【終】勝手に一人で

 ママは家の駐車場に車を停め、そのまましばらく黙っていた。重たい沈黙。かといって私はその場を離れることもできない。やがてママはふぅーっと大きなため息を吐いた。

「あのさ」

「うん」

「……恋華があの人のこと覚えてるとは思わなかった。ごめん」

私は驚いてママの顔を見た。こんな風に謝られたことって、これまであっただろうか。

「私はもうあの人と連絡を取りたくないし、思い出したくもない。恋華にも会ってほしくない」

「……どうして会ってほしくないの?」

ママはあまり話したくなさそうな様子で窓の外を見ていたけれど、とぎれとぎれに言葉を紡いだ。

「あの時あんたは子供だったから分かんなかったかもしれないけど……。碌な大人じゃないのよ。あんたは関係ないのに、私の元カレに傷つけられたりしてほしくない」

関係ない――。当時そう言われたときと違って、ママが私のことを心配してその言葉を使っているのが私にはよくわかった。そのせいで私はもうそれ以上何も言えなかった。前までなら、こういう時ママは明らかに機嫌を損ねて、わざと大きな音を立てて荷物を置いたり乱暴に歩いたりしていた。私はそれをいつも「みっともない」「大人げない」と内心で見下していたのに。ママの横顔がなんだか老け込んだように見えた。

「わかった。変なこと言ってごめんね」

私がそう言うと途端ママはホッとしたように表情を緩めた。

「こっちこそごめんね。今度何か好きなものでも買ってあげるから」

物なんていらなかったけれど、私は「ありがとう」とほほ笑んだ。

「……そういえばママ、メイク変えた?」

私が話を変えようと質問すると、ママは急に何よ、と弾けたように笑った。

「でもそうなの、実はマツエクするのやめたんだー」

へえーと感心したような声を出しながら、私の予感は確信に変わった。ママは私のことは相変わらず放置したまま、勝手に一人で大人になってしまったのだ。私の苛立ちは、以前より大人になってしまったママにぶつけるには適切ではない形をしていて、すっかり行き場を無くしてしまった。ママが車を降り、家に入っていく後を私も追った。ママはキッチンに立ちながら、お茶を飲むかと聞いてくれたけれど、部屋で予習をするからと言って断った。

部屋に入り、後ろ手で襖を閉めて座り込んだ。私の感情はまたママに置いてけぼりにされた。ママが再婚することがムカつくのか、シンちゃんと会えないことが悲しいのかよく分からなかったけれど、とにかくシンちゃんに会いたかった。今まで思い出さないようにしていたくせに、シンちゃんに会えば私のこのグチャグチャした気持ちも憂鬱も、全部ちゃんとどうにかなるような気がする。シンちゃんが私に言ってくれた「いつか」の機会を持ちたい。シンちゃんが私のことをどう思っていたのかが知りたい。また鯉の刺青を見せてほしい。またシンちゃんと仲良くなりたい。でも、シンちゃんはママの元恋人で、私にとってはただの他人なのだ。ママが新しく結婚する「武田さん」も、どうせ同じだ。ママにとっては大切な旦那さんで、私にとっては何でもない人。ママばかりが、自分を大切にしてくれる人を連れてくる。じゃあ、私のことは誰が大切にしてくれるのだろうか。ママが大切にしてくれなければ、いったい誰が。

「あー……」

 胸の奥に石が詰まったように苦しい。苦しみの答えを知りたくて、スマホを手に取って検索エンジンを開いてみたけれど、そこに入力するべき言葉は何も思い浮かばなかった。救いを求めるように自分の棚の引き出しを無意味に開けて、気を紛らわそうとする。ガラクタのようなストラップや髪留め、過去に友達からもらった手紙。いまの私の心を落ち着けてくれるものは何も見つからない。焦るような気持ちで棚を漁っていくと、白い四角い箱が目に留まった。昔使っていた、ミサンガ用の刺繍糸を入れていた箱だ。シンちゃんとミサンガを作ったことを思い出して、私は恐る恐る蓋をあけた。

「……なにこれ」

 一瞬心臓が止まったかのように思った。シンちゃんと二人でミサンガを作ったあの日、綺麗に束ねられていた刺繍糸のうちの一つを母に台無しにされて、嫌になって私が全部ほぐしてしまったはずだった。それなのにいま、すべて白い台紙に丁寧に巻かれていた。売り物のようにとまではいかないけれど、ぐちゃぐちゃにならないように慎重に巻かれたであろうことが伝わってくる。しかも、色がきちんとグラデーションになるように箱に詰められていた。たかが刺繍糸が台無しになっただけで、どれだけ私が悲しかったか。その気持ちをママに理解してもらえなくてどれだけ辛かったか。そんな私の気持ちを分かってくれて、大事にしてくれた人。私はこれをやってくれたのがシンちゃんだと、ほとんど確信していた。シンちゃん以外にありえなかった。シンちゃんは、いつも私に無理強いをしなかった。私が人の多い公園に行きたくなかった気持ちを汲んでくれた。ママが刺繍糸をグチャグチャにしてしまったときも心配してくれた。水族館に連れていってくれた。イルカショーを前の席で一緒に見てくれた。やっぱり、シンちゃんに会いたいな。あんなに苦しかった胸の奥は刺繍糸を見ているうちに少しだけ楽になっていた。赤い刺繍糸が巻かれた台紙をそっと手に取る。裏返してみると、台紙のあまったところに「あか」と赤いマーカーで書かれていた。それを見た瞬間、私の喉の奥から息が震えるように飛び出して、目から熱い液体がボロボロとこぼれ落ちてきた。隣の部屋にいるママに聞こえないように、私は一生懸命声を殺して泣いた。見間違えようもない。その丸い字は、紛れもなくママの字だった。

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ママの彼氏のコイキング 青い絆創膏 @aoi_reg

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