激しい雨音と、肌にまとわりつく飽和した湿度の気配。

 わたしはとろりとした濃密な闇――夢の中から目覚めました。身を起こすために手をつけば、そこにあったのはいつもの肌当たりのいいシーツではなく、雨に濡れて貼りつく草葉と、もろもろとした土の感触でした。

 未だ夢の世界から帰りきっていないわたしは、現実感を感じないまま、見知らぬ景色に心細さを感じるまま、辺りを見回しました。辺り一面、せかえるような緑と土のにおいと、生臭い雨のにおいです。暗い、暗い空でした。まだ夜なのでしょう。視界がほとんど効きません。鉛色の雨雲が空一面を覆っている様子です。ですがさらに、それを覆うように枝葉を差しかけ合う樹木の影の方が一段と色濃かった。

 どこからか、車の低い走行音が微かに響いています。ですが車の姿もライトの一条もどこにも見えず、明かりの点いた街の姿もどこにもなく。わたしは頭の上まで生い茂った羊歯や蔦の間に、潜りこむようにして座っていたのでした。

 持ち上げた手の先には、ぼろぼろと崩れる土の感触がありました。爪の間に、土が入り込んでいるのでしょう。そう――人間の手。ですがわたしは――。

 わたしの脳裏で、赤黒いペンキを撒き散らしたような映像が弾けました。その中で蠢くのは、まだ微かにひくひくと動いている筋肉と、臓器の数々。それらに残る、火傷を負いそうなほどの熱。

 ……ああ。そうだった。

わたしは雨に濡れながら、少しずつ、現実を思い出してきました。

 それは、絶望へと追いやられた現実でした。


   *


 一度彼の血肉を口にしたわたしの食欲は、とどまることを知りませんでした。

 彼の肉は、わたしが周囲の皆から美味しいと褒められていた自作の料理などよりも、外食に行ったどんなお店の料理よりも、素晴らしく美味しかった。調理などしていない、調味料も加えていない、ただただ、新鮮すぎる人の肉。それはあやかしとしての姿、本能に目覚めたわたしの空腹を、この上なく満たすものでした。

 我に返った時には、彼の姿はほとんど跡形を残していませんでした。ただ、噛み切るのが面倒で吐き出した大きな筋と、しゃぶって残った骨、その他の食べきれなかった残骸だけ。それらが雨の染みこんだ公園の砂の上、赤黒い血のカーペットを染みこませた上に無造作に転がっているのでした。

 すっかりあやかし――鬼となり果てたわたしは、重くなったお腹を抱えて、腰を上げました。鬼であるわたしでも、彼の残骸をこのままここに放置してはいけないという思いがありました。ですが夜闇の中、彼の小さな骨までひとつひとつ拾いきるのは億劫で――わたしは彼の血濡れた衣服と、頭蓋だけを拾って、その場から立ち去りました。

 急速に訪れた睡魔に悩まされながらも、わたしは車の通らない細い裏道を選んでは、歩きました。わたしだけの腕の中に収まった彼への子守歌のように、鎮魂歌のように、よくわからない歌を小声で口ずさみながら、歩きました。アパートに帰ろうという発想はなかった。わたしの現実は、もう変わってしまった。これまでの日常は終わってしまった。だからアパートに帰ったところで、これまでの日々の続きを生きることは出来ない。どこかに、そんな思いがあったのかもしれません。

 とにかく、抱えた彼のスーツやシャツから漂う血の匂いにお酒を飲んだかのように酔いながらも、その中に微かに漂う煙草の臭いが不快でした。これをどこかで手離したかった。その場所を探して、わたしは夜をさまよいました。

 いつしかわたしの足は、街を縦断する国道や県道などが走る喧騒からは離れて、未開拓の山の方へと向かっていました。最初コンクリートで舗装されていた道路は途中で終わりを告げ、短い下草の生えた野道になりました。それすら後にすると、先はひたすら草木の生い茂った、本格的な山の斜面へと続いていました。獣道すらない、夜の光も届かない真っ暗な山の中にも臆さず、わたしはやはり小唄を歌いながら、踏み込んでいきました。

 高木の繁った山の中に入ると、繁茂した枝葉に遮られる所為か、身を打つ雨の勢いが少し和らぎました。時折、膝下の素足を、木の葉だけでなく、小さな獣か虫かが掠めていきます。ですがもう、刺されようが噛まれようが構わなかったわたしは、そのまま草木を搔き分けて、歩き続けました。

 そのうち、比較的草の少ない平地に出くわしました。わたしはここに、彼の残骸を埋めることにしました。最初は人間の手で穴を掘り始めたのですが、その進みの遅さに我ながら苛立ってくると、腕は自然と鬼の腕に変化しました。ざくざく。ざくざく。ざくざく。鋭い爪と大きな手は、あっという間にちょうどよい頃合いの穴を開けました。

 わたしはその深い空洞に彼の衣服と骨を落とし、再び土を戻しました。最初よりも少し大きく土を盛って、まるでお墓のようになりました。けれど、手を合わせはしませんでした。この時は、そのような発想がなかったのです。

 こうして彼の遺体と遺留品に別れを告げたわたしは、再びどこへと知れず歩き出しました。来た道を戻りはせず、そのまま、進んでいきました。

 むっとするほどの、濃い緑と肥料に満ちた土のにおい。ここ十年以上、わたしの日常にはなかったにおいでした。不快ではない。けれどこうしてただひたすらに緑の中を歩いていくと、わたしはどこか、別世界に行けるような気がしていました。わたしの知らない、新しい日常。新しい世界。それは逃避に他ならなかったのでしょう。

 日常とはなんだったのか。これまで当たり前のように続いていた毎日――ですが今は、過去も今も一秒先も、まるで分からない。何を目指して生きてきたのかも、これからどうすればいいのかもわからないのです。

 鬼。妖怪。人間。わたしは一体何者なのでしょう。まるで自分が、この世界から、独り浮き上がった存在であるかのような心地でした。

(――ねえ、誰としゃべってるの?)

 ああ――、わたしは不意に思い出して、その風化しかかっていた痛みに胸を衝かれました。

 小学生頃のわたしは、都会から離れた田舎に住んでいました。その辺りにはよく妖怪の仲間やこの世のものでないものが行き来していて――時たまそういったものと出会い、見えてしまって語り合っていたわたしは、周囲の子たちから不気味がられたのでした。

 教室では、誰もまともに話してくれない。そういう時期があって、あれはこたえました。

 日頃、人間や人間のつくったものに対して興味関心、好意を強く持っていたわたしでも、あの時も、人間というものが嫌になりかけました。家に帰ってきて景と語らい、慰めてもらうことだけが、あの頃は救いでした。

 人間の世では――いえ、きっとあやかしの世界でも、浮き上がった存在。それが半妖であるわたし。最初から、生まれた時からそうだったのです。わたしが知らなかっただけで。忘れていただけで。

 そう、そんなことを忘れていられたのは、先程無造作に別れを告げてきた彼のおかげだった。彼がもたらしてくれた甘やかな日々が、過去の苦しみを癒し、忘れさせてくれた。まるでこれからの人生が、彼との幸福にち満ちたものであると錯覚させてくれた。

 そう――全ては、錯覚だったのです。

 わたしは彼の姿を思い出しました。生前の、わたしの愛した彼のことを――けれどその像はすぐに掻き消えて、最期の醜い死に顔になって、そして夜闇の中で判然としないただの肉塊と皓々こうこうとした骨になってしまうのです。美味しかった、本当に美味しかった――そんな思いしか残らない。

 もう、わたしを遊び相手の一人にした彼はいない。だから彼のことは考えなくていい。憎いとも、酷いとも、好きだとも嫌いだとも思わなくていい。けれど――その代わりに何を考えればいいのでしょう。彼と出逢って以来、わたしは彼との時間を何よりも楽しみに生きてきました。わたしには――このぽっかりと空いたうろの埋め方が分からなかったのです。この雨と全てを覆い隠す色濃い夜闇が心の虚に流れ込んで、いっぱいに溢れてくれればいい。そうしたらきっと、この空虚に渇きを覚えずに済む。それとも溺れるだけでしょうか。それもいいかもしれません。ああ、もう何も――何も分からない。誰か――。

 そうしてわたしは、ぐるぐると巡る思考と、すっかり歩き疲れた所為でか、眠くて眠くてたまらなくなり、その場で横になって、寝入ってしまったのでした。


   *


 どれくらい眠っていたのでしょう。ほんの数時間のことだったのでしょうか。それとも、一日近く――? 辺りは夜のままでした。雨の支配する、蒼を通り越した真っ暗な夜のままでした。わたしはその陰鬱な夜の続きを、また歩き始めました。喉が渇くと仰向いて、流れ落ちる雨で喉を潤しました。ですが空腹は誤魔化せず――わたしはそれを堪えるために時々立ち止まっては、また雨を飲んでやり過ごすのでした。

 どのくらい歩いたのでしょう。ふと、視界の先に僅かな明かりが見えました。

 わたしは一度足を止め、逡巡しゅんじゅんして――やはり、歩き出しました。灌木かんぼくをかき分けて進めば進むほど、光ははっきりしてきます。それは人工的な明かりでした。視界を一面覆っていた木々が拓けると、そこにあったのは、数軒のログハウス。明かり――外灯は、その間に広がる広場を照らしていたのです。

 わたしのあてのない道行きに、突如現れた集落のようなもの。見回してみると、三角屋根のログハウスは八軒ほどで、広場を囲むようにして並んでいます。ですがどれも、まるで静まり返っています。今はシーズンではないのかもしれません。

 キャンプ地というものを珍しがったわたしが雨の中あてどなく歩いていると、不意に、その中の一軒に明かりが灯りました。――人がいたようです。

 そして音を立てて、勢いよく扉が開かれました。急に現れた眩しい明かり――懐中電灯の明かりが辺りを薙いで、やがてわたしの姿を捉えます。久しぶりに明かりを直視させられて、わたしは眩さに目を閉じかけました。相手も、わっ、と驚いた声を上げました。

「ああ、熊でも出たのかと思ったら――こんな所でどうしたんだい」

 相手は、壮年の男性のようでした。肩にかけていた猟銃を家の中でしまうと、どこか戸惑いながらも、親切に、今度は傘を持ってきて、びしょ濡れのわたしに差し出してくれました。

「そんな格好――じゃあ、山を登ってきたわけじゃないよな。ご近所さん? 迷ったのか?」

 男性がそんな風にいうということは、近くにも集落があるのでしょう。わたしには、見つけられませんでしたが。男性は、返事のないわたしに困ったように首を傾げました。けれどこのまま放置したり追い払ったりはできないとでも思ったのでしょう。

「まあ、こんなところにいても濡れるだけだし、中に入らないかい。びしょ濡れじゃないか。着替えないと風邪を引く」

 わたしは躊躇ためらいの後、男性に続いてログハウスの階段を上りました。

 男性はこのキャンプ地の経営者ということでした。今はシーズンではないのだけど、管理のために住んで、掃除をしたり草を刈ったり、まきを割ったりしているのだと。

 彼が一人でそんなことを話しながらマグカップに温かいお茶を注いでくれると、わたしのお腹がくうと鳴きました。それを耳聡く聞き留めた男性は小さく笑って、

「腹も減ってるのか。いい、夕食の残りでよければあっためてやるから、先にシャワーを浴びてこいよ。着替えは後で持っていくよ」

と、廊下の先を指差しました。

 わたしはその言葉通り、脱衣所で衣服を脱ぐと、シャワー室に入りました。足を踏み入れたログハウスにはいくらかの年季を感じましたが、シャワー室は改装したのかもしれません。脱衣所に通じるガラス戸は、ぴかぴかに磨かれた曇りガラス。シャワー室の中はまだ真新しく、黒黴くろかびもなく綺麗なものでした。

 栓をひねると、温かな湯が頭の上から勢いよく降り注いできます。その熱さに、わたしは一度、身震いしました。自覚がなかったのですが、ずっと雨の中にいて、身体がすっかり冷えていたようです。わたしは全身に湯を当て、土と、泥と、血糊を洗い落としました。それらは渦を描いて、鈍く光る銀色の排水口へと流れ落ちていきます。わたしはしばしそれを眺めていましたが――不意に、ガラス戸の向こうに人の気配を感じました。男性が着替えを持ってきてくれたのでしょう。

 しかし、その影はいつまでも引き返すことがなく――怪訝けげんに思ったわたしは、ガラス戸を半分ほど開けてみました。

 そこにいたのは、やはり先程の男性でした。目が合うと、彼が狼狽ろうばいを見せます。「あ、いや、これは――」

 彼は、わたしが脱いでいた下着を手にしていました。そんなもの、どうするのでしょう。どう反応していいか分からず、わたしは再びガラス戸を閉めようとします。ですがその扉の間に、挟まれた手がありました。彼は扉をこじ開けて、わたしの身体をどんと押してシャワー室に押し戻し、自分もシャワー室に入って、後ろ手でぴしゃりと戸を閉めました。

 熱いシャワーを浴び終わったばかりの手狭な室内は、中の鏡が曇りきるほどの湿度でした。そこへ二人も人間が入れば、流した汗が再び湧くほどでした。

 男性は赤裸せきらのわたしを見下ろし、口元を歪めました。歪めたように、見えました。

「悪いね――女ひでりが長いもんで」

 息も荒くのしかかってくるその重たい身体、わたしの身体をまさぐる不快な手。男性が何をするつもりなのかを察したわたしは、抵抗するとかしないとか以前に、人間というものに対してか、男性というものに対してか――この胸には、もはや諦観と軽蔑が湧いていました。

 わたしは男性の不精髭ぶしょうひげの感触を感じながらもその首の後ろに手を回すと、一息に。

 その太い首を、かき切りました。


   *


 わたしは再び、自分の濡れて冷えた衣服に袖を通すことになりました。シャワーを浴び直して温まった身体には余計に耐え難い冷たさでしたが、もうそんなこともどうでもよかった。

 真っ赤に染まったシャワー室のガラス戸の向こうには、先程の男性が首を失くして倒れています。お腹がとてもとても空いていたので、わたしは彼の毛深い胸の皮膚を引き剥がすと、中の豊かな肉をかっ食らいました。――あの人とは、まるで味が違う。人間の血肉の味の違いというものに初めて出会ったわたしにはそれが新鮮でしたが、とにかくお腹を満たすため、食べられるだけ食べました。体格の良かったこの男性の肉の全てを食べきる前に、わたしのお腹はすっかり充ち満ちてしまったのです。

わたしはログハウスを後にしました。

 一度は温まっていた身体に、再び冷雨が降り注ぎます。行くあてもなく、帰るあてもなく。わたしは山の中を歩き続けました。

 ――景。

 不意に思い出したのは、親代わりの彼のこと。彼がどこにいるのか、どう暮らしているのか、わたしには分かりません。いえ、分かったとしても――もう頼ることは出来ない。彼を突き放したのはわたしなのだから。そう再確認すると、わたしのすさんだ胸は一層の寂しさをにじませました。

 歩いて眠って、歩いて眠って。

 次の日も、次の日も――分かりません。一日という感覚は、やがてなくなりました。わたしの世界は、ずうっと真夜中のままなのです。再び空腹がわたしを襲いましたが、生憎人間に出会いませんでした。山を下りようにも、方角がまるで分からなかった。斜面を下りたつもりが、いつの間にかまた勾配こうばいのある斜面を登っていて――ということがしばしばでした。

 ――わたしは、ここで息絶えるのでしょうか。空腹と疲労でカラカラになって、雨で土と緑にやがて溶かされて、ぐちゃぐちゃになって――そんな風に考えた頃、わたしは空腹すら感じなくなりました。身体が熱くて熱くて仕方なくて、吐くものなんてもうないのに吐き気がして、声はガラガラになって。歩くことすら億劫おっくうで、わたしは時たま木の幹に手をついて自分を支えては、それでも歩き続けました。

どうせ、彼らを殺したわたしにはもうまともな居場所なんてないのに。これまでのような日常などないのに。

 だったら最後にもう一度、あの時の彼の肉が食べたいと思いました。温かいものが食べたいから、お鍋なんてどうだろう。彼の肉をミンチにしてつみれにして野菜やおうどんや鶏がらスープと一緒に煮立てたら、それはもう美味しいに違いありません。そんな妄想が浮かんでは消えて、わたしの足を弱弱しく動かし続けていました。

 けれどわたしはやがて、どこまでも続くかと思えるほどに連なっていた山々を越えたようでした。目の前の麓には、村が広がっているようです。ネオンが瞬き、高層ビルが建ち並ぶ都会とはほど遠い、青い薄闇のかすみの中に沈む、土臭い家々――その光景に、わたしはどこか懐かしさを覚えていました。

 そのまま野を下って踏みしめたのは、久しぶりの平らかな道。ざぶざぶと音を立てる黒い河の脇には、高く盛られた河川敷が続いています。

 歩き続けていたわたしは、日ごと、寒気を感じるようになっていました。背筋がぞくりと震えることがあり、その震えは全身に広がっていました。なのに、身体は熱くて熱くてたまらなかったりするのです。倦怠感に支配され、身体が重たく感じました。

 日増しに、呼吸も億劫になっていました。貫くような頭痛に苛まれました。けれどわたしは足を止めることもせず、ひたすらに歩いてここまで来ていたのです。

 気付いた時には、雨が止んでいました。暗い空からは、水を吸った重たい雲たちが風に追われて逃げ出し始めています。その後に見えるのは青い空――好天の先触れ。

わたしはその光景をぼんやりと眺め、足をもつれさせながらも、河川敷を歩きました。

 叢雲むらくもが小高い山々の稜線を越えて東の空へと去りゆく中、徐々に東の空が白み始めました。

 ――山のを照らすまばゆい暁の光。

 夜が、明けるのでしょうか。

 ついにわたしはその場で立ちつくして、空が東雲しののめに染まるのを待ちました。

 けれど、じりじりとして泣きたくなるような気分で待ちわびるわたしに対し、朝の光はあまりにも悠長過ぎました。――わたしは空が爽やかな薄明に包まれるのを見届けるよりも早く、頭を割られるかのような頭痛と共に強い眩暈めまいを起こして、その場に倒れ込んでしまいました。

 まるで、とてつもない重力に引きつけられたかのようでした。濡れた草の上に転がったわたしに、起き上がる力は、既にありません。

 その時になって、気が付きました。

 河川敷には――わたしの頭上には、見事な桜の木々が並んでいたのです。

 つぼみから、花開いたばかりなのでしょうか。

 満開の桜が、わたしを見下ろしているのです。吐き気を覚えるほどの眩暈と頭痛と共に、わたしの視界は明滅しました。けれどその向こうでは、夜のとばりがゆるゆると西の空へと逃れつつあります。東の方から薄闇は取り払われて、濃紺から紺青へ、紺青から空色へ、空色から温かな輝きに満ちた東雲の明るさへと刻々と移り変わって――わたしはそれを、閉じた瞼の裏で思い描きました。喉の奥から嗚咽が漏れるのと同時に、目の奥からは、既に枯れたかと思っていた熱い涙が込み上げました。

 脳裏でのわたしは、清々しい薄明の中にある頭上の桜の樹々を見上げていました。闇夜の中で白い輝きを孕んでいるように見えた花びらは、朝の光の下で見れば、天女の衣のように儚く美しい薄紅色をしています。

 わたしを押し潰そうとしていた重い雲を追い散らしていった風が地表にも吹き抜ける度に、揺さぶられて絡まり合う枝からは、花びらが舞い落ちてきます。緑の草葉の絨毯じゅうたんの上に、薄紅色の斑点はんてんがまたひとつ、またひとつと軽やかに浮かんでいきました。

 ――このまま、わたしは眠りに落ちていくのでしょうか?

 それは、もう再び目覚めることのない眠りなのでしょうか? 思い悩む必要も傷つく必要もなく苦しむ必要もない、永遠の安息なのでしょうか?

 強い眩暈と抗い難い倦怠感、そして地中から巨大な錘に引かれているような疲れと痛みが、わたしの全身を支配しています。心が痛いのか、身体が痛いのか、その境界すら、わたしには分かりませんでした。

 ――ああ。

 もう、目覚めなくてもいい――焦がれるような想いが、涙と共に、胸に染み渡っていきました。

 風の音。

 河の音。

 鳥の声。

 近くなったり遠くなったりしながら、響くそれらはわたしの意識を沈めていきました。そしていつしか、遠くなっていきました。

 けれど――たったひとつの、人為による物音。それがわたしの最期の世界に、静かに飛び込んできたのです。

 人の、足音でした。

 短い下生えを踏み、まだぬかるむ砂土の上を歩く靴音。それを近くに感じた時、足音は戸惑ったかのように止みました。

「――誰か、いるんですか?」

 微かに声が、聴こえました。

 聞き覚えはありません。遠慮がちな声と気配は、わたしの方へと近づいてきます。

 大丈夫ですか――生きてますか――どこか気遣わしげな声が、頭上から零れ落ちてきたようでした。わたしはうっすらと瞼を持ち上げましたが、もはやよく見えず、暗い影が輪郭も曖昧あいまいに映っただけでした。

 荒い息をついているわたしのひたいに、冷たい感触があてがえられます。それは、手のひらのようでした。

「すごい熱じゃないですか」

 続いた声はそれまでの遠慮がちなものとは一転し、驚き、切迫したものに変わります。わたしの身体は起こされて、宙に浮いていました。その人の背中に負ぶわれたようです。

 うっすらと目を開いたわたしの狭い視界に、人間の首筋が映りました。襟足は短く、柔らかな肌の匂いが鼻腔をくすぐります。

 その首筋に噛みつかなかったのは、空腹を感じるどころではなく、胸も気持ち悪いばかりだった所為です。喰べようという気は、もはや湧き起こりませんでした。

 その人が歩を進める振動が、わたしにも伝わってきます。

 広い背中でした。

 温かい背中でした。

 一定のリズムを刻むその振動は、まるで赤子を寝かしつけるもののよう。そしてわたしもまた、眠りの中へと誘われていったのです。

 いつしか我知らず――わたしの意識はふつりと途絶えました。

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