第3話
うちの高校では、生徒に対して教室の施錠を指示されることはない。その仕事は用務員のものらしく、全生徒が退下した後にひとつひとつ教室を回ってするらしい。
空色のカーテンに薄い夕日の光が当たって、教室全体がプールの底から周囲を見回したときのようだった。幻想的というよりは、やっぱり不気味な雰囲気。薄暗い室内で煌々としているのは、静かな好奇心が宿る四つの瞳。
僕はポケットからメモを取り出して言った。
「今確認できるのは、バケツ、雑巾、カーテン、黒板消しの紐、ホウキのキズ。放課後だし、残っている生徒がまばらだろうから私物のほうの確認は無理だけど」
「友人から見せてもらったのは、ジャージのキズだけ。写真も撮ってない」
「その友達はジャージ以外にキズをつけられたりは?」
「してないね。ジャージ一点に、ちっちゃな刃物痕」
まぁそりゃあ、自分の私物が何個も知らずしらずのうちにバカスカ切られていたらたまったものじゃないだろう。一つの教室で起きた珍事件にしては、私物、備品と被害を受けたものが多いとはいえ。
そこでふと、思いついたことがあった。掃除用具庫を開けて、バケツと雑巾、ホウキを取り出す
「複数の被害を受けた生徒はいないのかな。通学鞄とジャージにキズとか、ジャージとハチマキにキズとか。これだけ被害数が多いと、二回三回と被害を受けた生徒がいても不思議じゃないけど」
「うーん……、私はそんな話は聞いてないな。何個も私物に被害があった人……。うん、やっぱりその手の話は出てないはず」
「一人の被害者に対して、一つの私物にしかキズがつけられていない……?」
僕は再度メモを見返す。被害数は、やはり多い。
【第一週】
月……カーテン(この時点でバケツ、雑巾三枚にキズ)
火……黒板消しの紐
木……二名の生徒の通学鞄
【第二週】
火……三名の生徒のジャージ
金……三名の生徒のハチマキ
【第三週】
月……ホウキ
※以降、今日(木)に至るまで被害報告なし
現状、四十人中、通学鞄、指定ジャージ、ハチマキと、重複なく八人が被害を受けていることになる。今日までで三組の二十パーセントの生徒への被害ってわけだ。
二十パーセント。無視できそうでできなそうな微妙な数字だ。けれど、今僕の手元にある情報だけでは、その数字を考慮すべきかそうでないか判断には難しかった。
……犯人は、意図して、一人の被害者に対して一つの私物にしかキズをつけていないのか?
そんな疑問が微かによぎって、けれどそうと決めつけるのはいささか早計に思えて、ぐっと呑み込む。
一旦、保留にしておこう。
僕はメモに「一人の被害者に対して一つの私物にしかキズがつけられていない?」と手早く追加して、手を動かす
「見て、
「ほんとだ。言ってた通り、かなり小さいね」
青色のそれの上部には、半球を描くように取っ手がついている。そのてっぺん付近に一箇所、一、二センチほどの刃物でひっかいたような痕があった。
あたまから青色のペンキを被ったようなからだのほんの一部分に、細く短く、けれど明らかに人の手でつけられたと一目でわかるくらいには深く、刃物の痕跡。
「証拠、撮っておくね」
パシャリ、と
続いて、すでに取り出していた雑巾。こちらは三枚とも、四隅のうちの一つにフックか何かに引っかける用の輪っかがついているものだ。
切られていたのは、輪っかの裏にある「なまえ」の部分。雑巾は学校側から支給されたもので、名前欄には「
ホウキは、動かすたびに穂先部分がカチャカチャ鳴る自在箒だ。柄が長い。
持ち上げて穂先を隈なく観察してみると、端っこらへんが一、二センチほどばっさり切り取られていた。写真を撮り終えると、僕たちはすぐに元の位置に戻した。
「あとは、カーテンと、黒板消しの紐だね」
教室の一面を覆う空色のカーテンから小さなキズを探す。結構大変な作業なのではと思っていたが、
教室前方、黒板に近いほうにある房掛け付近。カーテンを束ねるタッセルの真ん中らへんに三、四センチほどの切りキズがあった。
最後に、黒板消しの紐。
黒色の細い紐の端っこが、一、二センチほど切られている。刃物痕周辺が少しだけ窪んでいて、皺が寄っていた。切られていたのが革の部分だけあって、ある程度力を込めて痕をつけたことがわかる。
つけられたキズはどれもほとんど目立たないぐらいに些細なものであったが、何者かが何らかの意図でつけたのは確かなように思えた。
雑巾やタッセルといった比較的キズつけやすい柔らかいものについては置いておいて、バケツや黒板消しの紐といった丈夫なものに、ここまで克明に刃物痕を残すとなればそれなりの労力が要る。なんとしてもキズを残すぞ、とまではいかないものの、キズを残すための執着めいたものが感じられる。
スマホのカメラをこちらに向けながら、
「これで全部の確認ができたね。現場検証お疲れ様記念に、一枚。ほら
言われた通り、僕は間抜けだと思いつつも
黒板消しを元の場所に戻し、教卓に置かれていた「一年三組名簿」にも目を通しておいた。最後の最後に、
「
「この人たちね」
机上で開いた名簿に視線を落として、
1303 上野 翔太 【陸上競技部・緑化委員会】
1304 小野田 悠樹 【所属なし・文化祭実行委員会】
1305 木下 由奈 【バレーボール部・所属なし】
このことについても、しっかりとメモにとっておく。
「他にも、第一週目に通学鞄、第二週目後半にハチマキに被害があったそうだけど」
「ああ、ごめん。そっちのほうはまだ聞き取りができてないの。明日の昼休みにでも、もっと踏み込んだ聞き取り調査がしたいな」
現場捜査も今日のところはこの程度だろう。備品のキズも確認できたし、一部とはいえ被害者の情報も得たわけだし。
僕は三組の名簿表を閉じて、言った。
「いつもの駄菓子屋にでも寄ってく?」
「そうね。ちょうど甘いものが食べたい気分なの」
学校の区画から離れてほどなく、
入口付近に段ボール箱に入ったままのお菓子がずらりと並んでいて、上部に小さな提灯が飾られている。出てすぐ右手に脚の長い椅子が三脚置かれていて、僕たちはそこで委員会後の時間を潰すことがたびたびあった。
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