第6話

「うちの愚息が大変なご無礼を。もちろん、婚約破棄などと言う世迷いごとは撤回させていただく」


 ヒューゲル伯爵が眉尻を下げながら謝罪を口にし、すぐに伯爵らしく胸を張ると強くそう宣言をした。

 システィナは内心の落胆を悟られないようにツンと上を向くと、睨むように伯爵を見据えた。


「当然ですわ。それにしても、まさかライナルト様があんなにも無礼な方だとは思いませんでした。幸い、あの失礼極まる発言はメイドたちしか耳にしていないはずですが、ここは大きな屋敷ですから、部外者が紛れ込んでいる可能性もゼロではありません。十分すぎる程警備を固めていても、ネズミ一匹紛れ込んでいないとは言い切れませんわ。万が一にも外に漏れていたらと思うと……どうなさるおつもりで?」

「最近、ダムルス子爵家のお抱え宝石商が良い石を仕入れたようでね。残念なことに子爵の御子息たちはまだ幼く、奥方は質素な性質でたいして石に興味を持たないようで、うちに話が回ってきたんだ。一度現物を見たが、それはそれは見事な宝石だった。未来の我が娘の胸元に輝いているのが相応しいようなね」

「あら、未来のヒューゲル伯爵夫人は宝石一つで機嫌が良くなるような愛らしい方なのですね」

「もちろん、美しい彼女のご家族にもいくつか素敵な贈り物を見繕おう。ついでに、サカンラスにある湖のほとりの別邸も差し上げようじゃないか」


 一年を通して温暖な気候のサカンラスには、貴族の別荘が幾つも建っている。

 ハンナヴァルド子爵家の別荘もあったのだが、今春に老朽化を理由に取り壊しており、今は建て直している真っ最中だった。今年はハンナヴァルド家で冬を過ごさねばならないと思っていたのだが、ヒューゲル家の別荘がもらえるのならば暖かな冬を過ごせるだろう。


 このあたりが妥協点だ。システィナは小さくため息をつくと、渋々と言った表情で頷いた。


「わたくしも、物事の分別のつかないような子供ではありません。ヒューゲル伯爵がここまで心を尽くしてくださっているのです、ライナルト様の一時の気の迷いから来る世迷いごとを、眦を釣り上げて糾弾するようなことはいたしませんわ」

「それは有難い。ところで、この度のことはハンナヴァルド子爵の耳には?」


 当然、ライナルトが婚約破棄を言い出した日の夕方には伝えているのだが、正直に言うつもりはなかった。


「先ほども申しあげたとおり、わたくしは幼い子供ではありません。何でもかんでも父に伝えるような子供じみたことはいたしませんわ。もっとも、父に相談しなければならないような重大な事柄に発展するとなれば、この限りではありませんが」

「いや、この件はこの場限りの話と言うことで……」


 懇願するようなヒューゲル伯爵の顔を、嘲笑うような眼差しで見詰める。

 子爵令嬢よりも高位の伯爵に対してこんな顔が出来るのは、ハンナヴァルドの家名を背負っているからに他ならない。ハンナヴァルドの家の者であるならば、王相手にだって臆せず侮蔑の眼差しを投げつけるだろう。


「承知いたしました。父の耳にはまだ届かないようにいたしますわ。……けれど、ヒューゲル伯爵家には伯爵家なりの品位があるように、ハンナヴァルド子爵家にもそれなりの品位があります。そのことを、努々お忘れなきように」

「もちろん、承知している」


 ゾッとするようなシスティナの笑顔を真正面から見続けることが出来ず、ヒューゲル伯爵は青い顔で俯いたが、伯爵としての威厳を保つように胸は張ったままだった。

 メイドが淹れた紅茶は、二つとも手が付けられることなくすでに冷めていた。ヒューゲル伯爵からは今すぐにでもこの場を辞したいという雰囲気が感じられたが、システィナはあえてメイドを呼び寄せると視線だけで紅茶を入れなおすように指示を出した。


「いや、申し訳ないが次の予定がある。また日を改めて、今度はライナルトとお邪魔させていただこう」

「それは残念です。次にいらしたときは、紅茶を楽しんでいただけると良いのですが。……そう言えば、母方の叔父が最近新しい菓子を作っているとかで、いくつか試食いたしましたが、市井のパン屋にしてはなかなかの味でした。きっとヒューゲル伯爵とライナルト様のお口にも合うと思います。次にお見えになるときにはお召し上がりいただけるよう取り寄せておきます」

「えぇ、楽しみにしている」

「その際は、父も同席しても?」


 一瞬だけ、ヒューゲル伯爵の顔が苦虫をかみつぶしたようなものに変わったが、瞬き一つのうちに元の真顔に戻ると大きく頷いた。


「ぜひ。ハンナヴァルド子爵に、お会いできるのを楽しみにしていますと伝言を頼めるか?」

「喜んで。わたくしも、ライナルト様と会えるのを楽しみにしておりますとお伝え願えますか? 次回こそは、ヒューゲル伯爵の名を汚すことのないライナルト様とお会いできると信じております。わたくしの前で一度きりの気の迷いを許すことは出来ても、父の前での二度目の虚言は目を瞑ることは出来ませんので、その点にだけはご留意を」


 寛大な心で今回ばかりは妄言に目を瞑ってあげるのだからと、言外にそう滲ませる。万が一、父の前でも同じ愚かな発言をした場合はそれなりの報復があると言いたげに、システィナは口の端を上げると目を細めた。

 甘美で美しい笑顔。けれど、その目は全く笑っていない。

 獲物を前に、飛び掛かる機会をうかがっているような獰猛さでヒューゲル伯爵を見据える。

 ヒューゲル伯爵の目が泳ぎ、額には脂汗が滲んでいたが、背筋を曲げることなく低い声で「承知した」とだけ告げると、そそくさと部屋を後にした。

 メイドに呼ばれた執事が恭しく先導し、足音が遠ざかっていく。

 システィナは不機嫌な表情を崩さないまま数分待った後で、大きく息を吐いた。

 屋敷の玄関口に横付けされた馬車が遠ざかっていく。もう、ヒューゲル伯爵が帰ってくることはないだろう。


「あぁー、疲れたぁ」


 凝り固まった肩の筋肉をほぐすように背伸びをし、冷めきった二つのカップに手を伸ばす。ヒューゲル伯爵が来るからと、特別に淹れた最高級の茶葉だ、このまま捨ててしまうのは勿体なかった。


「システィナ様、そんな冷めた紅茶を飲まなくてもすぐに淹れなおしましたのに」

「だって、勿体ないじゃない。これ一杯でいくらするんだって話よ」

「先ほどまでヒューゲル伯爵に宝石や別宅を差し出すように強請っていた人のセリフとは思えませんね」

「失礼ねぇ。私は一度も、何かよこせなんて言ってないわよ。ヒューゲル伯爵がくれるって言うから貰うだけ」

「はぁ……悪者の考え方じゃないですか、それ」

「悪者で結構! ハンナヴァルド子爵家の次女なんだから、恐れられるような存在で丁度良いの!」


 シアが全く理解出来ないといった表情で首を振る。

 ハンナヴァルド家のメイドとして、表面上は厳格な主人の命に従う従順な姿を見せているものの、心の底ではハンナヴァルド家の人々の優しさを知っているだけに、いまいち心の整理が出来ていないのだ。


「それにしてもこの紅茶、冷めてても美味しいわね。まだポットに茶葉は残ってるのよね?」

「残ってますけど、新しい茶葉に取り替えますよ。渋くなっているでしょうし」

「大丈夫、多少渋くなったところで全然飲めるから! 紅茶風味のお湯くらいになるまで飲み倒さないと勿体ないでしょ?」

「庶民だってそこまではしませんよ!」


 新しい茶葉に変えたいシアと、紅茶風味のお湯になるまで飲みたいシスティナとの間で攻防があったが、結局はシアが折れた。

 濃すぎる紅茶の色に眉をひそめながらシスティナに出せば、息を吹きかけて冷ました後で美味しそうに飲みほした。


「うん、やっぱり美味しい! おかわり!」

「そんなにお飲みになると、お腹がタプタプになっちゃいますよ」

「ヒューゲル伯爵と緊張しながら話してたせいで、喉乾いちゃったのよ。紅茶の五杯や六杯飲んでも大丈夫よ」


 ケラケラと笑うシスティナにため息をつきながら、シアは再びポットにお湯を注いだ。まだまだ茶葉は元気らしく、鮮やかな琥珀色が広がっていく。


「そう言えばシスティナ様、ソフィア様が近いうちにお話になりたいとおっしゃってましたよ。出来れば、早いうちにと」

「ソフィア叔母様が? 何かしら」

「用件までは伺ってませんが、伝言を受けたメイドが言うには、かなり焦っていた様子だったと」


 普段から物事をどっしりと受け止め、あまり慌てることのないソフィアが焦っているとなると、かなりの急用なのだろう。


(もしかして、マキナちゃんの身に何かあったとか……?)


 脳裏をよぎった嫌な予感に身震いするが、あのマキナに限ってそれはないだろう。

 万が一そんな事態が起きていたとすれば、最初にヘンリエッタの耳に届き、その次にシスティナの耳にも入ってくるはずだ。

 ソフィアが動揺するような事態が何なのかと思考を巡らせるが、これと言って思い当たることはなかった。


「早いうちにってことだから、今日でも良いわ。確かもう予定は入ってなかったはずだし。ソフィア叔母様の都合が合わないなら、明日の夕方以降なら空いてるって伝えてもらえる? その日も難しいなら、また予定を確認しましょうって言っておいて」

「分かりました。すぐに出かけられるメイドに伝言を頼みますね」


 シアはそう言うと、ポットを持ったまま部屋から出て行った。

 まだあと二杯は飲めるはずだった高級茶葉が連れて行かれ、ソフィアは「もったいない!」と嘆いていたが、シアはあえて無視をした。


 伝言を頼まれたメイドがソフィアと共に屋敷に戻ったのは、夕方に差し掛かろうとしているときだった。

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