第3話 「その天使、偽る。」

「今日は、いい天気ねぇ。」


 秋晴れという言葉にピッタリな今日この頃、私は大通りの公園で紅葉や行き交う人の流れを、ベンチに座って眺めていた。

 もう主人が亡くなって、3年かしら。耳も遠くなったし、覚えられることも、覚えていたことも、少なくなったのよ。


「はじめまして、ご婦人。」


「あら、どなたかしら?」


 もう残りの人生、何があっても驚かないつもりでいたのだけれど。


「私は、天使と申し」


「あ、きら、あきらなの……!?」


 彰は私の息子。突然の事故だったわ。飲食店の火災に巻き込まれて、大火傷を負ったの。そのまま亡くなったはずだけど……。

 身綺麗なお婆さんの前に白いスーツ、白い靴、白髪の若い男性が現れた。そして、その男性はお婆さんの息子だというのだ。信じられない、といった表情のお婆さんと、鳩が豆鉄砲を食らったかのような表情の青年。すかさず、青年は言葉を続ける。


「あ、あの。私は天使と言いまして」


「どこへ行ってたのよ、彰! 髪まで白くなっちゃって……心配したんだから! あの火災の後、本当に大変で大変で……」


「う、ウン……ごめんね。」


 申し訳なさそうな顔をする息子を見て、私は嬉しさと罪悪感で胸がいっぱいになった。会えて嬉しいとも思ったが、もう何年も放ったらかしにしてしまっていたのだ。母親として、申し訳ないことをしたと、心臓の当たりがギュッと苦しくなった。


「彰、ご飯は食べた?」


「いや、ま、まだかなぁ。」


「あら、また食べてないの? まったく、本当にこの子は……。」


「心配かけてご、ごめんね、母さん……?」


 この子は昔と何も変わっていなかった。見た目は多少変わってしまったけど、中身は優しいまま。昔に戻ったようで、少し嬉しかった。

 お婆さんはベンチからゆっくりと腰を上げ、青年を少し見上げた。そしてフフと笑いながら、シワシワな手で青年の手を取った。


「また会えて嬉しいわ、彰。」


 ふわぁと吹いた秋風に青年の白い髪が揺れ、地面を枯葉が魚のように泳いでいる。この瞬間には、青年とお婆さんだけの時間が流れていた。

 お婆さんはそのまま青年の手を取ったまま歩き出し、久しぶりに再会した息子に手料理を振る舞うべく、帰路に着いた。


「それにしても、もっと早く会いたかったわ。」


「なんで?」


「だって、お父さんも、あなたに会いたかったはずだもの。」


「父さん、か……父さんはもう亡くなったんだね。」


 お婆さんは静かに頷き、澄んだ青い空を見上げた。昔を思い出して、少し寂しさを感じながら。

 家に着くと、玄関の靴棚の上に小さな写真立てがあった。小さな男の子と、その後ろに立つ優しそうな顔をした夫婦。


「お父さん、最後まであなたのこと、気にかけていたわ。会いたい、って言ってたわ。」


 ごめんなさいね、と笑いながら涙ぐむお婆さんは、そのまま台所に入っていった。

 青年はたいそう気まづかった。誰かに間違われているようだが、すでに80歳を超えたお婆さんには、何を言っても仕方がない。


「はぁ……」


 そこからも青年は本当に大変だった。身に覚えのない過去の話に耳を傾け、適当に話を合わせた。それから一緒に暮らすことになり、3ヶ月の月日が流れた頃、その日はやってきた。


「彰……そこにいる?」


「うん、いるよ。」


 季節はすっかり雪解け、春を迎える準備をしていた頃だった。その日の夜は、とても静かで、とても月が綺麗だった。

 お婆さんは枕元に立つ青年の気配を感じながら、そっと口を開いた。


「私、ちゃんとわかってたのよ。あなたが彰じゃないことぐらい。」


 青年は何も言わずに、縁側の引き戸を開けた。月の幻想的な光が部屋に差し込み、まだ少し肌寒い風を感じながら、お婆さんは遠のく意識の中で話し続けた。


「あなた、本当の名は、なんと言うの?」


「申し訳ありません。本当の名は、言ってはいけない決まりなのです。」


「そう……」


 青年は、青年の顔ではなくなっていた。朗らかな青年の顔ではなく、またいつも通りの天使の顔へ。


「今宵は、美しい月ですよ。」


 天使が声をかける頃には、すでにお婆さんは深い眠りについていた。天使は天使でしかなく、表情が、感情が溢れ出すことなどない。しかしその時、天使は人間が少し羨ましい、だなんて思ったりもしたのだ。

 天使は戸締りをしたあと、その家を出た。△△から呼び出されていたため、近くのファミレスにその足のまま向かった。


「おつかれー、◯◯。今回のは管轄外の死者だろ? なんでまた?」


「上司から頼まれたんだよ。そこの管轄の担当者が堕天したから、代わりに行ってくれ、ってさ。」


「マジ?」


 固めのソファに座り、△△の目の前のテーブルに空のティーカップが置かれていることに気づいた。天使は人に見せたり見せなかったりできるが、我々から声をかけなければ、人間が意識することはできない。見えていたとしても気づけないことが多く、景色の一部として認識される。


「ここで報告書、書いてもいい?」


「いーぜ。」


藤木ふじき雪江ゆきえ、89歳。天界法第1条にのっとり、報告。生前亡くしたご子息への面会を天界裁判所へ申請し、すでに許可済み。面会日は1週間後、場所は天界役場、1階とする。以上。》


「なぁ、僕は今回、初めて人間に天使と名乗らなかったんだ。そして成り行きとはいえ、人間だと偽った。」


「へえ?」


「これは天使のルールに反するのかい?」


「別に、そのルールはあってないようなものだし。」


「適当だなー、いろいろ。」


 天使は意外と適当であった。

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