第一章 第八話
夜、帰宅前の大人達が集う北口の逆、南口を出て秋哉は冬也の店へと向かった。
一階に塾が入ったビル、しゃれたマンション、会社名の看板と事務所。北口側と違い、南口の周囲は静まっている。
塾の硝子窓の先で勉強に励む学生達。秋哉が何度も見た光景だ。しかし塾の外でその学生達を見た事は一度も無い。大抵、秋哉が帰る頃には消灯しているか、まだ窓の先で勉強をしているかのどちらかだったから。
周囲には帰宅する大人達も居たが皆黙って、家へと足を進めている。
二階建てのビルの前で秋哉は立ち止まった。
地下の店舗へ降りる為にあるコンクリートの短い階段を見下ろす。
ビルの二階はガールズバーで、一階にはその事務所がある。冬也の店の扉は、階段の下を折れた所にあった。外に看板も無いので一見すると店があるようには見えない。
地下へ降りようとすると、一階の事務所から短髪の男が現れた。目が腐っているところ以外、どこにでも居そうな男だ。
「秋哉ぁ。最近会わなかったじゃんか」
「冬は忙しい」
適当に答えると男は勝手に納得して、
「あー。冬也さんとこ、今からだろ。開店したら直ぐ行くって言っといて」
「夜は仕事でしょ」
「もー終わったあ」
男と別れると秋哉は階段を降りた。
磨り硝子の嵌った木製扉。「俺と秋哉の色。」と言って冬也が塗り直した黒い扉だ。秋哉と冬也の目は人よりすこし黒い。
それとも夜向きの人間と言う意味だったのかもしれないが。秋哉があまり気に入っていないのは確かだ。
扉を開けるとカウンターに体を預け、煙草を吸っている冬也が居た。入口で煙の混じった苦い空気を秋哉は吸った。
此処は、元は人の店だった。バーを三店舗経営している男に気に入られ、冬也が一店舗譲り受けたのだ。と言っても雇われている訳では無い。
店の全てを譲り受けたので、今は正真正銘冬也の店だ。
「別に欲しかった訳じゃないけどね。まあ割と楽しんでるよ」
それがバーで働きたかったのか、と訊いた秋哉への冬也の答えだった。そう言う人なのだ。
外野の人間は自由だとか、要領の良い人だと冬也を持て囃すが、単にいい加減なのだと秋哉は常々思っている。唯そのいい加減さをカリスマ性に置き換えるのが、冬也は極端に上手い。それも自然にやってのけるのだ。
「秋哉」
と冬也は肩越しに振り返り、煙草を咥えたままフニャフニャとした声で秋哉を呼んだ。
「来たよ」
扉を閉め、秋哉は学生鞄をカウンター席へ放った。
店の扉に鍵は掛けない。閉店後の帰宅時には掛けるが、それ以外は常に鍵を開け放してある。鍵を掛けて欲しいが、冬也は家の鍵も開け放したまま近所へ出掛けるのだ。既に説得は諦めている。
コートを着たまま秋哉はカウンター席の中央へ座る。開店前はカウンターの中央、開店後はカウンターの端。いつも同じ席だ。
「よく来たね。待って、今出す」
煙草の火を消し、冬也は何時も通りカルーアミルクを作った。秋哉が未成年で、その上甘い物が苦手なのを知っていて、毎度それを作るのだ。
「これが嫌なんだよ」
グラスを見下ろし秋哉は顔をしかめた。
苦虫を嚙み潰したような秋哉の顔を見て、冬也はニッコリと爽やかで、しかしじめじめとした鬱陶しい夏のような笑顔を見せた。
比喩通り、冬也は鬱陶しい夏のような人間なのだ。
「体に良いよ」
「例え本当に良くても、要らない」
しかし飲まないと冬也が不機嫌になって五月蠅い。
ん、と秋哉はグラスの半分を一度に飲んだ。仄かに体が熱くなる。
「兄さん、年下の彼女が居るだろう。親の仇かと言う程睨まれたよ」
「別れたよ」
「捨てた訳だ」
「そうだね」
平然と冬也は頷いた。
冬也は秋哉の行動を把握したいのだ。彼女と言っても、その為の存在で、秋哉は学園内で監視されていると言っても過言では無い。にもかかわらず冬也に捨てられると彼女たちは何故か秋哉を恨む。
その内刺されてもおかしくない事をしているのは冬也だが、その時刺されるのは僕の方だろう、と秋哉はよく思う。
「安易な事は止めてよ。何度目なの。害を被るのは僕なんだよ」
「関係を続けると後が大変だからね……色々義務が発生するし、まあ持って一、二ヶ月って所だよ」
顎を人差し指でとんとんと叩いて冬也は言う。監視癖を治すつもりは無いようだった。
「兄さんの好きにすればいいけどさ」
投げやりに言って、体から熱が引いたのを確かめつつ秋哉はグラスを傾ける。
「冷たい事言わないでよ、秋哉」
「絶縁しないだけマシでしょ。……もう帰るよ」
残りの半分を呷り、秋哉は立ち上がった。
「もっと居ればいいのに」
「今日、知り合いのところに行くから。帰っても居ないからね」
「ふうん。誰のところ。祠宇じゃないだろ」
探るような声で冬也が訊いても秋哉は答えず、
「明後日会おうね兄さん。……そう言えば上の事務所の人、開店したら直ぐ来るって言ってたよ」
と学生鞄を手に取る。
「上の人達と仲良くするの、兄さんは感心しないな」
「店に顔を出せって散々言ってるのはそっちでしょ。上の人達、兄さんの弟ってだけで話し掛けてくるし、兄さんが仲良くしてる所為だよ」
「明日は帰ってくるんだよ」
「一緒に始発で帰ろうかな」
その言葉に冬也は満更でも無い顔をした。
扉を開け、バーを出る。
煙たかった空気が晴れて秋哉はふっと新鮮な空気を吸った。まだ体が仄かに火照っている。
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