私とコイキング

「恋華、明日はママ用事あるから、シンちゃんと留守番しててくれる?」

 ママからそれを聞いた瞬間、嫌だと思った。私は彼に慣れてきてはいたけど、二人きりで一緒にいたいとは全く思えなかった。彼はちょっとだけ気まずそうな表情で、

「どこかお出かけする?」

 と聞いてきた。私は首を横に振る。

「ひとりでいるよ」

「わがまま言わないの」

ママがぴしゃりと言い放つ。私は目いっぱい不機嫌な顔をしてみたけれど、ママには通じなかった。「シンちゃん」だけが、私とママに挟まれて困ったような様子でいた。彼は臍のあたりで組んだ両手に目を落としながら、「まあ、明日考えようか」と独り言のように言った。

 翌朝目を覚ますと、ママと彼の布団は既に片付けられていて、薄暗い和室に私は一人きりだった。もう一度眠ろうと目を閉じたけれど、なんだかすっかり冴えてしまっていてちっとも眠れない。私はうつ伏せのまま顔だけで横を向いて、指先でカリカリと畳の目をひっかいた。襖の向こうはひどく静かだったけれど、時折カタンと物がぶつかるような音が聴こえてきた。私は起き上がって、襖と壁の間に指を挟んでそぉっと襖を開けた。数センチほど開けた隙間を覗き込むと、彼がソファに座ってぼんやりとしているのが見えた。「カタン」という音の正体は、彼が飲み物を飲んでいるマグカップだった。しばらくじっと見ていたけど彼はほとんど身じろぎしなくて、まるで動物園のライオンみたいだと思った。動かない彼を見るのに飽きて、私は襖をぐっと押し開けた。彼がぱっとこちらを振り向いて、ほとんど錯覚なんじゃないかと思えるほど微かに笑った。

「おはよう」

「おはよう」

 彼の挨拶に私は小さい声で応じた。

「朝ごはん、食べる?」 

 私がこくりと頷くと彼は立ち上がってキッチンに向かった。その仕草がなんだかやけにのっそりしているから、恐らく彼は眠いのだろうと思った。私はソファの上で体育座りをして、朝食の支度をする彼の大きな背中を眺めた。ママが料理を作るときは、あっちに行ったりこっちに行ったりバタバタしているけれど、彼はほとんど腕しか動かない。

「パン焼いてくれる?」

「うん」

 私は彼のそばまで行き、トースターの横に置かれた籠から食パンを二枚抜いてトースターに並べた。下の方にパンくずがたくさん落ちている。トースターの中がじりじりと赤くなって、パンに焦げ目をつけていくのを黙って見つめた。彼もほとんど何も喋らない。眠いのか、話す気がないのか、どちらにせよありがたかった。私が二枚の皿にそれぞれトーストを載せると、彼は横にちぎったレタスとトマトを添えて、トーストの上にベーコンと目玉焼きを載せた。

「ラピュタのやつだ」

 はじめてテレビで見たときからずっと食べたいと思っていた。ジブリの『天空の城ラピュタ』に出てくるトースト。私が「おいしそう」というと、彼は今度は確かに笑った。

「おいしいよ」

「黄身、固い?」

「うん。大丈夫?」

「うん、固いのがいい」

 私がお皿を持とうとすると、彼は「持ってくよ」と二枚ともリビングの机までもっていってくれた。机が低いので、私も彼もソファではなく座布団の上に座った。

「何か観る?」

「うん」

「アニメ?」

「ううん、めざましテレビ観たい」

 私がそう言うと、彼はテレビをつけてチャンネルをフジテレビにあわせた。

「いつもこれ観てるの?大人だね」

「きょうのわんこ観たいから」

「あぁ。なるほど」

 いただきます、と手を合わせてトーストを齧った。お腹が空いていたからか、耳の下のあたりがツーンとして、口の中に涎が出てきた。トーストの上に乗った目玉焼きとベーコンは上手く千切れなくて、トーストは一口しか食べていないのに、目玉焼きとベーコンは三口分くらい食べてしまった。ちょっと食べづらい、と思ったけれど私はにっこり笑ってトーストを褒めたたえた。

「美味しい。黄身が固い」

「おお、良かった」

 彼はちらりとこちらを見て、視線をテレビに戻した。鮮やかな色合いのスタジオでニュースキャスターが喋っている。東京のすみだ水族館でやっている期間限定のイベントを紹介しているようだった。

「水族館とか、行く?今日」

 行ってもいいかなとも思ったが、昨日の夜に不機嫌そうにしてしまったから、今更素直になるのはなんだか恥ずかしかった。もう少し不機嫌を継続させておこうと、私はトーストに視線を落としたまま「んー」と曖昧な返事をした。彼はそうか、と呟いた。もう一回聞いてくれたら行こうと思っていたけれど、一回しか聞いてくれなかった。

 結局私たちはしばらく家でダラダラして、昼におにぎりを持って近くの公園まで歩いた。彼と外を出歩くのは初めてで、その大きな歩幅に驚いた。彼は小走りになったのにすぐ気が付いて、私と歩みを合わせてくれた。私たちは並んで歩いていたけれど、やけに距離が離れていた。

「ママがいないとき、いつも何してるの?」

「お絵描きしたり……ミサンガ作ってる」

「ミサンガ作れるんだ」

「うん、太いの作れるよ」

「すごいね。今度作り方教えてよ」

「うん」

 作り方は本で知った。ママが連れていってくれた図書館で、ミサンガの作り方が書いてある本を探したのだ。最初はママに聞いたけれど、ママは三つ編みのミサンガの作り方しか教えてくれなかった。「それしか知らない。でも可愛いし、いいでしょ」と言って、私の好きな黄色とオレンジ色の刺繍糸で作ったミサンガをひょいっと投げてよこした。

「公園、ひとおおいかな」

 道の小石を蹴りながら私はそう言った。いっぱいひとがいるのが苦手だった。特に同い年くらいの知らない子がたくさんいると、恥ずかしくて上手に遊べないから、公園に行くのが少しだけ怖かった。

「どうかな、土曜日だからたくさんいるかもしれない」

「そっかぁ」

 彼は私がポンと蹴った小石を捕まえて、ポーンと私の方に飛ばした。

「人多いの苦手?」

 そう聞かれてびっくりして、私は小石を捕まえそこなってしまった。出かける時にはママにいつも同じことを質問していたけれど、人が多いことが嫌なのかと聞かれたことはなかった。たいてい「多いに決まってるじゃん」とイライラした口調で言うか、「たくさんお友達できるんじゃない?」とニコニコ笑って言うかのどちらかだった。

「うん、ちょっと怖い」

「そっか。じゃあたくさんいたら別なところに行こうか」

「いいの?」

 彼はさっきよりも少し大きめの石を、私の前に向かってぽーんと蹴った。

「うん。俺も人が多いのは嫌いなんだ」

「私とおんなじ」

「そう」

 目の前にやってきた石を私もぽーんと横に蹴った。石はころころ転がって、彼の足元で速度を緩めた。

「公園、見えてきたよ」

 彼が指さした先に、大きくひらけた空間があった。小走りで近くまで駆け寄ると、緑の芝生で覆われた地面、屋根の付いたベンチ、白い山のようなトランポリン、赤と黄色の目に眩しい滑り台、それから青いブランコが見えてきた。ブランコには私と同い年位の子二人が乗っていて、後ろから他の二人が背中を押している。屋根の付いたベンチでは白い帽子をかぶった女の人と赤ちゃんがお弁当を食べていて、白いトランポリンは私より少し年上くらいの子たちによって占拠されていた。

「どう?」

 彼は私の顔を覗き込んだ。私はトランポリンにたくさん小学生の子がいるのが怖くて、ここではちゃんと遊べない、と思った。

「うん……」

 私が中途半端な笑みを浮かべてもじもじしていると、彼は小さく笑ってちょいちょいと手を手招きをした。

「他のとこいこうか」

「大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 彼はやっぱり少し私とは離れて歩いて、とても小さくて静かな公園に連れていってくれた。そこには誰もいなくて、ブランコと滑り台とベンチが一つあるだけだった。何本か大きな木が立っていて、公園の周りは緑色のフェンスで覆われている。草がぼーぼーと生えていて、たくさん蚊がでそうだった。

「すごい、誰もいないね」

 私は感嘆の声を挙げた。ブランコや滑り台に順番待ちの列が出来ていない光景を私はほとんど見たことがなかった。

「おにぎり食べようか」

「うん」

 彼は私の前を歩いた。白い長そでのTシャツの背中のところに、肩甲骨が浮かび上がっている。ママとは違う、ゴツゴツした背中だ。彼は腕を伸ばしてベンチの砂を落として、「どうぞ」と私を座るように促した。

「シンちゃんも、どうぞ」

「どうも」

 彼は私の隣を少し開けて座って、持ってきた袋からおにぎりを取り出した。出かける前に一緒に握ったやつだ。私が握った方はとても大きくて、海苔のサイズが足りずに白いお米が見え隠れしている。彼が握ったものは真っ黒で、お米が見えなかった。彼は私に「どっちがいい?」と聞いた。

「私のやつ」

「大きいけど平気?」

「うん」

 正直食べきれるか分からなかったけれど、自分が握ったほうを食べたかった。私は彼からおにぎりを受け取り、ラップをめくってかぶりついた。彼も同じようにしておにぎりをほおばる。私は両手でおにぎりを食べているけれど、彼は片手で食べている。真似しようと思ったけれど、お米が零れ落ちそうになって、やめた。

「恋華ちゃん」

 名前を呼ばれて彼を見上げた。しかし、彼は少し遠くを見たまま何も言わない。怒られるかもしれない、と思っておにぎりを食べるのをやめて次の言葉を待っていると、やがて彼が口を開いた。

「シンちゃんって呼ばなくてもいいからね」

「え?」

 怒られなかったけれど、予想外の言葉だった。シンちゃんでなければ、私は彼を何と呼べばいいのだろう。だって、ママにはシンちゃんとしか教えられていない。

「ママがそう呼んでるだけだから」

「じゃあなんて呼べばいいの?」

「うーん……。なんでも。好きなように」

「シンちゃんは、名前なんていうの?」

「慎之介」

「しんのすけ……」

 私はなんだかおかしくなってくすくす笑った。毎日横に並んで寝ていたのに、本当の名前をいま初めて知った。シンちゃんの名前はシンちゃんじゃなかった。彼は、なんだよと言って私と同じようにくすくすと笑った。笑うと目がなくなって、優しそうになった。私は優しそうな彼を見て、いまなら何を聞いても怒られないかもしれない、と思った。

「ねえねえ」

「なに?」

「あのね、腕になにか模様あるでしょ」

 彼の目がすぅっと元に戻って優しい顔じゃなくなった。けれど怖い顔じゃなくて、どちらかというと私がママに怒られているときみたいな、少し悲しそうな顔だった。

「見てみたい」

ずっと気になっていた。彼はいつも長袖を着ていたから一度もきちんと見たことはないけれど、たまに袖から黒い模様がチラチラと見える時があった。袖の中にどんな模様が隠されているのか、私はそれを知りたくてしょうがなかった。彼は食べ終わったおにぎりのラップを袋の中に突っ込んで、右腕の服の袖をさすった。

「ママに見せるなって言われてるからなあ」

「私、言わないよ、内緒にする」

「そう?」

 彼はにやりと笑って服の袖を少しずつずらしていった。黒い模様の端っこが見えて、私は彼が袖を完全にまくり終わるのをドキドキしながら見守った。

「はい」

 彼の腕には大きな黒い魚が泳いでいた。黒く艶々した魚の周りには小さな花がたくさん咲いている。綺麗だけど、魚の目はぎりっと何かを睨むようにするどかった。

「すごい、なんの魚?」

「鯉だよ」

「鯉!?」

 びっくりしてもう一度魚を見た。私の知っている鯉はこんなに怖い感じじゃなかった。

「コイキング?」

 私が言うと、彼は声をあげて笑った。さっきみたいに目がすぅっとなくなって、私は少し安心した。

「コイキングってポケモンの?弱いやつ?」

「うん。すごく弱いやつ」

「失礼な」

彼が怒ったふりをするのが嬉しくて、彼の目を見て「コイキング」と呼ぶと、彼はより一層はじけたように笑った。

「誰がコイキングだ、この」

 鯉の目も、彼の目と一緒にちょっとだけ穏やかになったような感じがした。

「コイキング、わたしブランコ漕ぎたい!背中押して」

「はいはい」

 しょうがないな、といった感じで彼は立ち上がった。少しだけ乱暴な口調がなんだか嬉しい。私は「コイキング、コイキング」と歌うように口ずさんだ。

「それ、ママがいる時は言わないでよ」

「言わない、見たのばれちゃうもん。コイキングのことは、シンちゃんって呼ぶ」

「結局シンちゃんなんだ」

 ブランコの椅子の部分は木でできていて、少し湿っていた。私が座ると、シンちゃんは私の背中を掌でゆっくり押した。そうしているうちに少しずつ揺れが大きくなっていって、公園に生えている高い木々よりもずっと高いところを飛んでいるような気がした。

「コイキングもブランコ乗ってよ」

「コイキングはデカいから乗れない」

 えー、と私が不満そうな声をあげても、シンちゃんは一定のリズムでずっと私の背中を押してくれていた。空と、シンちゃんの手の間を私は何度も行き来する。


「この公園また来たいな」

 私が名残惜しそうに公園を振り返ると、シンちゃんは私の肩をトントンと叩いた。

「子供だけでは来ちゃだめだよ」

「どうして?」

 私が聞くとシンちゃんは「ちょっと待って」と言って少し歩き、振り返って公園の方を指さした。

「ここから公園見えないでしょ」

「うん」

確かに、公園はすっかり見えなくなった。私が今いるところからは、入り口にあった公園の名前が書いてある木の棒のような表札がかろうじて見えているだけだ。

「あの公園は木がいっぱいあって、フェンスも高いから周りから見えなくて危ないんだよ。もし変な人がいても周りの人に気づかれないでしょ」

「そっかぁ……」

 聞いて、私は最初に行った広い公園のことを思い出した。あそこの公園は木もフェンスもなくて全部よく見えたから、すごく安全な公園なのだろう。それに、あっちの方が遊具もたくさんあるし、綺麗だ。でも、小さくて草がぼーぼー生えたこの公園のほうが、私には一番心が安心する場所に思えた。

「また一緒に来よう」

「うん」

 嬉しくて、私の横で揺れていたシンちゃんの手をつい握りそうになって、やめた。シンちゃんはお父さんじゃない。私は中途半端に持ち上げて居場所を失った手を、自分の胸のあたりでブラブラさせた。この変なふうに浮かんでしまった手は、元々どうやって体の横についていたのだろう。思い出せなくて、ずっとふらふらと手を弾ませていた。シンちゃんは「何してんの」と少し笑って、私と同じように胸の前で手をブラブラさせる。辺りは昼間より少しひんやりしていて、秋の始まりみたいな柔らかい匂いがする。思ったよりもずっと楽しい一日だったことも相まって、その匂いは余計に甘くて優しいものに感じられた。

「水族館に、鯉いるかな」

 水族館に鯉がいないことを分かっていたけれど、ついぽろっとそんなことを言ってしまった。シンちゃんはうーんと少し考え込む仕草をして、見たことないなあと言う。私はそっかと返事をしながら、もう袖で隠れてしまった鯉を探すように、じっとシンちゃんの腕を見つめた。シンちゃんはそれに気が付いて、私の視線から鯉を逃がすように自分の胸の前で腕を組んでしまった。せっかく仲良くなれたのに、なかったことにされたみたいでちょっと悲しい。悲しい、と思うと、私の手はちゃんと身体の横にぴたっと戻ってきた。でも、今度は右手と左手がお腹の前でくっついちゃって、なんだかしょんぼり寄り添っているように見えた。

「今度は水族館に行こうか」

 シンちゃんの声が頭の上から振ってきた。シンちゃんがどんな顔をしてるか見るのが少し怖くて、私はくっついた右手と左手に視線を落としたまま「うん、行く」と素直に返事をした。それから、シンちゃんは今日の夜ご飯のこととかテレビのこととかを話してくれた。そんな優しい声じゃなくて、さっきのシンちゃんの少し乱暴な声がまた聴きたいのに、と思った。

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