第一章 第九話

 廊下から細々と声が漏れ聞こえている。昨日地元へ戻ってきたばかりのケントの声だ。ケイトは自室の引戸の前で耳をすませていた。


 ケントは大学を出た後も都会で過ごしていたが突然、連絡を寄越して帰ってきたのだ。しかも長期で滞在すると言う。ドウセ碌な理由では無いとケイトは考えていた。


「頑張るよ。……今度こそ取り返して、みせる」


 兄のケントが帰ってきたのは嬉しかったが、それ以上に不安だった。

 地主家の跡継ぎであるケントは、母と伯父をのぞいて親族皆を嫌っているのだ。家に帰ってくる事は今までもあったが、一週間もすると憎しみで目をギラつかせ、都会へ帰っていく。そんなケントが一ヶ月も家に居ると言うのだから、何も無い方がおかしい。


「……冬也さんは昔から僕達の話を信じてくれるよね。あんたは最低だけど……僕達を理解してくれるのは冬也さんだけだ」


 時々、ケントがケイトの前で口にする名前だった。


「冬也さんは僕達の話を信じてくれている。……信じてくれる人も居るんだよ!」「冬也さんのところに行ってくる。あの人ならわかってくれる筈だ」


 名前が出るようになったのはケントが高校へ行って、一年程経った頃の事だ。


 通話が終わり、足音がした。扉の前を離れケイトは自室の中央に座った。ケントが扉を開けて、入ってくる。


「終わったよ」

「長かったわね」

 ケイトの前へ座ろうとケントが腰を下ろした所で、ノック音がした。使用人が顔を出し、ケントに父の所へ行くよう告げた。使用人がそそくさと部屋を去る。


「……行ってくる。待てるね、ケイト」

 苛立ちを抑えてケントは言った。表情を変えずケイトは答える。

「待てるわ。いつだって短気なのは兄さんの方よ」

 微笑み……苛立ちの上で……ケントは部屋を出た。

「戻ってくるといいけれど」

 ケントと二人で夕食を取る約束をしている。いつも一人で食事を取っているのでケントと食事を取るのを、ケイトは楽しみにしている。


 暫くしてぴしゃりと、家中に響き渡る程激しく玄関の戸を閉める音がした。


(まあ十中八九兄でしょう)


「……ちょっといい」

 自室を出てケイトは使用人に兄の所在を訊いた。予想通りケントは「家を飛び出していった」という。

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