第34話 黒い獣との遭遇


 テラリウムの中で過ごした時間は現実世界には反映されないとはいえ、疲労は蓄積している。


 今日は川の中で中腰になって作業することもあり、結構疲れた。

 俺はぐっとカウンターに手を付いて、伸びをしたりして身体を労わった。

 

 後は食事の支度をして、夜にまたテラリウムを作る作業を行うだけだが……ふと、なんだか隠れ家の外が気になった。

 何が、ではないのだけれど、何かに呼ばれているような、そんな不思議な感覚。

 それが良いことなのか、悪いことなのかはわからない。

 けれども、なんとなく俺は外を見なきゃいけないような、見ないと後悔するようなざわつきを肌で感じた。


 なんだろう。勘? にしてはやけに具体的な感じもするけれど。

 俺は首を傾げながら扉に手を空ける。


 ここでほんの一瞬でも冒険の書を開いていたら、何かが変わっただろうか?

 俺は気付くことができなかった。

 

 ――冒険の書が、ラメ入り蛍光ド原色で虹色に光る警告文を発していたことに。

 


 ガチャリと扉を開くと、酷く陰鬱な気配に肌が粟立った。

 この森の木々を黒く染めていた呪いの根源のような、そんなぞわりとするような気配。


 ポタリ、ポタリと黒いヘドロのようなものが地面に落ちる音がした。

 

 視線を下に向けると……黒い、ヘドロにまみれた獣がいた。

 グルルルッと威嚇する声がする。


「ふぁっ……わんちゃん……?」

 

 扉の前には、黒い塊がこちらを威嚇していた。

 それは、油状液体タールに誤って落ちてしまったような酷い有様で、ぼたぼたとその毛並みから黒いヘドロが零れ落ちる。

 だが、仔犬の大きさをしたその動物には、小さいお耳とごわごわの尻尾も付いていて、その尾の先からもぽたりぽたりと黒いヘドロが落ちている。


「グルルルルッ! キャン! キャンキャン!!」

 俺を威嚇して吠えるたびに、口の中にまで入り込んでいたヘドロがぼたぼたと地に落ちる。

 えっえっどうしよう。滅茶苦茶苦しそうだ。


 俺は、俺は……弱いのだ。

 

 わんちゃんや猫ちゃんに……。

 特に仔犬と仔猫なんか来てみろ。俺は、すぐにダメ人間になるぞ。

 かわいいでちゅね~! んーまっ! んーーまっ!! て、抱き上げてちゅっちゅしはじめるぞ。

 必死に俺に扱える従魔はいないか、なんて聞いていたのは……実は俺は動物に滅茶苦茶弱い。


 だが、好きだという事と、ちゃんと飼い主としての責務が果たせるかという問題は別問題だ。

 この世界に生き残っていた馬などは、飼い主としてその責任がきちんと果たせる自信がない俺には、飼う資格は無いと思っていた。

 飼えたら嬉しいが、ただ愛でたいだけという理由では飼い主失格だ。

 飼育にはきちんと面倒を見る事が出来るかどうかの責任を伴う。

 俺には圧倒的に飼育経験と知識が足りない。今のままでは到底果たせるとは思えなかった。

 

 だから従魔の世話は動物よりも難しくないと聞き、一縷の望みを掛けていたんだ。

 だがその望みも絶たれた今、テラリウムで少しでも見れたらいいなぐらいの心持だったんだが……。

 

 ここに、苦しんでいるわんちゃんがいる。

 俺は、俺はどうするべきだ……?

 テッテッテっと黒いわんちゃんが俺の方に走り込んできた。

 いくら仔犬だとは言え、噛まれるのはちょっと怖い。布をとりだして手に巻き、わんちゃんの前に差し出すと、わんちゃんは親の仇みたいな勢いで、かぷりとその布を噛みついて来た。

 タールみたいにネバッとした黒い泥が布に染み込む。

「グルルッ! ヴーッ! ヴヴー!!」

 なんだかわからないけれど、すごく切なくなる。切なくてやるせなくて、苦しくて、訳も分からず涙が出てくる。

 裏切られた。奪われた。憎い。辛い。苦しい。そんな感情が押し寄せてくるような。

 

 俺は、こわごわとべちょりとするその毛並みをなぞる。

 タールは手にへばりついても、不快なだけで影響は少ない。

 これ、この子の身体に悪そうだよなぁ。

 困った。俺に何がこの子に出来るだろう。

「ごめんな、噛んでもいいけど、少しだけ身体を洗わせてくれないかな」

「グルルルッ」

 

 噛みついたままわんちゃんをぎゅっと抱き締めると、抵抗されたけれど、そこまで酷くはない。

 というか、この痩せ方……可愛そうに……あまり食べていないのか、わんちゃんはガリガリだった。


「ごめんな、怖いよな。ちょっとだけ、その泥だけ流させてくれな」

 一階のトイレの個室の隣にある小さな風呂場に黒い仔犬を抱き上げたまま運ぶ。

 ここの風呂場も、魔法か何かが掛かっているのか、いつでも温かいお湯が出る仕組みになっていて、重宝している。

 町に住みたくないというか、ここを離れるのが嫌なのは、地味に使い勝手が良すぎるんだよなぁこの隠れ家。


 お風呂場に連れて行く頃には、仔犬は身体が震えていた。

 そうだよなぁ。いきなり抱き上げられたら怖いよな……。

 そっと温かいお湯を桶に溜めて、少しづつ仔犬に掛けていく。


「ヴーッ!」

 震えている身体にゆっくりと掛けると、どこから湧き出てくるのかわからないぐらいにタール状のものが流れ落ちてきた。

「怖くないよー大丈夫だよー」

 黒い塊から少しずつ泥を落としていく。

 目ヤニみたいなのも取っていくと、目の隙間からもタールが溢れてきた。

 うわ、どれだけ入り込んでいたんだろう。

 ゆっくりと、少しずつ。この世界の石鹸ってわんちゃんの肌に合うのかな……天然素材ではありそうだけど……なんて思いながらも石鹸をお湯に溶かして、仔犬の身体をしゃかしゃか身体を洗う。

 仔犬は黒い舌を出して、ハッハっと小さく呼吸している。

 気が付いたら噛みつかれる事も無くなっていた。

 ただ、耳をぺたりと下げて、洗われっぱなしになっている。


 仔犬は桶の中に口を突っ込むと、ケホケホと吐いた。胃の中にも黒いタールは入り込んでいたのか、それも外に吐き出してくれる。

 桶の水が何度もどす黒く染まる。

 その度に水を変えて、何度も何度も優しく洗った。

 

 顎の下からわしゃわしゃと洗う時には、いいこいいこ。可愛い子。なんて調子外れに歌いながら、優しく撫でた。

「キュー、キュー」

 あらかたタールを落とすと、タールの色だけじゃなくて普通に黒い仔犬だったらしく、水を吸ってぺたりとした毛並みは艶やかな紫黒色だった。

 黒色なんだけど、光の加減で濃紫にも見える。瞳は吸い込まれそうになるほどに美しいダークアメジスト。

「美人さんだな」

「きゅふ」

 なんだか返事をしてくれているみたい。

 タオルを取り出すと、そっと濡れた身体を抱きかかえるようにしながら拭いた。

 最初に会った時の剣幕とは裏腹に、今は俺の腕に甘えるように身を任せている。

 ……吸いたい……。いや、耐えろ。完全に弱っているわんちゃんにするような行為じゃないぞ。

 いや、元気な仔犬にもしないよ。

 俺はちゃんと嫌がる事はしないだけの分別がある大人だからな。

 だから思うだけで実行には移さない。

 生前も一人暮らしで帰りも遅いから、ペットを飼う事はしなかった。

 せいぜい動画でペットの奴隷と称する人たちの配信を鬼リピートするぐらいだ。


 だが、この仔犬に関しては……。


「なぁ、お前、うちの子になるか?」

 迷子なら親元に返してやりたいが、この森自体、生き物が生息できない環境だもんなぁ。

「きゅ……」

 上目遣い卑怯すぎる。かわいい……。


「いや、この子にも選ぶ権利がある。まずは食べ物を食べてから考え様な。何食べるのかな。お肉とかそのままあげていいのかな。ミルクとかあったらよかったのになぁ」

 そんなときにこそ役立つのが冒険の書である。


 俺はわんちゃんの食べれるものを調べようと冒険の書を開いて一番に目に入ってきたのは、ラメ入り蛍光ド原色で虹色に光る警告文だった。

 

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