1-4
◇
俊也の家に着くまでの数分間、気が気ではない精神が時間感覚を狂わせていった。
一秒が何秒にも引き伸ばされる感覚。呼吸をすることもおぼつかず、どこまでも走ることを繰り返す。それでも彼の家にたどり着くことができなかった。
走ったうえでの感覚なのか、それとも精神的な混乱が招くものなのかはわからないけれど、心臓の鼓動は加速し続けていく。頭の中に流れる血液の濁流が沸騰する感覚を覚えながら、見慣れた道を迷い続ける。
焦燥感が判断を鈍らせて、何度も道に迷い込む感覚。道は間違っていないはずなのに、それでもどこまでも入り組んでいくような道を錯覚した。それでも、私たちは足を止めることなく走り続けた。
よくわからない感情の咀嚼。咀嚼なんてできそうにもなかった。胃が吐き出しそうな感覚を覚えたのは、きっと錯覚ではなかった。
喉元に絡みつく嘔吐感、黒色と赤色を混ぜ返した筆洗の中のような、どうしようもない彩の暴力のようなもの。
感情の整理はできない。整理している暇もない。前を向いて走り続けなければいけない。
なんとか、焦燥感を呑み込みながら、もしくは吐いては取り戻しながら、彼の家の付近までたどり着く。
──私は、心臓が凍るという感覚を初めて経験した。
◇
何台かのパトカーの姿が見えた。パトカーのランプは明滅を繰り返している。サイレンこそなりはしないけれど、集団としてやってきていたパトカーの駆動音が耳に障った。
警察官と思われる制服の大人は俊也の家の前を行ったり来たりを繰り返していく。玄関から当たり前のように侵入しては消えていった。
そのそばで、呆然とすべてを眺めている翔子ちゃんの姿が視界に入る。
涙を流すこともなく、ただ、腕をぶらりと垂らして、家に入っていく人間を見つめている。力なくぶら下がっていたけれど、それでも指先になんとか抱えるようにつまんでいた紙と、携帯の存在が、……翔也の携帯が気になってしまった。
私は、彼女に対してなんて声をかければいいのかわからなかった。
嘘じゃなかった。冗談じゃなかった。冗談であってほしかった。嘘であってほしい彼女の言葉は、真実でしかなかった。
目の前の光景は、そうでなければ再現されないはずだ。見ただけで分かる。見ただけで分かってしまう。
私はその光景に呆然としながらも、ゆっくりと足を進ませる。
翔子ちゃんに駆け寄ることができればよかったけれど、足に力を入れることはできなかったはずだ。事態の把握は頭の外に置いて、彼女の心のケアに集中しなければいけなかった。なんとなく、そんな感情が働いていた。
彼女の言動は本物だった。疑う余地もない。だから、俊也は、もう──。
呼吸がおぼつかない感覚。事態を呑み込めば呑み込むほどに、息をすることを忘れてしまう。息をすることを忘れてしまったから、意識的に呼吸をしようとする。上手く吸い込めず、吐き出すこともできない。口の中だけで呼吸を完結させて、そうして何も取り込むことはできず──。
そうして私は、意識を手放した。
◇
それからのことはあまり覚えていない。
いつの間にか、家のベッドで寝かされていて、見知っている天井だけが見えた。横を見れば、当たり前のように悠太がいた。
心配そうな顔をして、私を見つめている。私はその時に状況を把握することはできなくて、どうして私がここにいるのかを彼に聞いたはずだ。
彼は答えなかった。ええと、という言葉で何度も逃げて、本質的な答えを一切吐くことはなかった。
彼があぐねていた様子を見て、私は思索を巡らせて、──吐いた。
吐いた。吐いてしまった。嘔吐しかできなかった。嘔吐しかできず、ただ嗚咽を繰り返して起き上がった姿勢で吐き散らかした。
彼はそんな私の背中をさすってくれた。
彼の優しさに浸りたかった。でも、優しさに浸れば俊也のことをどうしようもなく思い出してしまう。さする感触を覚えるたびに、さらに吐き気がこみあげた。吐き出すものもなくなって、だんだんと酸っぱい水だけになった。手で口を抑えてもあふれ出て止まらなかった。
悪い夢なら覚めてほしい。そう思わずにはいられなかった。
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