戦国のリアル二刀流⚔大谷吉継

鷹山トシキ

第1話

 永禄2年(1559年)に近江国(滋賀県)で生まれたとされてきたが、現在は6年後の永禄8年(1565年)を生年とする説が有力となりつつあり、その場合は享年も従来の42歳から36歳と改められることになる。


 従来の説では父は大友氏の家臣・大谷盛治とされ、父が病気治療のために豊後国に赴いてそのまま一時期、大友氏の家臣になっていた折に生まれたという説があった。だが、当時の大友家中に平姓大谷氏は存在せず、六角氏の旧臣・大谷吉房とする説が有力である。


『華頂要略』の坊官大谷家系図に吉継の名があること、本願寺坊官・下間頼亮室が妹であることなどから、青蓮院門跡坊官・大谷泰珍の子という説もある。


 母が大政所ないし高台院の縁故者であったことは、すでに作者不詳の『校合雑記』に記載があった が、『校交雑記』が引く『兼見卿記』の確認作業により、吉継の母は高台院の取次役であった東殿であることが確定した。 また『関原軍記大成』では東殿が高台院の生母の朝日殿の親族であったとも語られている。天正14年(1586年)4月6日、大坂城へ伺候した豊後国の大友義鎮が国元の家老へ送った書状に孝蔵主とともにあえて東殿と名指しでその存在を伝えており、すなわち秀吉のくつろぐ奥御殿の次ぎの間に東殿が控えており、かなりの政治力を有していたことがうかがえ、豊臣家中で重責を担っていたといえる。


 兄弟姉妹が存在し、栗山林斉と祐玄(祐玄坊とも)の2人の甥が記録に見える。

天正始め頃に秀吉の小姓となった。天正5年(1577年)10月に秀吉が織田信長から播磨国攻略を命令されて姫路城を本拠地としたとき、脇坂安治や一柳直末、福島正則、加藤清正、仙石秀久らと共に秀吉御馬廻り衆の1人として大谷平馬の名前が見える。天正6年(1578年)5月4日に尼子勝久が上月城において毛利輝元の軍勢に包囲されたとき、秀吉は尼子軍を救援するために出陣したが、このときに吉継も従軍している。


 その後の三木城攻めには馬廻として従軍し、10月15日に平井山で開かれた秀吉陣中での宴にも大谷平馬として名を連ねている。このときの禄は150石とも250石であったともいうが定かでない。


 天正10年(1582年)4月27日、秀吉は毛利方の清水宗治が立て籠もる備中高松城を攻めた。このときも吉継は秀吉の馬廻りとして従軍している。しかし、ここまでの逸話の中で『武功夜話』が根拠となっている逸話については偽書説があるために信憑性について問題がある。


 その2ヵ月後の6月2日に織田信長が本能寺の変で横死した。秀吉は6月13日に信長を殺した明智光秀を討ち、6月27日の清洲会議で織田氏の主導権を獲得して台頭してゆく。


 秀吉と織田家重臣である柴田勝家の対立は決定的となり、吉継はこの時期の秀吉の美濃国侵攻にも馬廻衆として従軍した。そして天正11年(1583年)に賤ヶ岳の戦いが起こった。この時、吉継は長浜城主・柴田勝豊を調略して内応させた。


 天正13年(1585年)、紀州征伐においては増田長盛と共に2,000の兵を率いて従軍し、最後まで抵抗を続ける紀州勢の杉本荒法師を槍で一突きにして討ち取った武功が『根来寺焼討太田責細記』に記されている。秀吉が伊勢長島城に移った織田信雄を祝いに赴いた際にも同行している。文書の発給もこの頃から見え、称名寺へ寺領安堵状を「大谷紀之介」の名で発給している。


 また7月以前に、キリスト教に改宗していたとされ、宣教師ガスパル・コエリョが秀吉を訪問した時には、安威了佐(あい りょうさ)と共にコエリョへ果物と干柿を持参している。


 同年7月11日、秀吉は近衛前久の猶子となって従一位・関白に叙任したが、このとき諸大夫12名を置き、吉継は従五位下刑部少輔に叙任される。これにより「大谷刑部」と呼ばれるようになる。この頃から、本来違い鷹の羽であった家紋を対い蝶に変更したという。9月には秀吉の有馬温泉湯治に石田三成ら他の近臣と共に同行している(『宇野主水日記』)。


 天正14年(1586年)の九州征伐では、兵站奉行・石田三成の下、功績を立てた。同年、三成が堺奉行に任じられると、その配下として実務を担当した。毛利輝元の著した『輝元上洛日記』には天正16年(1588年)に輝元が上洛した際、世話になったり挨拶周りをした豊臣家や諸大名の名とそれぞれへの献上品が細かく記されており、下巻に大谷の名も見える。この時点で奉行格に列していたことが分かる。


 天正17年(1589年)に越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となる。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀市結城町、三島町)を改修したと伝わるが、吉継の前に豊臣秀勝が城主になっており、天守は秀勝時代に完成していた説もある。笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めた。


 天正18年(1590年)の小田原征伐にも従軍し、続いて奥州仕置にも従軍し出羽国の検地を担当した。この時、蠣崎慶広と面会し、独立の承認と豊臣政権への臣従について助力を依頼されている。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生したが、上杉景勝の支援を要請し鎮圧した。帰還後、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6,944石を加増され、このころにいわゆる「敦賀5万石」を領することとなる[注釈 13]。


 文禄元年(1592年)から始まる秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)では船奉行・軍監として船舶の調達、物資輸送の手配などを務めてその手腕を発揮し、勲功を立てている。同年6月には秀吉の命令で奉行衆の一人として長谷川秀一・前野長康・木村重茲・加藤光泰・石田三成・増田長盛らと共に渡海し、特に大谷・石田・増田の三人は秀吉の指令を受けて朝鮮諸将の指導にあたると共に現地報告を取り纏めた。明との和平交渉でも、明使(謝用梓・徐一貫)を伴って石田・増田と共に一時帰国し、文禄2年(1593年)5月23日に名護屋城で秀吉と明使との面会を果たした。その後、再度朝鮮へ渡海したが、6月に晋州城攻防戦で晋州城を攻略すると戦局は和平交渉により停滞し、閏9月上旬には帰国した。最終的に決裂した和平では、明国の秀吉冊封に際し、吉継は石田三成、小西行長、宇喜多秀家、増田長盛とともに大都督の官位を受けることになっていた。


 文禄2年の朝鮮からの帰還に際し、9月吉日付けでに大宰府天満宮に一対の鶴亀文懸鏡を奉納しており、この鏡は現存している。一つの銘には吉継の名が、もう一方の銘には「東・小石・徳・小屋」という4人の女性名が列挙されている。この東は吉継の母親の東殿であり、小石・徳・小屋については諸説あるが、吉継の家族であろうと考えられる[27]。小石・徳・小屋は吉継の妹と考えられる。


文禄3年(1594年)には草津に湯治に赴いており、直江兼続に宛てて「眼相煩い候間、慮外ながら印判にて申し上げ候」との書状を送っている。慶長2年(1597年)9月24日、秀吉は徳川家康・富田知信・織田有楽斎らを伴い、伏見の大谷邸に訪問した。吉継は豪勢な饗宴で出迎えた[28]。慶長3年(1598年)6月16日の豊臣秀頼の中納言叙任の祝いには病をおして参列し、秀吉から菓子を賜った[29]。慶長4年(1599年)には神龍院梵舜と女能を見物しており、病状の好転がうかがえる。


 慶長4年(1599年)、家康と前田利家の仲が険悪となり徳川邸襲撃の風聞が立った際には、福島正則ら豊臣氏の武断派諸将らと共に徳川邸に参じ家康を警護している。その後、前田利長らによる「家康暗殺計画」の噂による混乱の際は、家康の命令で失脚していた石田三成の内衆と共に越前表に出兵している。


 慶長5年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑があると主張して上方の兵を率い上杉討伐軍を起こした。家康とも懇意であった吉継は、所領地である敦賀・自らが代官を務める蔵入地から兵を募り、3,000の兵を率いて討伐軍に参加するべく領国を立ち、途中で石田三成の居城である佐和山城へと立ち寄る。吉継は三成と家康を仲直りさせるために三成の嫡男・石田重家を自らの軍中に従軍させようとしたが、そこで親友の三成から家康に対しての挙兵を持ちかけられる。これに対して吉継は、3度にわたって「無謀であり、三成に勝機なし」と説得するが、三成の固い決意を知り熱意にうたれると、敗戦を予測しながらも息子達と共に三成の下に馳せ参じ西軍に与した。8月5日付の三成の書状「備えの人数書」によると、この後北国口の兵3万100の大将とされた。また大坂にいた真田昌幸の正室を預かるなど、西軍の一員としての行動を開始する。大谷氏は一族挙げて西軍につき、吉継の母・東殿は高台院の代理として宇喜多秀家が行った出陣式に出席している。

 

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戦国のリアル二刀流⚔大谷吉継 鷹山トシキ @1982

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