第4話

「失礼、よく意味が分からなかったのでもう一度言ってくださるかしら? ライナルト様?」


 しっかりと化粧を施した美しい顔立ちに微かな苛立ちを浮かべ、システィナは挑むような眼差しで目の前に座るライナルトを見据えた。

 内心では混乱しており、今にも叫んで走りだしそうなほどに動揺していたが、ハンナヴァルド子爵令嬢システィナはそんなことはしない。無礼なことを口走ったライナルトに対しての不快感をあらわにするだけだ。


「言葉の意味が分からないほどに頭の悪い令嬢ではないだろう? あなたが理解したままの意味だ」


 完璧な化粧を施したシスティナの眼光は、普通の人ならば震えあがるほどに鋭いのだが、ライナルトは一切ひるむことなく涼しい顔で嘲笑するように口元を歪めた。


「だが、もう一度言えとおっしゃるのなら言いましょう。俺との婚約を破棄していただきたい」


 ライナルトは一言一句先ほどと同じことを繰り返すと、ティーカップに指を絡めて口元に持っていった。

 上下に動く喉を見つめ、システィナも同じように紅茶を一口飲むと長い髪を背に払った。

 先日取り寄せたばかりのシャンプーの香りが辺りに広がり、そばに控えていたメイドたちがうっとりとした顔で目を細める。幾重にも重なった花の香りは深みがあって高級感があるのだが、ライナルトの好みとは違っていたようで不快そうに眉をひそめた。


「他のご令嬢に心変わりでもなさったのですか?」

「いや、そうではない」

「それならば何故と問うても?」

「理由を言わねばなりませんか?」

「当然でしょう? わたくしの記憶では、この婚約はヒューゲル伯爵直々に申し込まれたものです。それをあなたの独断で破棄できるとでも? ……それとも、伯爵も婚約破棄に同意していると解釈してよろしいのですか?」


 それまでは余裕のあったライナルトの表情が苦々しげに歪む。どうやらシスティナの読み通り、彼は父親の同意を得ないまま婚約を破棄しようとしているらしい。


「お顔を見るに、伯爵は今回のことをご存じないようですね。当り前ですわよね、伯爵が持ち込んだ婚約を破棄するのですから、伯爵自身が申し入れるのが筋ですものね。もしくは、伯爵直筆の委任状を持たせるはずですわよね。……それとも、ハンナヴァルド子爵家などに礼を尽くすのは伯爵家の名折れとでも思っていらっしゃるのかしら? まあ、なんて不遜な! さすがはヒューゲル家ですわ!」


 システィナの高笑いが茶室に響く。ライナルトは次々と言葉を投げつけてくるシスティナに気圧されたような表情をしていたが、笑い声を聞いているうちに正気に戻ったのか険しい顔で睨みつけた。


「そうではない」

「では、どうというのでしょうか?」


 ライナルトが言葉に詰まり視線をそらしたのを、システィナは見逃さなかった。


「今、伯爵自身が十年前に申し込んだ婚約を、伯爵の承諾もなしにライナルト様が破棄しようとなさっていますわよね。しかも、理由もなしに。他のご令嬢に心変わりをされたのではないのなら、理由は何ですの? わたくしは、婚約破棄を言い渡されるような覚えはありませんわ」


 グっと奥歯をかみしめたライナルトが、手元のカップに視線を落とす。一生懸命何かを考えている様子だったが、暫くするとふっと肩の力を抜いて微笑んだ。


「もうやめにしませんか、システィナ。俺たちは、互いに愛し合ってなどいない。この婚約に、何の意味もないはずだ」

「何の意味もないですって? 失礼ですが、ライナルト様にとっては無意味な婚約でも、ハンナヴァルド子爵家にとっては意味のあるものです。あなたの胸三寸で破棄されて、はいそうですかと承諾できるわけがありませんわ」

「しかし、それは所詮ハンナヴァルド子爵家の問題であって、システィナには何の……」

「わたくしは、ハンナヴァルド子爵家の娘です! ハンナヴァルド家の問題は、わたくしにとっても問題なのです。あなたがこの婚約を破棄したいと思うのは勝手ですが、それならば正式な手続きを踏んでくださいと申し上げているのです!」


 ぴしゃりと叩きつけるようなシスティナの言葉に、ライナルトが深いため息をつく。それ以上何も言えずにいる彼の様子に、システィナは立ち上がるとメイドに目を向けた。


「さあ、お客様のお帰りよ。丁重に送って差し上げて」

「まだ話は終わってない!」

「これ以上何のお話をするつもりなのです? ライナルト様が話さなければならないのは、わたくしではなくヒューゲル伯爵でしょう? 親子で十分話し合って、その結果を後日お伝えください」


 これ以上は何を言っても取り合ってもらえないと悟ったライナルトが、緩慢な動きで席を立つ。メイドが素早くライナルトの前に立ち、お帰りはこちらですとばかりに優雅な足取りで先導した。

 茶室を出る直前、ライナルトはシスティナを振り返ると呟いた。


「システィナは、俺を愛しているわけではない。そうだろう?」


 普段とは違う寂しげな横顔に、一瞬だけ素のシスティナが顔をのぞかせそうになるが、ひと呼吸のうちに心を整えると、ハンナヴァルド子爵令嬢システィナの顔で不敵に微笑んだ。


「もちろん、愛していますよ。ライナルト様はわたくしの婚約者なのですから」


 扉の向こうに消える寸前、ライナルトが今にも泣き出しそうな表情を浮かべたのが見えた。

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