第1章 折れた筆

第1話 神原 恵莉奈

「おえぇぇえっ……」


「師匠、しっかりするっす! あと少しで駐車場ですから、それまでリバースは我慢っす! 駅前にもんじゃぶちまけたら、まずいっすからね~」


 雪が溶け、春風も過ぎ去り、六月になり、日付が変わろうという時間でも若干の蒸し暑さを感じる夜の八王子駅前。


「お金ないのにまた飲んじゃったんすね」


「むしろこのために金を貯めてるんだ」


「お互い実家は貧乏ですし、仕送りとか期待できないじゃないっすか」


「それでもいいんだよ。自分の金で飲む酒がうまいんだから」


「ほんと、どうしようもないんすから」


 甲高い声の後輩、神原かんばら恵莉奈えりなが汗でシャツが張り付いた背中を擦ってくれる。


 そんな彼女を一言で表現するなら、金髪に染め上げたポニーテールの白ギャル。


 ナチュラルメイクで仕上げたアイドルフェイス。どこぞの捻くれた黒髪ロングほどではないにしろ、大学一年生にしては十分な身体の凹凸はつい最近まで高校生だったとは思えないほどだ。


 そんな彼女を包むのはキャミソールにホットパンツという露出の多い服装だ。初夏だからしょうがないとはいえ、少し目のやり場に困る。


「ううぅ、すまねぇな、恵莉奈」


「別にいいんすけど、なんでこんなになるまで飲むんっすか……」


「いやぁ、二十歳になって堂々と酒を飲めるとあって、ついな。うぅぅっ」


 今まではこそこそと飲んでいたのだが、いまはその後ろめたさもない。そのままの勢いで飲酒をして、毎度酔いつぶれる。そして恵莉奈が迎えに来てくれる。そんなことをもう何度も繰り返しているのだ。


 そして今日も八王子駅前で酔いつぶれた俺を恵莉奈が迎えに来てくれた。


 零時を回った駅前の繁華街は飲み屋の明かりも人混みもなく、ちかちかと点滅する街灯だけが寂しく続いており、それに沿って俺たちは歩いていた。


「師匠の面倒を見るのは好きなんでいくらでも酔いつぶれてくれていいんすよ?」


「できすぎた後輩に感謝……」


 興育院大学一年生、神原恵莉奈。


 十年にひとりの天才作家と謳われた女子大生であり、大の売れっ子だ。得意分野は大衆文学で、漫画化もされており、つい先日は映画も公開されたほどの人気っぷり。


 そんな彼女とは小学生の時からの付き合いがあり、いろいろあって師匠と呼んでくれている。


「そう言えば新刊も順調なんだろ?」


「そうっすね。これも師匠のお陰っすよ!」


「恵莉奈はもうそういうレベルでもないだろ」


「そんなことないっすよ! 師匠はいつまでもあたしの師匠っすから!」


 心の底からそう思っているような満面の笑みを浮かべる恵莉奈。


 そんな彼女を見ているとこれ以上何も言うことはできない。


「それに師匠とまた一緒にいられるだけで、あたしは幸せっすよ」


「……すまん」


「あっ、えっと!」


 しんみりとした空気を誤魔化すように、恵莉奈は慌てて言葉を付け足す。


「いっしょにキャンパスライフをおくれてうれしいって意味っすから! それ以上の意味はないっすからね! 勘違いしないでよね!」


「なんて古風なツンデレなんだ……」


「中学生の頃、図書室にあった古のラノベから学んだっす!」


 でも恵莉奈が言うとすごくかわいく見える。


 改めて見ると、本当にかわいいな……。


「師匠~? な~にじろじろ見てすんすかぁ~?」


「三日月に白ギャルは初夏の風物詩だなって思って」


「っすよね~。平安貴族も詩を詠んでましたしね」


「そうそう、『五月雨の 晴れ間に出でて のぞむれば 夏花摘みゆく 白ギャルよ』ってな」


「なんかどっかで聞いたことある短歌っすね?」


 酒でろくに回らない頭で雑談をしつつコインパーキングにつくと、スポーツカーの助手席に乗せてもらう。なにかの受賞記念でスポンサーからもらった車だとか何とか。改めて凄いやつだと思う。


 コインパーキングの料金を払ってきた恵莉奈が運転席に乗ってハンドルを握ると、そのまま発進させる。


 駅前エリアを出るとすぐに山々が見えてくる。それが八王子という土地である。

 オープンカー特有の風を切る感覚。生温かい風であるが、エンジン音も相まって心地よさを感じる。


 車どおりが少ない夜道を進んでいる中、夜空を見上げるときれいな三日月が浮かんでいた。


「今日の月は、夜海に浮かぶ舟みたいだな」


「おっ、谷崎節全開っすね~! もっとくださいっすよ!」


「でも星はあまり見えない。空が雲に覆われている。霧の中を進む舟は灯台を見つけることもできないだろうな」


「くぅ~! いいっすねぇ! ロマンチック!」


「人気作家様にお褒めに預かり光栄だーね」


 谷崎節。作家としての島崎潤一郎が使う表現方法のことだ。


 恵莉奈はこの谷崎節をいたく気に入っている。


「でも不思議っすよね。お酒入ったときだけ谷崎節になるって」


「俺も理由は分からんが、感受性が豊かになるっていうか……なんかそういうのだ」


 きっかけは中学生の頃だった。


 正月の宴席でろくでもない父親に酒を飲まされたのだ。


 中学生にアルコールの耐性があるはずもなく、すぐに酔っぱらってしまったのだが、そのときに世界が色に溢れていることに気付いた。


 そしてなんとなしに筆を執ってみると、谷崎節が出てきた。


 という割とろくでもない経緯だったりする。


「その……師匠が元気で嬉しいっすよ」


「なんだよ急に」


「だって部屋に閉じこもってシイタケ生やしてるより、こうやって駅前でゲロ吐いてくれて、谷崎節してた方がマシって言うか」


「俺、そんなにじめじめしてたか?」


「まあ、雷が落ちたら数が増えそうなくらいには。ってことは師匠がいっぱいになるっすね! いやぁ~お得だなぁ」


「手間がかかるだけだろ、それ……」


「手間のかかる師匠ほどかわいいもんっすよ~」


 ポニーテール揺らしてケラケラと笑う恵莉奈はいつも楽しそうだ。


 今日だって迎えに来てくれて、愚痴一つ言わずに俺を介抱してくれた。


「悪いな」


「いいんすよ」


 たったそれだけ。たったそれだけのやり取りでいつも恵莉奈は許してくれる。


 本当はダメだって分かっている。それでも酒を飲んでバカ騒ぎして酔いつぶれていれば嫌なことは忘れられる。もう得られない刺激を得られる。


「あたしも師匠と同じ立場だったら飲んだくれになってたと思うっす」


「恵莉奈はそんな弱い子じゃないだろ」


「弱いっすよ。ずっと、昔のまま」


 恵莉奈は真っすぐ向いて運転しているはずなのに、なぜか後ろを向いている気がした。


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