第5話
ライナルトの乗った馬が見えなくなったのを確認した後で、システィナは盛大なため息をつくとイスに座り込んだ。冷えた紅茶を一気に飲み、ぷはーっと息を吐く。すかさずメイドが新しいものをついでくれ、それも勢いよく飲み干そうとして唇を火傷した。
「あっ、お嬢様まだお熱い……んですよ、いれたての紅茶は」
だいぶ遅かったメイドの注意に、システィナは「知ってた」とだけ答え、シアが慌てて持ってきた水の入ったグラスを唇に当てた。
「それにしても、まさかライナルト様があんなことを言い出すなんて思いませんでした」
「そう? もともと、ライナルト様は私に興味なかったからね、別に驚きはないわ。……いや、伯爵すっ飛ばしていきなり言い出したのにはさすがに驚いたかな」
「何故ライナルト様は、ヒューゲル伯爵様に断りもなく直談判しにいらしたんでしょうか?」
「そりゃ、伯爵の了解を得られないと思ったからじゃないの? だってこの婚約は、伯爵から申し込まれたものだもの。ライナルト様からの直々のお願いだったとしても、それなら破棄しちゃおっかとはならないのよ」
システィナとライナルトの婚約は、周知の事実だ。十年も続いた婚約を破棄しようとするなら、事前の根回しが必要になるだろう。
そこらの子爵家ならば、何とでも理由をつけて破棄できるだろうが、あの悪名高いハンナヴァルド家の次女との婚約を破棄するのだから、かなりの覚悟がいる。下手な理由で破棄しようものなら、どんな報復が待っているのか知れない。
こちらだってできれば穏便に済ませたいのだが、雑な理由で勝手に破棄されたとなれば黙ってはいられない。ハンナヴァルド家のブランドのためにも、何らかの報復は用意しなくてはいけないのだ。
だからこそ、システィナはヒューゲル伯爵と話をつけてほしいと言ったのだ。伯爵なら、ハンナヴァルド家の名を汚すことなく何らかの策を立ててから破棄を申し出ると思ったからだ。
「でも、システィナ様はそれで本当に良いんですか?」
「本当に良いって、なにが?」
「ライナルト様との婚約がダメになっても良いんですか?」
「別に、それなりの理由をつけてきちんとした手順を踏んでから破棄される分には問題ないと思うわよ」
システィナの返答に、シアが不満げな顔で唇を尖らせる。
なぜそんな顔をされなければならないのかとシスティナが首をひねったとき、シアが真剣な面持ちでずいと顔を近づけてきた。
「システィナ様は、ライナルト様を誰かに取られても良いのですか?」
言われた言葉の意味が分からず、システィナは数度瞬きをするとぽかんと口を開けた。しばらくそのまま考え込み、シアの懸念の理由に思い至るとポンと手を叩いた。
「もしかして、シアは私がライナルト様を好きだと思っているの?」
「違うんですか? だって、ライナルト様はかなりの美形ですよ」
「まあ、顔は確かに美しいわね。お兄ちゃんと比べても優劣がつけられないほどに美形よね。……でもねシア、人は顔だけじゃないのよ」
噛んで含めるような言いかたに、シアが口をへの字に曲げる。
「それをシスティナ様が言いますか?」
「私だって、ハンナヴァルド家の人間でなければこんな仮面みたいな化粧しないわよ」
「それはそうかもしれませんけど……ライナルト様にだって、顔以外にも素敵な部分があると思いますよ」
「例えばどこ?」
「いや、そんな真顔で言われましても、私はライナルト様と個人的な付き合いがないのでお答えしかねますが……」
困惑顔でそう答えたシアの肩を優しく叩くと、システィナは毅然とした表情で言い募った。
「ライナルト様は個人的な付き合いの有無にかかわらず、ああいう人なの。シアが見たままの人! つまりは、上から目線で冷酷で不愛想で冷血漢で、なんとなく常に周囲の人を小ばかにしている、いけ好かないただの美形なの! 誰が好き好んであんな人を愛するのよ」
「……そ、それはさすがに言いすぎなのでは……」
「いいえ、決して言い過ぎなどではないわ。あの人を好きになる人なんて、前世でとんでもない重罪、それこそ世界を滅ぼすほどの罪を犯して今世での贖罪を神様から命じられた人か、はたまたこの世に生きる全ての生命を慈しみ愛せるような規格外の慈悲深さを持ち合わせた選ばれし聖女かのどちらかよ」
勢いよく一息で言い切り、システィナが肩で息をする。ゼーゼーと苦し気な様子で肩を掴むシスティナを見上げながら、シアが引きつった顔でたしなめる。
「システィナ様、さすがにそれは……」
しかし、そんなシアの訴えもシスティナの耳には聞こえていないようだった。
やけに血走った真剣な目で、シアを真正面から見つめる。
「そして、私は前世でそんな悪行をしていないはずだし、今後数百年は称え奉るべき聖女でもないの」
「……つまり……?」
「私はライナルト様のことをこれっぽっちも愛していないってこと」
システィナが親指を人差し指をくっつけながら、一ミリたりとも愛していないのだと訴える。あまりにも鬼気迫る様子に、シアは「システィナ様のおっしゃりたいことはよく分かりました」と言うしかなかった。
「でも、それならどうして婚約なんてしたんですか?」
「婚約したのは十年前、私が七歳のときよ。私の意見なんてなかったし、当時十歳だったライナルト様の意見でもなかったでしょうね。この婚約はあくまでも、ヒューゲル伯爵とパパとの間で結ばれたものなのよ。そして、伯爵家からの申し出をハンナヴァルド子爵家が断る理由なんてどこにもないでしょう?」
「ですが、当主様はシスティナ様を溺愛されてますし、ライナルト様がああいう性格だと知っていたなら、いくら伯爵家からの申し出だとしても承諾なさらなかったのでは?」
「その可能性はあると思うわ。でもさすがに、十歳の時のライナルト様はこんな性格ではなかったと思うのよ。もしも十歳当時からこんな性格だったなら、それこそ恐ろしいでしょう?」
「それは……そうですね」
シアが納得した様子に、システィナは両腕を思い切り天につきあげると伸びあがった。凝り固まっていた肩がほどよく伸び、血流が流れる心地良さに首を回す。
ライナルトと話すと、知らぬ間に全身に力が入っているらしく、いつも筋肉が固まってしまうのだ。
「私としてはね、ライナルト様が婚約破棄してくれるって言うのなら大賛成なの。“やっと破棄を前向きに考えてくださったんですね、さすがはライナルト様! 微塵も愛してはいませんでしたが、昔からの約束だからと考えなしに婚約を続けるような愚鈍な方ではなくて良かった! その点に関しては尊敬しておりますわ!” って感じなのよ」
「ですがシスティナ様、婚約破棄された後はどうするおつもりなんです?」
「そうね……。新しく素敵な人が見つかるならそれで良いし、ダメならダメで仕方ないわね。お兄様の脛をかじりながら、ハンナヴァルド家の離れで一人楽しく過ごすのも良いかなって思ってるのよ」
「そんな。システィナ様はまだお若いんですから、きっと良い出会いがありますよ」
まるで年配のメイドのような口ぶりだが、シアとシスティナの年齢は一つしか違わない。もっと言うと、生まれ月の関係上数か月しか変わらないのだ。
「そうだ! いっそのこと、マキナちゃんの後を追いかけてみても面白いかもしれないわね。マキナちゃん、色んなところに行って魔物を倒したり村々を救ったりしてるんでしょう? お伽噺の世界みたいで、ちょっと憧れるのよね。私も今から剣の稽古をつけようかしら」
「お言葉ですがシスティナ様、人には適性と言うものがあるのです。マキナ様は運動神経抜群だとお聞きしてますが、システィナ様は運動音痴じゃないですか。剣なんて持った日には、自分のお腹を刺して大惨事になりますよ」
「そんなまさか。確かに私は運動が苦手だけど、自分を刺すほどじゃないわよ」
軽く笑いながらそう言うが、シアの目は本気だった。彼女は真剣に、システィナが剣を持って自傷する可能性を考えているのだ。
「ね、ねえ……さすがに私、そこまで運動音痴じゃないわよね?」
助けを求めて他のメイドたちを見れば、誰もがみな無言で目をそらした。
どうやらシスティナは、自分で思っている以上に体を動かすことに問題があるらしい。
人より少々運動が苦手程度に考えていたシスティナは、十七年生きてきて初めて突き付けられた悲しい事実に涙しながらも、明るい声を上げた。
「ま、まあ、マキナちゃんのところに行くって言うのは冗談としても、このままライナルト様がきちんと伯爵に話を通してしてくれれば婚約破棄は確実よね。今まではライナルト様の次期伴侶として制約がいっぱいあったけれど、もう少ししたら自由の身になれるのよ。やりたいこと、いっぱい考えとかないとね!」
婚約破棄後に待ち受ける未来は明るい。
システィナは、ヒューゲル伯爵直々に婚約破棄を告げられる日を夢見て楽しみにしていたのだが、現実はそう甘くはなかった。
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