49 歩行と木登

 この日の畑仕事一通りを終え、遠く周囲を見回す。

 子どもたちの喚声は西側、疎らな木立のある空いた草地の方から聞こえていた。小さないくつかの人型が、ぱたぱたと駆け回っているようだ。

 傍らに鎌を置き、腰に大剣を差してライナルトはそちらへ歩き出した。

 いつもの子どもたち五人が駆け回り、統率をしているコンラートとツァーラが大きな木の下で顔を見合わせている。

 子どもたちを一通り見回し、ライナルトは年長二人に声をかけた。


「どうした、お前ら」

「あ、おっちゃん」

「それが、その――」

「イェッタがどう――」


 問いを続けようとしたとき。

「オータ!」と声がかかった。

 慌てて見回すと。


「ウヒャオーー!」

「うわあ!」


 甲高い声とともに、天から子どもが降ってきた。

 慌てて仰け反り、両手を前に揃える。

 あやまたず、小さな身体がぽすんとその手に収まった。

 軽く弾み、尻の座りを落ち着けて、その細い両腕が首に回されてくる。


「わーーい、オータ」

「お、イェッタ、お前――」

「オータ、オータだ」

「お前、何やってるんだ」

「え?」


 見上げると、大きな木が緑の葉を湛えた枝を広げている。

 愛娘はどうも、その枝まで登って飛び降りてきたらしい。


「あんなところから飛び降りてきたのか? 危ないじゃないか」

「え、あぶなくないよ」

「危なくないわけないだろう」

「オータの上におちるんなら、うけとめてくれるから、ぜったいあぶなくない」

「いや、そりゃそうだが……」


 そういう言い方をするなら、そうかもしれない。

 娘が落ちてきていることを認識さえすれば、ライナルトは何があっても安全に受け止める。

 その意味では、その辺の道を歩いているより危険がないと言えるかもしれない。

 しかし、そういう問題じゃないだろう。

 叱責の言葉を探していると、「キャハー」とイェッタはご機嫌で父の首元に抱きついていた。

 横を見ると、コンラートとツァーラが項垂れたような様子になっていた。


「ごめんよ、おっちゃん」

「注意してみていたのにさあ、あんなあっという間に登っていっちゃうなんて思わなかったよお」


 二人の話では。

 六人の子どもを草原で遊ばせて、二人は少し離れて見ていた。

 そのうちイェッタが木の幹に手をかけたかと思うと、いきなりするすると登っていってしまったという。

 慌てて制止したが、止まらない。あっという間に大人の背よりずっと高いやや太い枝の中途まで伝い登ってしまった。

 コンラートやツァーラが登って跡を追うこともできるだろうが、その枝は年長の子の体重を支えるには心許なく見える。捕まえようと手を伸ばして枝が折れ、一緒に転落することになったら大惨事だ。

 イェッタにはそのまま動かないように呼びかけて、どうしようか話し合っていたという。

 聞いて、ライナルトは大きな溜息をついていた。


「そりゃあ、済まん。面倒をかけた」

「びっくりしたよお。まさかイェッタちゃん、こんな木に登れるなんて思わなかったもの」

「二歳児でこんな、木登りなんてできるんだなあ」

「いやそれ、俺も知らなかった」


 数えて二歳を過ぎたばかり、歩けるようになってからでも一年と少し程度なのだ。まさかこんな大きな木を登れるとは、想像したこともなかった。

 父の胸元にぐしぐし擦りつけている娘の顔を、改めて見直してしまう。


「お前、いつの間に木登りなんてできるようになったんだ」

「さっき。のぼれそうな気がしてやってみたら、できた」

「マジかよ」


 思わず目を丸くして。

 傍らの少年少女と顔を見合わせてしまう。

 ほえーー、と息をついて、ツァーラは首を傾げた。


「もしかして、いつもおっちゃんの背中によじ登って鍛えているから?」

「そんなもんかなあ」

「イェッタちゃんってまだ身体は小さいけど、わりと腕力とか握力とか強い方って感じするんだよねえ」

「そうなのか」


 分かったような分からないような、とライナルトは首を振る。

 そうしてから、腕の中の娘に目を落とした。


「それにしてもお前おおかた、あそこまで登って前にも後ろにも進めなくなっていたんだろう」

「う……」ちろと持ち上がった目が、すぐに落ちた。「……なんでわかるの」

「ありがちなんだよ、初めて木登りした奴には」

「うう……」

「これからこうして遊ぶときは、絶対コンラートやツァーラの手の届かないところに行くな。約束できなきゃ、遊びに行かせないぞ」

「うう……わかった」


 軽く口を尖らせて、肩に額を擦りつけてくる。

 不満は残しながらも、一応納得したしるしだ。

 一つ揺すり上げて、ライナルトは傍らの二人にも確認した。


「お前らも遠慮しないで、こいつ叱ってくれな。言うこと聞かなけりゃ、ゲンコツ落としてもいいから」

「おお」

「分かったあ」

「まあ、みんなのために進んで子どもたちの面倒見てくれているお前らに、無理を言う気はないけどな」


 そんなことを話しているうち、ライナルトの腕にかかる重みが増して感じられてきた。

 見ると娘は目を閉じ、小さく口を開いてくうくうと息を立てている。


「あれえイェッタちゃん、眠っちゃったねえ」

「そうみたいだな」


 もう一度軽く揺すり上げ、抱き姿勢を落ち着けて。

 二人に向けて、空いた手を持ち上げた。


「じゃあこいつ、連れて帰るわ。他の子たちのこと、よろしく頼むな」

「おお」

「任せてえ」


 少し離れて、ホルガーを先頭に小さな子どもたちはまだ元気よく駆け回っている。

 それらを見回して、ゆっくりライナルトは家へ向けて歩き出した。

 途中畑で道具類を拾って、家々の並びに入る。

 自宅の寝台に下ろすと、娘はそのまま仰向けで寝息を続けていた。

 軽く握った拳を両横に伸ばし、緩く曲げた両脚を大きく開き。おおよそ、女の子の寝相ではない。

 薄い布を腹にかけてやって、ライナルトは苦笑した。

 女の子らしくないなどと言っても、現状今さらとしか思えない。

 そもそも服装からして近所の男児のお下がりで、ホルガーたちを追いかけて野原を駆け回る毎日なのだ。


 父娘でこの村に来て、二度目の夏が過ぎようとしている。

 前年の春から夏にかけてイェッタは立つことを覚え、すぐにとことこ歩き回るようになった。

 ふつうの子どもより思考力があり、慎重さや親の言うことを聞く耳がある――のではないかと期待していたのだが、買い被りであることがすぐに分かった。

 あれよあれよという間にその足どりはしっかりしてきて、夏場に外で走り回る子どもたちに向けてばたばた駆け寄っていこうとし始める。その猪突ぶりは、へたするとそこらの男の子さえ凌駕していたかもしれない。

 とは言えさすがに、裸足で外に出す気にはなれない。急ぎヨッヘムに、野兎革で靴を仕上げてもらった。

 新しい靴を履くや、イェッタは勢いよく仲間たちを追って駆け出していった。

 しっかりしてきたとはいってもまだ覚束さの残る足どりで、何度も草むらで前のめりに転んだりしている。しかし別に泣き出すこともなく、すぐ起き上がって仲間を追っていく。

 ロミルダたちに頼んで少し大きな男子のお下がりをもらい、特にズボンの膝部分を補強してもらった。これで手足の生傷も、少しは抑えられるだろう、と。

 本人たちはそんなこともたいして気にせず、元気いっぱい走り回っている。



    ***


 長らくお待たせいたしました。

 投稿を再開させていただきます。

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