第2話

「お客様がお帰りになりました」


 小走りで入室してきたメイドがそう告げ、ピリリと引き締まっていた食堂内の空気が一気に弛緩する。

 伸ばしていた背筋を丸め、深いため息をつきながらテーブルに突っ伏す。目の前には半分ほど残ったステーキの皿が置かれているが、すでに冷え切ってしまっていた。


「はあああー、久しぶりに冷や汗が出ました。心臓が口から飛び出るかと思いましたわ」


 先ほどまでの冷淡な表情を崩したオフィーリアが、情けない声でそう呟くとシスティナと同じようにテーブルに突っ伏した。顔立ち自体は変わっていないにも関わらず、あの背筋が凍るような毒々しさはどこにもない。


「オフィーリアと同じく。危うく心臓が止まりかけたよ」


 ハルバードがオフィーリア以上に情けない声でそう言いながら、同じようにテーブルに突っ伏す。ライナルトがいたときにまとっていた威厳は、もうどこにもない。ショボリと崩れた表情は、幼い少年のようでもあった。


「僕なんて、心臓が口から飛び出しましたよ。なんならもう、このステーキが僕の心臓なんじゃないかと思うくらいですから」


 訳の分からないことを呟きながら、ロンバードが残っていたステーキをフォークでつつく。そのままフォークをさし、テーブルにだらりともたれかかったまま口に入れた。


「あっ、お兄様が自分の心臓食べてますわ! 食人鬼ですわ」

「残念、これは僕の心臓であって牛の心臓でもあるんですー」

「すみませんロンバード様、そちら牛のお尻のお肉になっております」


 低レベルな兄妹の言い争いを遮るようにメイドが口をはさむが、オフィーリアにさらなる口撃の材料を渡しただけだった。


「やーい、お兄様の心臓牛のお尻―」

「おやめなさいオフィーリア。ロンバードも、そんなだらしない格好で食事をしないの」


 ヘンリエッタが張りのある声で注意を促すが、彼女もまたダラリとテーブルに突っ伏して指先でワインの入ったグラスを弄っていた。


「そういうお姉ちゃんだって、だらしない格好をしてるじゃない」


 ソフィアがすかさず突っ込みを入れる。ダラしなくテーブルの上に蕩けているハンナヴァルド子爵一家とは違い、妹夫婦は背もたれに体を預けてはいるものの、キチンと体を起こしていた。


「私は食事をしてないからセーフなのよ。それに、だらしない格好にもなるわよ。今晩はオフって決めてたのに、まさかライナルト君が来るなんて思わないじゃない。急にお仕事しなさいって言われると思わないじゃない!」

「まあ、それはそうなんだけど。でもお姉ちゃん、お化粧ちゃんとしてて良かったわね。危うくハルバードさんにまた浮気疑惑が持ち上がるところだったじゃない」

「今日はお昼に出かける用事があったからね。まあ別に、ハルバードの浮気疑惑くらい日常茶飯事だし、もはや話題にもならないでしょう」

「勘弁してくれよ……」


 ハルバードが心底困ったような顔で肩を落とすが、ヘンリエッタは気にすることなく「別に良いじゃない」と軽く言ってのけた。


「それにしても……久しぶりに素顔を見たけれど、システィナは私の若いころに本当にそっくりね。その控えめな目も、慎ましやかな鼻も、遠慮気味な唇も」


 ヘンリエッタが大きな瞳を見開きながらシスティナの顔を見上げた。


 クッキリとした二重のラインに、重たげに揺れる長いまつげはクルンとしたカーブを描いている。ややツリ気味の目じりはシャープで、高く尖った鼻の下には、ぽってりとした厚みを持った真っ赤な唇が並んでいる。ヘンリエッタは、魔女のごとき美しさを誇っていた。しかしその一方で、システィナは素朴な町娘と言ったパッとしない顔立ちをしていた。


 親子関係があるようには思えないほど対称的な容姿をした二人だったが、ヘンリエッタのメイクさえはがしてしまえば、システィナを少し成長させた顔が出てくる。

 ヘンリエッタの美貌は、毎朝一時間はかかる特殊なメイクによって作られたものだった。


「ヘンリエッタ様もシスティナ様も、お化粧が良く映えるお顔立ちですから」


 メイド服を着た若い女性が、控えめに言葉を差し込む。そばかすがたくさん浮いた肌に、全てのパーツが小さ目な顔は野暮ったく、どこか垢ぬけない印象を受けるが、彼女シアこそがヘンリエッタの美貌を作り出している化粧師だった。

 そして、本来であればシスティナも彼女の魔法のような化粧術によってオフィーリアと同じくらいの美貌を誇る令嬢になっているはずなのだが、今日は完全にオフだったため油断していたのだ。


「お化粧が映えるって、誉め言葉じゃないよシアー! お化粧が映えちゃうくらい元が真っ新って意味じゃんそれー!」


 システィナが勢いよく起き上がり、バタバタと両足を動かしながら恨めし気にシアを見上げた。次にオフィーリアを、最後にロンバードを睨みつける。


「良いよね、お姉ちゃんとお兄ちゃんは元から美形だからお化粧なんてしなくても良くて。ズルいと思うの!」

「ママもそう思うわ! 何もしなくても上向きにカールするまつげ、クッキリはっきりした目、元から血色の良い桜色の頬と唇! ズルいわ! パパの血が心底恨めしい!」


 ズルいズルいと合唱する母娘をなだめるように、ハルバードが両手を前に差し出す。


「で、でもパパはママの顔もシスティナの顔も好きだけどね。素朴で可愛らしくて」

「うるさい!」


 母娘が全く同じタイミングで一喝し、ハルバードがシュンと肩を落とした。

 今まで何度も繰り返されてきたこの手の母娘VS父の対立に、口をはさんだところで良いことはないと知っているオフィーリアとロンバードが明後日のほうへ視線を向ける。下手に口を出してしまえば、母娘の矛先がこちらに向く可能性がある。


 ソフィアも夫婦喧嘩と親子喧嘩には関与しない意思を示しており、バーレントも高貴な方々の争いには加わらない姿勢を貫いている。

 メイドたちも当然のように介入することはせず、結果としてハルバードただ一人が母娘の「ズルい」の合唱を受け止めることになっていた。

 暫くはヘンリエッタと共にズルいズルいと言い続けていたシスティナだったが、ふと我に返ると盛大なため息をついて再びテーブルに体を預けた。


「ああぁー……なんで今日に限ってお化粧してなかったのかしら」

「それはシスティナ様が、お肌の調子を気にされたからですよ」

「だぁって、シアが昨日の夜、おでこのところに小さなニキビができてますよなんて言うから! 一日くらいお肌を休ませないとダメかなって思って」


 額にできかけていた小さなニキビのことを思い出し、システィナは指先で確認した。朝方まではプツリとした感触があったそこは、今ではツルンとしている。

 たっぷりの薬草入りの塗り薬を使い、一日だけ化粧の重圧から解放したことによってあれ以上大きくならずに治ってしまったようだ。


 ニキビが治ったのは嬉しいが、ライナルトに素顔を見られてややこしいことになったという現実を思い出して気が滅入る。


「それにしても、ライナルト様は今日はどんな用があって来たのかしら? システィナに用があったわけではないのよね?」


 オフィーリアの問いに、大きく頷く。今日はライナルトとは何の約束もしていなかった。

 ライナルトは基本的にキチンとしているため、システィナと会う日は事前に決められている。何の連絡も入れずに訪れることなど、前代未聞だった。だからこそ、システィナは気を抜いていたのだが。


「大体、お前ともまた会うだろうなってどういう意味なのよー! 私には会う理由なんてないんですけど? ……そう言えば、マキナちゃんは今どうしてるの?」


 ソフィアが咄嗟に出した「マキナ」は実在する人物だった。ソフィアとバーレントの一人娘で、システィナたちの従姉妹にあたる少女だ。


「さあ? あの子のことだから、どこかで元気にやっているとは思うのだけれど」

「さあってソフィア叔母様、そんな適当な……」

「だって仕方がないでしょう、マキナはああいう子なんだから」


 システィナと同い年のマキナは、背格好や顔立ちはシスティナにそっくりだったが、性格は全く違っていた。良く言えば活発で明るく、悪く言えば無鉄砲でお転婆だった。

 同じ年頃の少女たちとお人形遊びや本を読むことを好まず、少年たちに混じって冒険ごっこや騎士ごっこをするのが好きだった。運動神経が抜群で、どこからか会得してきた剣の腕はそこらの騎士よりも高かった。


 そんな彼女は三年ほど前、勇者になると言って唐突に家を飛び出して行った。

 時折手紙が届いているため、元気で過ごしているのだと分かるのだが、具体的に今どこで何をしているのかまでは分からない。

 マキナが家を出てから一年ほどは、ソフィアもバーレントも四方八方手を尽くして彼女の居所を探ろうとしていたようだが、目撃情報があった街に行ってもすでに発った後ということが続いた。しかも、行く先々で華麗なるマキナの武勇伝を聞くものだから、もうあの子は一人でも大丈夫だろうと諦めてしまったようだ。


「元気でやってるならもう、それで良いのよ。季節ごとにちゃんと手紙はよこしてくれるし、あれでいてシッカリした子だから、何かあったら帰ってくるでしょう。だから、ライナルト様から何か言われても適当に誤魔化すわよ」


 ソフィアはそう軽く言って笑っていたが、システィナは今回のことが後々面倒くさい事態になるような気がしてならなかった。

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