第一章 第五話

 障子越しの陽の光で眉を顰め、むっくりと体を起こす。「まさかまだ午前中ですか」額を抑え、秋哉は舌足らずな低い声で不平を述べた。


 朝食だと秋哉を無理に起こした男は布団の傍で胡坐をかいて、

「朝食だって言ってるだろ。」

 と呆れた声で言った。


 秋哉は傍でむっとした顔で口を閉じて座る男を見た。歳は、二十代前半か、中盤だろうか。

 桃色の、肩まである髪、常に不機嫌だとでも言いた気な力強い桃色の瞳。

 知人に似ている、と秋哉は思った。

「お前、誰かに似てるな」

 一瞬胸の内を見透かされたのかと秋哉はひやりとしたが、男の、秋哉へ向ける不躾な視線で相手も同じ事を思ったのだ、と理解する。


 声がかわる前の声をわざとトーンを下げて出しているような、そんな印象を受けた。その後で似ている知人が低い声を出した時と声がソックリだ、と秋哉は気付いた。


 見るのに飽きたのか男は顎に手を当て、

「兄弟がいるなんて聞いた事無いけど……」

 と呟いた。


 冬也の匂いを嗅ぎ取り、此処で話していても話が拗れるだけだと思い、秋哉は男を置いてさっさと部屋を後にした。


 廊下へ出て、障子を閉める。


 部屋の中で男が何か文句を言ったが秋哉は聞かなかったことにした。


 戸がしまっていて昨夜は気付かなかったが、廊下は廊下でも、庭に面した片廊下だった。

 初冬の柔い陽の光が秋哉を包む。

 全貌を掴まずとも広い家だとわかった。けれど庭は家人だけでも手入れが出来る程度の広さで、塀の前には細長い花壇がある。


 昨夜一度通った道を進み、居間へ出た。

 ……居間の奥の部屋で音がする。


 硝子戸を動かし、秋哉が扉を開けると朝食の支度をしている枸杞と目が合った。

「秋哉君」

 長いベージュの髪を一つに束ね、若草色の羽織の上にフリルの割烹着。

 歳は二十代中盤か、二十代後半……三十代前半。秋哉と同じ歳にかんじる瞬間もあれば、ずっと大人にかんじる瞬間もある。秋哉は枸杞を掴みかねて釈然としない気持ちになった。


「何か、飲む? 座る?」


 秋哉を構いたい気持ちがはっきりと表れた声で枸杞は訊いた。

「珈琲があれば」

 台所の椅子に座ると、テーブルに枸杞が珈琲の入ったソーサーとカップを置いた。礼を言って秋哉は眠っている頭の瞼を無理矢理押し開くように胃に珈琲を入れる。


「牛乳と砂糖もあるよ」

「大丈夫」

 断って秋哉は朝食の支度に戻った枸杞の背を眺めた。

「僕のは無いの」

「んむ」


 驚いて珈琲を飲み込む。背後で桃色の髪の男が秋哉の手元を見下ろしている。

「今、ケント君のもいれるよ」

「僕が」

 と言って秋哉は立ち上がる。

「僕がいれるよ」


 言うと秋哉は二人の話も聞かず、さっさとケントの珈琲をいれた。ソーサーとカップは秋哉が使っている物と同じ柄の、菫柄の物を使った。秋哉の座っていた席のななめ前の席に座るケントに珈琲を出し、席へ戻る。

 ケントは無言で牛乳と砂糖を入れ、珈琲に口を付ける。


「秋哉君、牛乳も砂糖も入れないんだよ」

 何故か誇るように枸杞が言った。

「は? 子どもっぽくてわるかったね」

 ケントに嚙みつかれ、困ったように枸杞が微笑む。秋哉は助け舟を出すつもりで、弱みを白状した。

「……甘い物、苦手で」


 苦手だが、出来るだけダメージを受けず飲み込む術を秋哉は持ち合わせている。もし朝食で出てきても、黙って食べるつもりだった。


「他には?」


 と枸杞が先を促す。


「……玉子焼」

「……甘い玉子焼も駄目?」

 秋哉は縋るような思いで枸杞の目を見た。

「言ってみただけだよ」

 くす、と枸杞が吐息を漏らすように笑う。

 安堵して、秋哉はまじまじと秋哉の顔を見ているケントの方を向いた。

「何」

 と声を掛けるとケントはふいっと顔を背ける。秋哉が知人の誰と関係を持ち、誰と似ているのか理解したのは明白だった。


 理解してしまうとケントは、知人と似ていると思ったのは勘違いで、他人だとでも言いた気なタイドを取った。かわった兄を持つと、苦労が多い。

 しかし秋哉としても絡まれるより放っておかれる方が助かるので、そのまま視線の件は有耶無耶にした。


「バターが無いの、わすれていたよ」

 居間のテーブルを囲み、朝食を見回すと開口一番枸杞が言った。

「僕はこのままでも食べられる」

 テーブル上のジャム瓶を見付け、秋哉は負担を掛けないようさっとトーストを口に運んだ。

 既にケントは食べ始めていてスープを飲み込み、

「買い物は谷の仕事でしょ。谷は何してんの」

「僕が昨日言っておけば良かったんだけど。……あ。谷って言うのは昼間家に来てくれているお手伝いの人だよ」

 後半は秋哉に向けて枸杞は説明した。へえ、と秋哉は相槌を打つ。


 朝食を食べ終わると台所へ行って、秋哉は手伝いを申し出たが、キッパリと枸杞に駄目、と言われてしまい、居間で枸杞が戻ってくるのを待った。

 ケントは朝食を取ると黙って何処かへ行ってしまい、話し相手も、する事も無いので退屈だった。


「近くの学園の制服だよね。今日は授業は無いの。」

 向かいの席へ腰を降ろすと秋哉の服を見、枸杞は問い掛ける。


 粗い格子の入った柚子葉色のブレザーだ。目立つので制服を好んで入学する生徒も多い。昨夜は制服のまま眠ったので秋哉の制服には皺が付いている。

 ブレザーとベストは寝る前に脱いだが、床に放っておいたので矢張り皺があった。


「今日は土曜日だよ」

 首を動かし、己の制服の惨状を見て秋哉は(勘が鋭い祠宇に気付かれて昨日の話を蒸し返されるのも嫌だし、学園へ顔を出す前に一度家へ帰って予備の制服を出すか)と考えた。


 曜日かんかくが無いのか、枸杞はちょっと照れた後、

「じゃあ、今日は家に居る?」

 と期待を込めて言った。

「……そうしたいけど、今日は部室に顔を出す予定があって」

 露骨にざんねんそうな顔をする枸杞に秋哉は、

「枸杞が良ければ、学園の用が終わった後、来てもいい?」

 一瞬だけ、枸杞は迷いを見せた。


「いいよ」

「本当に」

「本当に」


「僕は厚かましいから、本当に来るよ。僕に社交辞令は通用しないからね」

「君に来て欲しいんだ」


 目を伏せ、純粋に、はっきりと、気持ちを表す枸杞の前で秋哉は言葉を失った。


 瞳に宿る煌めきは祠宇に似ているが、祠宇がそれを秋哉に言葉で表現する事は無い。捩じれる前の裏の無い純粋な気持ちを口ではっきりと言われたのは、幼い時以来だった。


「……、じゃあ、今晩も来るよ」

 冬也が嫌がるのが秋哉の目に見えるようだった。


(普段通りの日々から解放されたかったのかもしれない。そんな欲望が僕にあったとは思わないけど)


 門の前で見送る枸杞と別れ、学園に向かうのと同じ方向にある駅へと向かう。

 下を向いて秋哉は自身の言動を省みた。しかし目下省みるべきは、昨夜冬也へ連絡しておけば良かった、という事だ。

(兄さん、祠宇に連絡してないだろうな。もししてたら、僕の気遣いが台無しだ。)

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