櫻鬼

季島 由枝

第一部

一、人間ニ正体ヲ知ラレル事ナカ

一、無闇ニ人間ヲラウ事勿レ

一、人間世界ニ騒擾ソウジョウヲ招ク事勿レ

一、人間ニ妖怪ヘノ鏖殺オウサツ意識ヲ煽ル事勿レ

 此等コレラノ掟ヲ破リ、我等アヤカシノ生命存続ヲ危ブマセル者ハ、大日本妖怪護持委員會ノ権力ノ下ニ、厳罰ニ処ス。


  *


 東京遷都に版籍奉還、廃藩置県に官制改革。

 その昔、この国の人間たちは明治だ維新だと騒ぎ立てるのと同じくして、科学の旗印の下に、怪異――すなわち妖怪たちの存在をも否定しました。

『幽霊の 正体見たり 枯尾花』。

 人間たちの世界には、かような一句があると聞きます。幽霊、妖怪、そして変化へんげたぐいというものは、あくまで空想上のもの――そのような位置づけがなされたようでした。

 ですがこの一連の出来事については、人間の世に流布されている定説の他に、妖怪の世にのみ伝わる事実があるのです。

 人間たちは古来から、あやかしや土着の人々の土地を侵略し続けてきました。さらには近代化への道を歩み始め、今や目まぐるしい発展を遂げています。

 人間たちが土地を開拓し、居を広げていく中、すみかを失った妖怪たちの中には、新しい環境には溶け込めずに絶えてしまったものもいました。追い出されるようにして、どこか遠い土地へと逃れていったものもいます。――このままいけば、この国のあやかしたちが滅びてしまうことは自明の理でした。

 そこで事態を未然に防ぐべく、共存の道を図って人間界のトップに交渉を持ちかけたのが、「大日本妖怪護持委員会」です。彼らは、妖怪たちの中でも一等図抜けた格と頴脱えいだつした実力を誇るあやかしたちの集まりでした。

 護持委員会は、この国のトップの人間、およびその周囲の重役たちと密接な繋がりを作り、人間と妖怪の間に秘密裏の協定を結びました。その結果が、世の大衆には妖怪の存在をあくまで架空のものとして意識づけさせる人間側の潮流であり、委員会があやかしたちに向けて発布した、「四ヶ条の掟」なのです。

 人間世界のトップは、妖怪の最低限のテリトリーを侵さないことを約束した代わりに、あやかしには節度ある行動を求め、民衆に対しては妖怪の存在そのものを覆い隠してしまうことで、要らぬ騒擾を避けたのでした。

 そのような逸事を知るわたしもまた、あやかしです。

 ですがあやかしと言いきってしまうには、少々難があるかもしれません。言ってしまえば、わたしは半妖。妖怪である母と、人間である父の間に産まれた――それがわたし、らしいです。

 というのも、わたしには親の記憶がないのです。物心つく前から傍にいたのは、親代わりのあやかし一人。親とわたしの出自に関しては、彼が教えてくれたことでした。

 半妖であるわたしは、人としての姿で生まれてきて以来、自分の妖怪としての姿というものを持ちません。けれどそれは、幸いなことなのかもしれません。何せ人間世界に混和する姿に化けられないあやかしにとっては、とかく生きづらいご時世なのですから。

 委員会は、正体を上手に隠して人間社会に溶け込もうとする意欲的なあやかしには寛容です。人間社会内での働き口の斡旋や、住居の紹介。こちらはかなりの身銭が必要とは聞きますが、場合によっては人間としての戸籍すら与えてくれるのです。

 そんな護持委員会に対しては、妖怪たちの間にも様々な意見が飛び交っていました。

 人間と妖怪の関係を和平的に取り持つ彼らの働きに称賛を送る者もいれば、仲間である妖怪を売って、自分たちは人間界の上流で甘い汁をちゅうちゅう吸っているのだ、と憤る者もいます。

 わたしはといえば――そのような対立は傍観している、というのが正直なところでしょうか。

 人間としての自己しか持たないわたしには、妖怪という側面がどうにも希薄なのでしょう。委員会からは事務的に恩恵だけを受けて生きるわたしは、「助かっている」という意識があるくらい。

 ですが生粋の妖怪の皆々様方は、何かと苦労があるようでした。



 それはある日の、わたしのアルバイト先である和菓子屋さんでのことでした。

 老舗の和菓子屋さんが、街のショッピングセンター内に出した分店。近隣の大学に通うわたしは人間である若奥さんのもとで無事に研修を終え、ここで夕方から店番をするようになっていました。

 店がショッピングセンターから借り受けているスペース内、新しく届けられた化粧箱を棚に片づけていると、わたしの後ろから、しわがれた――それでいて陽気な声がしました。

「おやおや、こんなところにも可愛らしいお仲間が」

 手を止めて振り返ってみれば、わたしとは店のショーケースを挟んで反対側に、いつの間にやら一人のおじいさんが佇んでいらっしゃいます。どうやら相当なお年のようでした。頭にはソフト帽を被り、覗くびんも口髭も真っ白です。えび茶色の着物をまとうその身は、腰が僅かに曲がり気味でした。おじいさんはその身体を、左手で軽く握った木の杖で支えているのです。それでも矍鑠かくしゃくとした生命力を感じさせるお方でした。

 お客さんだ――わたしは反射的に「いらっしゃいませ」と言いかけます。けれどその寸前で、おじいさんが発した言葉の意味を悟りました。

「まあ、こんにちは」

 目の前のおじいさんは、確かに人の姿をしていました。けれど、それはただ化けているだけ。おじいさんもまた妖怪のたぐいであるということに、わたしは遅まきながら気付いたのです。おじいさんは挨拶をするかのように帽子を取り、好々爺こうこうやとした笑みを浮かべました。

 わたしたちあやかしは、互いがどんな姿に化けていても、相手が妖怪だということを感じ取れます。それは妖怪だけが持ち、妖怪だけが分かる、「におい」ともいえる独特の気配の所為でしょうか。それは半妖であるわたしにも例外なく漂っているようで、こうして時々妖怪のお仲間から声をかけられることがありました。

 人間に囲まれて過ごす日々の中、偶然にも妖怪仲間に出会えたことに、わたしは好奇心と高揚感を覚えました。そして慌てて周囲を見渡します。

 ショッピングセンターの一階、その一画に店を構えるこの分店は、奥行きのあるスペースを借りていました。店の裏にあるバックヤードは今は無人、両隣の靴屋さんと時計屋さんとは、しっかりとした壁で区画されています。お店の前にはだだっ広いスーパーマーケットが展開しており、今もぽつぽつと人通りがありますが、店内には常に有線や宣伝放送が賑やかに流れていました。この奥まったところでわたしたちが話をしていようと、道行く人々に声が届くことはなさそうです。

「苺餅と最中(もなか)を、二つずつくれんかの」

 ショーケース内を軽く見回したおじいさんからうけたまわり、ありがとうございますと答えたわたしはいそいそと包装を始めます。おじいさんはわたしを待つかたわら、店内の片隅にある赤い毛氈もうせんを敷いた長椅子に腰を下ろしました。

「差し支えなければで構わないのですが――おじいさんは、一体何なのですか?」

 確かにわたしたちは相手があやかしであることは感じ取れます。けれど二十年ほどしか生きていないわたしには、おじいさんがどんな種類の妖怪であるかまでは見分けることができませんでした。妖怪は年月を生きた力の強い者ほど、他の若いあやかしの目からは正体を見破られないものです。わたしから見て、おじいさんは今の人間の姿の分を差し引いても、相当な年月を生きたあやかしであると見受けられました。

「ん? わしか。わしゃあ、鬼だ」

 おじいさんは特にしぶることもなく、あっさりと自分の正体を明かしました。なんとも剛腹なお方です。にやり、と口の端を持ち上げるその笑みと、ふさふさとした白い眉の下で鈍い光を宿した瞳――それは確かに、鬼の持つ荒々しさと残酷さを窺わせるようでした。

「そういうお嬢ちゃんは、何なのかね?」

「わたしは……半妖です。種族については、分かりません」

「半妖……ほう、なるほど。人間にしては妖怪の気配を持っておるし、生粋の妖怪にしては人間のにおいがする。そういうことか」

 わたしはうつむいて手を動かしながら、下唇を噛んでいました。半妖であることを語る時には、いつも少し緊張して、僅かな怖気が湧くのです。相手の妖怪によっては、人間との混ざり物であるわたしを明らかに嘲ったり、見下したりする者もいるからです。

 けれどこの鬼のおじいさんの声音からは、そういった負の気配は感じ取れません。わたしはそのことに、内心でほっとしていました。

「しかし自分の種族が分からんとは何だ? 半分とはいえ、姿でも見れば片鱗くらいはあろうものを」

「生まれた時から、人としての姿しか持っていないのです。親の記憶もなくて……」

 袋の口を折り畳み、店名を記したシールを貼って包装を終えると、わたしはお菓子を包んだ袋を両手で携え、おじいさんの隣に腰掛けました。自信なくうつむくわたしの横顔を、おじいさんは推し量るようにまじまじと見つめてきます。

「ふうむ……おかしいのう。お嬢ちゃんはわしより若いのであろう? じゃが……わしにもお前さんの正体が視えんわ。わしはこれでもゆうに七百年は生きておるのだがなあ」

 おじいさんは首を傾げ傾げ、「不思議な子じゃのう」と呟きました。

 ――そうなのです。

 幼い頃からこうして自分以外のあやかしと出会うことはありましたが、不思議なことに、誰もがわたしの妖怪としての正体を見破れないというのです。

 七百年も生きているという鬼のおじいさんも、やはりそのようでした。失礼ではありますが、わたしの胸には「このおじいさんでも駄目だったか」という落胆が、浮き輪を失ったかのように沈んでいきました。

 ――たとえ、半妖でも。

 自分の妖怪としての種族を言い表す名を知らないというのは寄る辺ないことで、止まり木が見つからなくて頼りないような、一人だけ仲間外れにされているかのような――そんな心細さが付きまとっていました。

 生粋の人間でもない。純粋な妖怪でもない。

 物心ついて以来、わたしの心の奥底、その一角では、自分に対する不安や疑念がこごり続けているのでした。

「そうじゃ。お嬢ちゃんは、人間をったことはあるか?」

 不意に思い直したように訊かれ、わたしは瞬きます。

 ――人間を、べる。

 それは妖怪たちの間では、禁忌でも何でもありませんでした。

 一口に妖怪といっても、様々な妖怪がいます。人間を喰べるものもいれば、喰べないものもいます。生気だけを吸い取るものもいれば、吸い取る必要もないものもいます。「人間を喰べるか喰べないか」というおじいさんの問いは、わたしの妖怪としての種族を探り当てる、ひとつの指標にもなるのかもしれません。

 ですがわたしは、いいえと首を振りました。

「喰いたくはないかね。あんな旨いものを」

 おじいさんが重ねた問いは、わたしの正体云々だけではなく、あやかしとしての欲求への誘いをも孕んでいるようでした。――そんなことを口走るおじいさんのふさふさとした眉毛の下でらんと輝くまなこは、その時確かに、鬼の持つ血腥ちなまぐささを漂わせていたのです。

 けれどわたしは「否」と言葉にする代わりに、もう一度首を横に振りました。

「だって人間の作るご飯だって、こんなに美味しいでしょう?」

 ――わたしには、それで十分です。

 わたしはおじいさんに菓子の袋を手渡して微笑みました。「六二十円になります」

 鬼のおじいさんは、鼻白んだ顔をしました。そして着物の合わせから、のったりとした手つきで革の財布を取り出します。

「……まあ、ええけどな」

 わたしが人間を喰べてみたいと思ったことは、事実ありませんでした。とりたて、喰べなければならないような必要性も感じないのです。ですからわたしはきっと、人間を喰べない種族の血を引いているのでしょう。

 おじいさんから千円札を受け取り、わたしは店の奥のレジに向かいます。

「掟は知っとるか」

「もちろんです」

 妖怪たちの間でいう、掟。それは恐らく、護持委員会の発布した「四ヶ条の掟」以外のなにものでもないでしょう。

「あれは、人間を喰うなとは言わんけどな。肝要なのは、狩り方だ。一ヶ所で人間を狩りすぎると、人間たちはほら――連続殺人事件だ何だと騒ぎ始めるわけだ。警察が動いて犯人のあやかしが捕まったりでもして、ましてや正体が露見したとすれば――一大事だわな。護持委員会ってのは、そうなる前に」

「……そうなる前に?」

 お釣りを返したわたしは首を傾げます。するとおじいさんは――やにわにくわっと白目を剥いて大口を開け、舌をだらりと出した恐ろしい形相となり、

「かあッ!」

「ひええっ!?」

 わたしを威嚇し、そんな自分の首を指でかき斬る真似をしたのです。びっくりして知らず跳び上がってしまったわたしは、すっかり身を縮めて震えあがりました。

「こういうこっちゃ。元凶のあやかしを処罰しに来るんだわ。処罰なんて生ぬるいもんでもないけどな。あいつらは、一殺多生の精神とやらを掲げておる。人間とあやかし、どっちが敵か分からんな」

 話とおじいさんの形相に怯えきり、ショーケースの裏に隠れて顔だけを覗かせているわたしを見て、おじいさんはかんらかんらと陽気に笑いました。わたしを怖がらせて、楽しまれている様子が窺えます。……ああ、恐ろしい話を聴いてしまいました。

「喰うんなら罪人を喰えとか、委員会の奴らも好き勝手なことを言いよるわ。まあ、相手は千歳を越えたような化けモン中の化けモンばかりじゃからのう……。わしら生半可な妖じゃ、敵いもせんわな」

 おじいさんの腹の底からは、ふううと深いため息が吐き出されます。

「お嬢ちゃんには、分からんだろうがな。わしらが本当に旨いと思うのは、そういう奴らじゃないんだがなあ……」

 この店の先に広がるスーパーマーケット、――いえ、さらにその向こう、昔の開拓される前の山々を思い出すような目で、おじいさんはぽつりと漏らします。それは不思議と、愚痴というほど濁り淀んだものではなく、物寂しげで、哀愁めいたものを感じさせました。

 おじいさんは七百年の間に一体どれだけの人間を喰べてきたのか――僭越ながらわたしが推し量ろうとすると、雑多に喰べてこられたような気もするし、その実は美食家なのではないか、とも思えるのです。いえ、雑多に喰べてこられたからこそ、本当に美味しい人間というものを知っておられるのでしょうか。

 委員会は、発展を続ける人間たちからあやかしを守るために発足し、人間たちと秘密裏に手を組んだといわれています。――けれどその行いは、必ずしも妖怪のためというわけではないのでしょうか?

 人間社会で生きてきたわたしの知る限りでも、人間には社会で生きると同時に責任や義務が付きまとう一方で、娯楽や愉楽も多いように思います。様々な嗜好品、享楽的な遊びや行為、知的好奇心からの学問の探求――わたしがこれまで出会い、これから深い野山に帰るのだと言っていたあやかしたちの生活に比べれば、この都会暮らしは何と喧騒と快楽と幸福に満ちていることでしょうか。 

 これが、発展を続けてきた人間の特権だとすれば――なら、あやかしの特権、そして愉楽とは、何なのでしょう? 目の前の鬼のおじいさんは、委員会によって一番の楽しみを奪われたように見えました。人間と妖怪が共存しようとするなら、わたしたち妖怪は、自らの特権や愉楽を奪われなくてはならないのでしょうか?

 正直なところ、わたしは人間が嫌いではないのです。むしろ好んでいる、憧れていると言ってもいいかもしれません。発展を続ける人間たちが生み出し、創り出してきたものにも並々ならぬ興味を持っているわたしですから、都会暮らしはまさに望むところ。人間としての生活に幸せを感じ始め、人間を喰べる必要にも迫られていないわたしは、何と暢気なものなのでしょう。

 そんなわたしには、おじいさんにかけるべき言葉が見つからなかったのです。

 わたしの居心地の悪さは、おじいさんにも伝わってしまったのでしょうか。おじいさんはやがて、杖に手をかけて腰を持ち上げます。

「全く、委員会の奴らの所為で、住みにくい世の中になったもんじゃな。山ん中で大人しくしてるのが一番ってことかねえ」

 その口調には、もはや湿っぽさは残っていませんでした。帽子を被ったおじいさんはお菓子の袋を片手に、「ほんじゃ」とわたしを見やります。

「年寄りの愚痴に付きおうてくれてありがとな。店番がんばりい」

 そう言い残して、おじいさんは店を去っていきます。わたしはその背中に深々とお辞儀をし、おじいさんの姿が角を曲がって見えなくなるまで見送りました。

 会社帰り、学校帰りの人々で込み合う夕方を過ぎると、客足はまばらになってきます。この店も、そろそろ閉店です。わたしの勤務時間は夜の九時まで。もうすぐ若奥さんたちが店を閉めにやってきます。わたしはレジ合わせをしたり、出しっぱなしになっていた紐や包装紙を片付けたり、こっそり私物の文庫本を読んだりして、残る時間を過ごしました。

 そしてふと、顔を上げた時です。

「――あ」

 向こう側の通りから、こちらに向かって手を振っている人がいます。すらりとしたそのスーツ姿。相手は迷いなく、まっすぐこちらに歩を進めてきました。

 その人の姿を認めたわたしも嬉しくなって、頬が緩んでしまいます。そうして彼に、小さく手を振り返しました。

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