第2話

 図書当番の暇な時間でてきとうに弄ぶには、情報量が多すぎる。メモを取っていなかったので、再度姥沢うばさわに頼んで復唱してもらった。メモは図書室に大量に用意されている図書返却の催促状の裏にとった。


「刃物の痕跡が、これだけの数も。もっと騒がれてもいい事件じゃないの、これ」

「それが、そうでもないの。

 刃物で切った痕って言ったけど、実際は数センチほどの小さなキズなんだよね。被害数の割には、キズの規模は小さい。今日昼休みに友人にジャージにつけられたキズを見せてもらったんだけど、ほんの、これくらい」


 そう言って、姥沢うばさわは親指と人差し指の間に小さな隙間をつくって見せつけてきた。わざわざ片目を瞑って、痕跡の小ささを大袈裟に伝えようとしている。


「私物のキズの大きさは、日常生活で使用するうえで支障が出ないくらい。これがもし『ジャージがビリビリに裂かれていた』とか『通学鞄がズタズタに破壊されていた』レベルだったら、こんなに小さな話で収まらなかっただろうね」

「キズの規模の問題かな? ジャージにしても鞄にしても、自分でつけるキズと他人につけられるキズではかなり心証が変わってくると思うけど」


 もしも自分の通学鞄が何者かに刃物で傷つけられたら、と僕は考えてみる。すぐに具体的な映像が浮かんできて、僕はその映像上の自分がなかなかに自分らしい行動をとっていたことに苦笑いする。


 想像の世界の僕は、犯人に向かって通学鞄のキズを見せつけて「このキズの代償はどうして払ってくれるんだい?」と等価交換を求めていた。

 午後六時を伝える鐘が鳴る。それは、図書委員の業務終了の合図でもある。








‐2


 図書室の施錠を済ませ、鍵を職員室へ返しに行く。


 金武かなぶ高校の校舎はコの字型をしていて、上の横棒が北棟、下が西棟と呼ばれている。普段授業で使用される教室は西棟に置かれていて、職員室は北棟の二階にある。図書室とはかなり近い距離にあるので、鍵の返却を面倒に思うことはない。

 夕日の光が入りづらい薄暗い廊下を歩き、大人しかいない空間に若干の気まずさを覚えつつ事を済ませる。失礼しました、と一応の挨拶をしてもまともな返事がかけられないことにさらなる気まずさを感じ、早足に職員室を出た。


 図書当番の日は、毎回姥沢うばさわと帰路を共にするのが習慣だった。話が盛り上がればどこか座れる場所に寄って長々と過ごすこともあった。

 ただしそこに親密な男女が醸し出すような色気なんて存在しなかった。あったのは、いたずらを共謀する小学生が持つようなヤンチャな童心に似た何かである。


「ねぇ、沢渡さわたりくん。沢渡さわたりくんって、もし自分が部活に入ってたら今とは違う高校生活を送れたのに、とか思ったことある?」


 ふと、隣を歩く姥沢うばさわが窓の外に視線を投げながら言った。ちょうどグラウンドでは陸上部が練習に励んでいる様子が望めた。

 走る者、跳ぶ者、投げる者、生徒に檄を飛ばす者。一つの空間に様々な役割を持った人間を観察できる。僕は「思ったこともないな」と苦笑いをした。


「どうして?」とわざわざ相手に言わせるのは性に合わないので、姥沢うばさわがこちらが視線を向けてくるよりも早く答える。


「僕は、部活に入れば、とか思い直すことなんてないから」


 つまんない返答、と姥沢うばさわは胡乱げな目になる。僕が変に回答を躱したから、そんな顔をするのだ。


沢渡さわたりくんってたまに頭がきれるじゃん。ミステリ研とか化学部とか、頭使う系の部活には興味がなかったの?」

「たまにってなんだ、たまにって。褒めるならちゃんと褒めなよ。……なかったな、大人数で活動するのはちょっと遠慮したいし、放課後はゆっくりしたい主義なんだ」

「じゃあ、なんで図書委員会入ったの?」


 なんとなく、ではなかった。僕がなんとなくで動く人間だったら、週一のペースで放課後が潰れる委員会に立候補することはなかっただろう。


 僕が図書委員会に入った理由。それは一言でいえば、クラスで図書委員会に入りたい者が一人もおらず担任教師が非常に困った様子でいたからだ。

 入学初日、僕はなんとも間抜けなことに学校指定の上履きを忘れてきてしまい、そのときに玄関で迅速に対応してくれたのがその担任教師だったのだ。来客用のスリッパは保護者が使用するために生徒の分は用意されてなかったのだが、先生はわざわざ計らって教職員用のものを貸し出してくれたのだった。


 恩がある人を放っておくわけにはいかなかった。等価交換のつもりだった。助けてもらった対価として、僕は不人気の委員会の枠を埋めたのだった。しん、と気まずそうに静まり返った教室で立候補の手を挙げるのはなかなかに度胸が要る作業だったけど、その瞬間に先生が安堵の笑みを浮かべた。そこで僕は役目を果たしたのだと確信した。


 事の流れを説明すると、姥沢うばさわは呆れたようなため息をついた。


沢渡さわたりくんって変なところで律儀だよね。たぶん先生は沢渡さわたりくんに恩を着せたとも思ってないだろうし、スリッパを貸したところで沢渡さわたりくんに対価を求めていたとは思えないけど」

「思えないのなら、それでいいと思うよ。先生もそんな些細なことで対価を求めるほど傲慢な人間だとは思えない。気持ちのいい人だ。等価交換を求めているのは、僕のほうだ」


 ふうん、と姥沢うばさわは頷くだけでそれ以上は訊ねてこなかった。そういう距離感を保てる姥沢うばさわの人間的気質は僕好みだ。

 そしてまた、自分が姥沢うばさわに、彼女好みの人間として数え上げられている人間的気質のことも、僕はなんとなく察していた。


「それで、姥沢うばさわさんはもしも部活に入ってたら、とか思うの?」


 姥沢うばさわは、まず人に吐かせてから自分のことを語りたがる。僕は、そんな彼女の性分に適した受け答えが自然とできていた。

 そういう迂遠なやり取りを好む趣味は僕にはないけれど、彼女の場合、人に吐かせた分、きっちりと自分の分も吐く。そこが、僕好みでもある。


 僕たちは自然な動きで生徒玄関を通り過ぎた。部活動の終了時刻は午後七時だけに、人気はそこまでなかった。

 まっすぐ進んで行った方向にあるのは、西棟。そこには普通教室が置かれて、学年ごとに階数が分けられている。一年生の教室は、一階にある。


「私のクラスって、部活に入ってる子が多いの。だから人間関係の構築の場が、クラスっていうよりは部活って感じが濃くて」


 なるほど。知らずしらずのうちに、人間関係が希薄な場所に生活の場を定めてしまっていたというわけか。たしか、姥沢うばさわは部活には所属していなかった。


「後悔でもしてるの?」

「いや、後悔ってほどじゃないけど。もうちょっと賑やかなほうで暮らしてみても良かったんじゃないかって、たまに思ったりする程度にはやきもきしてるって感じ」


 カーストというよりは、住み分けがうちのクラスでは明確なの。「部活」って繋がりが一大勢力で、でももうそろそろ六月になる。今から部活に途中参加してもねぇ。

 そこから姥沢うばさわは、ほとんど愚痴るように色々と呟いていた。彼女は案外寂しがり屋なのかもしれない。


 僕のクラスといえば、部活に入る生徒とそうでない生徒がだいたい半々くらいなので教室内での繋がりが深い生徒も多い。カースト意識も強くないし、体育の時間やグループワークのときにあぶれる人がほとんど出ないくらいには平和だった。


 姥沢うばさわが所属する四組と、僕が所属する二組。その二つには大きな空気感の違いがあって、息苦しさを覚える者がいれば心地よさを感じる者もいる。嫌でもカーストを意識しなければならないクラスや、仲良しグループの島宇宙化が進んで島同士の交信が困難になっているクラスもあるらしい。


 入学してから約一ヶ月半が経つ。自分が配属されたのは当たりクラスかはずれクラスか判定するのは、僕にとっては烏滸がましい作業だ。姥沢うばさわのことは結構気に入ってるので、僕は彼女がそんな傲慢な人間であってほしくないなと思った。


 僕たちはどちらともなく自然に組の教室に入っていく。







 三組の教室は、窓が数ヶ所開けられた状態のままで、春風というよりは夏風に近いじめじめとした気の流れが感じられた。生徒が残っていた、という気配はなかった。

 不用心ね、と姥沢うばさわが窓に手をかける。スライド式のそれを閉め、クレセント錠を上向きにする。

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