第44話 ガラス

「……は?」


 思いもよらぬ発言に耳を疑った。


 俺が作家をやめているのはある程度の業界人なら知っている。だから、滝野さんが知っていてもおかしくはない。


 でも天川は……。


「天川に構ってもらいたいからって、そういう冗談はよくないぞ」


「冗談かどうかは天川詩乃に聞いてみればわかるんじゃない? もっとも、聞く必要はないかもしれないけど」


 たしかに聞く必要はなかった。


 天川は顔を真っ青にして、口元を両手で押さえていた。


「天川詩乃は去年の秋に漫画から離れて、ずっと描いてないのよ。一コマもね」


 どういうことだ?


 そんなありきたりな疑問しか浮かんでこないほど、頭が回っていなかった。でもよく考えてみれば、天川が描いているのを見たことがない。彼女がインプットをしているのは知っているが、ただの一コマも描いているのを見たことがないし、作画中の話を聞くこともなかった。


 それは、仕事とプライベートをある程度のところで区切っている、もしくは守秘義務を律儀に守っているのかと思っていたが……。滝野さんの話は今までの状況と符合する。


「だからあなたたちふたりはお似合いなの。同じ逃げたもの同士、臆病者同士じゃない」


 その罵倒に心が痛むが事実ではあった。


 図星の俺は何も言い返せない。


 だが、天川の態度は違った。


「……なさいよ」


「ん?」


「取り消しなさいよ!」


 天川は一歩踏み出して、滝野さんと肉薄する。


 かなり顔色が悪いが、それでも言葉は止まらなかった。


「今の言葉、取り消しなさいよ!」


「事実じゃないの! ライバルのくせに勝手にいなくなって!」


「私のことはどうでもいいの! 島崎くんへの言葉を取り消しなさいよ!」


 先ほどまでの雰囲気とは一転していた。


 天川の怒声が夜中の都心に反響し、一層ひりつく。


「島崎くんがなんで書けないのか知らない! それでも今がんばって、がんばって前に進もうとしているの! そんな人を貶さないで!」


「甘いこと言ってんじゃないわよ! プロは結果がすべて。その土俵にも立てないのは事実じゃない!」


 ふたりの言い合いは平行線だった。


 俺を庇ってくれる天川と、プロ意識で事実をぶつける滝野さん。その溝が埋まることはない。


 天川から食い掛ってはじまった言い争いだが、滝野さんも引く様子はなかった。


「七光りだとかシナリオが薄いだとか、そんなバッシングで筆を折るくらいなら早めにやめて正解なのよ! こんな男と時間を潰すのがお似合いね!」


 たしか天川は以前、七光りとかそういうバッシングを見返すために書いていると言っていた。


 それを考慮すると、滝野さんの言ってる『天川が筆を折った』理由もこれにあるのだろう。


「もういいわ。言い合っても無駄なら。やってみせるべきね」


 天川はポーチからタブレットを取り出して、ペイントソフトを起動する。


 そこにはコマ割りが表示されており、真剣に見つめる。


「ここで一コマでも描けたら島崎くんに謝って」


「な、何言ってるのよ。それが出来たら苦労はしないでしょ? やめておきなさいって」


 本心では天川を心配しているのか、滝野さんは焦りを見せる。だが、天川はとまらなかった。


「島崎くんといっしょにいて、私だって……」


 天川はポケットから薬を取り出して飲み込む。


 だが、それを見て明らかな焦りを見せたのは滝野だった。


「ちょ、ちょっと天川詩乃! その薬って!」


「精神安定剤よ。これを卑怯とは言わせないけど?」


「そ、そうじゃなくて、そんなもの使わなきゃやってられないほどって……。去年から一コマも描けてないのって」


「ええ、そうよ。コマ割りを見るだけでも吐いてしまう、指が動かなくなる」


 いつも生理の薬といって飲んでいたのは精神安定剤だったのだ。そうでもしなければインプットも日常生活もままならないほどに追い詰められていた。


 そんな彼女がいま描けるわけがない。


 それでも天川の気迫を前にすると止めに入れないのは滝野さんも俺も同じだった。


 天川は震える指でスタイラスペンをタブレット端末に向ける。


「見てて島崎くん。これが七光りも才能も何もない、ガラスの私」


 顔は真っ青で、それでも気迫に満ちていて、死地に赴く戦士のようだった。


 そんな彼女が、タブレットに触れた瞬間だった。


「うぅぅっ⁉」


 タブレットを落とし、膝から崩れてしまった。


 嘔吐するのを必死にこらえて口を押さえるのが精いっぱいで、顔を上げることすらできない。


 それでも天川はタブレットに、震える指を伸ばす。


 鬼気迫る表情で執念を見せた天川に、滝野さんは顔を真っ青にして後ずさりする。


「そ、そこまでやるんじゃないわよバカ!」


 この異様な雰囲気に耐え切れなくなったのか、走って逃げてしまった。


「へへへ、ざまあないわね。どっちが臆病者かって話よ」

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