五
夢か
けれどいつまで経っても、彼は来なくて。やがて映画館からは人混みがなくなり、閉館の時間が来て、入口を閉められて。それでもわたしは彼を待ちました。知らず涙が湧いてきて、道行く人たちからじろじろと無言で見やられることもありました。けれど誰も声をかけてくることはなく、辺りはすっかり暗くなって、人通りすら途絶えました。
いつしかわたしは、夜の公園に佇んでいました。景と
不意に、煙草の臭いがしたような気がしました。夜闇の中、目の前にその白い煙が流れてきて、わたしは顔を上げます。
彼がいました。彼が煙草を吸いながら、わたしを手荒く突き飛ばしました。ベンチの上に倒れたわたしの手からはお弁当の入ったトートバッグが落ちて、中のお弁当が無惨に砂の上に散らばります。それを、落とした煙草と共に彼の足が踏みつけました。それを見下ろす彼が、口の端を持ち上げます。
「これだけが取り柄の勘違い女。結婚? 誰が、誰と?」
逆光になった彼の顔は、酷薄に歪んでいるようでした。いえ――彼の口元が、陥没して歯を失って、歪んでいるのです。骸骨のようになった無惨な口で、彼は吐き捨てます。
「誰が、妖怪なんかと」
次に視界が開けた時、わたしは深い山の中にいました。雨が降っていました。樹々とわたしの身体に降り注ぐ生温いそれは、赤い――血の色をしていました。血の雨でした。
その時、頭上の枝葉と雲間から、凍えるような青白い月影が射しこみます。そうして照らされた先――視線の先では、一人の女性が
黒いワンピース姿のその女性は、濡れそぼって張りつく髪もそのままに、何かぴちゃぴちゃと不快な水音を立てています。わたしが近寄ってそれを覗きこむと――女性、他ならぬわたし自身は、鬼となって人の胸に喰らいついているのでした。穴に落とされ、わたしに喰われている人間――それは、醜く変質した彼でした。
その恐ろしい光景に、わたしの喉奥からは、ひっ、と悲鳴が漏れます。気付けばわたしともう一人のわたしは、血の池の中にいるのでした。そこには人間の千切れた腕や脚や、肋骨の覗いた胴体や、割られた頭蓋や――いろんなものが突き
池の周りには、顔も朧な人間たちが立ち塞がり、わたしを池へと押し戻すのでした。ここは、ああ、ここは、地獄。
彼らはわたしを取り囲み、その中でも目の前の不精髭を生やした壮年の男性が、わたしを血の池の中央へと押しやります。そうしてわたしの背中は、どん、と鬼のわたしにぶつかりました。食事を終え、口元をてらてらと赤く染めたわたしが、わたしを後ろから抱き締めます。その恐ろしいほどの血腥さに、わたしは怯え、涙が止まりませんでした。
「それがお前なんだろう?」
再び聞こえた懐かしい声――もはや
「それがお前の正体。妖怪。鬼。そうだろう?」
違う――ちがう! わたしは――!
わたしは彼の名を呼びました。その声も、冷然と跳ねのけられます。
わたしは嗚咽を飲みこみました。生前の最期と同じようにわたしを冷たく嘲笑う彼に、わたしの中で感情が膨れ上がりました。酷い(いたい)嫌い(すき)憎い(いとしい)いたい(喰ッテヤル)(ちがう)(
……彼だけが悪かったんじゃない。
欺いていたのは、わたしも同じだった。自分でも自分の妖怪としての正体を知らなかったとはいえ、わたしは、半妖という正体を、彼に隠していた。けれど自分が人間としての姿しか持たなかったのだから、大丈夫だと思っていた。いつまでも、彼と一緒にいられると思っていた。――たとえ、掟を破ってでも。
たとえ、作り物でも。仮初でも。
彼がわたしに向けてくれていたあの一面が、好きだった。今でも想えば愛しくて、喪失は大きくて。
でも、どうであろうと、それももう終わり。わたしは泣きながら、彼に手を伸ばしました。わたしの後ろから伸びた赤い鬼の腕が彼を捕まえて、その腕を引きちぎりました。
鬼の腕は、その彼の肉をわたしの口に押し込みます。自分から食らいついたものではないそれに、わたしは噎せ返りました。苦しい。呼吸が、一層苦しくなります。
「――食べないと、治りませんよ」
夢と現の狭間から、そんな声がしたような気がしました。
ああ、その通りです。
喰べないと、飢えが治まらなかったのです。わたしの一度芽生えてしまった鬼としての本性は、そうしないと収まりがつかなかった。そうしないと、膨れ上がり、行き場を失った彼への想いを、治めることが出来なかった。
そうした挙句、わたしは逃げた。自らの犯した罪から。失った日常から。妖怪である自分から。半妖である自分から。
逃げたところで――どこに辿りつくというのでしょう。
きっと、自分自身からは、逃れられないというのに。
出口が見えないのです。暗い夜の山の中を、冷たく重い雨は、降り続いています。
雨が止まないのです。朝が来ないのです。どれだけわたしが願っても。どれだけわたしが焦がれても。
わたしを包み込む雨音をかき消したくて
現ではない夢の中でただひとつ、「わたし」の世界のものではなかったもの。
それは、涙を拭ってくれる「誰か」の、冷たい指の感触でした。
*
柔らかにぶつかり合っては跳ねる水の音が、近くから聞こえてきます。
それはもう、わたしを押し包んでいた雨の音ではありませんでした。
閉じた瞼の向こうから白い明るさを感じたわたしは、ゆるゆると瞼を持ち上げました。途端に目に射し込んできた白く眩い光には痛みを覚えるほどで、わたしはこわごわと瞬きをして、自分の目を慣らします。
「――気分はどうですか?」
傍近くから聞こえてきた声に、わたしは少々驚いてしまいました。――聞き慣れない、男の人の声。それはわたしが意識を失う前に微かに聞いた、あの声のようでした。
気付けばわたしは、重たい綿布団の中に横たわっていました。声のした方向――右側に首を巡らすと、一人の青年がわたしの布団の脇で正座をして、濡らして搾り終わった手拭いを、緩くほぐしています。
わたしは恐る恐る、その人と視線を交わらせました。
彼が、目で微笑みます。
その微笑を前にしたわたしは、自分が人の顔をまともに見たのが、どれほど久方ぶりであったかに気付きました。
障子戸が開け放たれた和室内には、優しげな陽光の気配が満ちています。――これは、網戸の向こうから柔らかに入り込んでくる、春ののどかな暖かさの所為なのでしょうか? それとも、目の前にいるこの人自身が纏い、漂わせる雰囲気の所為なのでしょうか?
長らく夜の中を歩き続けていたわたしは、その人の姿を認めた瞬間、爽やかな風に洗われたような感覚を覚え、言葉を失いながら瞬いてしまったのです。
目にかからないように短くさっぱりと整えられた、黒い髪。
長袖の白いTシャツに、洗いざらしのジーンズ姿。
眉は濃く、人の良さそうな緩いカーブを描いています。その下の奥二重の瞳に灯る柔らかな光は清々しさを感じさせ、整った鼻の上のそばかすには、控え目な愛嬌が漂っていました。
「三日も寝込んでいたんですよ。熱はもう下がりましたか?」
失礼しますね、と断りを入れると、彼はわたしのばさばさになった前髪の下に手を入れて、ひたいの熱を測りました。心地よい冷たさの大きな手のひらに、わたしのひたいは包み込まれます。熱はあらかた下がっていたようです。わたし自身、身が軽くなったような心地でした。意識が途絶える前にわたしを支配していた身体中の痛みや胸の悪さも、今ではすっかり消え去っています。
「大丈夫そうですね。水を捨ててきます」
彼は小さな微笑を
枕元にあったのは、もうひとつ。
小さな土鍋に入った食べかけのおかゆが、すっかり温度をなくした
閉め切られずに少し開いたままの
布団の中で上体を起こしたわたしは、改めて室内を見渡してみました。
六畳の和室です。身を起こしたわたしの正面にある柱には、
廊下へと通じる襖とは直角にあたる壁際には、こちらも古めかしい、背の高い
襖とは反対側の壁は、一面障子戸となっています。今は開け放たれたままになっているそちらは縁側に通じているようで、屋外は小さな庭らしい風情がありました。枯れた
外は、雨の気配もなく晴れ渡っている様子でした。じりじりと照りつけるようなものでもない優しい陽光が、
――静かです。
車や人の通りが多い街とはほど遠い、静寂さとのどかさが、辺り一帯に漂っていました。目には見えない空気の流れすら、ゆったりとしているように感じます。遠くから聞こえるのは
たらいを片付けた彼が戻ってきたのは、わたしがそうやって辺りに意識を巡らせていた時です。彼には、ここはどこですか、と訊くつもりだったのですが、
「あなたは――?」
わたしの喉から最初に転がり出てきた問いかけは、そちらの方でした。
彼はまた布団の脇に腰を下ろして、正座をします。
「俺は、
真田さんは、見たところ二十代後半くらいに見受けられます。そんな人が住むには、置いてあるものも部屋の様子も何だか古めかしく感じていたわたしは、それで合点がいきました。
「先日は、朝の散歩に出かけた時にあなたを見つけて……。病院に連れていこうと思ったんですけどね。あなたが『病院はいや』とだけは、はっきり言うものですから」
わたしは首を傾げました。そんなことを口走った覚えが、全くないのです。
「覚えてないんですか?」
「すみません……残念ながら」
わたしは少々、うなだれました。しかし、自分が無意識のうちにもそんな風に言ったことには、どこかで納得しています。わたしたちあやかしは、基本的に人間の医者が好きではありません。あやかしであることに気付かれれば、研究対象として腹をかっさばかれてしまうかもしれない――そんな恐さがあるからです。……自分たちは人間を喰べてしまうくせに、その逆は恐ろしいのです。何という身勝手な。浅ましいことです。
わたしは心のうちで、自分を
「何か重い病気だったらどうしようかと、ハラハラしていたんですが。ただの風邪なら良かったです」
改めて安堵したように微笑んでいる真田さんを見やりながら、わたしは少々、気まずさを覚えていました。
……真田さんは、ずっとわたしを看病してくれていたのでしょうか。
意識を失う前は、「もう目覚めなくてもいい」とさえ思ったわたしです。けれど結局風邪ひとつで済んで、わたしはまた、すっかり元気になってしまいました。
生きたかったのか、あのまま消えてしまいたかったのか。
自分でも、答えは出ていないのです。とにかく、わたしを拾って看病してくれた真田さんには、わたしも布団の上で正座をして、お礼を言いました。
その時になって自分の身を見下ろしたわたしは、着ていたはずの黒いワンピース姿ではなく、
「あ……えっと、それは俺じゃないですからね。お隣にだいぶお年を召した女性が――菊さんという人がいるんですけど、その人に替えてもらったんです」
だから心配しないでくださいね、と真田さんは説明してくれました。
確かに、あんなにびしょ濡れで汚れきった服の人間を、そのまま三日も寝かせておくことはできないでしょう。けれど真田さんは、何をそんなに慌てているのでしょう? というより、心配とはどういう意味なのでしょうか?
「ところで、何故あんなところに? この辺りの方でもなさそうですし……どこからいらしたんですか?」
わたしは言葉に詰まりました。そもそもわたしは、どこをどう歩いてきたのかを覚えていません。どこから来たのか、なぜこんなところまで来たのかと言われれば――わたしは、とてもではないけれどその経緯を話す気にはなれませんでした。道中のことも――言えるわけがありません。
うつむいてだんまりを決め込んでしまったわたしに、真田さんは困ったように肩を竦め、苦笑しました。
「……じゃあ、お名前だけでも」
そう訊かれた時、わたしは太腿の上に置いた自分の手のひらに、一枚の花びらが貼りついていたことに気が付きました。
桜の花びらです。一部に浅い切りこみが入ったまるっこい形をしていて、淡い薄紅色に染まっていました。
わたしが後にしてきた、あの街の公園の白い桜――ソメイヨシノとは違う、薄紅色――おそらく、わたしが真田さんに拾われた場所である、河川敷の桜並木のものなのでしょう。
花びらが湿っていたのか、わたしの手が汗ばんでいたのか。これまで剥がれることなく寄り添っていた花弁はすっかり乾いて、はらりと掛け布団の上に舞い落ちます。そして、
「……
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