六
真田さんのお話によると、わたしはここで三日も寝込んでいたようでした。
わたしが熱と夢にうなされながらも眠っていた間、おかゆを食べさせてくれたり、その指で涙を拭ってくれたりした人の存在があったことを、わたしも朧気ながら覚えています。
この家にいるのは真田さんだけ。つまり真田さんは、わたしを運び込んで以来、つきっきりで面倒を見ていてくれたのでしょうか。
真田さんは学生さんという年齢にも見えません。わたしはその間のお仕事は大丈夫だったのだろうかと心配になり、真田さんに訊いてみました。
「ああ、お構いなく。在宅業ですから」
「在宅業……といいますと」
「ええと、文筆業、ですね」
「……ぶんひつぎょう?」
わたしには聞き覚えのない職種でした。わたしが首を傾げたままでいると、真田さんは一度視線を落とし、躊躇いを見せました。
「まだまだ駆け出しなので、こういう風に言うのは気が引けるんですが……有体にいえば、作家の端くれです」
「ということは、真田さんはお話を書くんですか?」
「ええ、そういうことです」
「すごい!」
作家さんと言われれば、わたしにも理解できます。人間たちのつくるものに並々ならぬ興味を持ってきたわたしの守備範囲には、小説や漫画、テレビ番組、映画なども含まれていました。実際にそれらを創る側の人に出会ったのは初めてで、わたしは感動に目を輝かせてしまいます。真田さんはわたしの反応に驚き、照れたような顔をして、少し首筋を掻きました。
「いえ、すごいと言われるほどのものでは……。売れるかどうかは編集さん方や宣伝の力も大きいですし。小説は十八の頃から書き続けていて……それが二年前に賞をいただきまして。大学を卒業してからは街の方で勤めて兼業していたんですが、ある程度印税もいただけたので、他界した祖父が暮らしていたこの家に引っ込んだんです。もともと、都会の空気はあまり合わなかったから」
「そうなんですか……」
「どこからいらっしゃったんですか、とはさっき訊きましたが……櫻子さん、帰る家は?」
真田さんのお話には興味を持って聴き入ってしまったわたしですが、自分自身の話となると、正直、口が重くなります。どこをどう歩いてきたのかは覚えていませんし、大学や、バイト先の和菓子屋さんのあるあの街に帰れるのかは分かりませんでした。(けいさつが……)
だってわたしは、人を喰べた。人を殺したのです。それも、ひとりではなく、喰べたのです。最初のあの人を喰べた時だって、目撃者でもいたら(けいさつが――)……わたしの心は大きくざらついた錘でも呑み込んだかのように、深く重く沈み込みました。今更になって、仮にも人間社会で生きていた自分が仕出かした、事の重大さに改めて直面したからです。
大学も欠席続き、アルバイトも放棄したわたしのことは、行方不明とでもなっているかもしれません。もし人間の警察にそれが知られれば、わたしの存在は訝しがられるに違いありません。(――景)
ああ、こんな時、景に相談できれば。わたしが唯一頼れるのは、脳裏に閃いたのは、彼の存在に他なりませんでした。けれどわたしは、あの夜に景と袂を分かってしまった。そしてあの人のことも、彼の言った通りだった。
自業自得、わたしは景の忠告を振り切って勝手にして、勝手に
すっかり黙り込んでしまったわたしには、真田さんも困り果てたようでした。
「……まあ幸い、この家は部屋だけはありますから。掃除が行き届いていないところもありますけど……行くあてが見つかるまでは、別にここに居て下さって結構ですよ」
「え? い――いいんですか?」
「ええ。ただ、ある程度家事をしてもらえると助かります。必要であれば、多少はお給金も払いますし……」
行くあてをなくしていたわたしにとって、真田さんの申し出は願ってもないこと。ひとまずの居場所はできた――そう安堵と目の前の明るさを覚えたわたしの耳に、部屋の外から引き戸が開く音が届きました。
「おおい、
「あ、はーい!」
お客さんのようです。声は年老いた女性のものらしき、やや
「
「いえいえ。ちょうど明日は、俺も街に出て行く用事があるので。じゃあ、明日早速行ってきます」
見知らぬおばあさんは、真田さんに何やら四つ折りの紙片と封筒を渡していました。まだお腰は曲がっておらずとも、背の高い真田さんと並ぶと背丈の小さなおばあさんです。小花柄の
「なんや、この間の嬢ちゃん目ぇ覚めたんか」
「あ、ついさっき……。櫻子さん、こちら菊さんです」
真田さんに紹介され、わたしはもう一度顔を出しました。紹介されては、ここで引っ込んでいるわけにはいきません。浴衣の帯が緩んでいないか確かめてから裾を直して、玄関まで出て行きました。
おばあさん――あらかた白くなった髪を後ろでお団子にした菊さんは、物珍しそうにわたしの頭のてっぺんから爪先までを見やりました。けれどわたしが寝込んでいたことを知っている所為か、その声には温かな気遣いが滲んでいました。
「身体はもうええんか?」
「あ……はい、おかげ様で」
「ほーか、良かったのぉ。どっから来なすったん?」
質問はやはりそこに向かいました。答えられないわたしは気まずくて、うつむいて唇を噛むばかりです。見かねた真田さんが、助け舟を出してくれました。
「菊さん。櫻子さんはしばらくうちで家事を手伝ってくれることになりまして……」
「あら、そうなんか。まあ養生するのが一番やの」
菊さんはじゃあの、と言い残して、玄関を後にされました。
わたしは何気なく、真田さんが持っている四つ折りのメモと封筒に視線を落としました。それに気づいた真田さんが、ああ、とメモを開きます。
「これは買い出しのメモです。明日、俺は街に出て行きますけど……櫻子さんさえよければ、一緒に行きますか?」
*
翌日の午前中、わたしは真田さんの運転する黒のコンパクトカーに乗りこみました。小高い山間部にあるこの村を下りて、近隣の繁華街に向かうようです。
今日の真田さんは黒縁の眼鏡をかけていました。昨日は見なかったその姿をわたしがしげしげと眺めていると、真田さんが苦笑します。
「運転の時は掛けなきゃいけないんです。この間の免許更新で、視力検査に引っかかってしまって。――じゃ、行きますか」
助手席に座ったわたしはシートベルトを締めます。真田さんがエンジンをかけ、玄関前の駐車場から危なげのない手つきで車を発進させました。
三方を緑の小高い山々に迫られた村は、山の麓に人家が密集する集落がある他、隣町へと抜けるなだらかで狭い平地には大小の一軒家が点在しています。真田さんの家もそのひとつで、隣家が比較的離れた一軒家でした。
家々の間には緑に彩られた田畑や農道が広がっています。店というものは見当たりません。コンビニエンスストアの一軒も、お医者の一軒も見つかりませんでした。時折、経営しているのかいないのか分からないような
真田さんの黒い車は、村の中の唯一の片側一車線の車道を軽快に走り抜けていきました。車内にはラジオがかかっています。ちょうどニュースの時間のようで、『次のニュースです』と、淡々とした声音の男性の声が聞こえてきました。
『N市の公園で男性の遺体が見つかった事件です。警察は遺体の主を行方不明の二十四歳の会社員、××政人さんと特定し――』
わたしは助手席で、知らず息を詰めていました。わたしを暴力を振るい、そして殺された――あの人の名前が聞こえてきたからです。
やっぱり、既に警察の調べが及んでいるんだ――わたしの胃の
(雨)(明滅スル)(がいとうの)(明カリ)(くらい)(空)(赤イ)(臓器――)どうしよう、景――わたしは情けなくも、袂を分かった彼を心で呼んでいました。彼の存在しか、
「あの女優さん亡くなったのか……」
不意に隣から聞こえてきた嘆声に、意識をあの雨夜に引き戻されかけていたわたしは我に返りました。ニュースに耳を傾け直せば、アナウンサーの男性の声は、有名な老年の女優さんの
――今のは、まさか幻聴?
わたしは車の安定感のあるシートに預けた背中に、冷や汗の感触を覚えていました。……どういうことでしょう。今のニュースは、わたしの抱える奥底の恐怖が呼び起こしたものに過ぎなかったのでしょうか? わたしがその是非に戸惑っている間に、「ニュースじゃつまらないですね」と、真田さんがチャンネルを変えました。今度のチャンネルは男女のパーソナリティ二人が陽気に掛け合っているもので、やがてリクエストの明るい曲調のポップスが流れ始めました。わたしは窓の外を流れていくまだら雲に覆われた青空と、見知らぬ田園風景を眺めながら、半ば呆然と、それを聞いていました。
二十分ほど、走ったでしょうか。車はわたしが以前いた街よりは
「大体二時間後に、またここで待ち合わせということで。櫻子さんはその間に――はい」
真田さんはジーンズのポケットから自分の財布を取り出して、わたしに手渡しました。
「櫻子さんも、多少の着替えとか必要でしょう。うちにあるのは、祖母の古い浴衣くらいですし」
わたしは少々呆気に取られて、真田さんから渡された合皮の財布を見下ろしました。わたしも一緒に買い物に連れてこられたのは、このためだったのでしょう。
確かにわたしは真田さんに拾われた時、鞄のひとつも財布のひとつも持っていませんでした。着の身着のまま、そしてその時の黒いワンピースや下着は、――そういえば手元にありません。今もわたしは真田さんの家にあった襦袢と、朝の葉模様の入った薄桃色の着物姿です。おかげでここまで街に出てくると、着物姿が目立って他の人の目をちらちらと引いていました。でも、ここまで真田さんに面倒を見てもらう理由もありません。
「わたしは、浴衣でも構いませんけど」
「いえ、そういうわけにもいかないでしょう」
「だって、まだお給金を貰うような働きもしていませんし――」
「じゃあ、今回は前払いということで。櫻子さんにいつまでも浴衣ばっかり着せてたら、俺が菊ばあに甲斐性ないなあって怒られちゃいます。あ、心配しなくても、どうせそんなに中身は入ってないんで」
真田さんはその財布から自分の分である五千円札だけを抜き取って、再度わたしの手に握らせました。
「俺はちょっと用事があるので。じゃ、またあとで」
一笑した真田さんは、さっさと自分の用件のあるらしい方角へと歩き去ってしまいました。財布の中身を改めたわたしは、そこに数枚の一万円札を認めました。
――(逃げるなら)(今のうち)――。
わたしの脳裏で、あやかしとしてのわたしが囁きました。
そうです、このお金があれば、どこか別のところまで逃げることも不可能ではないでしょう。それに――真田さんはどこへ行ったのでしょう。わたしがふと振り向いた時――そこには「警察署」の文字の
わたしの看病をした真田さんが、わたしを不審に思わなかったわけがありません。もしかして真田さんは――わたしのことを不審人物として通報に行くのではないでしょうか。
身を締めつける着物の帯がなくとも、呼吸が苦しくなるほどの不安と疑念が一気に募りました。わたしは先に駐車場を歩き去っていった真田さんの跡を、思わず追いかけます。
着物は走りにくかったけれど、少し駆けていけば、その後ろ姿は見つかりました。――警察署とは別の方角です。それでも疑心暗鬼のわたしは一定の距離を保ったまま、真田さんの後をつけていきました。真田さんはピザ屋さん、本屋さん、紳士服店――数々の店の前を通り過ぎ、街の外れまで出て行きました。その先にあったのは、
(――大学病院?)
白と灰を基調にした、小奇麗で巨大な建造物群。増築に増築を重ねた、という印象です。広い敷地内では何棟もの背の高い長方形や四角形、ガラス張りの高層建築物などが連なって、遠目からでもその威容を見せていました。真田さんの背中は、その玄関をくぐっていきます。わたしはそこで
――都会の空気は合わなくて。
もしかして、真田さんはどこかお身体が悪いのでしょうか。それとも、お知り合いが入院しているとか?
真田さんに尋ねて確かめてみたい気もしましたが、それにはわたしが真田さんの跡をつけたことを話さなければなりません。――訊くのは、止めておくことにします。
とにかくわたしは真田さんを疑ったことを後ろめたく思いながらも、来た道を引き返しました。(逃げる?)(逃げない?)(人間なんて――)そう、人間なんて、大嫌い――わたしはあの夜、痛みと恐怖に苛まれながら、強く、叫ぶようにしてそう思ったはずでした。
けれど今のわたしは、あの街にも戻れない。戻ったらどうなるのかも分からない。恐ろしいことが起きるかもしれない。詰まるところ、わたしはあの街に帰る勇気が出ないのです。かといって、他に行く場所もありません。山の中に潜む――そう、それも一つの手です。雨の中を
でもわたしは、もはやすっかり人の暮らしに慣れていました。温かな布団で眠る心地よさも、温かなご飯を作って(人の肉も)食べる幸福感も(おいしい……)知ったわたしは、人間としての生活に未練を覚えていたのです。そして真田さんは、しばしの間でも、わたしにその生活を許してくれています。
わたしは手の中に預けられたお金を見下ろしました。人によっては、この金額を手に入れるために罪を犯すことだってありえるかなりの額であることくらい、人間世界で働いていたわたしにも分かります。これは真田さんからの信用の証、むしろ信用を計る指標なのかもしれません。わたしは試されているのかも。
――逃げたところで。
これ以上の生活は得られそうにありません。それにわたしは、あんな目に遭ったばかりにも関わらず――いえ、だからこそかもしれません。それに景という一番の味方すら失ったわたしは、人恋しかった。誰かに縋りたいほど、心細かったのです。真田さんのことは……少なくとも、親切な人であるように感じていました。
(警察――)あの街から真田さんの住む村までは、相当の距離があるはずです。警察の捜査も、少なくともすぐには及ばないでしょう。あの街の事件とあの村にいるわたしが結びつくことも、そう容易くはないはず――わたしはそう考えました。希望的観測に過ぎないかもしれません。それでも今はそう思い込んで、しばしの安息を得たかったのです。
迷った挙句、わたしは真田さんに言われた通り、最低限の着替えや動きやすい洋服を何着か買いに行きました。そして待ち合わせの時刻までには、車に戻ってきたのです。
約束の二時間から少し経った頃。車の脇で先に待っていたわたしのもとに、真田さんが帰ってきました。遠目ではあったけれど、そこには笑顔が浮かんでいたことが読み取れました。
「お待たせしてすみません」
「いいえ、わたしも今戻ったところですから……お金、ありがとうございました」
わたしは深々と頭を下げ、買ってきた衣類の袋を持ち上げました。レシートと残りのお金が入った財布を真田さんに返します。彼が満足げに微笑みました。
「じゃあ、荷物は一度車の中に置いて。菊ばあたちに頼まれた買い物に行きましょうか」
「菊ばあ……〝たち〟?」
「そうです。ちょっと量が多いので、すみませんが手伝ってください」
真田さんは言って、眉尻を下げました。
それからは、二人でショッピングセンター内のスーパーやホームセンターを回りました。真田さんに預けられていたのは、十枚ほどのメモ用紙とお金。洗剤や小型の電化製品、衣類など――それらに書いてある品を、探し回っては買っていきました。
途中、わたしたちはサンドイッチと紅茶、コーヒーを買ってショッピングセンター内の休憩所で一服しました。それからまた、買い物を再開します。
購入した品々を車の後部座席に積み込んで帰路につく頃には、夕暮れが近づいていました。真田さんはまた二十分かけ、今度は坂道を上って村に帰ります。それから買い物を頼んでいた各家に、品を詰めた袋や段ボール箱を分けに回りました。その頃にはもう、陽は西の雲間にすっかり傾いて、辺りを金色の光で物寂しげに照らしていました。
「
そのうちの最後の一軒に、真田さんとわたしは顔を出しました。薄暗く古色蒼然としたお宅の玄関を真田さんの後ろで覗いたわたしの前に現れたのは、まるで熊のように大きな体躯をした男性でした。生やした顎鬚にもどこか野性味があり、どっしりとした安定感を感じさせる方です。
出てきた彼は思い出したように玄関脇のスイッチを押し、土間に暖色の明かりを点けました。
「やあ、すまんな」
「車があるんだから、自分で買いに行ってくださいよ」
気心知れた仲なのか、真田さんもそんな文句をつけます。電気屋さんで購入したプリンタのインクが入った袋を、永井さんに手渡しました。
「すまんすまん、助かったよ。――ああ、そっちが噂の嬢ちゃんか」
その太い眉の下の二重の目をちらりとやられ、わたしは頭を下げます。「櫻子です」
「噂――ですか?」
「そう、敬坊に春が来たって噂だよ」
「違います」
真田さんが隣からぴしゃりと言いきります。永井さんが喉の奥でくつくつと笑っていました。
「だろうな。でも娯楽もない狭い村だからな。噂はあっという間に広まるんだ」
「そういうものですか」
「そういうものだよ。俺は永井
深い声をした永井さんは、そうして乾いた熱い手のひらを差し出し、わたしと握手しました。
作家さんに写真家さん。この村には変わった職業の人々が集まっているようです。
夕御飯には買ってきた野菜コロッケの他に、鶏肉でシチューを作ることになりました。
わたしと真田さんは台所のシンクの前に並んで、それぞれじゃがいもとにんじんの皮を剥き、切っていきます。この家に置いてもらうにあたって家事をすることになったわたしですが、今はふたりともお腹がぺこぺこだったので、手分けしてやった方が早いと、真田さんも台所に立っていました。
「この村は、限界集落一歩手前なんです」
「げんかいしゅうらく?」
「ええ。過疎や少子高齢化が進む中で住民の半分以上がお年寄りになって、集落としての共同生活の維持が難しくなっているところです。冠婚葬祭とかも機能しなくなったり……。ここの場合は店もないのに車で運転できる人も少なくなってきて、買い物にも一苦労ですね。スーパーくらいなら十分ほど山を下りたところにあるんですが、それ以上となると……。日に僅か数便のバスを使うか、俺みたいに車を持っている奴に頼むか、どちらかですね」
「だからあんなにたくさん」
「そういうことです」
にんじんを切り終えたわたしは、ざるにいちょう切りにしたにんじんを盛りました。次は玉ねぎの薄切りにかかります。
「そういえば、この村には『真田さん』が多いんですね」
夕方に各家を回っている最中も気になっていたのですが、今日回ってきた家々の半分の表札が「真田」さんでした。昨日会った菊さんも、苗字は真田さんのようです。
「ああ、そうですね。分家ばかりですから。俺の祖父のこの家も、分家のひとつなんです」
「みんな『真田さん』なんですね。ややこしくはないですか?」
「うーん……そういうのはあまり感じたことはないかな。みんな大抵、名前や屋号で呼んでいるから」
「『敬坊』って?」
からかうように言うと、真田さんは脱力して肩を竦めます。
「止めてください、櫻子さんまで……。昔この家に遊びに来ていた時の名残ですよ」
いつまでも子供扱いですよ、と真田さんは口を尖らせます。
「じゃあ、真田さんのお名前は何ていうんですか?」
「
「なんだか知的なお名前ですねえ。作家さんにぴったり」
その時真田さんの手から、切ったばかりのじゃがいものかけらが飛び出しました。流しの中に落ちそうになったそれを、彼が慌てて捕まえます。
「大丈夫ですか」
「だ、大丈夫です。……そんな風に言われるのは初めてですよ」
「そうですか? いいお名前だと思います」
「それはどうも……」
真田さんは空いた手の甲で鼻の頭を
「そうだ。『真田さん』じゃこれから紛らわしそうですし、わたしも真田さんのことを名前で呼んでいいですか? ええと……敬史さんって」
わたしの言葉は真田さんの虚を衝いたのか、彼が目を丸くします。
「そう、ですね。櫻子さんがいいのなら、どうぞ」
真田さん――いえ、敬史さんは、そう言ってはにかんでいました。
*
一階に台所と洗面所、お風呂場にお手洗い、そして和室が五部屋と、外へも通じる蔵。そして二階にも和室が二部屋――確かに敬史さんの住まう家は、彼一人で住むには広すぎるほどの日本家屋でした。往時には人を招き入れたのであろう続きの和室は今や物置じみていて、掃除が行き届いていないというのも納得の有様でした。
家を囲う生垣の
そのようなわけで、彼の家の家政婦となったわたしは、この家で料理を作ったり、掃除をしたり、洗濯をしたりして日々を過ごすことになりました。敬史さんが一番喜んでくれたのは、料理に関してです。彼はその夜もわたしの作った和風ハンバーグとかぼちゃのサラダを綺麗に平らげてくれました。
「自分の料理が今までいかにひどかったかが分かります」
「自炊されてたんですか?」
「はい、でもそれだけじゃなくて、ご近所さんが作った料理を分けてもらうことも多くて……それに甘えていました」
その時、ふと玄関の方で物音がしました。まだ鍵をかけていなかった玄関の引き戸が開く音――そしてどすどすという乱雑な音を立てて入ってくる、二人分の足音。わたしたちが振り向いた瞬間、部屋の襖が勢いよく開きました。そして現れたのは、セーラー服を着た女子高生――そしてその後ろには永井さん。「おい、
永井さんが押し止めようとする彼女は烈火を宿したような眼差しで、初対面のわたしを睨みつけました。
「聞いてない!」
「まあ、今言ったからなあ……」
永井さんが困ったように頭を掻きます。敬史さんは箸をおいて、二人を見上げました。
「何事ですか? 永井さん、美緒ちゃん」
「
敬史さんを敬兄と呼んだ女子高生――美緒さんは、そのアーモンド形の目でじろっと敬史さんを見やります。長い髪をポニーテールに結い上げた、どこか気性のきつそうな雰囲気をした彼女のそういう仕草は、なかなか迫力がありました。
「櫻子さん。しばらくうちで家事を手伝ってもらうことになったんだ」
「はあ? 家事ィ?」
「妹さん――ですか?」
「いえ、近所の子です。
「どこの人? なんでこんな田舎に? 素性も知れない人をよく泊めることにするね。――ってか、家族でもない若い男女が同じ屋根の下で暮らすなんて――フケツじゃない! あんなことやこんなこと、あるでしょ絶対! 反対! 絶対絶対絶対反対!」
美緒さんは力を込めて拳を振り下げました。素性の知れない人間を、のあたりはわたしもその通りだと思いましたが――
その時、美緒さんの通学鞄が畳の上に落ちました。鞄の留め金が外れてテキストと共にどさりとこぼれ出たのは、漫画数冊。男女が抱き締め合った構図の表紙のものをひょいと拾い上げた永井さんは、「美緒ちゃん、一体どんな漫画読んでるの」と興味深そうに、その分厚い手でパラパラと頁をめくります。美緒さんは跳び上がるほど慌てて、本を取り返しました。
「ちょ! 永井さんのえっち!」
「えっちってひどい。思春期だねえ」
はは、と永井さんが豪快に笑いました。けれどわたしは、美緒さんが手にしたその漫画本の表紙に、いえ、そのタイトルに見覚えがありました。
「あ――その漫画。この間、映画になった作品ですよね? わたしも映画、見に行きました」
「えっ――まじ?」
美緒さんは目をまるくすると、わたしの隣に膝で滑り込むようにして座ってきました。「ユタカくん、めっちゃかっこよくなかった?」
「
「そう! このレベルの男子って汗もかかないんじゃない? って思っちゃった! もーあたしハマりすぎて隣町まで三回も観に行ったんだ!」
美緒さんはわたし以上にこの作品のファンのようです。彼女はパラパラと漫画をめくって、「ここのシチュエーション激萌えだよね」とか、「ここは作画がすごい」とか、とにかく一度仲間を見つけたら話が止まらない様子です。とはいえ、語れる仲間を見つけるとつい語りたくなってしまうのはわたしも同じで、わたしたちはあっという間に意気投合し、その漫画と映画について盛り上がりました。
ですがそんなわたしたちを見て、男性二人はどこか呆れた様子です。
「美緒ちゃん、それは夢を見過ぎじゃないかなあ」
「そうそう、見すぎ見すぎ」
「ちょっと敬兄に永井さん! 乙女の夢を壊さないでよ!」
永井さんはちゃぶ台に残っていた夕食に、自分も手を付けています。これまでも、敬史さんと一緒に食事を摂ることは珍しくなかったのでしょう。気付いたわたしは永井さんの分のご飯をよそってきて、彼に差し出しました。「おっ、悪いね櫻子ちゃん」
「美緒さんも、夕食は食べました?」
「美緒でいいよ、櫻子さん。夕飯ならまだだけど」
「良かったら食べていきますか? まだご飯もおかずもあるし」
「そうそう、美緒ちゃんも食べていきなよ」
「永井さん、ここ俺んちなんですけど」
「いいからいいから」
がっはっは、と笑う永井さんを横目に、わたしはお客さん用の箸と茶碗を出してきて、美緒ちゃんにご飯とおかずの残りをよそいました。わたしと敬史さんの明日のおかずにしようと思っていた分ですが、また明日は明日で作ればいいだけです。
「うまっ! かぼちゃの舌触りよすぎ……ハンバーグもやわらかっ! 何でこんなに味が澄んでるの? レストランの味!? ファミレスしか行ったことないけど!」
おかんのと全然違う! とまで言う美緒さんは、大興奮で、次々とわたしの料理に箸をつけてくれます。こうまで喜んでもらえると、わたしも作った甲斐があるというものです。
そうして、その日の夕飯はひどく賑やかなものになって、過ぎていったのでした。
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