その日のわたしの傷が完治するまでには、一週間ほどかかりました。

 近頃は痛みも消えました。コンクリートの角で擦った痕には少々みっともなくかさぶたも出来ましたが、それも致し方ありません。この痒みを我慢していれば、そのうち剥がれて綺麗に直ることでしょう。

 その日のわたしは、敬史さんの家からは歩いて五分ほどの、菊さんの家にお邪魔していました。まだ空が雲に覆われていた午前中、菊さんの家の畑を手伝って草むしりをしていたのです。陽が出てきたこともあって野良仕事を終えたわたしは、打って変わって涼しい菊さんの家の居間で、麦茶とスイカを振る舞われていました。程よく甘くて瑞々しいスイカは、扇風機で吹き散らされている暑さをほんのひと時、なだめてくれるようです。

「おいしい!」

「ほーけ、ほーけ。たんと食べねの。櫻ちゃん、これ持って帰り。うちにはまだいっぱいあるでの」

 菊さんは丸々としたスイカをずいと押し出しました。今夜から敬史さんと二人で分け合うことになりそうです。他には、お寺で出されて持ち帰ってきたお饅頭までお土産にするよう言われました。この村に来て以来、わたしは菊さんに何かと面倒をみていただいています。

「ありがとうございます。敬史さんも甘いものは好きだと言ってましたから、いいお土産になります」

 居間にはわたしと菊さんの他に、ご近所の多恵子たえこさんもいらっしゃいました。菊さんの長年のお友達である多恵子さんはテレビのチャンネルを変えて、「おっ、菊さん、ヒロシが出とるぞ」と菊さんを呼ばわりました。

「ほんまや、ちょっとこのままにしといて」

 野良着から着替え終わった菊さんは、ずいずいとテレビの前に陣取りました。

 番組は歌謡番組――いえ、これはのど自慢でしょうか。確かこの古株の歌手は睦月むつきヒロシ。どうやらゲストとしてやってきて、歌っているようです。

「はぁー、ヒロシのでぃなーしょう、また行きたいのぉ」

 菊さんはそんなため息をつきました。いぶし銀の効いた見事な伸びやかな声で演歌を披露した睦月ヒロシに、菊さんはお熱のようです。

 やがてのど自慢は終わり、次の番組に変わりました。リポーターが海の見える町を歩いています。わたしの見慣れない港町では、焼きそばや焼きトウモロコシ、フランクフルトにかき氷――様々な露店が並び、浴衣姿、私服姿の人々がそれらを買い求めていました。

「何や、今日の花火大会の会場の中継やね」

「花火大会、ですか?」

 知らなかったのはわたしだけ。お隣の菊さんも、大会のことはご存知のようでした。

「おお、ほやってほやって。ちょっと遠いんやけどの。海の上で、そりゃあもう大きい花火が、ドンドンドンドン打ち上げられるんやで。県外からも人来るしの、大きい大会やで結構有名なんやで」

 そういえば、先程入れかわりのようにして、永井さんが車で出て行かれました。もしかしたら彼は、早々にこの花火を撮るための場所取りなどの準備に行ったのかもしれません。

「ここからでも見えんことはないけどの、やっぱり近くで見ると迫力がちゃうわ。櫻ちゃんも見てくればええ。敬坊の車で行ってくりゃあええがの」

「そんな。敬史さんは夜はお仕事でしょうし……お忙しいんじゃないかと。原稿の締切も迫って来たみたいですし」

「ほうけ……。まあ、そんなんやで敬坊は未だに一人身なんやのぅ。もつけねぇこって」

 もつけねぇ、の意味はわたしには分かりませんでしたが、よさそうな意味でないことは伝わりました。苦笑いしたわたしは麦茶を飲み干すと、「御馳走様でした」と席を立ちました。



 ……暑いです。

 麦わら帽子を被っていても、熱線が網目を通り抜けてくるかのような陽射しです。

 わたしは先程麦茶を頂いたばかりなのにもう喉の渇きを覚えながら、けたコンクリートの上を歩いて敬史さんの家に辿りつきました。

 垣根の前を通り過ぎた時、見えた玄関は半開きでした。敬史さんが風を通しているのでしょうか――そう思った瞬間。

 中から飛び出してきたのは、青い浴衣を纏った女の子でした。あっと思う暇もなく、勢いよく駆け出してきた彼女と肩がぶつかります。お互いよろめきました。すみません、と謝ろうとして顔を上げた先にあったのは、見慣れた――それでいて見慣れないお化粧とお洒落をした、美緒ちゃんの顔でした。

 ――あんたがこなければ。

 涙を滲ませ、朱に染めた顔をくしゃっと歪めた彼女から聞こえたのは、そんな言葉であったように思います。わたしが虚を衝かれている間に、青地の浴衣姿の彼女は、下駄を鳴らして駆け去ってしまいました。

 小さくなっていくその後ろ姿を見つめ、呆然と立ち尽くしていたのは、どれくらいのことだったでしょう。やがて玄関先から聞こえた「櫻子さん?」という声に、わたしは我に返ります。足許に目をやれば、もらってきた西瓜が地面に落ちていて、無惨なひびが入っていました。

「お帰りなさい。西瓜ですか? 大きいですね」

「あ……はい」

 わたしは割れた西瓜をのろのろと拾い、ひっくり返してみます。ひびの間からは熟した赤い実が覗き、わたしの手に生温い汁がしたたりました。

 赤い――まるで薄めた血のようなその汁。わたしは美緒ちゃんが去っていった方角をもう一度見やりました。わたしの手に滴るそれは、美緒ちゃんの心が流したもののようにも感じました。

 そうだとすれば、彼女の心を刺したのは――わたしなのだというのでしょうか。



 敬史さんと一緒に昼食を食べた後、家の掃除をし、少し本を読んで。

 エアコンの効いた自室で本を読んでいたわたしは、いつの間にか座布団の上に横になって、うつらと三十分ほど寝入っていたようでした。

 短い眠りでしたが、夢も見ました。

 ――気をつけろ。悪念は、魔を呼ぶぞ。

 夢の中で久々に聞いたのは、景の声でした。

 まだ小さかったわたしの手を引き、足早に田舎道を行く景。わたしは彼を斜め後ろから見上げていました。大人の姿をした景の足取りはわたしにはとても早く、わたしはほとんど走っていました。息が上がって、足がもつれて、連れられていくのが苦しかった。――そんな思い出。これも、ずっと忘れていた記憶でした。

 そんな中、後ろを振り返れば。

 ぽつ、ぽつ、ぽつ、と。

 わたしたちの後には、小さな炎が風に揺れていました。その向こうには、何やら黒いもやのようなものが見えます。靄の中からは、手のような触角のようなものが、いくつも湧き出ているのでした。『魔』――景がそう呼んだ得体の知れないものは、わたしたちの後に残った炎に捕まって足を止められ、底冷えのする不気味な声で陰鬱に呻いているのでした。

 おかしなものです。

 景もわたしも妖怪なのに、あのような『魔』は避けろというのです。妖怪も、一概に悪しきものではないということか、とわたしはあの時に感じたものでした。

 そしてふつりと夢が途絶え、目覚めた瞬間。

「――美緒ちゃん」

 わたしは知らず、呟いていました。

 昼前に、青い浴衣で走り去っていった彼女の背中。

 そこに蠢いていたのは――そう、黒い影。わたしはしばしの逡巡の後に、敬史さんの家を走り出ていました。



 美緒ちゃんの家までは、家屋の密集した山の麓近い集落の方へ歩いて十五分ちょっと、走ればその半分ほどの距離。

 そんな短時間のことだというのに、帽子を被ることも忘れてサンダルで走ってきたわたしは、彼女の家の前に着く頃には息が切れ、強い陽射しに軽い眩暈を覚えていました。

 美緒ちゃんの家はこの集落では比較的新しいながら、やはり田舎の一軒家という風情の堂々とした瓦葺きの日本家屋。わたしは平垣の間の敷石を早足で踏み渡って玄関の前に立ち、インターホンを鳴らしました。

 美緒ちゃんの家族は、ご両親と、今は県外の大学に行って不在のお姉さんの、四人家族。ご両親は共働きだと聞きました。家の脇に、美緒ちゃんのご両親の車は二台ともありません。

 上がっていた息を整え、しばらく待ってみましたが、鳴らしたインターホンに返事はありません。もう一度押してみましたが――やはり返事はなし。玄関の引き戸に手をかけてみると、扉に鍵はかかっていませんでした。わたしは躊躇いの後、砂利の敷き詰められた家の周りを行き、裏手に回ってみました。

 裏には日日草や向日葵ひまわりなどの夏の草花の繁る小さな内庭と小奇麗な縁側があって、ガラス戸と障子が開いていました。畳の敷かれた和室に、人影が横たわっています。投げ出された、青地に朝顔模様の浴衣を着た少女の、日に焼けた手足――。

 美緒ちゃん。そう声をかけようとした時、わたしの耳はがしゃりという音を捉えていました。

 視線を巡らせば、差しこむ陽光の届かない部屋の隅で、不可解な黒い影が蠢いていました。がしゃり――もう一度聞こえた音が、その姿を顕在化させます。どうやら音の正体は、その影のまとった鎧のようでした。

 それはちょうど、この国の戦国時代に武士により纏われていたものらしく――しかし鎧はあちこち毀れ、土と血痕に汚れ、ほつれた糸が垂れ下がり。そしてやがてわたしの目にも見えるようになってきた影の顔は、髪を振り乱した幽鬼そのものでした。折れた太刀を片手に握ったままのその姿は、未だ成仏できずに彼岸と此岸の間を蹌踉と行き来する落ち武者そのもの。の存在が呼吸するかのように肩を上下させる度に、この空間に胸が苦しくなるような穢れがドライアイスのように沈殿しながら広がっていきました。

 わたしたち妖怪とはまた別の存在――怖気づく心地がなかったといえば嘘になります。けれど、

「その子によりついては、いけませんよ」

 拳を握りしめ、わたしが毅然と発した声は、青白い顔をし、眼球すら片方失くした様子の幽鬼に届いたようでした。美緒ちゃんに手を伸ばしかけていた落ち武者は、半ば灰色に透けた身体でわたしの方を振り返ると、まじまじとわたしを見つめてきました。

 鳴り響く蝉の声が、無言で睨み合うわたしたちの背後から染み渡ります。それと同時に背中を焼く陽光が、わたしのブラウスの下で汗を滴らせました。――いえ、この汗は果たして、この暑熱の所為なのか。不思議とわたしは、肌寒さすら感じていました。

『――ああ。そうか、おぬしが……』

 くぐもった声がしたかと思うと、足を失った落ち武者は宙を滑るようにして、わたしにぶつかってきました。――いえ、思わず目を瞑ったわたしの身体をすり抜けていっただけでした。ですがその瞬間、わたしはぶるりと寒気で身を震わせました。何か、思考を持っていかれたかのような心地でした。

『恐ろしや、恐ろしや……』

 そう言い残して、落ち武者は渦を描いて草葉の陰に消えて行きました。

 その時になって、わたしと落ち武者が向かい合っていた世界は、無音のものになっていたのだと気づきました。先程まではあれほどまでに五月蝿かったはずの蝉の大合唱が、再びわたしを押し包むのを、突如として感じたからです。ブラウスの背中は、びっしょりと汗で濡れていました。

 ――少し、自虐的な気分です。

 美緒ちゃんの身体は静かな寝息と共に上下していて、眠っているようでした。



 近頃は、日が傾くのが少しずつ早くなってきたような気がします。

 夕食時に台所の窓から外に視線を投げれば、まさに花火大会にはうってつけの雲ひとつない夜空が、刻々と深く穏やかな宵闇へと近づいていくさまがみてとれました。

 わたしが通っていた大学のあった街では当たり前だった青空が、ここでは当たり前でないことも、随分と前から体感していました。いつもは雲に覆われていることの方が多い空も、今日は珍しく晴れ渡って、天の神様も花火大会をご照覧するかのようです。

 夕食後の洗い物を片付けたわたしは湯を浴びて、寝間着の浴衣姿でふらりと外に出てみました。そろそろくだんの花火大会が始まる時刻だったからです。

 敬史さんの家からは遠い海の辺りがよく見えなかったので、少し歩きました。そうしている間に、花火の音がドン、ドンと間遠に響いてきました。わたしは音に導かれるままに、光源を探す虫さながらに、微かにでも花火の威容が捉えられるところを探して歩きました。

 そうして辿りついたのは、小高い河川敷。わたしが敬史さんと出逢った、あの桜並木の河川敷です。

 遠く低い山々の黒い稜線の合間から、ひゅるひゅると赤い光が立ち昇るのが見えました。そうして破裂した、菊の花を模した細かい光の粒子の集まり。遅れて響くのは、腹の底に響く低く物々しい音。――久しぶりに見た打ち上げ花火に、わたしの心は微かに浮き立ちます。

 そうして佇んでいると、

「――どこに行ったのかと思いました」

横合いから唐突に、声がしました。暗がりから急に声をかけられて驚いたわたしは、小さく声を上げてしまいます。

「敬史さん」

 隣に並んだ敬史さんは、眼鏡を少し指で持ち上げて直し、連続で打ち上がり続けている花火を眩しそうに見つめました。

「美緒ちゃんは、あそこまで見に行ったかな。花火」

「え?」

「昼間、誘われたんです。今日の花火大会を一緒に見に行かないかって。でも、夜は仕事だからって断ってしまって」

 ああ――そういうことだったのか。

 わたしは今更ながらに、昼間の美緒ちゃんの言動の意味を悟りました。そして――わたしたちが初めて会った時から本当はそこにあったのであろう、彼女の秘めた想いも。

 見慣れない化粧をして、浴衣を着て、敬史さんを花火大会に誘いに行って。そうして断られて、涙まじりに帰っていった。――彼女には、わたしの存在が邪魔だった。どうして? そんなの、分かりきっています。

 彼女は、敬史さんのことを――。

 そうだったのか、という発見と納得が、わたしの胸に落ちて行きました。同時に、邪魔者扱いされて嫌われたのだという痛みと悲しみも。美緒ちゃんとはよい関係を築けていたと思っていただけに――その刃はわたしの胸で、冷たく臓腑に差しこまれました。

「でも、高校時代は高校時代で貴重だから。友達と行った方がいい」

 そんなことを言う敬史さんは、何も気付いていない様子でした。

 果たしてそうでしょうか? 美緒ちゃんはきっと、敬史さんと一緒に、間近でこの花火を見たかったのではないでしょうか? 友達よりも、他ならぬ敬史さんと――。

 けれどわたしには、その想いを口にすることははばかられました。これはきっと、他人が言うことではなく、美緒ちゃん自身がいつか伝えるべきことだろうから。

 ……わたしはやはり、いい子などではないのでしょう。

 どうしてでしょう。わたしは、この宵闇を潜り抜けて敬史さんがここに来てくれたことを、何故だか嬉しく感じているようなのです。美緒ちゃんでも菊さんでも永井さんでもなく、何も告げずとも、敬史さんが隣に来てくれて、同じ夜風に吹かれて共に花火を見ていることに。

 いつも一緒に――同じ屋根の下で暮らしている人なのに。思えば、わたしの中で何かが変わったのは、あの雨の夕方からです。

 ――どうしようもなくつらくなったら――。

 わたしの胸には、あの時の敬史さんの言葉が、他の誰にも見せたくない宝物のように仕舞われていました。あの時の言葉を思い出すと、わたしは隣に佇む敬史さんの眼差しや、その無造作に下ろされた手に、自然と意識が向いてしまうのでした。

 そう――これは、彼を意識しているというのでしょうか。

 今日のわたしが余計にそんな風に感じてしまっているのは、美緒ちゃんのことがあったからなのでしょう。美緒ちゃんは敬史さんを異性として見ている。じゃあ、わたしは――? 唐突に、そんな問いが自分自身に向いて発せられるようになってしまった。どうして?

 それは多分――美緒ちゃんは敬史さんを男性として意識しているのと同時に、わたしのことも、敬史さんに近しい、警戒すべき、敵視すべき異性の存在だとみなしていることがわかったから。

 ――あんたがこなければ。

 そうでなければ、あんな台詞と憎しみを向けられることなどありえないでしょう。

 けれどわたしも敬史さんも、お互いのことは何とも思ってない。美緒ちゃんに対して、そう断ればいいだけの話なのです。……それだけのことなのに。

 何故か、わたしには、彼女にそう告げることが出来ないのではないか――そんな気が、するのは。

 不意に、花火の音に混じって、隣の敬史さんが咳をしました。

「夏風邪ですか?」

「いえ――大丈夫です。ああ、あれは大きいですね」

 彼の言葉につられるようにして、わたしも西の空を見やります。西の低地に、ひときわ大きな赤い光が瞬いていました。けれど開ききるのは一瞬で、光はぱらぱらと崩れゆく砂糖菓子のように散り落ちていって――そんな頃になって、ドゥン、という低い音が、威風堂々とした巨人の足踏みのように響いてくるのです。

 赤や黄色、青に緑――菊花火に牡丹花火、小さな光の爆発が群れるように連続する小割物――遠くの小さなまたたきではありましたが、その姿は遠目からでも見出せます。ここからでも見えるくらいだから、会場で見たら一体どれだけ大きな花火なのか――わたしは想像するだけでわくわくしましたし、そう思うと、会場に出向かなかったことに、一抹の後悔がぎるのでした。

 けれど、混雑して騒がしい人波の間ではなく、ここで敬史さんと静かな夜風に吹かれながら花火を眺めていることも、それはそれで心地よい時間でした。敬史さんは近くの木製のベンチに腰を下ろします。わたしもその隣に座りました。敬史さんの目は花火に見入っています。一瞥すれば、淡い月明かり、星明かりの下、遠い花火を見る彼の黒い瞳が少年のように輝いているのに気付き、わたしはつい、言葉もなく、それを見つめていました。

 やがてその視線に気が付いたのか、敬史さんが「何ですか」と目で笑います。

「締め切りは、大丈夫なんですか?」

「ぼちぼちですね。――俺、昔は自分が物を書くようになるなんて、これっぽっちも思っていませんでしたよ」

「そうなんですか?」

 わたしには意外に思えました。二階の彼の部屋には、部屋の一面を覆うほどの蔵書が並んでいましたから、わたしはてっきり、彼は幼い頃から書物に親しんできた文学少年だったと思っていたのです。

「ええ。部屋で本を読んでるよりも、どちらかといえば外で遊ぶ方が好きで。小学校の頃から地元のバスケットボールのチームに入って、バスケに夢中になっていました」

「だからあんなにお上手なんですね」

 敬史さんが微笑します。その笑みは謙遜とも取れました。

「中学も高校も、バスケ一本で。自分の人生から、バスケが離れることはないって信じて疑っていませんでした。プロの選手になって食べていきたいって夢見るくらい、バスケが好きだったんです」

 ですが語る敬史さんの声は、今までの輝きを奪われたみたいに、不意に暗くなりました。

「……けど、高三の時に、病気を」

「病気?」

「ちょっと……内臓の病気なんです。それで今も通院しています。どちらかといえば空気も綺麗なところがいいから、この田舎に引っ込んで」

 わたしは以前敬史さんの跡をつけた時の、大学病院に入っていった彼の後ろ姿を思い出しました。やはりあれはお見舞いではなく、敬史さんご自身の事情だったのです。

「高校のバスケ部では、三年になってからようやくレギュラーに入りました。――前に話した、彼女と別れてからですね。そうしてうちのチームはインターハイまで進んだんです。……でも、俺はレギュラーになってから、密かに身体の不調を感じていました。けど、三年生の俺はインターハイはもう最後で――どうしても、仲間と一緒に最後まで試合に出たかった。だから何ともないふりをしていました。重大な病気だろうとも思わなかったから、病院にも行かなかったんです。――でも、決勝戦の当日でした」

 語る敬史さんは膝の上で、合わせた両手を固く握りしめます。

「試合に行こうとした朝、俺は家の玄関で倒れて、意識を失いました。試合どころじゃありませんでした。目を覚ました時には病院にいて、試合は終わってました。……俺の高校の、負けでしたよ」

 その様子を思い描いたわたしは、心の中で、ああ、と寂寥の溜め息をつきました。

「『病気じゃ仕方ない』。皆は俺を責めなかったけれど――俺が試合に出ていたら。あるいはもっと早く病気が分かっていて、編成を変えて練習出来ていたら。そういう『もし』が他の皆にも渦巻いていたことは、薄々感じました。最後の試合が大事だったのは、俺だけじゃなかった。他の皆にだって大事な試合だったんです。自分を誤魔化していた俺が、それを台無しにした……入院したベッドの上で、その自責の念が胸を締めつけ続けていました」

「敬史さん……」

 わたしには、深くうつむいた彼の横顔を見つめるしか出来ません。

「けれど俺だって、みんなと一緒に戦えなかったことが悔しかった。言うことをきかない自分の身体が、憎くて疎ましくて仕方がなかった。もし、俺が試合に出ていたらどうなっていたのか――傲慢かもしれないけれど、そんな『もし』の後悔がずっと心に残っていました。それに結局、以来俺はバスケが出来なくなったんです。息が上がるような激しい運動は控えろって、医者に言われてしまって」

 ああ、だから――。

 わたしは以前、敬史さんと交わした言葉を思い出しました。バスケをしていたのは高校までだったという話。あの時は――こんな理由があったなんて、思いもよらなかった。バスケを辞めたのは、彼の本意ではなかったなんて。

 痛ましいものをみるような目をしたわたしに、語り続ける彼は気付かない。彼の意識は、過去の、高校三年の夏にいるのでしょう。

「俺にとって、バスケは全てだったんです。『俺』という存在の一部だった。いや――俺からバスケが奪い去られた時、他には何も残らなかったんです。とりたて勉強が出来るわけでもない。他に趣味や夢があるわけでもない。――日々何をしていいのか分からなくなってしまった」

 彼はようやく、顔を上げました。固く握っていた両の手のひらを開いて、それを見つめて、

「自分が空っぽだったことに気付いたのは、その時でした。打ち込むべきものも奪われた。学校にも行けない入院生活、どう過ごせばいいのか分からなかった。日に三度の食事と薬を摂って、呆然と退屈なテレビを見て、検査をして……それだけ。無為な日々が続きました。これは、彼女を突き放した罰なのかなって、思いました」

 彼は自虐的な笑みを浮かべて、わたしを見やりました。

「そんな……」

「いえ、いいんです。とにかくあの時は、その衝動を他の何かにぶつけなくちゃ、苦しみを吐き出さなきゃ、自分が自分でいられなかったんです。……それで出逢ったのが本であり、物を書くことでした」

 ――繋がった。

 今の敬史さんと、過去の敬史さんが。

 けれど、わたしは彼がそんな形で今の彼になったのだとは、思いもよりませんでした。

 彼の小説にちらりと表れていた、悲しみ、無念さ――そういったものの源は、きっとそこにあるだと。わたしはようやく、理解しました。

「そのまま一年入院して、遅れて高校を卒業して、それから大学に行きました。病気になった自分が、無駄だったとは思わない。そう思いたくはありません。あの頃があったから、俺は今の自分なんだと思います。でも……」

 顔を上げている敬史さんの目に、再び遠くで閃く花火が映ります。

「本当のことを言うと、今だって、やれるものなら皆とやりたいです。――バスケ」

 彼の声は、湿っていました。

 わたしは黙ったまま、彼の話を聞き終えました。慰めの言葉が浮かばなかった。それに彼は、病気になった自分を受け容れています。受け容れようとしています。その強さは、自分の罪や半端な自分に泣いていたわたしよりも、ずっと強靭なものに思えました。

 わたしは彼の強さに、羨望を覚えました。その一方で、バスケを諦めきれずに目を赤くする彼の――弱さに、共感と、どこか懐かしい感情を覚えていました。

 花火は音を立てて、上がり続けています。わたしたちは黙って、その遠景を見つめていました。

 赤や黄色、青に緑。先程よりも一段と深く暗さを沈殿させた夜空に閃く菊花火に牡丹花火、柳にかむろ飛遊星ひゆうせい。時に連続して大輪の花が咲き、演目は少しずつ移り変わっていきます。

 始まりは終わりの始まりであり、一番の隆盛の後には、いずれ終息が来るだけです。――栄枯盛衰。人の命。華々しい花火がちらちらと細かな光を煌めかせながら夜空に溶けて消えていく姿に、わたしは徐々に、寂寥を覚えるようになりました。

 やがて辺りが静まりかえり、花火は終わったようでした。

「……帰りましょうか」

敬史さんがおもむろに、ベンチから立ち上がります。

「すみません。何だか、変な話をしてしまって」

「変な話だなんて。……そんなの、前のわたしこそ」

 わたしもベンチから立ち上がります。わたしたちの足は、村の家の方に向かってゆっくりと歩き出しました。二人分のサンダルのぺたぺたとした足音が、足許も定かでない夜闇を進んでいきます。

「わたしは、敬史さんの話が聴けて良かったです。敬史さんのことを、またひとつ知れて……良かった」

「……櫻子さん」

 夜闇の中で、敬史さんが瞠目どうもくしている気配がありました。

 敬史さんがどうやって今の敬史さんになったのか。敬史さんの小説の、爽やかで、優しくて、それでいてどこか傷ついたような雰囲気の一角で、寂しげに、そして黒々と渦巻いていた気配。その正体が、少しだけ分かったような気がしていました。優しさも、寂しさも、苦痛も、後悔も。それら全てが敬史さんを構成する一部なのでしょう。

「俺もです。この間は櫻子さんの話を聴けて、良かった」

 微笑んだ敬史さんは、もういつもの彼でした。

「さっきの話に戻りますけど――小説を書き始めた当時は、作家になりさえすれば、幸せになれるんだって思ってました。皆から認められて、褒められて、幸せになれるって」

「違うんですか?」

「成功と幸せは、別のものですよ。俺も作家になれてから気付きましたけど、成功は客観的なもので、幸せは主観的なものです」

「なる……ほど?」

 わたしにピンとこなかったのは、わたしの人生には、敬史さんのような大きな「成功」がなかったからかもしれません。

「幸せ」は……多分あった。あの彼と付き合っていた頃――彼が他の女の人たちとも簡単に関係を持つ人で、わたしもその一人にすぎないと知らなかった頃のわたしは、多分、幸せでした。それが泡となって消えてしまった今でも、振り返ってみれば、そう思います。

 敬史さんは路道から小石を拾うと、軽く振りかぶって眼下の川へと投げ入れます。

「有名になればなるほど、作品は様々な人たちの目に触れます。俺の作品の未熟さはさておいても、感性の異なる人、事情の異なる人、年齢の異なる人……理解をするのに精神的な成熟が必要なことだってあります。逆に、幼いからこそ心に響くこともある。人は精神的な成熟加減によって、感性や、必要とする言葉が変わっていくものです」

 ぽちゃん、という水音が、遅れてわたしの耳に届きました。石を呑み込んだ川が思いの外深いものだと、わたしは初めて気が付きます。

「結局――届く人にしか俺の言葉は届かない。そして、そういう合わない人たちからの批判も受けるようになる」

「作家さんというのも、大変なものなんですねえ……」

 敬史さんは思ったより明るい表情で、一笑しました。

「その度に自分自身の価値を揺さぶられていたら、傷ついて忙しいだけです。結局のところ、自分の価値は自分で決めるしかない。自分の味方は、自分と神様だけです。そして自分を最後まで肯定できるのは、自分だけなんです」

「自分だけ――」

 敬史さんの言葉はきらきらと輝きながら、わたしの心の水面を揺さぶりました。

 そんなこと、わたしは考えたこともなかった。

 自分の味方は自分だけ。逆に言えば、周りは敵だらけということでしょうか。それは――なんて、寂しい。心細い。

 わたしは親を知らずに生きてきました。でもその代わりに、景がいてくれた。景がわたしを支え、学校で何があっても、味方でいてくれた。それは、何と幸せなことだったのでしょう。

 そして今は、自分の愚かさによって、その景から見放された。そして、信じていた彼からも裏切られ――ああ、そうか。

 彼をこの口にしてからのわたしは、独りぼっちだったのです。蹌踉そうろうと歩き続けた暗い雨夜の中、彼の存在が自分の日々の大きな部分を占めていたわたしは喪失感と孤独に苛まれ、自身の価値をすっかり見失っていた。今更になって、自分を苛んでいたあの苦しみの理由の一端が、分かりました。

 けれどこの村に辿りついてからは、敬史さんが私を傍に置いてくれた。わたしはまた、居場所を見つけたような心地でした。敬史さんは自分のことをあまり喋らない人だったけれど、それで構わないと思っていました。

 でも。

 本当は――わたしは、彼のことをもっと知りたかったのです。今になって、それに気づきました。彼という人と彼の過去を知ることで、安心したかった。自分と何らかの共通点を見いだして、心を重ねて、孤独から逃れたかった。独りぼっちは嫌だった。

 どれだけ近くにいても、心が触れ合わないと、人は孤独なのですね。

 敬史さんの言葉は、過去は、わたしにそれを教えてくれたような心地がしました。

 けれど、

「それは……どんな自分でも?」

「え?」

「醜くて、ひどくて、小心で、何の取り柄もないような人でも?」

 わたしは――敬史さんのように強くない。世界を敵に回しても堂々と立っていられるほど強くないし、成功を収めるような特技もないし、肯定できるような自分ではないのです。

 敬史さんの言葉は、所詮選ばれた者だけのもの――わたしにはそんな心地がして、居た堪れなかったのです。だからつい、自虐的な言葉が漏れた。

 けれど敬史さんは、そんなわたしの言葉を見下すような顔もしませんでした。

「そうですね。そんな自分だからこそ、自分を肯定して、自分を信じてあげなければ」

「自分を、信じる……?」

「自分で自分を信じなければ、誰が自分を信じてくれるんですか? 人間というものは、その時々で態度を変えるものですよ」

「それは……確かに」

敬史さんは、「でしょう?」と片笑みます。

「それでも俺は……出来る限り、他人のことを肯定したい。だから櫻子さんのことも、肯定したい。だって俺も、否定されるよりは、肯定される方が嬉しいから」

 ――ただ、それだけなんです。

 敬史さんは微苦笑しました。

 真っすぐな人。憧れるくらい、芯の通った正しい人。

 正しいとか、間違っているとか。きっとそんなものは、見方によって変わるものなのでしょう。彼のこれまでの行いには、人を傷つけたり、人に迷惑をかけたりしたことだってある。でもそれは、きっと誰だってそう。誰も傷つけず、誰にも迷惑をかけずに生きている人なんていないのでしょう。

 それでも彼には不思議と揺らぐことのないものがあって、根底には他者への善意がある。わたしが敬史さんの小説から感じ取った、そのままの人。

 暗い夜道の中にいるのに、わたしは不思議と敬史さんが輝きを放っているような心地がしました。こんな体験は初めてでした。

 傍にいると心地よい人。わたしのことをあれこれ褒めてくれたり、好きだと囁いてくれたりするわけでもない。けれど傍にいるだけで、わたしも彼のようになれそうな気がする、勇気をくれる人。

 ――まぶしい。

 隣の敬史さんを見上げて目が眩んだような心地になった時、余所見をしたわたしは浴衣の裾が絡まって、転びそうになりました。横合いから、慌てて腕が差し出されます。

「大丈夫ですか」

 はい、と頷き、わたしは借りた手を離そうとします。――けど、その手に緩く力を込めた敬史さんの手に、わたしの身動みじろぎは遮られました。

「……危ないですから」

 敬史さんは、また前を向いて歩き出しています。その手に引かれるわたしも、歩き出しました。

 拘束というほど強いものではなく、ただ添えられているような大きな手。わたしが少し手を動かせば、彼の手は簡単に離せてしまうものだったでしょう。けれどわたしには、それができなかった。――そうしたくなかったのです。

 わたしたちの間にあったのは、積み木のような硬く確かな四角形や三角形でもない、もっと曲線だらけの、柔らかで不確かなものが積み上がってできている均衡でした。少しでも指を動かしたら、この均衡は崩れて壊れてしまいそうで――壊れてしまうよりは、今のまま、その優しい感触と温かな熱が伝わるままに、緩く重ねていたかったのです。

 微かに伝わってくるのは、いくつものまめが潰れて硬くなった感触。

 大きな手でした。敬史さんの手の大きさを、わたしは改めて感じました。控えめに、けれど確かに差し出されてわたしの手を待っているその手に、わたしは彼の新たな一面を前にした心地で、胸が甘い痛みに締めつけられました。

 ――あの彼にも。

「今までありがとう」と言って別れられたら、良かった。

 わたしは今更ながらに、そう思いました。彼は彼なりに、遊びは遊びなりに、煙草を吸わずにいてくれたり、わたしの好きな彼でいてくれたり、わたしのお弁当を褒めてくれたり――気を回してくれていたのだと、気付いたのです。彼の努力を、見いだせた。

 たとえ遊びでも、傍にいてくれた。幸せな時間をくれた。夢を見させてくれた。

 その掉尾ちょうびを飾るのは、皮肉ではなくて、やはり「ありがとう」の言葉が相応しかったのだと。そう感じた時、わたしの目尻には涙が浮かびました。

 伝えたら伝えたで、彼はやっぱり、逆上したかもしれません。でも、それでも。

 ――あんな最後には、ならなければ良かった。それはきっと、お互いに。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 わたしは初めて、無惨な姿になった彼にどこまでも深く、悔恨の念を覚えました。

 そう思えるようになったのは、きっと、この手に――敬史さんに勇気をもらったから。

 小さく鼻をすする音が闇夜に響いた所為か、わたしの手を軽く握る敬史さんの手が、僅かに気遣わしげに、その力を強めました。わたしの頬は熱くなりました。全神経が、繋がれた左手に集中しているかのようです。呼吸が乱れるまいと生まれた焦りに、手のひらにも、浴衣を着た背中にも汗が滲みます。

 けれど、静まり返った闇夜の中、不意に微かな呼吸の音が、耳に届きました。

 敬史さんの呼吸でした。深く静かなその心音がこちらにも伝わってくるかのようで、わたしはそれに、自分の呼吸を合わせてみました。

 ……まるで、温かな気が流れ込んでくるかのよう。

 手を繋いでいるだけなのに、こんなにも心地よい。息が、出来る。わたしがまぶしいと感じた敬史さんの纏う雰囲気に、この身をすっぽりと包まれたような心地でした。

 ――ああ。

 わたしは不意に、滲む涙と共に天啓のようにして、どうして自分がこの村から立ち去り難かったのかが分かりました。どうして、ここでの日々が、こんなにも幸福なのかを。

 そうなのです。ただ、それだけだったのです。

(懲りも)(せずに――)

 わたしもまた――敬史さんのことを。

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