二
彼――わたしがお付き合いをしている
わたしの大学の学園祭に遊びに来た、大学OBの人。それが彼だったのです。
学園祭で声をかけられたのをきっかけに、わたしたちのお付き合いは始まりました。付き合い始めて、もう一年半ほど経ったでしょうか。鼻筋の整った顔に、どこかシャープな眼差し、そして洗練された物腰。良い意味で人目を引く容貌をした政人くんの隣に並ぶのは、最初のうちは、どこか気が引けるくらいでした。
社会人の彼はよく仕事帰りにわたしのアルバイト先に寄ってくれるので、一緒に食事をして帰ることがたびたびです。今日もまたその例に漏れず、わたしたちは近隣のファミリーレストランで夜ご飯を食べました。
「じゃあ、明後日の週末。映画館で待ち合わせだね」
「うん、分かった」
頷くわたしのアパートに向かう帰途まで送ってくれた彼は、ひらひらと手を振って今日は帰っていきます。わたしはその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、自分のアパートの方角に向かって
複数の大学が集まった学園都市には通学に便利なわたしのアパートまでは、ここからは街の公園の脇を行き、街の外れの住宅地を通り抜ければすぐです。辺りは地上にまで下ろされた夜の蒼黒い紗幕に包まれ、家々にともる電灯がその裾をそこかしこで白や黄や朱に彩っていました。
冬の寒波は春の息吹に押し流され、日ごとまばゆい陽光の暖かさに、風が温もりとなって追いついてきます。スプリングコートの前を合わせて首を逸らせば、見慣れた並びの星は淡くまたたき、白い月は雲のあわいで夜空を悠然と逍遥しているのでした。
白いフェンスに囲まれた公園、その外周を固めるコンクリートの歩道には、夜闇の中で孤独に佇む外灯が、ぼんやりとした黄色い明かりを降り注がせています。公園を囲む街路樹の桜たちは白い蕾を膨らませ、今にも枝を彩り咲き
辺りには、この暗闇を居場所とする虫や蛙のかすかな鳴き声が立ち昇っています。その晩のわたしは、いつもの公園、その入り口付近に、ひとつの人影を見出しました。虚を衝かれたあまり、足が一旦止まってしまいます。こんな夜更けに、こんな場所で一体どんな人間がぶらぶらしているというのでしょう。
見知らぬ人影は、今風の色の淡いジャケットとジーンズをセンス良く合わせて着こなし、少し長めの茶髪を後ろで無造作に結んでいます。まだ年若い、青年のようでした。長い手足で腰ほどの高さの花壇に軽く腰掛けている彼は、外灯に
「よう。おかえり」
「
「近くまで寄ったから、元気にしてるかと思って」
青年の姿をしたあやかし――景の右手には、コンビニエンスストアのビニール袋がありました。彼は袋を軽く掲げると、差し入れのつもりなのか、中から取り出したいちご牛乳の細い紙パックをわたしに軽く投げ渡してきます。お礼を言ったわたしは早速付属のストローを挿し、遠慮なくいただくことにしました。夕御飯を食べて来たばかりの五臓六腑に、芳醇ないちごの香りと冷たく甘ったるい味わいが心地よく染み渡っていきます。隣の景は自分はコーヒー牛乳のパックを取り出して、ストローに口をつけていました。
わたしの育ての親である景は、とにかく化けることが上手です。いつもころころと姿を変えているので、わたしも彼のあやかしとしての姿を見たことはありません。飄飄とした風情を漂わせる景に種族を問うても、毎回のらりくらりとかわされてしまうのがお決まりでした。――まあ種族がどうであれ、わたしにとって景が景であることには、何も変わりはないのですが。とにかくわたしより、景の方がずっと長生きをしていることだけは確かです。
わたしが大学に入学してからは、わたしたちは別々の暮らしをしていました。景は景でいくつもの姿を使い分け、毎日忙しく過ごしているようです。こうして景の方から訪ねて来てくれない限り、わたしには彼の足取りすら掴めないのです。
わたしたちはちるちると乳飲料を啜りつつ歩き、互いの近況を話し合いました。
「――そうかあ。お前もあと一年で大学卒業かあ」
「景のおかげだよ、ありがとう」
景は昔から父――いえ、兄のようにわたしの面倒を見るだけでなく、高校や大学などの学費まで出してくれていました。
「働くようになったら、景にちゃんとお金返すからね」
「ん? いいってそんなの。こう見えておれは稼いでるんだからな。心配すんなって」
「でも。いいの、わたしがそうしたいんだから」
「はいはい。全く、お前は顔に似合わず頑固な奴だなあ」
景は話半分に相槌を打ちながら、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でてきます。――わたしにこんなことをするのは、景と政人くんだけです。
「しかしお前も変わったよな。昔は人間世界なんてもう嫌だ、なんて言ったこともあったのに」
「そ、そうだっけ?」
「そうだよ。小学の頃だったか」
景は、公園脇のごみ箱を一瞥すると、飲み終わったパックを気のない素振りで投げ入れます。「……ねえ、景」「ん?」
わたしは景のことをまっすぐ見られないまま、何でもないような素振りでその言葉を口にしてみました。
「わたしにも、結婚って、出来るよね?」
道路を挟んだ対面、そこの民家の薄闇の中で花咲く庭先を見つめるわたしの首筋には、こそこそとした気恥ずかしさが這い上ってきます。景は、隣で眉をひそめたようでした。
「――結婚?」
彼の足が止まります。それにつられて、わたしも立ち止まりました。
向かい合うわたしたちの間を、風が緩く渦を巻きながら吹き抜けていきます。わたしが着ているワンピースの裾も、風にやんわり遊ばれました。春の夜風は芽吹いたばかりの若葉の匂いを、微かに
幼かった頃は野山に近い田舎で育てられたわたしです。景に手を引かれるばかりの幼いわたしが嗅いでいた、青く豊かな緑の匂い。懐かしい匂いです。わたしには、この風は
「うん。……ずっと、一緒にいたい人ができたの」
「……さっきの男か」
景は、わたしがここに来るまでに政人くんと歩いていたことを知っていたようです。
――初めて会った時から、可愛い子だなって思ってて――。
彼は学園祭の後日、そんな風にわたしに想いを告げてくれました。まさか――まさかわたしが人間の男の人から想いを寄せられるなんて。それはもう驚きました。
けれど政人くんの気持ちを受け入れて以来、わたしは愛し愛されることの喜びを知りました。必要とすること、されること。肯定すること、されること――人間として生きることの、本当の意味を知ったような思いがしたのです。わたしの日々を色彩と幸福感で満たし、この手にも包みきれないほどのものを与えてくれる人――それが政人くんなのです。
彼とのことは、育ての親である景にもいずれ話そうと思っていたことでした。
けれど景は、言い放ちます。
「無理だ」
「――え?」
「無理だって言ったんだ。だからやめとけよ、人間なんて」
景はくるりと踵を返し、わたしに背を向けて歩き出しました。
乱暴に頭をはたかれたに等しい衝撃――瞬時には何を言われたか、それが何を意味するのか分かりませんでした。景の予想だにしない言葉には、返す言葉も出てきません。呆然と
そんな中で、閑静な住宅街、しんと静まり返った辺りとは裏腹に、わたしの心臓は忙しくうるさく、動悸を繰り返しています。大きな歩幅で先を歩いてしまっている景の背中はどんどん遠ざかっていって――我に返ったわたしは懸命に追いかけました。
「ど――どうして? どうして無理なの? 人間の世界で本当に人間の一員になって人間と暮らすのが、どうしていけないの?」
景のジャケットの背中に手を伸ばしかけたところで、彼はぴたりと足を止めます。急に立ち止まって振り向かれたものだから、わたしはその胸にぶつかりそうになり、たたらを踏みました。
景の背後からは、羽虫を集める常夜灯の明かりが煌々と降り注いでいます。その時明かりが一度だけ、
「……限界が、来る」
――げんかい?
わたしは口の中で、その単語を繰り返しました。
「いくら人間の姿をとっていたって、結局、おれたちはあやかしなんだ。どう頑張ったって、本当の『人間』になんてなれないんだよ。たとえお前が半分だけのあやかし――半妖でもな」
景は、努めて感情を抑えようとしているようでした。けれどその奥底には、凍てつくほどの冷え冷えとしたものが、息を殺して横たわっているのです。
無闇にそれに手を伸ばせば、伸ばしたこちらの指先までもが凍傷を負ってしまう。それが分かりました。ですが景の変貌に
「人間は自分たち種の優位を疑わず、この世の全てを思い通りに出来ると勘違いしてる生き物だ。お前が人間
姿も種族も、最初から多種多様だからな――景は皮肉めいた笑みを浮かべ、独り言のように呟きます。そこには彼の平素の気安さや、寄り添うような温かみはどこにもありませんでした。
「おれは、正体を知られて人間に迫害された奴らも知ってる。見世物にされた奴も知ってるし――殺された奴らも、だ。心を許しても手酷く裏切られるのはいつも妖怪で、入れ込めば入れ込むほど、被る傷は深い。人間なんてそんな奴らばかりだよ。お前といた男だって、あまりいい『におい』がしなかった。どうせろくな奴じゃない。だからやめとけよ、人間なんて――」
わたしはもはや、逆光の中にいる景の瞳を見てはいませんでした。見られなかったのです。
――まるで濁流のような、言葉の奔流。
景の言葉をここまで不快に、お腹に重たく感じたのは、初めてのことでした。景の声は、聴きたくなくても、受け容れたくなくても、わたしの耳の奥へ奥へとねじ込まれるように流れ込んできます。――押し潰されそうなわたしにも構うことのない景には、わたしもついに耐えかねて堪忍袋の緒が切れて、
「いい加減にしてッ!」
珍しく大きな怒声を上げたことで、今度は景が目を瞠っていました。
「もう……いい。景が人間をそんな風に見ているだなんて、知らなかった」
わたしは景を
――わたしが人間の社会に混ざれるように育ててきたくせに。自分も日頃、人間たちの中にいるくせに。
急に態度を翻した景。わたしには、彼の
これまで感じたことがなかったほどの景への憤りが、堰を切って溢れ出していました。止めることのできない感情の洪水は、今までわたしの中でどんな時も唯一の存在として灯っていた育ての親としての景の像を、虚しく容易く押し流していきます。
これは嫌悪なのでしょうか? それとも失望? それとも――裏切られた悲しみなのでしょうか。
どうしてこんなにも景の言葉は、耳にも胸にも痛くて仕方ないのでしょうか。同時にどうしても、侮蔑と嫌悪に満ちた景の言葉は、聞き流すことができなかった。
「確かに、人間には
わたしだって小さい頃は、「人間は恐いもの」だと思っていました。そう、あれは小学校の頃――クラスでいじめじみたことをされて、人間の世が嫌になったこともありました。
けれど、それでもいろいろな人間に出会っていくごとに、わたしが抱いていた当初の人間像は揺らぎ、それと共に未知のものに対する畏怖や恐怖も、薄れていったのです。
わたしを雇ってくれた和菓子屋さんの若奥さんや、若旦那さん。そして一緒に働いている人たちや、大学の同期たち、そしてわたしの大切な政人くん――少なくとも周囲の人間たちは、わたしに温かな心を向け、受け容れてくれています。わたしはそんな彼ら、人間のことが好きなのです。景の言葉はわたしにとって、彼らの温情や好意を根底から覆し、否定するものだったから。だからわたしには受け容れることができない。
そして何より、わたしの大切な政人くんのことも。
「あの人のことだって、景が何を知ってるの? よく知りもしないで、勝手なこと言わないで!」
ああ――そうか。わたしが景に反抗せずにはいられなかった一番の理由。それは政人くんのことまで侮辱されたからに他ならないのです。
わたしの両手は微かに震えていました。それは耐えがたい怒りの所為なのか、それとも、育ての親として慕い続けてきた景に正面から刃向かうことに対する怖気が、無意識の内にあるからなのか――どちらにせよ、震えを悟られたくないわたしはスプリングコートの裾を握りしめ、震えを押し殺そうとしました。
わたしが景に向かってこれほどまでに猛然と噛みついたのは、これが初めてです。自分でも、そのことと自分の激しい感情の発露に驚いていました。けれど今更、なかったことにはできません。景は動揺を押し込めると、不本意そうな苛立ちを露わにしました。
「おれは、お前のためを思って――」
「そうだとしても――でも、わたしは景じゃない! わたしが何をしようと、誰を選ぼうと、わたしの勝手でしょう!? 人間を軽蔑して、対等のものとして見ていないのは、景の方だわ!」
不意に景の瞳に、大波が躍るような揺らぎが生じました。悲しみとも怒りともつかないそれ――けれど、それも数瞬のこと。
「……お前がそこまで言うのなら」
景はやがて、端整な人間の姿をしたその
「もう、おれが口出しすることじゃないな。あとは知らんから、お望み通り勝手にすればいい」
それが、わたしたちの心が決別した瞬間となったのです。
彼の別れは、素っ気なく呆気ないものでした。後ろ姿で挨拶代わりの片手を上げる景は、今度こそわたしの前から歩き去っていきます。
外灯の明かりも届かない、黒々とした輪郭だけを浮かび上がらせる闇夜に吸い込まれていく後ろ姿。わたしはそれを見送ることも、引きとめることもしませんでした。顔を背けたわたしは、フェンスの向こうに広がる公園内、外灯に照らされてただひとつくっきりと浮かび上がっているベンチばかりを、景の代わりであるかのように、憤怒の目で睨みつけていたのです。
「勝手に……するよ」
いつの間にやら風向きを変えた下風が、わたしの肩口までの黒髪を煽ると共に、声を攫っていきました。その言葉はもう、景には届かなかったでしょう。
彼が歩き去っていった深く蒼然とした夜の先を振り返りましたが、そこには当然、景の姿も、残り香すら。本当に――辺りのどこにも、残ってはいなかったのです。
*
砂糖、醤油、酢。それと揚げ焼きにした鶏肉。
混ぜ合わせたタレが甘く食欲をそそる香りを上げるフライパンをゆっくりとかき混ぜながら、わたしはタレが泡を立てて煮詰まっていくのを眺めています。
景と喧嘩別れをしたのは昨夜のこと。大学での今日の講義を終えて自分のアパートの部屋に帰って来たわたしは、夕飯の準備をしていました。今日はアルバイトもお休みです。
「ふぅん。景も言ったものねえ」
キッチンの背後にあるテーブルでは、一人の二十代半ばほどの女性が、先に出来たハヤシライスを頬張っています。彼女のあだ名はぬぬ子さん。わたしのご近所の顔馴染で、たまにこうして御馳走したり、されたりするのです。
「ひどいと思わない? 反対されるなんて――思ってもみなかった」
「まあ、景の言うことも分からなくはないけどね。人間と妖怪の間には、いろいろと壁があるものよ」
ぬぬ子さんはわたしよりも長く世を渡ってきた年上らしく、どこか諦観のある言葉を明るく吐きます。わたしはフライパンの火を消して、皿に鶏肉を盛りつけました。その上に掛けるのは、これも茹で卵を潰して味を調えた、手作りのタルタルソース。
「ぬぬ子さんも――人間なんかやめておけって思う?」
わたしは知らず、自信なさげに助言を求めていました。景が兄なら、ぬぬ子さんは姉のようなもの。妖怪絡みの相談など、大学の同期には出来ない相談ですから。
「そうねえ……。でもま、恋をしている相手に他人が何と言ったって、止まるものじゃないでしょ? 彼のことを話すあなたは、いつも幸せそうだもの」
そんな風に言われて、わたしは頬が熱くなりました。「それは……」
「人間の一生は、妖怪のものよりもずっと短い。どうするにせよ、後悔しないようにするのが一番じゃない?」
「ぬぬ子さん……」
「うん、タルタルソースもおいしい!」
鶏肉をぱくりとついばんだぬぬ子さんは、頬が落ちるとでもいうように、左手で頬を支えます。その幸せそうな顔――わたしが料理を好きなのは、人のこの顔を見るのが好きだからかもしれません。
「――かあちゃん!」
不意に、ベランダの向こうから幼い声がしました。カリカリと窓を引っかく音にも気付いたぬぬ子さんは、勝手知ったるわたしの部屋を縦断し、硝子戸を引き開けます。
「あら、小太郎」
「またここにいたの? もう、あんまりおじゃましたらめいわくになるよ!」
そんな大人びたことを言うしっかり者の子狸は、ぬぬ子さんのお子さんの小太郎くんです。ぬぬ子さんたちは近所の森に
「いいのよ、小太郎くん。小太郎くんはもうご飯食べた?」
「うん……かいてんずしでえんがわを……でも……」
小太郎くんも最近は化け姿を覚えたようでした。彼は三日前もぬぬ子さんと一緒に回転寿司に行ったはずです。彼の最近のブームは回転寿司のようでした。あのレールに乗ってお寿司の皿が回ってくるのが何とも面白いそうです。気持ちは分かります。
小太郎くんはぬぬ子さんの腕に抱き上げられると、鼻をくんくんさせて、ぬぬ子さんの食べかけのハヤシライスの皿を覗きこみました。ハヤシライスはこの親子の大好物の一つなのです。
「少し持って帰る? 今タッパーに入れるね」
「あらありがとう! 良かったわね~小太郎~!」
歓声を上げた小太郎くんは、ぬぬ子さんの腕から飛び降りると、狭いリビングをぐるぐる駆け回りました。そのちょこまかと動く短い手足が、何とも可愛らしいです、
「ぬぬ子さん、ありがとう」
お礼は、ぬぬ子さんの先程の言葉に対して。景にあんな風に言われて落ち込んでいたわたしには、政人くんとのことを否定しないでくれたぬぬ子さんの言葉は、これ以上ない慰めだったのです。ぬぬ子さんは「さて、何のこと?」と笑いました。そして二人はアパートの玄関から、タッパーをお土産に帰っていきました。
*
その後、作ったおかずをお弁当箱に詰めたわたしは、アパートの玄関を後にしました。仕事が終わった政人くんに、おかずの差し入れをしようと思い立ったのです。
外に出た途端わたしを押し包んだ夜気は、思っていたより少しだけ肌寒かった。けれどコートが必要なほどではない――そう判断して、袖のゆったりした黒のワンピース姿のわたしは、政人くん専用にしているお弁当箱とそれが入ったトートバッグを手に、アパート脇の自転車置き場の前を通り過ぎていきました。
これまでも、わたしは彼に手作りのお弁当や夕食の差し入れをすることがありました。彼はそんな時決まって、満面の笑顔でそれを受け取り、お弁当の出来を褒めてくれて、残さずきれいに食べてくれるのです。――わたしには、それが何よりも嬉しい。
『後悔しないようにするのが一番』――ええ、その通りです。
百年生きられればいい方という人間の一生など、何百年何千年と生きることすらあるわたしたちあやかしにすれば、瞬きのように短いのでしょう。もたもたしていたら、あっという間に終わってしまう。景の言葉に怖気づいて迷っているより、一日でも多く、政人くんと一緒にいたい。その一日一日を、大事にしたい。
そう思ったわたしは居ても立ってもいられなくなり、こうして急遽お弁当を作ってアパートを飛び出してきたのでした。
政人くんの喜んだ顔を思い描きながら、わたしは夜の街をどんどん進みました。住宅地には方々で温かな家庭の明かりが灯り、その向こうからは時たま子供たちの賑やかな声が聞こえてきます。それが微笑ましくて、わたしはぼんやりと自分が将来持つかもしれない家庭というものを思い
――仕事は両立できるかな? 彼はどんなお父さんになるだろう? 子供が産まれたら出来るだけ長く子供と一緒にいてあげたい――そんな妄想をしている間にわたしの足はさっさかと進んだものだから、住宅地を抜けるのも、居酒屋やコンビニエンスストアの並ぶ大通りを抜けるのも、時間の経過というものを全く感じませんでした。
早く彼に逢いたかった。彼の低くて甘みさえ漂う格好いい声で名前を呼ばれて、一緒に夜を過ごしたい。――突然訪ねて行ったら驚くかもしれなくて、でも彼のそんな顔を見るのが、また楽しみでした。
そんな時、わたしはタクシーなど車の行きかう車道を挟んだ反対側の歩道に、見慣れた姿を見出しました。街灯のもとに顔立ちが明らかになる、あの背の高い人影――政人くんに他なりません。もしかしてこれは、わたしの願いが天に通じたのでしょうか? 気持ちはますます明るくなりました。
ちょうど仕事が終わったところなのでしょう。彼のアパートに出向く前に政人くんに会えてほっとしたわたしは、彼に声をかけるべく片手を上げます。
けれどそこで、気付いたのです。政人くんの隣には、一人の女の人が歩いていることに。
――だれ?
わたしの知らない女の人でした。それによく考えれば、彼の足取りは政人くんのアパートへ向かうのとは逆方向です。
お友達? それとも職場の人?
そうです、彼の知り合いに女の人がいるくらい、珍しくもなんともありません。けれど戸惑うわたしの心には、何故だか暗雲が立ち込め始めます。二人はそれくらい、親しげでした。そして街灯の明かりは、政人くんの片手が彼女の腰に回っていることも明らかにしていました。
暗雲は膨れ上がり、重みを増して、今にも雨を降らせそう――。
わたしは息をすることも忘れていました。ただ、足は糸で操られる人形のように、自然と二人が歩いていく方向についていきます。彼らはわたしに気付きもしませんでした。
歩いたのは五分ほどのことだったと思います。二人はやがて、大通りからは一本脇道に入った先の、一軒の建物の中に消えていきました。その建物を見上げてみれば――そこはいかがわしいホテル。わたしも政人くんとこういった所に来たことがないわけではありません。だからつまり――二人がここに入っていった意味も、すぐに、分かる――わけで。
車道を走る車のライトが背後からかまびすしく駆け抜ける中、わたしは呆然と佇立していました。……どうして政人くんが、女の人と? それとも政人くんだと思った人影は、彼ではなかったのでしょうか? ただの人違い? それとも――。
わたしはその建物から一度踵を返して離れ、近くの雑居ビルの薄暗い階段にへなへなと腰を下ろしました。
……どうして?
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