八
長く感じた梅雨の陰気な曇天と善悪さえ押し流していくような長雨が去っていくと、暑さは急にやってきました。
あちこちから騒がしく鳴きしきる蝉や蛙の声が、汗と共にこの身に染み渡るようです。田畑の緑はますます濃くなり、山
ですがこの日は、久しぶりの曇天でした。とはいえ気温はさほど変わらないようで、朝から蒸す一日です。
近頃は高校生も夏休みに入ったようで、美緒ちゃんはよくこの家に遊びに来ます。昼間の陸上部の部活が終わった後、彼女は自分の家でシャワーを浴びてから、ラフな私服に着替え、「櫻子さん!」とわたしの部屋にやってくるのでした。彼女が提げてくる紙袋には、いつも十冊ほどの漫画が入っています。
「これ、昨日言ってたやつ。読んだことないって言ってたから」
彼女は健康的に日に焼けた顔で目を輝かせて笑い、そして夕方まで一緒に読書をするのでした。わたしたちはこの時間を、「読書会」と呼んでいました。
この日、昼の三時頃になって台所で晩御飯の準備を始めていたわたしは、玄関の開いた物音に、ああ、美緒ちゃんだと思いました。包丁と大根を握っていた手を洗って台所を出ると、憤然とした様子で唇をへの字に曲げきった美緒ちゃんと鉢合わせしました。
「もー! 聞いてよ櫻子さん!」
「どうしたの?」
美緒ちゃんはいつもの紙袋も雑に放り出し、今日の部活であったことを話し始めます。
「――で、副部長ってば酷いんだよ! 人に部のプリント作りを押し付けた挙句、いい出来にならなかったのを皆の前であげつらうんだから! プリント作りなんて、そもそもあたしの得意分野じゃないのにさあ! 失敗させるために押し付けたとしか思えないよ! で、部長の前ではいい顔してるんだから、陰険!」
「そうだったんだ……大変だったね」
「ほんと、いつも嫌な人だけど今日は輪をかけてひどい!」
美緒ちゃんは、わたしが注いできたグラスのジュースをずずーっと一気に飲み下しました。その随分と気が立っている様子に、わたしは小さく苦笑します。
「けど――その人だって、何かあったのかもしれないよ。もしかしたら自分が上手くいかないことがあって、美緒ちゃんを
わたしはふと、思いついてそう話しました。
ですがわたしの言葉に、美緒ちゃんは目をまるくして――どこか裏切られたような表情しました。
「……そんなこと、考えたこともなかった」
それから眼差しを落として、膝の上で握った自分の拳を見つめます。
「櫻子さんって、いい人だよね。あんなムカつく相手のことまで、そんな風に考えられたりしてさ。あたしには、真似できない」
美緒ちゃんは面白くなさそうに呟くと、卒然と立ちあがって部屋を出て行きました。その際廊下で、ちょうど階下へ下りてきた敬史さんとすれ違ったようでした。敬史さんが入れ替わりのように顔を出します。わたしたちは揃って、玄関がやや乱暴に閉められるのを見送りました。
「高校生というのも、大変そうですね」
肩を竦めた敬史さんにも、話は聞こえていたようでした。美緒ちゃんはかなり大きな声で喋っていたから、無理もないことでしょう。
「浮かない顔ですね。櫻子さん」
「あ……いえ」
美緒ちゃんの勢いに、まだ呑まれているのかもしれません。わたしは曖昧に笑って、「晩御飯の支度、しますね」と台所に向かいました。
「何か手伝いましょうか? 今は手が空いてますし」
「そうですか? じゃあ、解凍した枝豆を全部殻から出してもらえます? サラダにするので」
「分かりました。おいしそうですね」
規則正しい速度で大根を切るわたしと、その後ろで机に向かって無言で枝豆の豆を皿に出していく敬史さん。――わたしたちはしばし、お互い黙って作業を続けました。けれどわたしは――目と手は現実に向いていながらも、頭の中は別のことに支配されていました。
もっと、言葉を選ぶべきだった――先程の美緒ちゃんに対して、わたしは申し訳ない心地を覚えていました。今の美緒ちゃんは、正論などより、共感が欲しかったのではないでしょうか。一緒になって、「それは酷いね」と言ってくれる相手が欲しかったのではないでしょうか。
美緒ちゃんを傷つけてしまった――そんな後悔が、わたしの心に暗澹とした影を落としていました。
――櫻子さんって、いい人だよね。――あたしには、真似できない。
いい人――か。
褒められたのではないのでしょう。むしろその逆で。――ああ、そうか。
――従順で、言うこと聞いてくれそうないい子だと思ったから。
脳裏にふと過ぎるのは、いつかの彼の言葉。
……違う。美緒ちゃんと言ったことと、あの彼の言ったことの意味は違う。分かっているのに。
――自分だけ、いい子
――なんか、――さんっていい子すぎてついていけなーい。
一つの言葉はわたしの記憶の井戸の底で波紋を作って、次々と記憶の中の類似の言葉を引き上げてきます。これではまるで、連鎖反応を起こしているかのよう。忘れていたはずの言葉たちは、じくじくとした腐りかけの傷のようにわたしに疼痛を訴えてきました。
「――櫻子さん?」
気付けば、後ろの食卓に向かって作業をしていたはずの敬史さんが、隣に立っていました。
「枝豆、終わりましたよ。――大丈夫ですか?」
包丁を動かすわたしの手は、いつの間にか止まっていたようです。煮物にするための短冊切りの大根はまだ切り終えておらず、半分が丸いままでした。
「あ……ごめんなさい。ありがとうございます」
敬史さんはしばらく無言で、わたしの横顔を見つめているようでした。
「どうかしました?」
「え?」
「さっきの美緒ちゃんのことなら、あまり気にしない方がいいですよ。若い子というのはただでさえ、感情の起伏が大きいから――心配しなくてもそのうちまた、けろっとして戻ってきますよ」
敬史さんは励ますように、そんなことを言ってくれました。ありがとうございます、とわたしも笑んでお礼を言いました。
それでも――つい、言葉が漏れてしまったのは。
「わたしは……そんなに、『いい子』でしょうか」
「え?」
「いい子なのは悪いことですか? いえ――わたしだって、いい子なんかじゃないのに」
本当にいい子だったら、わたしは今、ここにはいないのではないでしょうか。あの彼の本性を知っても嫌いになれなくて、従順に、あのまま足元を見られながらずるずると付き合いを続けていたのではないでしょうか。――彼を殺すことも喰べることもなく、あの日常を、歪んだ日常を、過ごしていたのではないでしょうか。
台所の窓が、不意に吹き出した強い風を受けて、がたがたと鳴り始めました。そうしてやがて窓を打ち始めたのは、細かな雨粒。まるで雲の中の水分がスライスされて落ちてきたかのような規則的な音を立てて、外は雨が降り出しました。
雨――雨は嫌いです。歩き続け、明けることのなかったあの一連の夜を思い出すから。夢に見た血の雨。シャワー室で噴水のように広がった赤。公園の砂土の上に広がった赤い絨毯。蹂躙され、身の内を抉られる痛み。思い出せば、それらは悪夢のよう。
わたしが『いい子』なわけがないのです。人を殺し、人を喰らうあやかしが、鬼が。
わたしは――どうしてここにいられるのでしょう。どうしてこんなに、穏やかで満ち足りて、過ごせているのでしょう。
「誰も、何も、知らないのです。わたしがどんな人間か、なんて――」
隠しておきたいのに――いえ、隠しておかなければならないのに。何故でしょう。不意に、叫び出したくなるほどに、この心を自ら暴いてしまいたくなる衝動に駆られるのは。
「……櫻子さん」
「ねえ、敬史さん」
どうしてわたしは、この人を、ここの人たちを殺さずにいるのでしょう。人を喰らう鬼のくせに、残酷な鬼のくせに、こんなにも優しい世界に浸って。(――ちがう)
違う。わたしは――わたしは。
人でありたい。人間で、ありたい、のに。
気付けばわたしは、敬史さんのTシャツの胸に、頭を軽く預けていました。
「わたし――気がおかしくなりそうです」
抑え込んでいた言葉をぽろりと口にした瞬間、目の奥が熱くなって、しずくが溢れていました。櫻子さん、と戸惑った声を上げる敬史さんの鼓動がひたい越しに伝わってきて、彼の早い鼓動に合わせたように、わたしの血潮も熱く早く流れているのが分かりました。
「わたしは――どこで間違えたんでしょう。ただのいい子であれば良かったんでしょうか。それとも最初から――生まれた時から、全てはおかしかったのでしょうか――?」
わたしが半妖だから。だからこんなにも苦しいのでしょうか。人間であるには、わたしは一線を越えてしまった。妖怪であるには、人としての良心が邪魔をする。どちらの世界にも受け入れられない――いわばどちらの世界でも「悪」「失格者」であるわたし。
「こんなの――苦しい――」
「……櫻子さん」
どのくらい、そうしていたのでしょう。しゃくり上げるわたしに胸を貸す敬史さん、その手が、やがて躊躇いがちに、わたしの頭に触れました。その手はゆっくりと、わたしの頭を撫ぜてくれます。
その心地よい感触に我に返ったわたしは、ゆるゆると彼の胸から頭を離しました。涙と共に洟まで少し出てしまっていて、わたしは机の上にあった箱ティッシュから一枚とって、ちんと洟をかみました。
そうして少し落ち着いた様子のわたしを見て、敬史さんはわたしに椅子を勧めます。彼もまた、自分の椅子に座りました。
「俺もそうだったけど、櫻子さんも、自分のことはあまり話さないから。俺はあなたのことをよく知らないけど」
「……はい」
「櫻子さんは、そのままでいいんじゃないでしょうか」
「……こんなにも、苦しいのに?」
「話して楽になることなら、俺で良ければいくらでも聴きますよ」
わたしはうつむいて、スカートの膝の上に乗せた手をぎゅっと握りました。――話せるわけがありません。敬史さんは予想していたかのように、頷きます。
「あなたがそうして黙っていても――いつかきっと、何かが変わる時が来るんじゃないでしょうか。人間の一生っていうのは、波があるものです。幸せがいつまでも続かないのと同様、つらい時期だって、いつかは明けます」
「そう……でしょうか」
「ええ。あなたが変わるのか、環境が変わるのか。それは分かりませんけどね。あなた自身が変わる時が来るのだとしても、そのタイミングは周囲が言ってどうこうなるものでもないでしょう。あなた自身が変えよう、変わろうと思って、変わるものだと思います。だから」
敬史さんが言葉を切ったのに反応し、わたしは窺うように顔を上げました。彼は小さく、笑っています。
「せいぜい、ここで苦しんでください。あなたの気が変わるまで、あなたに行くところが出来るまで、ここにいてくれればいいですから」
わたしは一瞬ぽかんとして――それからつい、噴き出していました。
「せいぜいって――ひどい」
「そうですか? それは失礼」
「敬史さんって本当――もう、」
「俺が? 何です?」
言いながら、お互い笑ってしまいます。わたしの目尻にはまだ涙が滲んでいたけれど、敬史さんの割り切った物言いは、少しだけ――わたしの気を楽にしてくれました。
何も解決はしていないけれど。
少しだけ――もう少しだけ、ここでの暮らしに身を委ねていたい。
わたしはそんな風に思いました。
そんなわたしの膝の上の手を、敬史さんの手が握ります。
「どうしようもなくつらくなったら、言ってください。この胸くらい、いつでも貸しますから」
握られた、思いの外大きな手と、その温もり。そしてわたしを見つめてくる、物柔らかな光を宿した敬史さんの黒い瞳。
わたしは――何故でしょう。何故だか、全身の血がじわりと上るのを感じていました。いつも何気なく、当たり前に合わせてきたその双眸に見つめられると、今は自分の中の何かが見透かされそうで――わたしの中で、警鐘が鳴っていました。けれどその警鐘は不快なものではなく、優しく温かな何かが、子供が生まれる前から母胎の中で響かせている拍動のように、身動ぎしているのでした。
雨は降り続いていました。けれど次第に風は止み、雨音も柔らかくなって――夕方には雨は静かに穏やかに上がりました。
空にはまだ大小の雲が無数に残っていて、金色の残照を浴びていました。藤色の影を作る雲の縁は金色に輝いて、その溶け合いそうで溶け合わない対照的な色合いが美しかった。鬱金色の西の空から徐々に色は変化して、東の空は淡く優しい桜色に染まっていました。雨雲は少しずつ少しずつ風に押されて散っていって、そうして日が暮れました。
敬史さんと一緒に晩御飯を食べ終わり、わたしが鍋や食器を洗っていると、不意に、既に鍵をかけていた玄関からチャイムが鳴りました。
出て行って鍵を開けると、そこにいたのは美緒ちゃんでした。
彼女はばつの悪そうな顔で、しばし口ごもってから、わたしを上目遣いに見やりました。
「あの……さっきはごめん――なさい」
暗い夜道、そんなことをわざわざ言いに来てくれたのでしょうか。わたしは驚くと同時に、自分の中で昼間から僅かにささくれていた気持ちが、氷解していくのを感じます。
「ううん、気にしないで。わたしこそ、ごめんね」
言うと、美緒ちゃんも安心したようです。その表情が和らいで、元々のきつめの印象から、何やらいじらしく可愛らしい表情に変わりました。
彼女はもじもじと後ろにやっていた手を前に出します。美緒ちゃんが「あの、これ」と差し出したのは、透明の袋に入った、手持ちの花火セットでした。
「敬兄と、みんなでやらない? 永井さんも誘ったから、今来ると思うし……」
突然の誘いに、わたしもつい笑みがこぼれます。そして、一も二もなく大きく頷いていました。
敬史さんも二階での作業を止めて外に出てくる頃には、永井さんも懐中電灯を片手にやってきて。水を張ったバケツを準備して、コンクリートの地面に立てた蝋燭の先に火を点けて、ついでに皆で虫よけスプレーを浴びて――花火の準備は整いました。美緒ちゃんは半袖のTシャツをさらに腕まくりし、まだ火のついていない最初の一本を旗のように振りかざします。
「よし、いくよぉ!」
どうぞー、とか、いけー、とか、笑いまじりの囃子声がわたしたちの間から上がります。美緒ちゃんは腰をかがめて花火の先のひらりとした紙を、火に……点火!
じりりと音を立てて小さな炎が火薬に届き、一気に火の群れが花火の先から飛び出しました。鮮やかで溌剌とした緑の光です。
わたしたちは歓声を上げて、手を叩きました。花火はいくつになっても楽しいものです。
「敬兄、櫻子さんも! 早く! 消えちゃう消えちゃう!」
美緒ちゃんは振り返って、わたしたちがそれぞれ持つ次の花火を促しました。
「まだ点いたばっかりだよ」
「うん、火、分けて分けて」
「よし、オレはこっちの青いのをいくぞぉ」
わたしは美緒ちゃんの持つ花火に自分の花火を寄り添わせ、勢いよく噴き出ている光に花火の穂先を重ねました。やがて光の束は二本になりました。慌てて美緒ちゃんから離れると、わたしの花火は柔らかな桃色の光を放っていました。
その輝きを眺め、この目に焼き付けようとしている間に、花火は消えてしまいます。そうして次々と新しい花火に火をつけては、わたしたちは瞬刻の時を楽しみ、消える消えないで大騒ぎして、紫の宵闇の中で群れ騒ぐのでした。
何度か、永井さんがいつものカメラでシャッターを切っていました。それならまた、写真となった花火を見ることが出来る。皆と騒いだこの夜を、振り返ることが出来る。それが楽しみでした。
そうしてあっという間に袋の花火は底をついて――最後に皆で線香花火をすることにしました。
細いこよりのような花火を一本一本手に取ったわたしたちは、この夜を惜しむかのように、静かに細かな火花を飛ばす、可憐な花火に魅入りました。
これより前、最後に花火をしたのはいつだったっけ――わたしは不意に、そんなことを思いました。
――きれいだね。
そうだ。あの時も、線香花火を。
去年のことです。わたしは、わたしのアパートの外で、あの彼と一緒に静かに花火をしたのでした。
こんな風に賑やかではなくて、花火の本数も少なかったけど。浴衣を着て一緒に花火大会に行った帰り、彼が持ってきた僅かな花火を、わたしたちは秘め事のように楽しんだのでした。そして、その後で――。
ああ、と思い出した幸福な夜は、最後の雨の中の行為とは、まるで違っていて。
でも、あの頃の優しさは彼にとっては、遊びでしかなかったというし――。
暴力によって塗り替えられた、幸福な想い出。忘れていた重石が再び胸に沈む重みと痛みに、わたしの目の前は暗くなりました。救いは、あの一連の雨の夜からひと月弱経ってわたしの身に変わらず訪れた、赤い
あの彼と一緒に過ごした、楽しかった想い出。もらった言葉。もらった贈り物。それらは全部全部、彼にとっては遊びの、偽りのものでしかなかった。わたしにとっては何よりも大切だった時間を、退屈だったと言っていた。彼にとってのわたしの価値は、まるで、自分を飾るアクセサリのようなものでしかなかった。
――アクセサリ、か。
素直に喜ぶような気持ちには、なれませんでした。いつでも取って替えて、捨てられる、それだけの価値。わたしは――。
そうして頭の中で瞬くのは、彼の最期の無惨な姿なのでした。
「――櫻子さん。火、落ちてる」
ふと顔を上げれば、わたしの持っていた線香花火はとうに火を落として、ただの糸切れのような有様でした。落ちる瞬間を見ていなかった。線香花火の一番大事なところを見逃したわたしでしたが、今はそれを残念だとか思う気持ちも湧かず、わたしはどこか上の空でした。
「ほんとだ。ええと、次、次――」
その状態でもう一本の線香花火を袋のところまで取りに行ったのですが――次の瞬間、わたしは何故か顔から生垣に突っ込んでいました。強く逞しく生い茂った枝葉が顔にちくちくと当たって、痛くて驚いて身を引きます。ですがその方向をさらに誤ったようで、足元に地面がなくなったかと思うと、わたしは側溝に片脚を突っ込んで無様に転倒したようでした。奇妙な悲鳴を上げたわたしとただならぬ物音に、皆が花火から目を離して振り返ります。
「櫻子さん!?」
「どうした!」
「うぇえっ!?」
誰かが――敬史さんが懐中電灯を手に取って、わたしを照らします。それでわたしも、自分の身に起こったことをようやく理解しました。左右に揺れた後一点で止まった懐中電灯の光に導かれ、三人がわたしのもとに駆け寄ってきます。
「ちょ、何がどうなってそうなったの、櫻子さん!」
「わ、わかんな……」
「おいおい、大丈夫か」
永井さんの太い腕が、わたしの片腕を掴んで側溝から引き上げました。それはありがたかったのですが、その瞬間、わたしは膝丈のスカートの下、脛から足首にかけてにひりつくような痛みを感じて、思わず「いたたたっ」と声を上げました。
「ああ、コンクリートで擦ったんですね」
懐中電灯をわたしの足に向けた敬史さんが、わたしの右足を照らして観察しました。「これは痛そうだ」と顔をしかめた様子でした。
ですがそれだけでなく、わたしは永井さんに手を離された後、自分一人で立てなかったのです。コンクリートに打ちつけた右足――その足首が疼痛を訴えていて、思わずもう一度地面に座り込みそうになったところを、駆け寄った美緒ちゃんの腕にしがみついて中腰になり、堪えたのでした。
「足首が……」
「捻ったんですか? 折れてはいませんよね?」
「それは、多分――」
大丈夫だと思います、とわたしは力なく情けなく呟きました。
「ちょっと、大丈夫? 敬兄、湿布とかどこに」
美緒ちゃんが言いかけた瞬間、懐中電灯の光が余所へ移ったかと思うと、
「――え?」
わたしは背中と膝裏に、温もりと腕の力強さを感じていました。あっと思った時には、身に押し付けられた温もりを支えに身体が浮いていて――わたしを抱き上げたのが敬史さんだと気付いた時には、暗がりの中、耳のすぐ傍から彼の声が響いていました。
「どうせなら、傷口も一度洗った方がいいでしょう。櫻子さん、風呂場までちょっと失礼」
「え? あ、わ! た、敬史さん、いいです、重いですから!」
「俺だってこれくらいは――いえ、軽いですよ」
「重いんでしょう? 重いんでしょう!? いっそはっきり言って下さい!」
叫び声を上げるわたしは、玄関を抜けてお風呂場まで連行される羽目になりました。助かったといえば助かったのですが、この時は――ただただ、取り乱しました。
こういっては失礼ですが、敬史さんにわたし一人を抱き上げるほどの腕力があるとは思っていませんでしたし、彼がそういうことをするとも思っていなかった。既に湯を張っていたお風呂場に到着した時、わたしはサウナにこもっていたかのように、顔や身体が熱くてたまりませんでした。こちらは怪我をしているというのに、そんなわたしを見やる敬史さんが、実に楽しげだった。そんな彼の様子が、またわたしを落ち着きなくさせました。
だから。
その時のわたしは、気付かなかったのです。
わたしたちに向けられた美緒ちゃんの視線、――それが意味するところに。
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