私とシンちゃんは

「ひさしぶり」

 私を見るや否やまるではじめましてみたいな顔で笑ったシンちゃんは、見たことない黒いスウェットを着ていた。私は小学校に毎日通っていたからなかなかシンちゃんとタイミングが合わなくて、その時が久しぶりの再会だった。シンちゃんはソファの下で足を組んで座っていて、なんとなく居心地が悪そうだ。そわそわを落ち着きがないシンちゃんの足には、少し色あせた赤とオレンジのミサンガがまだついていた。

「今日はママおでかけしたの?」

 まだ起きたばかりだった私は、ぎゅっぎゅっと力を込めてまばたきをしてシンちゃんに問う。

「うん、お留守番しててだって」

「ふぅん」

 私は台所にあったスナックパンの袋を開けて、二本取り出してお皿に乗せた。シンちゃんはちょっと何か言いたそうな顔で私のことをじっと見ている。私もシンちゃんに何か言いたいと思ったけれど、口に入れたスナックパンが水分と一緒に私の言葉まで奪っていってしまったみたいだった。

「俺ももらっていい?」

「うん」

 私がお皿をシンちゃんの方にぐっと寄せる。前は二人でラピュタパンを食べた。今日は前よりちょっとだけ寂しいごはんだ。

「シンちゃん」

「ん?」

 最近あんまり来ないのはどうして?ママと何かあった?気になるけれど、なんとなくそれは聞けない気がした。

「水族館いきたい」

 ほんの一瞬だけ、シンちゃんの顔がこわばった。すぐに口角をあげて「いいよ」とシンちゃんは言ってくれたけれど、私はその一瞬がすごく嫌で、一緒に水族館に行っても悲しくなるだけな気がした。いいよ、と言われたのもなんだか嫌で、喉の奥の奥の方がもやもやする。けれど自分の発言を引っ込めることもできず、私はシンちゃんが出かける準備を始めたのを為すすべもなく見ていた。

シンちゃんと私は三十分くらい電車に乗って、海のそばの駅で降りた。明るい太陽の光で海がキラキラと光っていて、親子やカップルの楽し気な声が響いている。ぴゅーぴゅー音を立てて吹いている潮風が、全身の毛穴という毛穴を通り過ぎっていったみたいに私の身体を冷やした。それは私に、べったりと通り過ぎた痕跡を残していく。シンちゃんのもじゃもじゃの髪の毛は、よく潮風が絡みそうだと思った。私たちが横にびろーんと伸びた階段をのぼっていくと、水族館の入り口につながるゲートが見えた。赤や黄色や青のカラフルな絵具で描かれた魚やイルカが、ゲートの真っ白な壁に思い思いに散らばっている。シンちゃんの腕で泳いでいる鯉よりもうんと呑気な顔をしていて、ちょっとむかつく。私と同じ年くらいの女の子が、お父さんとお母さんに手を繋がれて楽しそうに私の横を通り過ぎていくのを見て、彼女も絵具で描かれた魚とおんなじ顔をしている、と思った。半円だけを使って描いたみたいな目と口。私はシンちゃんの少し後ろを歩いていたからどんな顔をしているか分からなかったけれど、多分、半円の顔はしていない。

「シンちゃん、なんの魚見たい?」

「鯉かな」

 シンちゃんが冗談を言ってくれたのが嬉しくて、私はへへっと笑った。

「鯉はいないんじゃないの?」

「ここにしかいないかも」

「シンちゃんの腕」

「そう」

 青い帽子をかぶったチケットもぎりのおじさんの前を通り過ぎて、私は小走りでシンちゃんの横に並んだ。おじさんに一枚だけもらったパンフレットをシンちゃんは当たり前のように私に渡して、「何が見たい?」と聞いてくれた。折りたたまれたパンフレットを広げると、私の腕はすしざんまいのおじさんみたいに広がった。右下にイルカがジャンプしている写真があって、可愛い。

「私、イルカが見たいなあ」

「あれ、鯉は見ないの?」

 公園からの帰り道、シンちゃんは私の視線から鯉を逃がそうとした。てっきり私には見られたくないんだと思っていたので、シンちゃんから鯉の話をしてくれたのにちょっとびっくりした。

「見てもいいかな」

 私が変な言い回しをするとシンちゃんは、「なんだそれ」と言って、ハハン、みたいな声で笑った。

「イルカショーもうすぐやるって。みる?」

シンちゃんは私がいっぱいに広げているパンフレットを見て、イルカショーの予定時間が書かれているところを指さした。

「みる」

「前の方がいい?」

「前の方がいい」

 シンちゃんは私の望みを全部提案してくれて、私はついついオウム返しするだけになってしまった。

「大丈夫?」

 シンちゃんは私の顔を心配そうにじっと見た。なんだかすごく久しぶりに、シンちゃんの顔を真正面から見た気がした。

「うん。嘘ついてないよ」

「よかった。恋華ちゃん、自分のしたいことあんまり言わないから」

 『いるかのプールはこちら➡』と書かれた案内にそって、シンちゃんと私は並んで歩いた。シンちゃんの横顔は水槽の明かりに照らされて薄青く光っていて、まるで夢の中みたいだ。

「シンちゃんには、言えるよ」

 でもママには言えないの。私は心の中でそう付け加えたけど、シンちゃんからはなんの返答もなかった。小指の先ほどの小さな魚と大きな黒い魚が並んで泳いでいる水槽を通り過ぎると、真っ黒な自動ドアがあった。人が通るたびにすーっと開いて、外の光が差し込んできている。

「シンちゃんは、ママのこと好きなの?」

「え?」

 シンちゃんは視線を自動ドアに向けたまま、口元を笑顔の形にゆがめた。私たちが近づくと、自動ドアが私たちのことを迎え入れてくれる。一面に広がった青い空と、屋根のついた大きなイルカのプール。透き通った青い水の周りを無数の座席が取り囲んでいる。イルカが泳いでいる。イルカも見たかったけれど、私はシンちゃんの返事を待っていた。なんでか分からないけれど、この質問がどれだけシンちゃんを嫌な気持ちにさせるとしても、聞かなくてはいけないと思っていた。

「うん。好きだよ」

 シンちゃんは相変わらず笑顔の偽物みたいな唇のゆがめ方をしていたけれど、私はそれでひとまずはホッとした。

「どうして好きなの?」

「……どうしてかなあ」

 言いながら、イルカのプールの目の前に位置する座席にシンちゃんは座る。椅子は少し濡れていた。私が隣に座るとシンちゃんの肩とぶつかった。

「ママは……正直だよね。すごく。俺はあんまり思ったことを言うのが得意じゃないから、素敵だなと思うよ」

 シンちゃんは相変わらずこっちを向かない。イルカショーのステージの上では飼育員さんがバケツをもって何か準備をしているけれど、シンちゃんはそれも見ていない。どこかずっと遠くの方を見ているみたいだった。

「私もシンちゃんと、おんなじ」

「そーう。同じ」

 シンちゃんは二度頷いた。人がどんどん増えている。飼育員さんが挨拶を始める。

「私のことは好き?」

 シンちゃんは少し困ったように眉を下げて、それから私のことを見た。怖くて、心臓にいっぱい血が流れているのが分かった。シンちゃんの返答は思ったより早かった。

「うん。恋華ちゃんのことも好きだよ」

 ぴぴーっと音が鳴って、イルカが飼育員さんの側に集まった。私はイルカに興味がうつったようなふりをして、シンちゃんから目をそらした。恋華ちゃんのこと、も、とシンちゃんは言った。


 帰りの車の中で、私とシンちゃんは水族館の感想を話した。イルカショーのイルカがすごかったこと、マンボウが怖かったこと、クジラが大きくてかっこよかったこと。でも鯉はやっぱりいなかったね、と私が言うとシンちゃんは声を出して笑った。

「希少生物だからね」

「希少生物?」

「レアってこと」

「ふーん。すごいね」

「うそうそ。結構いるよ、鯉は。どこにでも」

 夕焼けが私とシンちゃんの全身をオレンジ色に染めていた。まるで、私たちは道路の上を泳ぐ、二匹の鯉だった。シンちゃんの腕を見るけど、鯉は見えない。

「ねえコイキング」

「うわ、また言ったな。なに?」

 シンちゃんのわざと作ったしかめっ面の横顔を見て、私は声をあげて笑う。私とシンちゃんの間の空気が少しだけあったかくなった。コイキング、はきっと私とシンちゃんが仲良くするための合言葉だ。シンちゃんは、オレンジ色の中でひときわ色濃く見えた。

「どうして鯉がいるの?」

 鮮やかだった夕焼けは、少しずつその彩度を下げていった。シンちゃんは「うーん」と首を傾げ、夕焼けの届かない小道の方へハンドルを切った。

「ずっと昔に、辛いときがあって」

「うん」

「その時にいれたんだ」

 私は「辛いときって?」と聞き返したけれど、シンちゃんは「いろいろね」と言葉を濁した。

「いつか教えてくれる?」

「うん。君が大きくなったら、いつか」

 シンちゃんがすごく真面目な顔をしていたから、私もおんなじくらい真面目な顔をして「わかった」と深く頷いた。シンちゃんが私に教えてくれなかった「辛いとき」は、きっといわゆる大人の事情ってやつで、私には想像もつかないようなことなのだろうと思った。私がどんなに真面目な顔をして、一生懸命聞いても、力が及ばないようなことだ。結局、その日以来私がシンちゃんと会うことは二度となかった。ママはシンちゃんなんてまるで最初からいなかったみたいに振る舞っていて、私の夢か妄想だったのかもしれないと思ってしまうほどだった。でも、ママは何度も何度も西野カナの『涙色』を聴いていて、それで私はシンちゃんとの日々が本物だったことを確認していた。私もずっとママに合わせて何もなかったみたいな顔をしていたけれど、たった一度、本当にたった一度だけ「シンちゃんが連れていってくれた公園に行きたい」と口を滑らせてしまったことがあった。ママの目はそれを聞いた瞬間に三角になって、強い口調で吐き捨てた。

「何?嫌味?わざとそういうこと言ってんの?」

「ごめんなさい……」

「あのさ、あんたとあの人は、関係ないから」

 あまりにも強い口調に私はただ茫然としてしまって、二度とシンちゃんの話をしなかったし、思い出さないようにすらしていた。シンちゃんのことを思い出そうとすると、ママの怒り狂った顔も一緒に思い浮かんでしまいそうで、怖かった。


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