると、あるいは自分がしたことを人にされたと脚色して訴える人もいるくらいです。どういう精神構造してるのか知りませんけど」

 最近の敬史さんは、気の所為か、前とは少し変わったように思います。

前はどちらかというと、わたしに対して一線引いて、比較的「お行儀のよい」顔をしていました。自分のこととなると、淡く笑って「これ以上は、秘密です」と言わんばかりに誤魔化してしまっていましたから。

 彼の小説を読んだ時も感じてはいたけれど、敬史さんはときどき結構、毒舌。わたしに向けられているのではないと分かっていても、その言葉が胸を突く時があります。言葉が汚いわけではなく、物事の本質を突いているから、舌鋒が鋭く感じるのでしょうか。

「まあ、とかいう俺も、自分にとって都合のいいように話しているのかもしれませんね?」

「……敬史さんって」

「何です?」

「案外、ひねくれてますよね」

 敬史さんは小さく口角を上げて苦笑しました。

「性格の悪さなんて、自慢することではないですね」

「別に、悪いとは思いませんが……」

 何だか複雑な人だなあ、とは感じるようになりました。だからといって、それが悪いとか嫌いだとかとは、思わないのですが。

「たとえどれだけ環境や容姿、才能に恵まれ、自己研鑽を積んだ人でも、完璧な人間なんていませんよ。誰に対しても、お互い様ですけど。――まあ、俺はこういう奴ですから――ほんとは、人と一緒にいるのってあんまり得意じゃないんです。都会での会社勤めも、それで辞めたってこともありますし」

「そうなんですか?」

 わたしには意外に思えました。敬史さんはその舌鋒さえ隠せば基本的に人あたりが柔らかいですし、会話というものが上手です。当意即妙の答え、とでもいうのでしょうか。

 わたしが小首を傾げてそのようなことを話すと、彼は「これは、後付けなんです」と苦笑い。

「ただ、バスケが特別だった。あれは俺にとっての他者とのコミュニケーションになっていたようなものだから。子供の頃は、バスケをきっかけに友達に話しかけたり遊んだりできましたからね。それで仲間が出来たり。……だから、バスケが奪われた時、俺は人とのコミュニケーションの材料を奪われたも同様だったわけです」

「だからその代わりとして、小説を?」

「ええ、そういうことだと。おかげで普段こうして静かに暮らしていても、困りはしません」

「一人の時間が、お好きなんですね」

「まあ、そうです」

「……じゃあ、わたしがこうして同じ屋根の下にいるのって、負担になられているのでは……?」

 敬史さんは、否定はしませんでした。けれどそれから、わたしから目を離して考えるような顔をして、

「……最初は、まあ短い間のことだろうからって、高を括ってました。でも」

「でも?」

麦茶を飲み干した敬史さんは、お代わりを頼むかのように、グラスをわたしの方へと押出します。

「不思議ですね。櫻子さんと一緒だと、苦にならないんです。――あなたと一緒だと、和む」

 そうして目元を緩め、わたしを見つめました。

「……それって……」

 畳み終わったタオルを胸に抱いていたわたしは、知らず、その腕の力をぎゅうっと強めます。

「わ――わたしが、菊さんたちみたいにおばあちゃんじみてるってことですか!?」

わたしが和むという言葉から連想したのは、おじいちゃん、おばあちゃん、湯気の立つお茶、日の当たる縁側など、じじむさいイメージだったのです。敬史さんはわたしの反応に目をまるくした後、不意に噴き出して快活な笑い声を上げました。

「違いますよ。そうじゃなくて」

「何ですか? このお茶が、湯呑が、縁側が似合うってことですか!?」

「いや、確かに似合いますけどそうじゃなくて、櫻子さん」

「うううううう!」

 わたしはどこか悔しさを覚えながら、タオルを抱えて箪笥のある洗面所に走りこみました。後ろ手でぴしゃりと締めた戸の向こうからは、「櫻子さん、誤解です、いや誤解じゃないけど」という、笑い声まじりの敬史さんの声がしていました。

 こんな風に二人でふざけ合うこともあるようになって――そう、敬史さんは以前よりも「くだけた」人になったように思います。でもそれは、わたしも一緒なのかもしれません。「お行儀よく」していたのは、わたしも一緒だったのかも。

 少しずつ、お互いの話をして――距離を縮めて。それが楽しかったし、嬉しかった。こんな日々がいつまでも続けばいいと、わたしは思っていたのです。

 ――でも。


   *


 相変わらず、暑熱と蝉の鳴き声がわんさと続くあくる朝。

 炊いた白いご飯に葱と打ち豆のお味噌汁、焼き鮭に厚焼き玉子――わたしが朝食の支度を終えた頃、ちょうどよく敬史さんが起きてきました。

「おはようございます」

「おはようございます……いい匂いですね」

 焼き鮭の匂いか、と呟きながら、まだどこか眠気まなこの敬史さんは、洗面所に顔を洗いに行きました。その間にわたしは彼の分のご飯とお味噌汁をよそいます。

 台所ではテレビをかけていました。ちょうどニュースの時間で、ここのところ波乱含みの最新の世界情勢を告げるニュースが流れています。わたしたちはそれぞれ椅子にかけて、朝食を始めました。

『次のニュースです。G県T市の会社員S木N義さん三十七歳が行方不明となっている事件で、警察は彼の車をF県内の山林から発見しました』

 車内には血の跡が残っており、警察はS木さんが何らかの事件に巻き込まれたとみています――。

 アナウンサーの男性は淡々とした流暢りゅうちょうな口ぶりでそう述べていました。画面の右脇には、そのS木さんの顔写真が映っています。

 わたしたちは黙々と箸を口に運びながら、それを聞いていました。

「殺人事件だの何だのって、食事の時に聞く話でもありませんね」

 敬史さんはそう言って、大きめに切り分けた厚焼き玉子を頬張ります。

「ん。この厚焼き玉子おいしいです」

「――良かった」

 わたしは微笑んで、自分も厚焼き玉子に口をつけました。出来は悪くありません。

 ニュースが新しい話題に移ります。スポーツに変わりました。わたしの頭の中では、先程画面に映っていた男性の名前が、舌の上で飴玉を転がすように繰り返されていました。

 ――そういう名前だったんだ。

 どこか見覚えのある顔でした。わたしはこのお腹に収まった、彼の血肉を思いました。感慨は特にありませんでした。口の中で咀嚼している厚焼き玉子と同じくらい、味に乏しいものだったとだけ、記憶しています。

 どんなに料理を頑張っても、どんなに他の人間たちを喰べても。

 わたしは――最初のあの彼以上に美味しいと思えるものと、出会えていないのです。



 ここ二、三ヶ月のことです。

 一度人間の味を覚えたわたしは、半月もすると人間の味が恋しくなってしまうようになっていました。それでも梅雨の時期は良かった。雨がよく降っていて、外へ出るわたしの足音も、食事をした時の血糊も、強い雨が押し流してくれたからです。

 食事をしたいと思った時のわたしは、夜に大雨が来る日をじりじりと焦れながら待ちました。その日は早めに眠って、日付が変わって敬史さんが寝静まった頃に目覚めました。そうして黒いワンピースに着替えて、静かに玄関を閉めて外へ出て行きました。

 村から十五分ほど歩くと、県道が走っています。わたしはその細い舗道の上を歩きました。暗い夜のこと、車の通りは少なくなっています。時々、親切心か下心かで、わたしを拾ってくれる車がありました。そうしてわたしは車を車道の脇に停めてもらったところで、食事をしました。山の中、一緒に車を降りて行ってから食事をすることもありました。

 相手の服まではわたしも消化出来ないし、骨も残ります。骨は近くの山や森に埋めましたし、服は持ち帰って、次の燃えるゴミの日にこっそりと出しました。車は――あやかしとなったわたしの力で押して、崖下に落としました。

 そうしてわたしは雨で返り血を落としては、朝が来る前に帰ってくるのでした。玄関の脇に隠しておいたタオルで身体を拭いてから、家に上がり、シャワーを浴び直しました。二階から敬史さんが下りてきて鉢合わせしないかだけが心配でしたが、遅くまで起きていた彼が早く起きてくることはありませんでした。

 ですが――近頃は雨も降りません。夜遅くに食事にもいけないわたしの飢えは高まっていました。自分で作った人間の食事を山盛りにしても、飢えや渇きは一時しのぎにしかならないのです。

 敬史さんはそんなわたしを見て、「最近櫻子さんはよく食べますね」と、からかうように笑っていました。

「夏バテで食べられなくなるよりは、まあいいんじゃないですか」

 敬史さんはそう言います。これだけ人間のご飯を食べても、わたしの体重はあまり変わりませんでした。――夏の所為でしょうか。



 それから数日後、昼過ぎになって玄関のチャイムが鳴りました。自室で本を読んでいたわたしは手を止めて、玄関に出ます。戸口を開けると、そこにいたのはふたり組の、ワイシャツにスラックス姿の男性たちでした。

 ふたりは何やら胸の前で手帳を開きます。――警察手帳。それはわたしが初めて目にしたものでした。

「突然すみません。O署の者です。行方不明者の事件を追っているのですが」

 ふたりのうち、手前にいる男性が物柔らかな態度で口を開き、事件の詳細を説明します。ですがわたしの意識は、その後ろでメモを取っている男性の方に引き寄せられていました。――わたしが素性を読み取れない、あやかしの気配。わたしは警察にもあやかしが入り込んでいることを、初めて知りました。彼はわたしの問うような眼差しにぶつかると、静かに目を伏せます。わたしたちが言葉を交わすことはありませんでした。

「何か、情報があれば教えていただきたい。不審者とか、変わったこととか。どんな些細なことでも構いませんので」

 わたしは対応に困りました。いえ、特には――。そんな言葉が喉から漏れます。不審者――それはわたしに他ならない、という自覚がありました。耳にしたばかりの行方不明者の事件は、おそらく、わたしが関わったものでした。

 その時、図書館へ行こうとして鞄と本を持った敬史さんが玄関に出てきました。刑事さんが敬史さんにも水を向けます。

「ああ、この家の方ですか?」

「ええ。家主ですが」

「こちらは?」

「……お手伝いさんです」

「住み込みで?」

 迷いなくそう訊いてきた刑事さんは、ご近所さんからわたしのことを既に聞いていたのかもしれません。

「そうです」

「どういったご関係で?」

「関係って……だからお手伝いさんです。――恋人、とでもいえば満足ですか?」

 敬史さんは珍しく、険を含んだ様子を見せました。

「いえいえ、そんなつもりでは。失礼しました」

 それから刑事さんは敬史さんにも同様の説明と質問をしました。彼の返事もまた、わたしと大して変わりばえのないものでした。

 警察の方々が去ってから、敬史さんは少し機嫌が悪そうでした。なんか嫌な感じですね、とぼやいています。わたしはついにわたしのところにまで警察が来たことに、空恐ろしさを感じていました。それに――あの妖怪の刑事さん。彼にもわたしがあやかしであることは分かったはずです。それを人間の警察に明かすとは思えませんでしたが、ここにあやかしの存在があるということ――それが事件とどう関係するのか――彼の中では一筋の糸として繋がったことでしょう。わたしは自分の足許のひび割れを意識せずにはいられませんでした。

 それと――もうひとつ。

「敬史さん、さっき、恋人って――」

 彼はわたしの言葉に、自分がさっき口走ったことを一拍置いて思い出したようでした。

「え? ……ああっ、すみません! 何だかおかしなことを言いました」

 敬史さんは動転しているのか、小脇に抱えていた図書館の数冊の本をばたばたと床に取り落とします。それを拾おうとした彼の手が本のページを掠め、その人差し指に赤い筋が走りました。敬史さんが痛そうな声を上げます。

「だ、大丈夫ですか」

「平気です。これくらい、舐めておけば治りますから」

 彼は情けなさそうに眉尻を下げて笑います。敬史さんの人差し指に浮かんだ赤い線はぷくりと膨れ上がって、とろりとした雫が伝い始めました。わたしは彼の言った通り、その指先を口に含んでみます。

「さ――櫻子さんっ」

 傷口を舌でなぞるわたしに、敬史さんが首筋から赤くなりました。彼は慌ててわたしの口内から指を引き抜きます。

「すみません、痛かったですか」

「違います、そうじゃなくて――ああ、大丈夫ですから。絆創膏でも貼っときますね」

 彼は慌ただしく台所に向かいました。テレビ台の下にある救急箱を探っているのでしょう。戻って来た彼は本を改めて抱え直し、鞄を持って「行ってきます」と出て行きました。ほどなくして車のエンジン音が響き、駐車場から車が出て行きます。わたしはそれを見送りました。けれど玄関を出た時に敬史さんが持っていったのは絆創膏ではなく、なぜか湿布でした。

 驚いたのは、わたしも同じでした。

 だって――敬史さんの血は。

 わたしが最初に喰べたあの彼のものより、ずっと濃厚で、甘くて、味に深みがあって、――つまるところ、とても美味しかったのですから。


   *


 敬史さんの『美味しさ』に気付いてしまったわたしのあやかしとしての本能は、急速に、彼に矛を向け始めました。

 夕飯の時にも、わたしはじっと敬史さんを見つめてしまいます。箸を動かすその手つきも、喉仏の動きも、一挙一動を、気付けば目で追ってしまっているのです。

 視線に気付いた敬史さんが、「何ですか」と微笑みます。言われてようやくわたしは我に返るのですが、しばらくすると、また彼の喉を、Tシャツから覗くしなやかな筋肉のついた二の腕を、見つめてしまうのです。

 敬史さんもこれまでのわたしにはなかった常ならぬものを感じ取っているのでしょうか。反応に困ったように、首筋を掻いて視線を逸らすばかりです。

 敬史さんを(この人を)(喰べて)(しまいたい)――いや、そんなのは……嫌、そんなことをしては駄目(でも)――。

(なんて)(なんて美味しそうな)。

 それでもわたしは必死に、あやかしとしての自分を抑え込もうとしました。けれど今までのように、人間と同じご飯を食べても、飢えが治まらないのです。喉の渇きが癒されないのです。(ごちそうなら)(目の前に――)。

 いけません。警察は既に近くまで動き始めています。わたしのしてきたことが、ばれているかもしれないのです。これ以上おかしな真似をすれば(食事)(食事をするだけなのに)完全にマークされてしまうに違いありません、

(この人を)(喰べてしまいたい)(たい)わたしはあやかしとしての欲求を抑え続けました。夜は早々に布団に潜って、布団の端を噛んで自分の身を搔き抱くようにして横になりました。

 それでも……よく眠れません。意識を手放したら、あやかしとしての自分が起き上がって、二階にいる敬史さんを喰べに行ってしまう――浅いまどろみの中で何度もそんな夢を見ました。その度にわたしは卒然と目を覚まして、自分の身が彼の血で汚れていないかを確認するのでした。

 ――眠れません。

 お腹がすきました。喉が渇きました。

 村が夜の帳の中で寝静まった頃、二階からは時折物音がします。敬史さんの気配です。(――あそこに)敬史さんが(ごちそうが)いる(いる)――。

 以前は、眠る前に二階からふと物音が聞こえた時は、他の誰かが――敬史さんがいることに安心感を覚えていました。でも、今は苦しいだけです。

 ろくろく眠ることができなくなり、妖怪としての飢餓に襲われるようになったわたしは、憔悴しょうすいしていきました。その様子に、敬史さんや菊さんが心配してくれます。

「櫻ちゃん、ちょっと痩せたんでねぇの」

 村の通りで会った時、菊さんがそう言っていました。自分でも、腕や足が少し細くなったことには気付いていました。相変わらず、人間のご飯は山盛りにして食べているというのに。

 その日も陽が傾いて、西の空は全天でたなびく雲を金色に彩っていました。わたしは菊さんから「たんと食べねの」と言われてもらってきた、菊さんの畑で獲れたなすびやきゅうりを抱えて敬史さんの家に戻りました。

 その帰途のことです。わたしは不意に刺すような気配を感じて、西の方角を振り返りました。

 あやかしの、気配。

 今まで感じたことのない――初めて遭う気配でした。けれどその不穏で巨大なものとは裏腹に、野道に立っていたのは――中学生くらいの姿をした、着物姿の女の子に過ぎませんでした。そのおもては、逆光でよく見えません。けれどその気配から、彼女がにい、と口角を釣り上げたのが分かりました。

「――見ぃつけた」

 ――護持委員会。

 わたしの脳裏に、その言葉がざっと過ぎりました。わたしが悲鳴を上げそうになった時――、

「……何してるの」

 別の方向から、突然、聞き覚えのある声がして、わたしは意識を引き戻されました。それは久しぶりに顔を合わせた美緒ちゃんでした。

「美緒ちゃん」

「そんなところに突っ立って、何してるの」

 彼女は片眉を上げて、険と不審のこもった低い声音で再度問いました。そこにかつての親しみはもう見られません。そのことに氷のつぶてをぶつけられたような思いを感じながらも、気付けばわたしは、菊さんからいただいた野菜を、ぽろぽろと足許に落としていました。

「み――美緒ちゃん、今……」

 わたしはもう一度、今しがた、少女の姿をしたあやかしを見つけた方角を振り返ります。けれどそこにはもう、誰の姿もありません。わたしの隣まで来た美緒ちゃんが、訝しそうに首を傾げます。

 彼女は機嫌の悪さと敵意を染みださせながらも、わたしが野菜を拾うのを手伝ってくれました。ですが全て拾い終わると、真面目で深刻な顔つきになって、

「あんた、何したの?」

「え?」

「永井さんが、あんたにあんまり近づかない方がいいって言ってた」

と、声を潜めるようにして一息に言いました。わたしは目を瞠ります。心の臓が、一気に冷え切った心地がしました。

「敬兄に妙なことしたら、絶対に許さないんだから!」

 言い捨てた美緒ちゃんは振り向きもせず、西日の照らす中、集落の方へと走り去っていきました。

 ――永井さんは、わたしが雨夜に村を出て行った姿を見ていたのかもしれません。だから、美緒ちゃんにもあんな忠告を?(喰べて)(しまう?)――いえ、これ以上おかしな真似はできません。たとえ――たとえ警戒されたって、嫌われたって。永井さんだって、わたしがこの村でお世話になってきた方です。喰べるだなんて真似は(敬史さん)(敬史さん)(ごちそうは)(あっち)――ああ!

 わたしは眩暈を覚えながら、ふらつく足で足早に帰路を辿りました。あとは僅か四、五分ほどの道のりなのに、こんなに遠く思えたのは初めてです。

 ……警察が、委員会が、動いています。四ヶ月前にこの村にやってきたそれ以前の素性の知れないわたしは、やはりこの村でも怪しまれているのでしょう。

 被害者の死体は、処理しきれたとは言えません。(もう)警察の(そんなんじゃ)捜査が進めば、やがてわたしは(満足できない)特定されるかもしれません(たかふみさん)いいえ、もう委員会はわたしを見つけた――ああ、止(や)めて!

 頭の中をぐるぐると巡るあやかしの――わたし自身の声に、わたしは必死になって抗います。止めて、わたしの日常を壊さないで(もう)(どうせ)(むり)(限界)そう――限界が来ているのかもしれません。それもわたしが警察に捕まるという最後で(たかふみさん)ここのみなさんと離れ離れになる(たかふみさん)そしてあやかしという正体も明らかになって(たすけて)――ああ、その先はどうなるのでしょう。(喰べても)(いい?)分からない、恐ろしい、人間なんて――ああ(どうせ)(受け容れられない)ああ……。

(おなか)(すいた)


   *


 近頃のわたしは、食事の時以外、できるだけ敬史さんと顔を合わせないようになりました。洗濯物は彼のいない間に部屋に置いておきましたし、以前のような、遠出の買い物も一緒に行かなくなりました。気分がすぐれないからと同行を断ったその日は、朝からわたしひとりで留守番になりました。……出がけの敬史さんは、少しだけ、寂しそうな顔をしていました。

 わたしが自室で横になっていると、玄関のチャイムが鳴りました。わたしはまた警察の人が来たのではと、戦々恐々としました。ですが――玄関までの離れた距離の中に、懐かしい気配を感じ、その足を奮い立たせます。

 引き戸を開くと、そこに佇んでいたのは宅配業者の青年でした。――いえ、違う。忘れもしない、懐かしい「におい」。

 景。

「どこに行ったのかと、捜してた」

「景……」

 呆然と佇立するわたしに、景がいたわりの笑みを見せます。

「いろいろあったみたいだな」

 あの街の公園で景と別れた時の憤り、気まずさ、後悔が、全て氷解していきます、わたしは宅配業者の制服を着た人間に化けた景に抱きついて、泣き出していました。彼がわたしの背中を優しく撫でます。

「……しんどそうだな。もう、どれだけ『まともなもの』を喰べてないんだ?」

 これだけの期間離れていたというのに、景はわたしの側の事情を察しているようでした。彼はしゃくり上げるわたしをなだめると、玄関の土間に入って後ろ手に戸口を閉め、運び入れた段ボール箱を開けました。中には保冷用のケースが入っていて、人間の――おそらく脚でしょう。運びやすく解体されたものが詰まっていました。

「死んだ奴のだから、生ほど美味うまくはないと思うけど」

 妖怪としてのわたしが、よだれを垂らすほど歓喜したのが分かりました。わたしはその場にしゃがみ込んで、夢中になって肉片をむさぼります。この空腹には、肉屋さんで売っているどんな上等なサイコロステーキよりも美味なものでした。

「あの街でのお前の行方不明届は、委員会を通じて関係者への暗示で取り消させた」

「景が?」

 関係者――おそらくわたしが勤めていたお店の若奥さんたちや大学の同期が、わたしの行方不明届を出してくれたのでしょう。けれどわたしの不在は、警察に他の事件とわたしを繋げる鍵を与えるようなものです。景はそれを案じて、届を取り消すことを思いついてくれたのでしょう。あやかしの中には、幻術や暗示を操る者がいると聞きます。

「委員会には、ちょっと身内がいるもんでな。だが――届くらいならともかく、これだけ連続して死者が出ているのまでは俺一人では揉み消せない。ここは、警察に嗅ぎつけられてるみたいだな。長居はしない方がいい」

「一体、どうしたらいいの?」

 わたしは景に、この間この家に来た刑事さん、そのうちのひとりがあやかしであったことを話しました。

「そいつは多分、委員会の手の者だ。警察の逮捕よりも先に、恐らく委員会の奴が先に来る。妖怪を逮捕されてその正体を暴かれる前に、そのあやかしを始末しに来るんだ」

 わたしは息を呑みました。――かつてお話しした鬼のおじいさんの話を思い出したからです。

 景は屈んで、手を差し出しました。

「な。おれと一緒に行こう。おれとこの場を離れさえすれば、後は委員会が何とかする」

 景と、一緒に……。

 わたしはためらいを覚えました。いえ、少し前のわたしなら、きっと喜んで、安心してその手を取っていたに違いありません。けれどわたしは人間に化けた景の手に、この間の花火大会の夜に重ねられた、敬史さんの大きな手を思い浮かべました。胸の奥が、熱い悲哀に縮んで痛みを発します。

 わたしは――あの手に焦がれているのです。人間に焦がれるのと同じように――いえ、そんな漠然とした思いや願望より、もっと強く。バスケットボールに慣れ親しんで硬いまめのできたあの手のひら、その主に、(喰べたい――)そう、喰べたくて喰べたくて仕方ないくらい、今となっては焦がれているのです。

 離れたくない。平穏な日々を彼といつまでも過ごしたいと、願っているのです。――たとえそれがもう、限界をきたしているのだとしても。

「……あの男か?」

 景は車で出て行った敬史さんの気配の残滓ざんし手繰たぐるように、外を一瞥しました。わたしは何も言えず、悄然しょうぜんと涙を零します。やがて景は諦めたように、ため息をつきました。

「お前は……本当に、母親似だな」

「え?」

「人間に本気で恋い焦がれるなんて。……お前の母親も、そうだった」

 わたしの……お母さん?

 景はその場に佇んだまま、話し始めました。

 わたしのお母さん、そしてお父さんのことを。


   *


「そのあやかしは、昔から化けるのが得意だった。それも当然だ。あやかしの母親は大陸から渡って来た妖狐で、絶世の美女に化けることが出来た。父親は鬼で、人間の骨を砕けるほどの強靭な顎を持つ、いかめしい姿をしていた」

 お祖母さんと、お祖父さん――わたしには、鬼の血だけでなく、妖狐の血も流れている。そんなこと、自分では気付きもしませんでした。

「宮中にいた狐が正体を暴かれて都を追い出された後、鬼と狐は互いに人間に化けて共にひとときを過ごした。そのあやかしが兄妹たちと共に生まれたのは、その頃のことだった。あやかしは一人前になるまで、父親である鬼に育てられた。人間だって平気で喰べた。そして美しい姿をいくつも使い分けて、人間世界の中で暮らしていた。人間を欺き、篭絡し、喰べることに、良心なんて痛まなかったろう。妖怪として、それが当然だったからだ。あやかしにとって、人間を喰べることはただの食事と一緒だった。喰うわけでもないのに、互いに殺し合う人間たちの方が、よっぽど野蛮だと思っていたくらいだった」

 その考え方は、今の妖怪たちの間にも底流として続いているようです。……そのようなことを言ったあやかしに、わたしも出会ったことがあります。

「――けれどある時、あやかしはその男と出逢った。最初は、そのうち喰べるつもりで始めた付き合いだった。けれど――出来なくなった。一緒に過ごせば過ごすほどに、あやかしは男に本気で心惹かれていってしまったんだ。こんなことは、あやかしが長く生きてきた中でも初めてだった。その男だけは喰べたくないと思った。彼を失いたくなくて、喰べられなかったんだ」

 わたしの心は、どきりと脈打ちました。その想いは、他人事には思えなかったからです。

「そのうちあやかしは、初めてひとつの欲を抱いた。彼に、あやかしとしての自分も受け容れてもらいたい――そう思ったんだな。男を騙しているのがつらくなったんだ。そうしてある夜、彼の前であやかしとしての姿に戻った。その上で、再度愛を告げたんだ。だが――男はあやかしの正体を見て怯え、罵り、投石して逃げ回った。雨の中、あやかしは傷つき、絶望し、そうして男を追いかけて、捕まえて――喰い殺した」

 ――お母さんも。

 わたしは自分が経験した雨の惨夜に、お母さんの姿を重ねていました。

 景の話は、わたしにとって衝撃的でした。お父さんにお母さん、そしてお祖父さんに、お祖母さん。

 わたしは――狐と鬼と、そして人間の血を継いでいるのだと、景は言いました。

 わたしは混ざりものの上の混ざりもの――どこか諦めにも似た納得が、胸を落ちていきました。そして他の妖怪たちにわたしの正体を見抜くことができなかったその理由も――おそらくお祖父さんやお祖母さんは、長い時を生きた、力の強いあやかしだったのでしょう。だから――わたしまで、その血の恩恵にあずかっていた。

 けれど、お父さんは人間。

 それも、お母さんの正体を見てお母さんを拒絶し、そして喰い殺された。

 ……そんな話、初めて聞きました。知らなかった。わたしはなにも。

 わたしは表情をなくして呆然としながらも、景から聴いた話を必死に呑み下そうとしました。

「その後、あやかしは自分が、その男の子供を身籠っていることに気が付いた。産まれてきてしまった我が子を見ると、あやかしはどうしても、自分を拒絶したあの男を思い出した。だから殺そうとした。けど――」

「……けど?」

「俺が、止めた。殺すくらいならおれが育てる。そう言って引き取った。……それがお前だよ」

 わたしを殺そうとしたお母さん――わたしは耳を塞ぎたい心地でした。景がこれだけのことを知っていながら、今の今まで口を閉ざしていた理由も、分かる気がしました。

 わたしは手で血濡れた口を覆います。今にも、嗚咽が零れそうだった。わたしはきっと――産まれてくるべきではなかった。そう言われたような心地でした。いえ、そう思っているのは誰よりもわたし自身なのかもしれません。けれど殺されたお父さんも、きっと、わたしが産まれてきたのをみたらわたしを拒絶したに違いありません。お父さんからもお母さんからも、わたしは愛されなかった、肯定されなかった。――されなかった!

 耐えきれず、わたしの片目からは熱い滴が伝いました。景は痛ましいものを見るかのように、わたしを見下ろしています。そして制服の物入れからハンカチを取り出すと、ぐいとわたしの口元を拭いました。

 わたしの父よりも、母よりも、親らしい景。――どうして、ここまで。

「どうして……景はわたしを引き取ったの?」

「さあ……惚れた弱みだろうな。お前の母親への」

 これも初めて聞いた話に、わたしはおもてを上げます。

「見ていられなかったんだ、あいつのことが。好いた男に拒絶されて喰い殺し、その男の子供まで殺したんじゃあ、悲劇すぎる。あいつもいつか、一時の衝動に任せた行いを悔いるかもしれない。そう思って――な」

「お母さんは……」

 わたしは怖ろしさで竦み上がりそうになりながらも、言葉を絞り出しました。

「お母さんは――わたしに会いたいって、思ってくれてる?」

 景は静かに、首を横に振りました。

「分からん。おれももう随分と会ってないしな」

「どうして? 会えないの?」

 景は眼差しを落として、片頬を歪めるだけでした。

「おれは、あいつからお前のことを預かっていると思っている。そんなお前を、委員会に殺させるわけにはいかない。だから」

 だから、こうまでして守ってくれるというの? だから――。

 けれど、景の次なる言葉はわたしに冷然と響きました。

「――明日の夜明け、この村の入り口で待ってる。おれと一緒に来い。来ないのなら――お前があの男を喰べないのなら」

 帽子を深く被り直した景の瞳が、一度底光りします。

「おれが、あいつを喰ってやる」

 景はわたしに問いかけのひとつさえもう許さずに、それだけ言い置いて、去っていきました。

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