ママの彼氏のコイキング

青い絆創膏

【始】ママの再婚

「再婚しようと思うんだけど」

 ほんのりレモンの味がするお冷を出してくれるレストランで、ママは意を決したようにそう言った。自分の親の怯えを孕んだ表情を見るのは、なんだか奇妙な心地がした。恐る恐る何かを打ち明けるのは、いつだって子供の側のはずだ。

「……そっか」

私は制服のスカートの裾を指先でいじりながら言葉を探した。やだ、誰と?相談してよ。ううん、ママが欲しい言葉はそんなのじゃない。

「うん、私は全然良いと思うよ」

「ほんと?」

「うん。反対する理由ないよ。ママが決めたことだもん」

 だいたい、いちいちそんなお伺いを立ててきたことなんてなかったじゃん。喉元まで出かかった言葉をぐっと飲みこんで、私は微笑んだ。

「どんな人?」

「前、友達紹介したの覚えてる?」

「あぁ、うん。武田さん?」

「うん、その人」

 ママの行きつけの居酒屋に連れていってもらったときに、たまたま隣の席に座っていた人だ。人がよさそうな、なんだかつるりとした印象の人だったのを覚えている。私にやたら優しく話を振ってくれたのは、もしかしたら当時からママとそういう仲だったのかもしれない。

「いいじゃん。良い人そうだったし」

「ほんと!良かった~」

 ママは口角を緩めて、まだ自分の皿に少し残っていたハンバーグをパクパクと口に運ぶ。ハンバーグの茶色いソースがママの真っ赤な唇に色を残したのを見て、私はなんとなく目を伏せた。

「でも、どうして武田さん?前も彼氏はいたけど」

「んー」

ママは少し悩むような素振りを見せたあと、言った。

「やっぱね、優しいのが決め手かな。武田さんって不機嫌になったり怒ったり全然しないのよ。のんびりしてるっていうか。あと話し合いが出来るのもいいんだよね。嫌なことはきちんと嫌って言ってくれるし、私の話も聞いてくれるし」

 まるで排水溝の詰まりが取れたように突然口数を増やしたママとは対照的に、私は小さく相槌を打つのみだった。

「うん」

「あんたもさ、優しい人見つけなよ。男らしさより優しさの方が大事だかんね」

「確かにね」

「今は彼氏いないんだっけ?」

「いないよ」

「ふうん。いろんな人と付き合いなね、その方が目が養われるからね。失恋すればするほど経験値は養われていくんだから」

「わかった」

 私の顔がにっこりと笑ってさえいれば、たとえ口数が少なくてもママは気にしない。言葉よりも表情の方が嘘をつくのは簡単だから、私としてはそれがとてもありがたかった。ママはすっかり上機嫌で、私が満腹だと訴えるのもおかまいなしにチョコレートパフェを二つ頼んだ。仕方なく詰め込んだチョコレートパフェはほとんど味を感じなかったが、混みあがってきたゲップだけはやたらと甘ったるかった。

 帰り道の車の中で、小泉今日子の『あなたに会えてよかった』が流れている。ママは調子が良いときは大抵小泉今日子とかゆずを聴いていて、調子が悪いと竹内まりやとか西野カナを聴いている。原曲よりも1オクターブ高いママの鼻歌を聴きながら、道の端に立った街頭が次々と現れては消えていくのを眺めていた。道行くおじいちゃんが連れている犬の犬種がなにかを考えているうちに、おじいちゃんと犬は街頭と共にすっかり視界から消えてしまっていた。

「今度、三人で出かけようよ。恋華も急に一緒に住むのは嫌だろうから、徐々にさ」

 いつかは一緒に住むことがもう確定しているのだろうか。知らない男と、ママと三人で。私は窓の外に目をやったまま「うん。ありがとう」と明るい声色で答えた。明日の数学の予習がまだ途中だったことを何故か急に思い出したが、帰ってから手をつけてもきっと終わらないだろう。微分積分を頭から振り払う。――サヨナラさえ上手に言えなかった――軽快なリズムと小泉今日子の歌声がやけにうるさい。

「ねえ」

「なに?」

 ママは前方を見たまま少しだけ眉をあげた。

「結婚する前にさ、一つだけお願い聞いてくれない?」

「えぇ~、なに?」

 声の語尾が上がる。私は自分のブレザーの袖をギュッと掴んで、ママの声に混ざった不満げな響きを耳から追いやろうとした。

「もういっかい会いたいんだよね……あの人に」

「……は?誰のこと?」

 表情が消えたママの顔に私は怯んだが、引かなかった。

「昔一緒に住んでた人」

 完璧に引かれたママのアイラインを視線でなぞりながら、さも何でもないことかのように私は言った。

「無理に決まってるでしょ」

 ママの声がピリオドになったかのように、小泉今日子の歌声が止む。すぐにゆずの『夏色』の陽気なメロディが流れ始めて、私とママの間の重苦しい空気をより一層際立たせた。ママは乱暴な手つきでボタンを操作して、まだ歌い始めてもいないゆずの『夏色』を止めた。

「っていうか。あんたもうほとんど覚えてないでしょ。今会ったって、知らない人と会うようなもんだよ」

「……そんなことないよ」

 ママは分かりやすく大きなため息をつくと、ハンドルを切って交差点を右に曲がった。街頭の数が減って、住宅街になった。私たちが住む小さな貸家はもうすぐそこだ。

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