どれくらい、そうしていたのでしょうか。

 長い、長い時間でした。なかなか腰を上げない月の散歩に付き合っているような心地でした。政人くんと過ごす時間なら、いつもあっという間なのに。彼と過ごす夜は、ひどく鼓動が高鳴って、刺激的で、眩暈がして、とろけそうなほどの幸福に充ち満ちているものなのに。

 ……その政人くんと他の女の人が「そのような」ことをしていると思われる時間は永遠にも思えて、絶望と、それを打ち払う期待との間で振り回され続け――すっかり疲弊したわたしは、胃の腑と背中の辺りに、ちりちりとした痛みと鈍い重みを感じていました。

 話し声がしました。聞き覚えのある低い声が、女性に親しげに、馴れ馴れしげに別れを告げています。二人は「じゃあ、また」と再会を約して別れたようでした。

 わたしはトートバッグを胸に抱え、そこで息を殺していました。雑居ビルの前、わたしの目の前を通り過ぎていく男性――街のネオンに照らされるその横顔――やはりそれは、わたしの見慣れた政人くんでした。ああ、とわたしの胸中で、落胆と嘆きが深く深く墜落していきます。彼はここにいるわたしに気付きもしませんでした。

 わたしは夢遊病者のような足取りで、低いヒールの踵を密かに鳴らして政人くんの後を追いました。実際、悪い夢の中にいるようで、泥濘を歩いているような心地でした。対する彼は、脱いだスーツの上着を片手に悠然とした足取りで歩んでいき、やがて道沿いの右手にあるコンビニエンスストアに入りました。わたしも躊躇いののち、政人くんに続いて入店します。

 店内は別世界のような皓々とした明かりに浸されていました。その白々しい明るさが、わたしに現実を突き付けます。目の前にいる彼は、知らない女の人とホテルから出てきたばかりの人間――。暑いのかワイシャツを袖捲りして着ている政人くんは飲み物のペットボトルの冷蔵棚の扉を開けます。その時になって、後ろから来たわたしに気付いたようでした。

 やあ、と驚いたように声を上げた彼は、いつものように微笑みました。けれどその片頬が僅かにひきつっていたのを、わたしは見逃しませんでした。

「――さっきの女性ひと、だれ?」

 政人くんは一瞬、虚を衝かれたような顔をします。わたしの泣き出しそうな表情を見て、彼も全てを悟ったのでしょう。すなわち――わたしが、二人がホテルに入っていったのを知っているということを。

 ペットボトルのお茶を冷蔵棚から取り出した政人くんは、「ここじゃなんだから」と、わたしを外へと促しました。



 漂うのは、いつもと違う、わたしのものでも彼のものでもないボディーソープの香り。その花やかな香りは、普段ならいい匂いと心和ませられたでしょう。けれど今は、わたしを暗い深い谷底へと突き落とすのみ――。

 政人くんとわたしは、お互い無言で近隣の公園まで歩いてきました。そこはしくも、わたしが以前景と喧嘩別れをした時の、あの公園でした。

 政人くんは公園内で唯一煌々と明かりのついた、ベンチの近くまで歩いていきました。

 わたしの二、三の詰問のあと、彼は返事を面倒くさがるような素振りで、整えられた髪を片手でガリガリと掻きました。それから上着の内ポケットから煙草とライターを取り出して、慣れた手つきで煙草に火を点け、吸い始めます。政人くんが煙草を吸うのを見たのはこれが初めてでした。わたしの戸惑ったような視線に、彼が片笑みます。

「君が煙草は好きじゃないって言ってたから、我慢してたけど――もう、いいよね。見られちゃったんだから、今更作らなくても」

 我慢してるの、ちょっとつらかったんだ――そういう政人くんがさもおいしそうに吐き出す紫煙、その粉っぽい臭いに、わたしは眉をしかめました。「――つくる?」

「君はそういう僕が好きなんだろ? だから合わせてあげてた。でもごめん、僕、付き合いがあるのは君だけじゃないんだ。セフレってやつ」

 聞き慣れない言葉に、わたしは怪訝に首を傾げます。そんなわたしを見て、政人くんはおかしそうに笑いました。

「ほんと君、純粋だよね。一緒にホテルに行って、僕らがしてたようなことをする仲ってこと。その歳でそんなことも知らないんだ」

「わたしと――あの人とってこと?」

「いや、いや。もっとたくさん。僕が声かけると、皆頷くんだよね。片手では……まあ、足りないかな」

 有名女子大学の女子大生だとか、大手商社の受付嬢だとか。相手をしている女の子の肩書きをべらべらと自慢そうに開陳し始めた政人くんに、わたしは驚きや悲しみ、怒りを通り越して、逆に唖然としてしまいました。突き付けられた彼の本当の素顔は、わたしに眩暈に似たものを呼び起こします。何を訊けばいいのか、何を言えばいいのか、それさえ見失うほどに。

「じゃあ――わたしのことも、遊び、だったの?」

 ようよう出てきたわたしの震える声に、政人くんは少し、昨日までの彼の優しい声音になりました。

「ちょっと可愛くて、純粋そうだったから声をかけた。いいなりになってくれて楽しそうだなって思ったから」

 いいなり――。

 確かに……そうなのかもしれません。こんな風になっても、こんな風に言われても、衝撃のあまり、わたしにはまともに言い返す言葉すら出てこないのですから。

「君のことは嫌いじゃないよ。特別良い肩書きがあるわけじゃないし、ベッドの上以外は結構退屈だったけど、まあ可愛いし、料理は上手いし」

 君の作った弁当、友人にも評判が良かったんだ――彼は薄い唇に笑みを乗せます。

「君がまだ僕と付き合いたいっていうなら、これからも付き合ってあげてもいいけど」

 彼は少々屈んで、わたしの緩くウェーブのかかった髪の先を指先で捕まえ、くるりと指に巻きつけます。その仕草すら、今は計算されつくされたもののように感じました。まるでおもちゃを弄ぶような、その手つき。わたしの愛した、その骨ばった手で。

 彼のことが好きなら、本当に好きならば。ここで「是」と頷くべきなのでしょうか。彼のそんなところも含めて好きだと――彼を肯定すべきなのでしょうか。あるいはいつかは自分だけを見てくれる、わたしを一番好きだと言って、他の人なんていらないと言ってくれる日が来ると願って、信じて、付き合い続けるべきなのでしょうか。

 でも、わたしは。

「――ふ……」

 眼差しを落としていたわたしは、顔を上げます。

「ふざけ、ないで」

 言葉とは裏腹に、わたしの声は、情けなくも震えていました。

「わたしは、遊びじゃなかった。本気であなたのこと、好きだった。わたしにはあなたしかいなかった」

 言葉にしてみれば、一度見失っていた感情はすぐに戻ってきて、今にも堰を切りそうなほど胸に溢れてきました。わたしは。わたしにとってそうであるように、政人くんにもわたしが唯一の存在であることを望まずにはいられない。政人くんに、わたしだけを見ていて欲しいと思わずにはいられないのです。

 わたしには、真実を知っても明日からも同じように彼と付き合い続けることが、出来そうになかった。大勢いる遊び相手の一人に過ぎないなんて虚しさと焦りに、耐えられそうになかった。だってわたしは、政人くんとは違うから。彼との幸福な――それはとても漠然としたもので、一人よがりのものに過ぎなかったとしても――家庭を夢見てしまう人だから。

「あなたがそんな風なら――わたしは、付き合いきれない」

 その理想に、政人くんの在り方はいかにもそぐわなかった。わたしは目の前の彼に、夢を打ち壊されたに等しかったのです。

 景。景。

 間違っていたのは、多分、わたしだったんだ。

 景の言葉は、今や説得力を持って脳裏に響いていました。確かに景なら、わたしにこのような男性との付き合いを許さないでしょう。わたしだって、もしも友人がそのような男性と付き合っていたら、応援は出来ないでしょう。

 政人くんは虚を衝かれたようでした。自分にとって都合のよい存在だったわたしに、自分の優位が裏切られた――微塵も予想していなかった流れに一瞬ぽかんとした間の抜けた表情、それこそが、素の彼のような気がしました。政人くんは取り繕うように、そんな自分を立て直します。

「そっか――なら、仕方ないか」

 きっとこれまで何人も、頷かせてきたのでしょう。それでも一緒にいたいと言わせてきたのでしょう。彼はそんな行いを補ってもあまりある魅力的な人でした。――本当に?

 わたしには、今まで見惚れてきた彼の姿も、颯爽とした立ち居振る舞いも、わたしにだけ見せてくれると思っていた優しさも――それらが薄っぺらく虚しい、判子の押されていない紙きれのようなものにしか見えなくなっていました。

「他の女性ひとたちは……このこと知ってるの?」

「え?」

「こんなの……めた方がいい。傷つく人、他にもいると思う。それにいつか、破綻して困るのは政人くんだから」

「何? 僕に説教する気? それともそれ、脅し?」

「そんなんじゃ――」

 付き合いきれないとは思っても、わたしにはまだ彼への消し去り難い残滓がありました。忠告めいた言葉は、そんな思いから転がり出たものでした。しかしわたしを見下ろす政人くんは、

「気に食わないなぁ……その目」

低く言って煙草を足許の砂に落とし、踏み消します。そしてわたしの手首を掴みました。その力は繋ぐようなものではなく、掴むようなもの。その力に驚いたわたしの手からはトートバッグが離れて、中のお弁当箱が公園の砂の上に落ち、中身がこぼれました。彼がそれを、嘲るように見下ろします。

「ほんと、これだけが取り柄だよね、君。折角僕がこれからも付き合ってあげようっていうのに、普通、説教までするかなぁ?」

 彼の言葉と態度は一変していました。所詮彼の優しさや笑顔は、自分に従う女だけに向けられるもの――それを改めて突き付けられ、また、ここに来る前に膨れ上がっていた幸福感の塊のようなお弁当を冷たく見下ろされて、わたしの目には涙が滲みました。けれどそんなわたしの姿は、彼の導火線の片隅に火を点けたようでした。わたしを見下ろす彼の明るい茶色の瞳が、好色そうに光ります。

「ちょうど物足りなかったんだ。最後に一回、してから別れようか?」

 強い力でした。最初から敵うことのない力に引っ張られて、わたしはベンチの上に投げ出されます。背中を打った痛みで息が詰まったわたしに、彼はすぐさま覆いかぶさってきました。

「いや――」

 羞恥と共に喜んで迎えていた彼の手は、今や暴漢のものと大差ありませんでした。「うるさい、大人しくしろ」という罵声の他、昨日までの行為でのわたしをあげつらうような、聞くに堪えない品のない下劣な言葉の数々が浴びせられます。そのくせ、彼は今もわたしを思い通りにしようとするのです。

 ――違う。わたしが望んだのは、こんな形じゃなくて。

 両腕を頭の上で押さえつけられるわたしと、わたしに覆いかぶさり、直ぐにでもワンピースの裾をたくしあげようとする彼。抵抗し、声を上げようとするわたしの左頬を、彼がぴしりと打ちました。雷光のように走ったその痛み。初めて振るわれた暴力に、驚愕と共に恐怖が全身を支配し、身体が強張ります。頬は冷たさの次に熱を感じさせ、口の中を切ったのか、口内には鉄の味が滲んできました。

 わたしを組み伏せる彼の背中の遥か高みから――雨はぽつりぽつりと降り注ぎ始めます。彼はそんなことにも構わないようでした。どうせこの暗がり、通りの少ない道、他の誰の邪魔も入らない――それを知っている彼には、怖いものなどないのでしょう。

 彼を好きなのかと言われれば、好きなのです。いえ、これは情というものでしょうか。愛着というものでしょうか。先程まで一年以上持続していた気持ちを一瞬で消し去ることが出来るほど、わたしは器用ではありませんでした。

 けれど先程の彼の一打は、恐怖と驚愕でわたしのその心を凍りつかせました。そして、今まで受けたことのないこの暴力的な扱い。震え、身を竦ませたわたしの膝を割って自分の膝を挟みこんだ彼が、準備を終えます。そうして逃げられずに始まった遠慮会釈のない自分勝手な律動は、これまでと違って、わたしに蹂躙の苦痛しかもたらしませんでした。

「他の誰も、お前なんか相手にしねえよ。この勘違い女」

 僅かに息を乱す彼が、わたしに低く言い放ちます。

 それは、この行為と共にわたしの身に刻まれる呪いのようでもありました。

 ――ああ。

 やっぱり、半分だけだからかな。

 喘ぎ声を強いる彼に対して、わたしは泣き声すら上げるまいと自分の手の甲を噛みながら、恐怖と諦念と悲嘆の中で、漠然と思いました。

 半分だけだから――わたしが半端者だから、こんなにも無力なのかな。

 人間なのは半分だけ。妖怪なのは半分だけ。わたしが生粋の妖怪であれば、こんな暴力に屈することもなく、自分の身一つくらい守れるのでしょうか。

 景やぬぬ子さんのように、化けるのが得意であれば。

 和菓子を買っていた鬼のおじいさんみたいに、人間を喰べるくらいの力があれば。

 わたしには、そんなものない。何もない。何一つ。なにひとつ――。

 雨が、次第に強くなってきます。そのことに彼は毒づきながらも、わたしを離そうとはしません。一秒でも早くこの苦痛から逃れたくて――けれど終わりが訪れなくて。

 絶望の中で、わたしの心は絶叫していました。

 ――人間なんて。

 人間なんて、大嫌い。

 わたしは噛んでいた手を離し、せめてもの抵抗に彼の腕捲りした腕に爪を立てるつもりで、彼の腕をきつく握りました。けれど次の瞬間。

 ぐじゃり、と、わたしの手は熟れた果物を握り潰していました。

 いえ――そうではありません。わたしは、彼の程よく筋肉のついた肘下を、まるで豆腐をそうするかのように握り潰していたのです。

 そのありえない、予想しなかった感覚に、わたしは固く閉じていた目を見開きました。彼の腕が腐っていたのではと思いましたが――そうではなかった。そこにあったのは、赤い、膨れ上がるほどの筋肉をつけた怪腕――それは間違いなく、わたしのワンピースの袖の中から伸びているのです。

 何が起こったのかは分からずとも、彼も強烈な痛みは感じたようです。歯を食いしばって痛みをこらえる顔つきをし、短く大きな悲鳴を上げた彼は、雨で出来た軽い砂粒の浮く水たまりに落ちた自分の左腕を見て、呆気にとられていました。

「――え、あ……あ?」

 左腕をなくした彼が、口をまるく開けて混乱した呻き声を上げました。彼はまじまじと、見失った自分の肘下を――赤黒い血がひたひたと流れ落ちる左腕を見つめ、じわじわと現実を直視し、それから恐慌を来したように悲鳴を上げました。

 彼の熱い血が、わたしのワンピースと腿に滴り落ちます。半身を起こしたわたしもただただ、悲鳴がでかかる口を押さえて、その様子を眺めるばかりでした。ですがその自分の両腕が――もはや自分のものではなかった。

 両腕は肘上から徐々に赤く染まり、太く、肉付きよく発達した筋肉で膨れ上がっていました。そしてその指先にてらてらと光るのは、彼の血に濡れた、鳥の鉤爪のように鋭く長い爪。

「なに……これ?」

 わたしの怯えた独白に、彼も反応しました。

「お前! なん、何なんだよ、おまえは! なん……っ」

 それから彼はすっかり恐怖に滲んだ顔を歪め、失った左腕を押さえて、果てることも忘れて萎縮してわたしから離れ、後じさりました。それからはもう、言葉にならない声を上げて、わたしに背を向けて不格好に走り出します。

 ――まずい、と。

 未だ残っていたわたしの理性が反応しました。わたしの理性は、この両腕が――わたしのあやかしとしての姿のものなのだと理解していました。それを見られたということは。人でないということが彼の目に明らかになったということは。

 ――人間ニ正体ヲ知ラレル事勿レ。

 脳裏に閃いたのは、護持委員会の四ヶ条の掟。彼がわたしのこのことを人に話したら、わたしの正体が世に明らかになったら、わたしはどうなるのでしょう。このままではいられない。不本意ながら、彼の腕を奪ってしまった今となっては。

 止めるしかない。

 止めるしか。

 わたしは這うようにして起き上がり、片方靴の脱げた足で、彼を追って駆け出しました。この雨の中でも、自分のものではないみたいに身体が軽かった。恐らく一秒とたたないうちに、彼の背中に追いつきました。わたしは後ろから彼の背中に手をつき、そのまま彼を突き倒しました。

 息を切らし、倒れた拍子に鼻血を出した彼が、ひい、と情けない声を上げました。ゆるしてくれ、みのがしてくれ、と滅茶苦茶に叫んでいます。この――恐らくは鬼の両腕になったわたしは、そんなにも恐ろしいのでしょうか。そうなのかもしれません。彼が目を血走らせてわたしに襲いかかったのと一転して、今度はわたしの方が彼に襲いかかっていた。追いついた。捕まえた。でもどうするべきなのか。これ以上――これ以上、どうすればいいのか。わたしの方が困っていました。

 けれどとにかく、喚き散らす彼の口を塞ぎたかった。雨音は激しくなってきたけれど、誰かに彼の声が届いては面倒です。人が来ては困るのです。人に知られては――。

 仰向けになった彼の胸に馬乗りになったわたしは、必死に彼の口を塞ぎました。彼の言葉が止むまで。彼の声が途切れるまで。彼の息が――、

 ――彼の息が、永遠に、途絶えるまで。


   *


 沛然はいぜんと降り始めた雨は、容赦のない雨音で地上の音を奪っています。

 頭上にある外灯が、雨にやられたかのように明滅を繰り返していました。警鐘のようでもあったそれは、わたしの下にいる彼が一切の動きを止めた頃、ふつりと途絶え、わたしを蒼暗い闇の中に沈ませました。

 雨の隙間を縫って聞こえるのは、離れた県道を走る車の遠い走行音と、草むらや川から聞こえる、虫や蛙の鳴き声。これまでの日々と何も変わらない物音たち。

 なのにわたしの世界は、一変してしまった。きっと――彼へのお弁当を持って、アパートを出たあの時に。

 少し離れたところには、自分の作ったお弁当が惨めに地面にこぼれて、冷たい雨に浸っていました。鼻の奥がツンとして、しゃくり上げると、わたしにはとめどなく涙が溢れてきました。

 ――どうして、こんなことに。

 馬乗りになったままのわたしの下にいる彼は――後は腐敗していくだけの物言わぬ骸となった彼は、その瞳が見開かれたままで、降り注ぐ雨にも瞬き一つしませんでした。

 醜い、醜い死に顔でした。口を押さえつけている最中、彼の歯が何本もぽきぽきと折れた感触がしました。それどころか頤が外れてそのまま陥没し、生前の彼の精悍な面差しの印象は全く失われていました。

 雨の生臭さに混じって、恐らくは窒息して息絶えた彼からは、かすかに糞尿の臭いがしていました。あれほどまで衆目を集め、女性たちを手玉に取ってきた彼も、死んでしまえばこんなものでした。こんな風にしたかったんじゃない。こんな彼をみたかったわけじゃない。たとえ、わたしを遊び相手の一人にしか思っておらず、最期には暴力でわたしを犯した彼でも――こんな風に死ねばいいとまでは思わなかった。そのはずでした。

 雨の中、髪もワンピースもぐしゃぐしゃに濡れて貼りつく不快さも忘れて、わたしはきました。彼の死に顔から顔を背け、人のものに戻った両手で顔を覆い――けれどこんな時でも、お腹は空くのです。

 思えば、わたしは夕方から人に食べさせるご飯を作ってはいたけれど、自分はそれに箸をつけてすらいなかった。高揚感と、その次にやってきた過大なストレスと危機に、空腹すら忘れていたのです。

 けれど――ああ、なんでしょう。この感覚は。

 目の前の彼からは、不意に、熟した果物のような、不思議なほどにわたしの空腹を刺激する香りがしてきたのでした。つい先ほどまでは、不快な臭いの方が支配的だったのに――この変化は、何だというのでしょう。

 わたしの口内には、唾が湧いてきました。それこそ、飲み下さなければ溢れてしまうほどの大量の唾が。わたしは何度も唾を飲み込みました。同時にわたしの両手が震えていました。この手が、身体が、知っているのです。――ここに、ちょうどよい食事があることを。

 そんな馬鹿な――わたしは強くかぶりを振りました。けれど脳裏によぎったのは、

 ――喰いたくはないかね。あんな旨いものを。

つい先日アルバイト先で出会った、鬼のおじいさんの言葉でした。

 そんなに、人間というものは美味しいというのでしょうか。いや――そんな、許されるわけがない。(でも)でも、でも。

 どうせ――どうせ、この遺体はこのままここに捨て置くことは出来ない。なら――(ひとくち)(一口だけでも)そう、ひとくち、だけなら。

 わたしのお腹は、今にもくっついて潰れそうなほどに空腹を訴えていました。息は短く、荒くなっています。今すぐ何かを食べなければ、このまま動けなくなってしまいそうでした。(のど)(喉が、渇いた)(オナカ、スイタ)そう、もう、だめ――空腹のあまり、眩暈が。目の前が、真っ暗になりかけている。この雨に、わたしも押し潰されそう――。

 わたしは彼の上から下りて、震える手で彼のワイシャツの釦を外して胸を開き――彼の裸の胸を露わにさせました。ほどよく筋肉のついた、その身体――何度も身を委ねたその胸。けれど今は羞恥やときめきの代わりに、ただただ、(オナカ)(スイタ)(オナカ)気の狂いそうなほどの空腹が、食欲が、わたしを突き動かしていました。冷たい雨の中、わたしの口内から溢れた熱い唾液が彼の胸に糸を引いてしたたり落ちて、(アア)そして、(アアアア)自分の物ではないような鋭い牙を立てて(アアアアアア)鬼の手がぷつりと皮膚を(アアア)血潮が溢れて(アアア)溢れて、柔らかな(アアアアア)筋が邪魔で(アアアアアアアアアアア)切り裂いて、ようやく(アアアアアアア)――。


 鬼のおじいさん。

 本当に美味しい人間とは、どんな人なのですか。

 どうして、この彼は――こんなにも、美味しいのですか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る