ママの彼氏と私
私が小学校にあがったばかりくらいの頃、ママはその人を家に連れてきた。もじゃもじゃの黒髪で、ガタイがよく、肌は日に焼けている。まだ分別がついていない年ごろの私でさえ、その男の人をなんだか怖い人だと感じた。けれど、ママはその人のことをほとんどまともに紹介しなかった。
「恋華、この人ね、私の友達」
か細い声で私はうん、とだけ返事をした。それ以外に何を言えただろうか。自分の家に見ず知らずの人間がやってきたことが当時の私にはあまりにも異常事態で、「この人はいったい何者なのか」というあたり前の疑問さえ湧かなかった。
「恋華ちゃん」
その大きな男は私に合わせてしゃがみこんだりすることもなく、そのままの高い位置から私に話しかけた。私が恐る恐る男の顔を見上げると、男は太い腕を突き出して私にピンク色の包装紙に包まれた小さな箱を手渡してきた。
「あげる」
えっ、と私が固まっていると、ママが「えー!」と甲高い声をあげた。
「うそー!よかったね恋華!」
ママはまるで自分がプレゼントをもらったかのように顔をほころばせ、私に「ありがとうは?」と促した。私は促されるままに男にお礼を言い、笑顔でプレゼントを眺めた。包装紙にプリントされた小さなウサギの顔をじっと見つめながら、自分の感情をママにとられてしまったような、勝手に他の違う感情に置換されたような、そういったすわりの悪さのようなものを覚えていた。包装紙の中から出てきたのはスマートフォンの形をした音が鳴るおもちゃで、その時の私には少し幼稚すぎたのだが、私は何度か音を鳴らして遊んでいるところを見せた。それで、二人は満足そうな顔をした。
「今日の夜ご飯は、三人で餃子つくろう。恋華とシンちゃん、二人で包んでね。私が焼くから」
シンちゃんと呼ばれた男は「餃子、包んだことないわ」と困ったように眉をひそめた。
「恋華が包めるから大丈夫。ね、恋華」
「お、じゃあ先輩、頼りにしてます」
冗談めかしてそう言った「シンちゃん」に、私は曖昧に笑って肯いた。
ママが用意した餃子のタネを小さな食卓の上において、私と「シンちゃん」は向かい合って座った。ママは時々チラチラとこちらを見ながらボウルや菜箸を洗っていた。具を包んでヒダをつけた餃子の皮を、私が「こうやるの」と遠慮がちに見せると、「シンちゃん」はふんふんと頷きながらそれにならってヒダをつけた。彼の手は茶色くてゴツゴツとしていて、動きはちっとも繊細じゃない。私は生まれて初めて間近に現れた成人した男を、珍獣でも見るような心地で観察していた。餃子のヒダづくりに集中している振りをしながらじっと彼の腕を眺めていると、肘のあたりに黒い影のようなものが見え隠れしているのに気が付いた。
「なんかついてる」
私が彼の腕を指さすと、彼は「あー」と気まずそうにしてママのほうをチラリと見た。ママは何も言わない。
「ちょっとね」
「ちょっと?」
そー、と言ってそのまま彼は大きな手でチマチマと餃子の皮をいじっていた。私がいまだに彼の腕のあたりをじっと見つめているのには気が付いていたはずだが、それ以上なんの反応もしめさなかった。私は聞いてはいけないことを聞いたのだ、となんとなく思った。皮にヒダをつけたたくさんの餃子を銀色のバットに並んだ。私が大げさなほど無邪気な声で「いっこ、にこ、さんこ」と数え始めると、彼も合わせて「よんこ、ごこ」と数えた。いつの間にか近くに座っていたママは、微かに口角をあげながら私たちのことを見ている。その視線を感じながら、指をさして餃子を数える。
「きゅうじゅうきゅー、ひゃーく!」
「はい、ありがとう。焼くね」
ママがそう言ってバットをキッチンに持っていくころには、私はすっかりクタクタになっていて、目の前の見知らぬ男と楽しくお喋りをしたいとは思えなかった。私はテレビを食い入るように見つめて、あたかもバラエティ番組に夢中になるふりをした。椅子に座って横並びになった人たちがひたすら喋っている番組で、私にはあんまり意味が分からない。「シンちゃん」も私とお喋りするつもりはないみたいで、同じようにじっとテレビを見つめていた。
それから彼は週に何回か家にくるようになって、気が付いたらほとんど毎日いるようになった。ママは私と彼が話をしていると嬉しそうにする。私は、ママのいるところでは出来るだけ彼に話しかけるようにしていた。私はママと彼に同じような態度で接するように努めていて、ママは私がすっかり「シンちゃん」に心を許したと思ったみたいだった。
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