3 見回してみよう 1

 目が覚めたとき。

 何とも薄汚い、古い家だなあ、と思った。

 男が一人、動き回っている。

 図体は大きいけれど、顔の下半分を黒い髭に覆われて、尻が下がった細い目。一言で言って風采の上がらない、街中まちなかでも女の目は惹きそうにない、男だ。

 ――なんて、思ったりはしても。

 家中いえなかの様子も、男の顔形も、別に今初めて目にしたというわけじゃない。思い起こす限りずっと、むしろある程度意識が生まれて以来こればかりを目で見、追い続けてだけいるんだ。

 何せこちとら、自力で身を起こすことさえできない、赤ん坊なんだから。

 ずっと何とはなしに見てきた光景なんだけど、どういうわけかこの数日のうちに妙に頭の中が冴え渡って、いきなり今思ったような感慨が浮かぶようになった、というわけ。

 意味不明、だ。

 自分が赤ん坊であることに、疑問はない。今知った、というわけでさえなく、ずっと知っていたことを改めて認め直したという感じ。

 新しい知識を得ても、自分の身体の不自由さ、目の前にかざした手の小ささ、他に考えようもないものだ。

 何故に赤ん坊なんや? 赤ちゃんのくせに、何故こんな思考が浮かぶんや?

 そういう疑問はあるにせよ、何処からも答えは降ってきそうにない。

 自分の力で状況を改善したくても、


――むーー、ふんぬーー!


 いくら気張ってみようが、赤ちゃんボディに力は入らず、両手足がぱたぱた振れるだけ。今のところ、寝返り一つ打てそうにない。

 口も頬の筋肉も思うように動いてくれず、言葉らしきものを発するにほど遠い。ただ、意味にならない音声が漏れるばかり。


「わうわう、だーだー」


 ただただできるのは、見、聞き、考えることだけ、と諦めるしかないみたい。

 今分かっていること。

 あたしは赤ん坊。女の子で、おそらく生後半年前後というところ。

 記憶を辿れる範囲でずっと、この古い家の中に寝かされ、あの風采の上がらない男一人に世話を受けている。

 詰まるところ、きっと、おそらく、


――この男が、父親ということになるんだろうなあ。


 ここ数日で頭に漂い出した何か、『知識』みたいなものに照らして、そう思うしかない。


――どうも、母親というものはここにいないらしい。


 とまあ、何となく赤ん坊としてはあり得ない、と我ながら思ってしまう判断が頭に降りてくる。

 意味不明、だ。

 しかもこの『知識』と言うか何と言うか、降りてくるもの。どうも現在この身を置いている現実と、何処となくそぐわない、ずれているところがある気がする。

 さっきの、推定父親に対しての「風采が上がらない」「街中でも女の目は惹きそうにない」なんていうのも、何となくそうだし。

 それに続いて頭を掠める呟きみたいな、ブツブツみたいなのときたら、何とも判断のしようもない。


〈ブツブツ……女主人公の話なら、開巻間もなく絶対例外なくイケメンと出会って、やたら女々しい言葉とためらいないスキンシップをしかけられて、通称『溺愛』に到るものと相場が決まってるじゃないか。何だここの、イケメンとの乖離かいりは〉

〈……なおこの「女主人公」は、『ヒロイン』とルビを振ると意味が変わって、何故か主人公ではなくなる決まりだから、要注意だ〉


 ……などと。


――いやいやいや、意味分からんし。


 その辺は、相手にしないことにして。

 そんな、何処か現実とかけ離れたところがあるもの、と思うっきゃない。

 ところで。

 誤解しないでもらいたいのだけど(誰に言い訳している?)、あたしはこの家や推定父親を嫌悪しているわけじゃない。

 置かれた立場として、これらはこれと受け入れるしかないわけだし。

 と言うよりむしろ、愛着を感じてさえいるくらいだ。

 何しろ、記憶のある限りこれしか見ていないわけで。

 おそらく、この古い家以外の場所にいきなり移動させられたら、居心地の悪さに泣き出してしまうだろう。

 一応女性の側から眼福と感じるにはほど遠い(しつこい!)けれど、この髭男以外の者に手を触れられたら、恐怖でたちまち号泣してしまうだろう。

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