第26話 シチリアーノ
夜の散歩は嫌いじゃない。
特に山湖あたりは涼しい風も吹いてきて、夏には絶好のスポットだ。湖に浮かぶ満月も風流でよい。
そして今日も湖の周辺を歩いていた時だった。
「ヴァイオリン……?」
そよかぜに乗って、かすかにヴァイオリンの音色が聞こえてくる。優しくて、穏やかな演奏は小さく波打つ湖を表現しているようで、とても心地いい。
その演奏を辿っていくと、一人の少女がいた。
おぼろげな月明かりに照らされた少女の髪は長く、腰まで伸びており、白のワンピースとのコントラストはばっちりだ。
肩にヴァイオリンを乗せて弾く姿は実に優雅で、いいところのお嬢様という感じが漂ってくる。
その音色のひとつひとつが俺の産毛に浸透していき、ぶわっと立つのが分かった。
「天川か」
「なによその、残念そうな言い方は……」
静かに演奏をしていた天川だったが、中断するとジトっとした視線を向けてくる。
「別に残念ってわけじゃない。ただ、意外だっただけだ」
漫画ばかりだと思っていたが、音楽もたしなむとは知らなかった。そんな俺の心を見透かしたように、天川はスマホの画面を見せてくる。
それは天川の漫画家としてのSNSアカウントだった。
そこには彼女がコスプレしてヴァイオリンを演奏する動画がいくつもあげられていた。
有名なアニメ主題歌のカバー曲からクラシック音楽まで幅広く演奏しているようだ。
「今日は練習でもしてるのか?」
「今日だけじゃなくて毎晩よ。一日でもやらないとなまっちゃいそうで」
聞けば、幼少から色々な習いごとをしており、ヴァイオリンは今も続けているらしい。
そんなこと、別れる前も知らなかった。あんなに好きで、好き合っていたのに。
「でも毎晩練習しなくてもいいだろ。本業は漫画家なんだからさ」
「一度決めたことは曲げたくないの」
ああ、まただ。
また天川はまっすぐな目をする。
大気圏を突き抜けてしまいそうなほどの視線、満月すらも溶けこんでしまいそうな澄んだ瞳。彼女のこの眼がたまらなく好きだった。
堂々としていて、ひたすらに前を向いて。そんな天川だからこそ、筆を折ったときに救われたんだと再認する。
「それで、島崎くんはこんな時間に何しに来たわけ?」
「ただの散歩だよ」
……まさか眠れないなんて恥ずかしくて言えなかった。
筆を折ってから、悪夢で目が覚めることが多くなった。そのたびに寝付けなくなって、こうして散歩をしているのだ。
散歩をしていても、今日まで天川に会わなかったのは、ちょうど時間の都合だったのだろう。事実、今日だけはいつもとは違う時間に散歩をしていた。
今まで天川の演奏を聞き逃していたと思うと、すこし勿体ない気がする。
「まだ時間ある?」
「しばらくは寮に戻るつもりはないけど……」
どうせ眠れないしな。
「だったら演奏きいてく?」
一晩過ごしてくれってさっき誘われちゃったし、そう茶化した天川は腰をかけるにはちょうどいいサイズの石を魂柱、つまりヴァイオリンを弾く棒でさす。
「そこが特等席よ」
「ずいぶんお粗末な特等席だこって。かなり歓迎されてるな」
「相変わらずの捻くれ具合ね」
そう苦笑した天川はポケットから錠剤を取り出して飲み込んだ。
「また薬か?」
「ええ、生理の薬」
「そんな頻繁に飲む必要あるのか?」
「女の子ってなかなか大変なのよ」
またも苦笑した天川はヴァイオリンを肩に乗せ、頬で挟むとゆったりと演奏を始めた。
目を閉じて、静かに、おしとやかに魂柱を動かす。曲はフォーレの『シチリアーノ』というらしい。
音色に合わせて、湖に浮かぶ満月がゆっくりと揺れているようで、月光を逆光で受ける天川をつい凝視してしまう。
改めて、綺麗なやつだと思う。
容姿はもちろんだが、こいつの内面も好きになりつつあった。
だって天川は頑張っている。
コスプレとか漫画に関係ないことで人気を稼ぐのは気にくわないし、天川が描く必要性を否定するような行為に眉をひそめたくもなる。
でも、それは天川なりに結果を出そうとして努力している過程だ。決して楽なんかじゃない。
飲みの席ですら気を緩めずに節制をし、ヴァイオリンだって毎晩練習している。その結果、見事なプロポーションと演奏技術を手に入れている。
そのこと自体を否定したくないし、むしろ彼女の頑張りを応援してやりたくなる。
「ごめんな天川」
そうぽつりとつぶやいても天川からの反応はない。ただ、緩やかで包み込むような優しい演奏がつづく。
それだけで許してもらえた気分になった。そう感じさせる曲であり、天川の腕だ。
湖畔に咲き誇る花はただただ優雅だった。
気高く、誇らしげに夜を彩る楽曲。
凛とした天川も、可愛い天川も、バカな天川も、漫画に真剣な天川も。全部全部、天川詩乃だ。俺が大好きな天川詩乃だ。
「いい演奏だ」
「あなたが素直に褒めるなんて珍しいわね」
「そういう時もある」
その晩からだった。彼女の演奏を聞いた夜はよく眠れるようになり、毎晩足を運ぶようになった。
そうして少しずつ会話を重ねていくようになった。
毎日違う曲を聞かせてくれるのが楽しかったし、俺のくだらない話も笑って聞いてくれる天川のことをまた好きになった。
すこしロマンスに彩られているが、談笑して仲を深めるという行為自体はごく普通の大学生の男女だった。
その普通が心地いい。天川を生で感じられるからだ。
そしていつしか、筆を折ったつっかえも消え始めていた。
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