障子戸の向こうから白い朝日が射しこんで、すずめの賑やかな地鳴きが響き始めた頃。

 その日の朝は、何やら聞き慣れぬ音で目が覚めました。

 音は玄関の外から響いているようでした。ばちん、ばちん、と、たん、たんとでもいうような音を足して二で割ったような、硬いような柔らかいような不思議な音。それが外のコンクリートの上を行ったり来たりしているのです。

 わたしは寝癖の付いた髪を手櫛で整えるのもそこそこに、浴衣姿のまま玄関を開けました。そこにいたのは敬史さんでした。彼が片手で跳ねさせているだいだい色のバスケットボール――これが物音の正体でした。

「あ、おはようございます」

「おはようございます。今日はお早いですね」

「ええ。早く目が覚めてしまって。ちょっと、軽く運動くらいしたい気分だったので」

 敬史さんは片手でバウンドさせていたボールを両手に取ると、玄関の脇にあった高い棒と板の先にある、底の開いた網に向かって投げ込みました。ボールは見事に網をくぐり、しゅっと小気味よい音を立てます。落ちたボールを拾いに行く敬史さんの仕草は、慣れたものでした。

「すごい、お上手ですね!」

 敬史さんは謙虚に一笑します。

「櫻子さんも、やってみます?」

「いえ、わたしは運動音痴なので……スポーツのたぐいは苦手なんです」

「そうなんですか?」

 わたしは小さく苦笑いしました。

「敬史さんは、バスケットボール、長いんですか?」

「そう……ですね。小さい頃からやってまして……高校までは」

「ああ、大学生になって止められた?」

「いえ、そういうわけでは……」

 敬史さんの目が泳ぎます。わたしは続きの言葉を待ちましたが、結局、彼がその続きを語ってくれることはありませんでした。

「すみません。自分のことを話すのは、苦手なんです」

 そんな言葉で、会話が打ち切られたからです。


   *


 四月、五月、六月。

 この村に来てからの数ヶ月は、穏やかに、日々充実して過ぎていきました。

 わたしは屋敷の掃除と洗濯、食事作りという家事に邁進まいしんしていましたし、たまに菊さんの家の畑仕事に駆り出されることもありました。――そんな時、菊さんは必ず、お礼に何らかの野菜や作った料理を下さったのですが。

 敬史さんといえば、毎日何らかの本を読んでいます。その場所は縁側だったり、台所だったり、二階の自分の部屋だったりしますが。かと思えばノートパソコンに向かって小説を書いて――あとはわたしと一緒に買い物に行ったり、一人でふらりと出かけていったりします。

 以前、「自分のことを話すのは苦手」だと言われた通り、敬史さんはさほど自分の話をしない人でした。見ているテレビや村の人のこと、読んだ本のことなどになると饒舌なのですが、ご自分の過去のことになると、あるところでふっと蓋を固く閉めるかのように、言葉を途切らせるのです。

 わたしにとって、敬史さんは同居人で雇い主――といったところでしょうか。そんな人のそのような態度が気にかからないと言えば嘘になりますが、だんまりを決め込むしかないことがあるという点では、わたしも同じなのでしょう。似た者同士――いえ、敬史さんをわたしと同類にしては、敬史さんに失礼です。

 とにかく、敬史さんは自分がそんなだから、素性の知れないわたしにも、よくしてくれるのかもしれません。わたしはそれをありがたいと思えばこそ、悪く思うことはありませんでした。


 その日は、青梅雨の合間の晴れ日でした。空一面、重くのしかかるようにして広がっていた雲は流れ、山際僅かに残るくらい。久方ぶりの高い空に、気分も自然と上向きます。

 わたしは久しぶりに外にたくさんの洗濯物を干せましたし、敬史さんも「天気がいいと外に出たくなりますね」と笑顔になって、わたしの作ったお弁当を持って図書館に出かけていきました。

 可愛らしい雲雀の鳴き声も盛んな昼過ぎ、わたしが玄関前のバスケットゴールへのシュートに挑戦していると、永井さんがやってきました。

「おっと、敬史は留守かい」

 永井さんは玄関前の駐車スペースに敬史さんの黒い車がないのを見て、すぐに察したようでした。

「はい。お弁当を持って図書館に行かれたので、もうしばらくは帰ってこないと思います」

「そうか。しかしまあ、弁当かあ……」

 永井さんは何やらにまにまとしていました。何を考えていらっしゃるのでしょう? わたしの不思議そうな視線に気付いた永井さんは一笑して、話題を変えました。

「櫻子ちゃん、シュートが出来るようになったのかい」

「いいえ、全然入りません」

 青空を背景にした雨上がりのバスケットゴールに何度も挑戦した所為で、ボールは水に濡れてしまっていました。わたしは冷たい雨の名残を手のひらに感じながら、もう一度ボールを投げてみます。しかしボールはあえなくバックボードにぶつかって、水滴を振りまきながら戻ってくるだけでした。

「貸してごらん」

 永井さんがボールを受け取り、敬史さんに似たスマートなフォームで、ボールを放ちました。――しかしわたしと似たり寄ったりで、ボールは虚しく輪に当たって落ちてきてしまいます。

「ううん、難しいもんだな」

「敬史さんのようにはいきませんねえ」

 あれからわたしは幾度となく、敬史さんがここでボールをついたりシュートの練習をしたりする様子を見ていましたが、彼がシュートを外した光景というのは、見たことがないような気がします。とてもお上手なのです。

 わたしは玄関の上がりかまちに座った永井さんに、お茶を煎れてきました。永井さんはご自身の撮られた写真のアルバムを持って来ていて、それをわたしに見せてくれました。敬史さんにも、それを見せるつもりだったようです。

「きれい!」

 わたしは知らず、感嘆の声を上げていました。

 永井さんがこの村を中心として撮った写真の数々には、雄大で透明な藍色の夜空に光を散らばせた、それぞれの色を放つ星屑が映っていました。

「ここはど田舎で、空気が綺麗だからな。星もよく映るんだ」

「空気が綺麗だと、どうしてよく映るのですか?」

「空気中の塵や埃、スモッグってのは、光を反射するんだ。それで空を明るくさせちまう。空が暗い方が星はよく見えるんだ。だから街の明かりも遠い方がいいな。それに夏よりも冬の方が早く日が暮れるから、空に日の光が残りにくい。だからよく言われるように、夏の空よりも冬の空は澄んで見える。その他には寒気団とか、大気の揺らぎとか、いろんな理由があるが……」

 彼の写真からは、北極星にカシオペア座、北斗七星に春の大三角形――わたしにも見覚えのある星の並びが見つかりました。黒々と横たわる山や電信柱の影を残す空のきわには、暮れ残りか遠くの街の明かりか、赤や緑の幻想的な色合いが滲んでいます。空だけでなく水面に映りこんだ瑞々しい星空もあり、わたしは夢中になってそれらを眺めました。

 そうしてわたしはアルバムのページを一枚一枚っていたのですが、その手が不意に止まります。夜空に幾重いくえもの白い渦のようにして映っているもの――これは、星なのでしょうか?

「これも星ですか? どうやって撮るのですか? 不思議……」

「軌跡写真か。三脚で固定したカメラで、二十秒から三十秒ごとに自動で連写していくんだ。それを数時間続けてコンポジットすると、こうなるわけだ」

「へえ……。星って数時間でこんなに動いているのですね」

「ああ。でもこの写真は丸一晩かけたよ」

 指差された写真は、雨筋のような星の軌跡が地上に降り注いでいるかのようで、何とも神秘的でした。

 永井さんと敬史さんは、永井さんが敬史さんの本の表紙を飾る写真を撮ったことをきっかけに、お知り合いになったそうです。敬史さんがこの村に住むようになった――永井さんは『隠棲いんせい』と言います――のを聞いて、永井さんもこの村や近隣の高原での星空を目当てに、空き家に引っ越してきたそうです。永井さんはこの村の人ではなかったのです。

「あいつには次の本の写真も頼まれているんだ。あいつがこの村で次作を書くのなら、あいつが見ているのと同じ景色から撮ってみようと思ってね」

「そうだったんですか。……あの、敬史さんの本って、なんていうんですか?」

「読んだことない? 本屋に行って、探してごらん。今なら平積みして売られてるだろうし、名前を見ればすぐ分かるから、大丈夫」

 永井さんはその大きな口で、ニカッと笑いました。

 その週の敬史さんとの街への買い出しの際、わたしはおそらくまた病院へ行った敬史さんを待っている間、本屋に出向きました。そういえば前に来た時は、わたしは料理の本の列を見つけて直行してしまったので、小説のコーナーは見ていません。

 わたしはハードカバーの新刊が並んだ列をうろうろしました。名前を見れば分かる――永井さんはそう言っていましたが、普通、作家さんは筆名を使うのではないでしょうか? それも聞いていないのに見れば分かるだなんて、永井さんも無茶なことを――そう思った時、わたしの視界に飛び込んできた一冊がありました。

『境界 真田敬史』

 ……これは、敬史さんなのでしょうか。いえ、そうに違いありません。わたしはその本を手に取ってみました。表紙のカバーは写真で、先日永井さんに見せてもらったような、北極星を中心とした星空の軌跡写真です。間違いありません。本を開いて表紙の写真の主を確認しても、そこには「永井希一」の名がありました。

 わたしはそのままレジに向かって、その本を購入してきました。けれど何となく敬史さんには見せづらくて、紙袋に入れられたそれは鞄の底にそっと仕舞い、何食わぬ顔で彼と合流して、その日は帰ってきました。


   *


 本の終わりに書かれていた作家のプロフィールに先に目を通すと、筆名の読みは「さなだあつし」となっていました。敬史さんは読みだけを変えて、本名と同じ字を筆名にしているようです。この作品は三作目のようでした。わたしはその日の夜から、家事以外の時間を利用して、本を読み進めていくことにしました。

 そのお話は大学を舞台にしたもので、主人公は学生の青年でした。大学という既知の世界、それでも敬史さんという人のフィルターを通した見慣れぬ世界に、わたしは興味深く足を踏み入れていきます。

 結構な分厚さがある本だったので、一日では読み終わりませんでした。けれど読んでいる間、わたしはすっかり本の世界に引き込まれていました。食事の支度をしなければいけない時間が来てしおりを挟んでからも、頭の中では登場人物たちの言葉や表情、感情がぐるぐると巡っていて、これから彼らがどうなるのか、続きが気になって仕方ありませんでした。

 結局、読み終わるまでには三日かかりました。

 夕食を終えて敬史さんが二階に上がった後、わたしは台所の机の前に坐り、ラストスパートに入りました。そうして読み終わり、登場人物の彼らがその先どうするのか――そんな余韻にとらわれてぼうっとしていると、背後から階段を下りる足音がして、敬史さんが姿を現しました。

「櫻子さん――あれ、その本」

振り向いた私の手許を見た彼は、自分の著作の存在に気付いたようでした。

「え? あれ? いつの間に」

 パソコン用の眼鏡をかけている敬史さんは、二階の自分の部屋を振り返り、やや狼狽ろうばいしていました。彼の部屋にも、きっと同じものがあるのでしょう。それをわたしがいつの間にか借りてきたのだと思ったのかもしれません。あらぬ疑いがかかる前に、わたしの方から説明します。

「この間、街に行った時に買って来たんです。――あ、すみません! 結局、わたしの貰っているお金って出所でどころは敬史さんなのに……これじゃあ敬史さんのお金で敬史さんの本を買ったことに!?」

「い、いえ、それはいいんです! というか櫻子さんに渡しているのはれっきとした櫻子さんのお給金ですから!」

 互いにひとしきり周章しゅうしょうした後、敬史さんが苦笑します。「――ひとまず、座っていいですか?」

 敬史さんはいつも自分が座る席に、腰を下ろしました。

「いや、まあ……ありがとうございます、わざわざ」

「いえ、その……敬史さんがどういうものを書くのかなって……知りたかったんです」

「そうでしたか」

 敬史さんは目許を和らげました。

「……あの。こういうのを直接訊くのはどうかと思うんですけど……どうでしたか?」

 わたしはしばし、どう表現すればいいのか考え込みました。そしてさらさらとした感触の装丁を揃えた指先で撫でながら、一語一語、言葉を選んで話し出します。

「ここに……『敬史さん』がいました」

「……俺が?」

「はい。敬史さんは、本の中の方がお喋りですね」

 彼は、「そうかな」と苦笑いしています。

「本の中の敬史さんは、少しシニカルで、悲観的で、でも、感動屋さん。根っこの方では、善いことを信じたがってる。……そう感じました」

 それに、……優しい。悲しがってても、時に斜に構えても、綴られる文章の雰囲気から優しさや、その繊細さが消え去ることはない。とても良い人なのだとも感じました。きっと、だからこそわたしのような者を居候させてくれているのだと。

 わたしがそのようなことを伝えると、敬史さんは眼差しを落としました。

「良い人、ですか……」

 その声音には、納得のいきがたいような、わたしの言葉を信じていないような――そんな否定的な色が見えました。

「……その話を最初に書いたのは、高校時代に付き合っていた彼女と別れて、一年後のことでした」

「彼女さん……ですか?」

 敬史さんには珍しい、自分の過去を語る様子――わたしはじっと耳をそばだてました。

「彼女はちょっと、複雑な家庭に生まれ育った人で……それでも魅力的な人だったし、俺は好きでした。自傷癖のある彼女のことが心配でもありましたし……うん、放っておけなかったって言うのもありますね」

 わたしは読み終わったばかりの小説を見下ろしました。その登場人物の一人にそのような女の子がいたからです。

「でも、いつの頃か気付いたんです。彼女といると、何かしら身体の不調に悩まされるって。不眠や腹痛、そうでなくても強い倦怠感に襲われて、これまで普通に出来ていたことが出来なくなったりして――」

 まるで、いのちを吸い取られているようでした。

 敬史さんは、ぽつりとそう漏らします。

「あの感覚は、そういう目に遭った人間にしか分からないと思います。でもこれは、自分の問題なんだと思い込もうとしました。自分次第でどうにかなることなんだって。彼女と付き合っていたかったから、試行錯誤しました。けれど――出来なかった。逆にその試行錯誤で、彼女を傷つけたり、喧嘩になったりするだけでした。そうする間に、互いへの嫌悪が募って、すれ違って――」

 その結果、二年間の交際の末に別れを決めたんです――敬史さんは眼鏡の奥で、まぶたを伏せました。

「それ以上彼女と付き合うことは、自分の人生と命を彼女に捧げることを意味しました。俺には、それが出来なかったんです。彼女よりも、自分の人生が大事だったから。やりたいことがあったから」

「やりたいこと……ですか?」

「ええ」

 彼は、ふ、と微笑します。

「精神的にも肉体的にも限界が来て、別れを切り出しました。『昔の方がいい人だった』、『私を踏み台にするのね』とも言われました。……びっくりしました。そんなこと、考えもしなかったから。その時は、彼女と離れることに精一杯で――後になってみれば、それは彼女が人を踏み台にして生きる人だから、そんな発想になるのではないかとも思えました」

 敬史さんは語ります。

 別れを切り出したことで、彼女がとても傷ついたのが分かった。彼女を嫌いになって別れを切り出したわけではなかったから、まだ情があった。だから、彼女を傷つけまいと言葉を尽くした。頭がきりきりと絞られて痛むほど、彼女の所為ではないと、彼女を傷つけまいと言葉をひねり出して。

 けれど言葉を尽くせば尽くすほど、彼女を無惨に傷つける結果になった。

「自分の言葉は人を傷つけるだけなのかと、悲しく、虚しくなりました。でも事実、あんな極限状態で絞り出した言葉がまともであったかというと、自分でも疑問です。それに、俺もどこかに被害者意識があったんでしょうね。二年間耐え続けた不調や、彼女からの言葉に関しての――別に、頼まれて我慢したわけでもないのに」

 敬史さんは自嘲の笑みをこぼしました。

「けれど、彼女と別れて以来、ようやく自分の人生に戻れたような感覚がありました。視界も思考もクリアになったんです。それまでは、彼女と一緒に薄暗くて陰鬱な谷底にいるような感覚でした。まるで、彼女の語った親からの暴力の凄惨な実体験の世界に、自分もまた引き込まれてしまっていたように。――彼女に比べれば恵まれた環境で生まれ育ったことがいけないことのように感じて、幸せであってはいけないような気がしていましたから」

 俺は彼女を幸せにできなかったけど、彼女が他の人と幸せになるなら、それでいい。むしろ、そうあって欲しい。彼は続けます。

「お礼が欲しくて彼女と付き合っていたわけじゃありません。……でも、本当は」

「……本当は?」

「俺がそう伝えたように、彼女からも最後に一言、『今までありがとう』の言葉がもらえていたら――それまでの二年間の苦しみも、全部なかったことに出来ただろうに。彼女へのある意味の未練を断ちきれていただろうに。……別れを切り出しておきながら、綺麗に別れたいだなんて欲を抱いてしまったのは、自分勝手なんでしょうか? ……櫻子さん」

「それは――」

 訥々とつとつと、それでも語りきった敬史さんに初めて問いかけられ、わたしは戸惑いました。

 わたしは、どうでしょう。どうだったのでしょう。

 あの彼――政人くんの本性を見せられ、これ以上付き合いきれないと告げたあの時に、「ありがとう」だなんて言葉が浮かんだでしょうか。そんなに気丈であれたでしょうか。――いいえ。彼も、敬史さんの別れた彼女の言葉で言えば、わたしにとっては「昔の方がいい人だった」のです。その本性など見せなかった、それまでの彼の方が。

 ――でも、彼と敬史さんは、違う。違うのでしょう。

 それでも、敬史さんの願った言葉は、多分、別れを切り出す側だから思えるものです。突然別れを切り出された方は、混乱と、怒りと悲しみでいっぱいだから。でも彼の心と事情を聞いた後になってみれば、もしそんな言葉を口に出来ていれば――どれほど凛としていられたことか、とも思えるのです。多分、その言葉は相手のためにも、自分のためにもなった。

 答えを探すわたしの沈黙をどう受け取ったのか、敬史さんは小さく笑いました。その様子は、どこか作り物の仮面みたいに明るかった。

「――すみません、変なことを訊きました。櫻子さんが当時の状況を知るわけでもないのに――。それに今となっては、そんな言葉ももう必要ないし、どうだっていいんです」

 うそ。

 わたしは直観的に、そう思いました。

 敬史さんの中では今も、彼女のいびつな残滓ざんしがあるのでしょう。後悔と、自責の念と、そして――わたしに頼りなく問うたように、誰かにあの時の自分を肯定して欲しいという思いが。

「……敬史さんは、お話の中だけ正直なんですね」

「それは違いますよ。俺の書くものはあくまでフィクションですし。それに俺じゃなくても――実体験を書く『エッセイ』に関しても、知ってます?」

 わたしが小首を傾げると、敬史さんは悪戯っぽく笑います。

「いいエッセイを書くには、数割の虚偽を混ぜること、だそうですよ。それを事実と見せかけるように書くんです」

「まあ」

 敬史さんは席を立ちました。けれど、今日は黒いTシャツを着た彼の背中は――どこか違って見えた。わたしが彼の本を読んだ所為でしょうか。今までの、自分の生い立ちに触れなかった彼とは違って、どこか、本当の彼がそこにいるような気がした。ただの「良い人」ではない本当の彼に、ほんの少し、触れたような思いがしました。

「でも、敬史さん。因果応報って言葉、ありますよね」

「……そうですね」

 肩越しに振り向いた敬史さんは眼鏡を外し、つるを折り畳みます。

「たとえその彼女さんからの『ありがとう』の言葉がなくても、敬史さんが彼女を支えた二年間は、無駄ではなかったと思います。よいことは、その人からの直接のお礼がなくとも、巡り巡ってよいこととなって、敬史さんに返ってくると思います」

「情けは人の為ならずってやつですね」

「そう、それ」

「じゃあ、悪いことも返ってくるんですね」

「それは……」

「いいんです。もう既に返ってきましたから」

「そうなんですか?」

敬史さんは、苦笑するだけでした。

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