29 現出してみよう
身体を動かしたことで気が紛れて、父が怪我をして帰ってきたということへの恐慌が少しは和らいできたみたいだ。
湯を沸かして盥に用意を終えた父に抱き上げられ、いつもの入浴の世話を受けるときには、ご機嫌と言ってもいい気分になっていた。
それでも常とは違い、背中を支えようとする父の左手に負担をかけないように、脊髄を直立させるべく努める。
とにかく何をどう頑張ろうとも生後約十ヶ月の身、誰かの手を借りなければ生活が成り立たないわけで、できるのはせいぜいよけいな手間を減らすことくらいだ。
湯に浸した布で柔らかく撫で拭われて、思わずきゃきゃと満足声が口をついて出た。
そうしていると、傍らの戸板がトントンと叩かれた。
「おや、イェッタちゃん、ご機嫌だねえ」
「きゃうう」
「さっきまでは落ち着かず緊張していたみたいにも見えたんだが、ようやくいつもに戻ってきたみたいだ」
戸口に入ってきたロミルダの声かけに、父はそちらを向かず答えた。
娘の目尻を拭う繊細な作業に、気が抜けないんだ。
「見に来て上げるって言ったのに、遅くなってごめんよ。ヨーナスがぐずっちゃってさ。何か不自由していないかい」
「気にしなくてもいいさ。不自由なのは利き腕じゃない方だからな、何とかなっている」
「そこは不幸中の幸いってやつだったよね。それでも片手じゃやりにくいことがあるだろう」
「左手は支える方になるわけだが、こいつがいつになく大人しくしてくれるんで、何とかできているな」
「はあ、そりゃお父さんのことを思って大人しくしてくれてるんかねえ。親孝行な子だねえ、イェッタちゃんは」
「ここまでやってみて、意外なところで苦労したのが、ヤギの乳搾りだったな。もともとあまり慣れていない手順で、いきなり片手でやるのに要領が掴みにくいって言うか」
「ああ、なるほどねえ」
ところで、ヨーナスというのは初めて聞いた名前という気がするけど。まちがいのないところで、ホルガーの弟、あのようやく赤ちゃんという身分を脱するかという小さな子のことだろう。
なお、あたしが日頃使っている赤ちゃん装備、産着なども中性から男の子めいたものに見えるのが多いのだけど、そのヨーナスのお下がりを結構回してもらっているんじゃないか、と想像される。
ちゃぽん、と盥から抱き上げられたところで、ロミルダが乾いた布を頭から被せて拭ってくれた。この作業は確かに、父の片手だとうまくできないかもしれないところだ。
「ほらほら、綺麗になったよ。イェッタちゃんは器量好しだよねえ」
「きゃわあ」
「いい子だねえ、ほらほら」
馴れた手つきで、夜着を着せてくれる。
ほかほか温まって、あたしは一度女性の柔らかな膝上に落ち着いた。
「ああ、あれから少し話し合ってね。明日から朝の水汲みに、コンラートが手伝いに来ることになったよ」
「それは助かる。しかし、一度の量を減らして運ぶ回数を増やせば、何とか一人でできると思うぞ」
「そんなことを言い出すんじゃないかと思ったんでね、みんなに声をかけて一回り小さな桶を集めておいたよ。コンラートと半分こして一緒に運ぶといいさ。あの子もあんたの役に立ちたがっているんだから、手伝わしてやんなさい」
「はは、分かったよ。ありがとうな」
「あと、明日はあたしがパンを持ってきてあげるから、あんたはできるだけ大人しくしてなさい」
「ああ分かった、頼む」
どうも、毎食父がスープにつけてもそもそ食べている硬そうなパンは、村長の家で焼いたものを分けてもらっているらしい。
そんな打ち合わせをして、ロミルダは帰っていった。
敷物が大きくなったので父は床に胡座をかき、あたしもその隣に座る。まだいつもの寝る時間には早いようで、目はぱっちりだ。
ということでごそごそと、はいはい練習の続き。大きな敷物の半分程度の広さを一回りしてみた。
土間が近くなったところで、別の用向きを思い出す。よっこら、とお座り姿勢を落ち着けて。
「み、じゅ、いい?」
「ん、何だ? ああ、水魔法か。そっちの土に向けてなら、出してもいいぞ」
「うん」
ふわあ、と右手を水平近く上げる。
念じると、指先に水の球が膨らんだ。
まだ、落ち着いて何処まで大きくできるか試したことがない。慎重に、球を落とさないように膨らませてみる。
それこそ大人の拳くらいまで大きくなって、これが限界と感じられた。
それでは、と手を横に振って飛ばそうと念じる。
ふら、と指先を離れ、水の球はすぐ前の土の上に落下した。
ほとんど、飛んだ気はしない。
「ううーー」
「おお、凄いぞ、大きく水を出せたじゃないか」
「しゅごい?」
「おお。まず大きく出せるかがたいへんなんだ。飛ばせるかどうかは、それからの練習次第だ」
「ふうん」
そう言えばさっき、コンラートがホルガーに同じようなことを言っていた。この世の常識、ということでいいのだろうか。
それからも、限界まで水球を大きくする、少し離れたところに水球を生み出す、といったことを何度か試してみた。
離れたところに出現、という意味では、ぎりぎり入口扉の近くまで遠ざけることができた。父の歩幅で二歩の距離、といったところか。
何となくの感覚でもっと遠くまで大丈夫という気はするけど、感触として閉じられた戸の向こうに出すことはできなかった。
「そんな離れたところにも出せるのか。イェッタは、呑み込みが早いな」
「わうわう」
威張り、とばかりに、胸を張ってみせる。
こちらを見守って、父もにこにこと嬉しそうだ。
「オータ、ひ」
「ん、何だ」
戸口の方を指さすと、父は首を傾げた。
少し考えて、頷く。
「火の魔法、出せるかってか?」
「うん」
「ここから戸の近くなら、出せるぞ」
軽く手を上げて、差し伸べる。
土間の上、戸口の手前に、ぽっと火が点って落ちた。
「わあ」
「出すだけなら、もっと離れてもできる。そうだな、二十ガターくらい、この家の奥行の四つか五つ分くらいは大丈夫だな」
「へええ」
考えてみると、竈に火を点ける作業では離れてできていたんだ。
しかし、二十ガター――家の五つ分――というと、けっこうな距離だ。
指先に出したものを飛ばすのも、それくらいの距離は見込めるということだったか。
まあたぶん、攻撃に使うには火を飛ばしてぶつけた方が効果がある、ということなんだろうと思う。
水魔法も、同じようなものなんだろうか。
これもたぶん、水ならさらに、攻撃の際には飛ばさなければ効き目がないのだろうけど。
思いながら。
それからしばらく、水を膨らませたり、形を変えられないか試したり、遠くに出現させたり、してみた。
形は、球形を多少潰すくらいなら、できるみたいだ。これも訓練次第なのかもしれない。
離れての出現は、かなりピンポイントに狙いを絞ることができる。
この日だけで、魔法についてはけっこうな進歩を遂げた、という気がする。
いろいろ試すうち、いつの間にかことりと意識がなくなっていたようだ。
――お休みなさい。
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