第1話母の悩み
「あのね今、母さんは物凄い悩みがあるのよ」
夕飯時に深々とため息を吐いた母が、お茶碗を叩きつけるようにダイニングテーブルに置いた。
がちゃんと派手な音をたててしょうが焼きが宙に浮くけれど、母が作ったものなので文句はない。
「悩みがあるやつは、ご飯はおかわりしないんじゃない?」
母の空っぽの茶碗を見つめて、ナツメは思わず溢す。
二杯目も米粒一つなくしっかり平らげているくせに、深刻そうに言われても実感が湧かない。
「1日しっかり働いて疲れて帰ってきたんだから、ご飯くらい食べさせてよ」
「それは別にいいんだけど」
家に帰ってきてきっちりとご飯を作るのは母だ。
ナツメはそもそも台所に立つことを禁じられている。それこそ天変地異が起こるのではないかと疑われるほどに、絶対立ち入り禁忌を言い渡されている。
いや、そこは禁止では?
突っ込みどころ満載だしそんなわけないだろと言いたいけれど、必然的に小声になるのは自覚してもいる。
「悩みなんて母さんにしちゃ珍しい。何かあった?」
母は豪放磊落な性格で、バリキャリである。
仕事も家事も完璧な超人で、突き抜けているためかあまり悩むということがない。
小さなことから大きなことまで直感で決めてしまう。3年前に家を買うのも即断即決で全額キャッシュで払った時にはぎょっとしたものだ。
うちって貯金そんなにあったのかとつい感心してしまったほどだ。
そんな十階建てファミリータイプの新築マンションのわりと広い家を家族2人で使っている。
伊佐ナツメは母子家庭である。
5年前に父が亡くなってから、いや、亡くなる前から母一人子一人で生きてきた。
なぜなら父には、別の家庭があったからだ。
こんなあっけらかんとした性格の癖に、母は父と不倫関係にあったらしい。不倫なんて男女のドロドロしたような関係じゃないの、絶対向いてないだろうにと思わず胡乱な眼差しになってしまうほどに。
男の常套句のような妻とはうまく言っていないという台詞にすっかり騙されて……とは、父に別の家庭があると知った時に母から聞かされた話だった。はにかみながら報告されて、どこに照れる要素があるのかさっぱりわからない。
当時小学生だったナツメはめちゃくちゃキレた。
家にやって来た父に跳び蹴りをかまして、玄関から物理的に放り出し二度とうちの敷居を跨ぐなと吼えた。母の稼ぎだけで住んでいた賃貸マンションだったので、当然の権利だとも思ったのだ。
母にはそんなクズな父に関わるなと叱った。
そうして父はナツメの前に現れることはなく……とはならずに噛みつくナツメを面白がってやって来てはからかうという、最悪の展開になった。
父はとにかく底抜けに明るい性格だった。
くよくよせずに、物事を前向きに考える男で、人生楽しまなきゃが口癖のクズである。心の底から女が好きで、美人にめちゃくちゃ弱い。
母は仕事のできるカッコいい美人だ。口説くのは当たり前と頷かれて、もう一発跳び蹴りをかましたのは言うまでもない。
だからといって深く考えずに不倫するとか、最低だろう。
そんな2人の間にできた自分が居たたまれない。はっきり言って絶望した。
小学生で人生について悲観するやつはどれくらいいるんだろうか。まぁ意外にいるかもしれないが、果てしなく落ち込んだのは事実だ。
救いは、母には全く嫌悪感を抱かなかったことだ。
とにかく父が悪いんだと、嫌い抜いた。
少しも堪えない父に、余計に腹が立ったともいえる。
そうしてナツメはダメな大人は何歳になっても治らないということを学んだ。
そんな日々を過ごして、ある日父が死んだと母が告げてきたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます