16 発声してみよう 2

 お乳を飲ませてもらったり、おむつを替えてもらったり。取り替えてもらって新しい木の玩具を握ったり転がしたり。

 そんなことの間に周囲の会話を聞きとって、それなりに意味がとれるようになってきた。

 どう考えても理解が早すぎる気がするのだけど、どうもあたしの頭は他に比べて異常なくらいにできているのか、と思えてくる。

 そのうち、木板の窓の隙間から射す明るみが落ちてきたみたいだ。


「そろそろみんな、帰ってくるかねえ」

「そうさね、そんな頃合いだ」


 女の人二人が、頷き合っている。

 それから間もなくして、外から人声が聞こえてきた。いくつもの野太い、男たちの会話だ。


「帰ってきたねえ」

「そうみたいだねえ」

「父ちゃん、帰ってきた?」


 昨日も若い男に飛びついていた女の子二人と男の子一人、小さな三人がばたばたと出てくる。

 少し大きな男の子と五人の中でいちばん小さい男の子がロミルダの傍に寄っていることからすると、二人はこの人の息子なのだろう。

 そんなことを考えるうち、ドンドンと戸が叩かれた。

 板戸が開かれて。毛皮をまとった大きな髭男が慌ただしく入ってくる。見まちがえようもない、うちの父親だ。


「済まん。娘は無事か?」

「まあまあライナルトさん、お帰んなさい」


 声をかけるロミルダに見向きもせず、こちらへ殺到してくる。


――少し礼儀を欠いているんじゃないか?


 思いながらも、あたしは夢中で両手を伸ばした。


「わあ、おう――」


 荒々しく抱き上げられ、汗臭い胸元に顔を寄せる。

 そうしたお気に入りの状況を、存分に噛みしめながら。きょうは、目論んでいたことがあった。

 周りの会話から「父ちゃん」という単語を獲得したんだ。これで呼びかけてやれば、父は大いに喜ぶんじゃないか。

 少しでも呼びかけやりとりが成立すれば、意思の疎通もやりやすくなるんじゃないか、と。

 まだ口の回りは不十分だけど、正確な発音である必要もない。何処やらから降りてくる『知識』の中だと、後半の「ちゃん」だけでも十分通じる場合があるらしい。

 とりあえずできる限り口を動かして、発声を試みる。


「う――……オータ……」


 失敗、か。

「トータン」と言うはずの前も後ろも略になってしまって、これじゃ意味も通じない……。

 思って、いると。


「うおおーーー!」


 密着した髭男の口に、雄叫びが発せられた。

 両耳から頭の奥までつんざかれ、思わず両手で塞ぎたくなってしまう。

 今までになく力強く抱きしめられ、全身で半周りほど振り回される。


「聞いた、聞いたか? 今、俺を呼んだ!」

「まあまあ、ほんとだねえ」

「よかったねえ。お父ちゃんを呼んだんだねえ」


 何とか一応、目的は達成できたようだ。

 全力の抱擁が苦しいほどだし、運動後らしい汗の匂いがむせ返るけれど、不快に思うよりもあたしは満足を噛みしめていた。


「おーおー、オータ……」

「そうかそうか、父ちゃんが分かるか」


 乱暴に揺すられ、大きく上下し。

 改めて、強く抱きしめられ。額に髭をこすりつけられる。


「よしよし、それじゃ父ちゃんと家に帰ろうな」

「うーうー」


 首から下を毛皮でくるまれ、外に出た。

 それぞれ父親を呼んでいた子ども三人も、続けて出てくる。

 家の横には、異様なものが積まれていた。

 焦茶色の毛皮、大きな獣の死体だ。昨日の獲物より、二回り以上大きいんじゃないか。


「わあ、すげえ!」

「クマだあ!」

「父ちゃん、仕留めたんか、これ?」

「おうよ」


 ずっとうちに通ってきていた少し背の低い男が、笑って答えた。

 焦げ茶の毛皮をばんばん叩いて。


焦茶熊こげちゃぐまの大物だあ。みんなで仕留めたんだぞ。中でもこのライナルト小父ちゃんがその剣でとどめを刺したんさ」

「すげえ!」「すげえ、すげえ!」


 そのまま子どもたちは、獲物の周囲を踊り回っていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る