4 見回してみよう 2

 自分でも言葉にすると、変態じみて思えるけど。

 この家の、埃っぽいと言うかかび臭いと言うか、そんな匂い。髭男の汗っぽい体臭。それを感じているだけで、心底安心してしまうほどだ。

 ときどき何とも表現しようのない不快や不安に襲われて涙と声が止まらなくなっても、無骨な抱擁と慰め声に包まれるといつしか落ち着いてしまっているのが常だ。

 折りにつけ妙な『知識』が降りてくるにせよ、現在の自分の周りのことについては、何も分からない。

 何にせよとにかく当分のところは、この男の世話を受けなければ一日どころか半日程度も生き延びることはできそうにない、そんな身の上と思うしかない。


「ふにゃ……にゃ……」

「おお、××××――」


 やっぱり自分ではコントロールのしようもなく、情けない泣き声が口から零れた。

 すぐさま寄ってきた男が抱き上げ、軽く揺すりあやしてくれる。

 とにかく何もかも自分ではできず、不自由なばかりなんだけど。

 いちばんもどかしいのは、自分の意志を伝えられないことと、相手の言うことが分からない点だろう。


〈「前世の大人の意識を持って、赤ん坊として生まれました」で始まって、次のページでいきなり「それから五年経ちました」になる展開など、あり得ねえ。大人の頭を持っているなら、その五年でどれだけのことができるか。周りに耳を傾けて早々と言葉を覚え、次々情報を得ることができているはずじゃねえか。――などとよく思っていたが、ここでは難しいよなあ。まず、言葉というものがほとんどないときちゃ〉


 また、わけの分からないブツブツが聞こえる気がするけど。

 無視。

 でも、一点だけ同感だ。

 意思を伝え合うには言葉が必要なんだろうけど、この家にはそれがほぼない。

 何しろ、無骨で日頃から口数が少ないのだろうと容易に想像できるこの男は、一日中家にいてもほとんど言葉を発しないのだ。

 せいぜいあたしをあやすときに、「おお、××××――」なんていう短い発声をするくらい。こっちの名前を呼んでいるものやら、ただ「よしよし」みたいなことを言っているやら、「腹が減ったか?」程度の意味のある言葉なのやら、サンプルが少なすぎて判断のしようがない。

 男――では素っ気なさすぎるから、まあ「父」でいいか――この父は、ほぼ外出することもなくいつも傍にいてくれる。その代わりと言うか何と言うか、客が訪れるということもほぼない。あたしの意識がまだはっきりしない時期、ごくたまに一人二人、あったかなかったか、という怪しげな記憶程度だ。

 家の中に何か文字の書かれたものがあるでもなし、とにかく言葉の存在が希薄、としか言いようがない。

 せめて父の発声を鸚鵡返しするなり、何か身振りで意思を伝える試みをするなりくらいなら考えられるが。赤ん坊の口や手足は、そんな役にも立ってくれない。

 当分このまま様子見、しかしようがなさそうだ。


――まずは何とか周囲の状況を把握して、意思を伝える方法を獲得するべし。


 見回しても、古臭い家の中に、ほとんどものはない。

 あたしが寝かされている、かごのような寝台。

 少し離れた横手壁際に、絶えず火が点いている暖炉。

 家の中はほぼ一部屋だけのようで、縦横ともに父親の足ならばこの剥き出しの板床を五歩程度で横断できそうだ。

 暖炉とは逆側の横手奥は土間のようになっていて、中央付近に板戸が見える。おそらく外への出入口なのだろう。

 土間の左側は炊事場らしく、今は竈に火が点けられ鍋が一つ載せられている。横に置かれた大きなかめは、水を溜めているのだろう。

 そこまでは不思議もないけど。土間の右側には変わったものがいた。

 首を縄で結わえられた、動物だ。『知識』を探ると、どうもヤギに近いものらしい。縄で許された範囲をのんびり歩き回りながら、ときどき「ミエエーー」という間延びした鳴き声を立てている。

 室内の他の様子と同様、あたしとしても意識がはっきりする前からずっと耳にしてきたはずのもので、慣れてしまって今さら耳障りにもならない。もしかするとこれが聞こえなくなったら、寂しくて泣きそうになってしまうのかもしれない。

 そのヤギが飼われている理由も、すぐに理解できた。

 壷のような容器を持っていって、父がそのヤギの乳を搾る。

 竈に小さな鍋をかけて、乳を加熱する。

 時間をかけてそれを冷まし、あたしのもとへ持ってくるのだ。

 木の匙を使って、白い乳を口に運んでくれる。

 お世辞にも飲みやすいとは言えないけれど他にどうしようもない、舌を伸ばし唇をすぼめて、あたしは必死にそれを吸い上げる。

 ほのかに甘く、温かく胃に染み渡る。

 今のところこれが唯一の生きるかてのはずで、見た目やら何やら気にする余裕もない。文字通り命がけで吸い上げ、腹が満たされるまで口を開いてお代わり催促を続ける。

 満腹すると、口を閉じる。

 匙を置いた父がそっと抱き上げ、お尻を支えた姿勢で軽く背中を叩いてくれる。つぼにはまったところで、小さな口から「ゲップ」と息が漏れる。

 ここまでが一連の儀式、のようだ。

 一日数回、飽きることなくこれをくり返してくれているらしい。

 何と言うか、感謝、以外ない。

 そのまま父の肩に顔を寄せ、何とも落ち着く匂いに包まれて、あたしは眠りに落ちていく。


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