第246話 トレーニングを終えて

「それじゃあ今日はこのくらいにしておくか」


「うん。もうそろそろいい時間だしね」


 時計を見ると当初予定していた終了時刻が迫っている。

 普段自分一人でやるよりも終わりが早い気がしたのは、やはり大切な相手と一緒にやっていたからだろうか。

 隣を見ると桜彩もその顔に充実を感じているような笑みを浮かべている。


「ふーっ。良い汗かいたなあ」


 怜がスポーツタオルを渡すと、それを受け取った桜彩が首の辺りの汗を拭いていく。

 体温が上がっているせいか、桜彩の白い肌がほんのりと赤みを帯びて熱を持っているのが分かる。

 首の後ろを拭こうとその綺麗で長い髪をかき上げた際に、チラリと見えたうなじに一瞬目を奪われる怜。

 そんな内心の動揺を隠しながら、怜も自分の首にタオルを当てて汗を拭いていく。


「実際にやってみてどうだった? 辛すぎるとかはないか?」


「うん。心地良い疲れっていうのかな?」


「そっか。それなら良かった」


 桜彩の負担が大きすぎないように考えながら行っていたのだが、どうやら大丈夫のようで安心する。

 これなら明日以降は今日のメニューを参考にしていけば良いだろう。


「でも怜は大丈夫なの? 私に合わせてのメニューってことは、怜にとっては物足りないんじゃない?」


 怜と桜彩では当然ながら怜の方が体力がある。

 よって桜彩にとって丁度良いトレーニング内容であれば、それは怜にとっては物足りないということだろう。

 それを理解している為、申し訳なさそうな顔で桜彩が尋ねてくる。


「気にするなって。負荷の掛けようなんていくらでもあるしな」


「そうなの?」


「ああ。それに前にも言ったろ? 俺のトレーニングは単なる趣味で、別にスポーツ選手になる為にトレーニングしてるわけじゃないって」


「う、うん……」


「それにさ、今の俺は単にトレーニングをしたいわけじゃない。それよりも桜彩と一緒にトレーニングする方が何倍も楽しい。だからこうやって桜彩と一緒にトレーニング出来るのが本当に嬉しいんだ」


 今日実際にやってみて本当にそう思う。

 普段一人で行うのもそれはそれで嫌いではないが、こうして桜彩と共にトレーニングをしてみると普段とは違う楽しさに気が付ける。

 それは陸翔や蕾華と行った時ともまた違う楽しさだった。


「怜……」


 怜が素直な気持ちを口にすると、それまで申し訳なさそうだった桜彩の表情がふっ、と緩む。

 心配そうに上目遣いで怜を眺めていた目が丸くなり、優しい笑みを浮かべる。


「ありがとね」


「お礼を言われることじゃないって。むしろ桜彩が自分もトレーニングしたい、って言ってこなければこんな楽しみに出会うことなんて無かったんだから。だからその点では俺の方がありがとうだな」


「ふふっ。それこそお礼を言われることじゃないよ。私も単にダイエットしたいだけなんだから」


 二人で顔を見合わせて、そしてクスリと笑い合う。

 リラックスするように二人並んで壁へと背を預けて床に座り込む。


「でもね、私も怜とこうして一緒にトレーニングするの、とっても楽しい。途中でダイエットの事完全に忘れちゃってたし」


「そっか。まあ長続きの一番の秘訣は楽しめるかどうかだと思うからな。桜彩が楽しいと思ってくれればこれから先も安泰だな」


「うん。まずは明日の朝のジョギングだね。ふふっ、今から楽しみだなあ」


「そうだな。俺もだよ」


 明日の朝は二人でのジョギングが待っている。

 今日とは別の楽しさを味わうことが出来るだろう。


「えっと、明日は五時半からで良いんだよね?」


「ああ。今までよりも早く起きなきゃいけないだろうけど」


「うん。でもそれは大丈夫だから気にしないで。それより怜の方はそれで良いの?」


 普段桜彩は六時に、怜は五時半に起床している。

 ジョギングの開始が五時半なのだから早起きするのは怜も一緒だ。


「大丈夫だって。それに男の方はそんなに準備に手間取らないしな」


 そもそもジョギングの時間を早めたのは、女性である桜彩の方がジョギング後のあれこれに手間だと考えたからだ。

 男の怜であれば簡単にシャワーを浴びる程度で済むのだが、桜彩の方は色々と支度することがあるだろう。

 その後の朝食作りを考えても、時間には余裕を持っていた方が良い。


「そっか。うん。それじゃあ明日は五時半にね」


「まあ明日実際にやってみて、余裕があれば時間を遅らせても良いかもな」


 怜の言葉に桜彩がうんうんと頷いて立ち上がる。


「それじゃあ私はそろそろ帰るね」


「ああ」


 怜も玄関まで桜彩を送る為に立ち上がる。


「あ、そうだ。桜彩、タオルちょうだい」


「え? これ?」


 桜彩が使っていたスポーツタオルは怜の物だ。

 だから洗濯も自分でやろうと思ったのだが、桜彩はタオルを怜に渡すのを躊躇してもじもじとしてしまう。


「桜彩?」


「あ、あのね、私が使ったんだから私が洗うよ」


「別に気にしなくても良いんだぞ」


「あ、えっと……」


 少しばかり申し訳なさそうにチラチラと怜を上目遣いで見ながら言いよどむ桜彩。

 怜としてはその理由が分からずに頭に疑問符が浮かぶ。


「えっとね……。その……これ、私の汗を拭いたのだからさ……。その、怜が私の匂いを気にしない、むしろ落ち着くって言ってくれたのは嬉しいんだけど……で、でも、やっぱり恥ずかしいことに変わりはないから……」


「あ、そ、そうか……。悪い、そこまで考えてなくて……」


「う、ううん! れ、怜が謝ることじゃないから……」


 二人で顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 そうしていると、先ほど二人でお互いの臭いを嗅ぎ合ったことが脳裏に浮かんでさらに恥ずかしくなってしまう。


「そ、そういうわけだから……」


「あ、ああ。それじゃあ洗濯は桜彩にお願いするよ」


「う、うん。任せて」


 さすがにそう言われては怜としても桜彩に任せるしかない。


「そ、それじゃあ帰るね」


「ああ」


 そして再び二人で玄関へと向けて廊下を歩いて行く。


「ふふっ。今日一日でどれだけ瘦せたか楽しみだなあ」


「まあ一日でそんなに体重が減るものでも無いとは思うけどな。あくまでも無理のない範囲で継続してこそだと思うぞ」


 ボクサーなどは一日で数キロ強引に体重を落とす方法を使用することがあるのだが、さすがに単なるダイエットでそれは必要ない。

 あくまでも緩やかに落としていくのが一番だ。


「むーっ。良いじゃない、別にさ」


 ぷくっ、と頬を膨らませて桜彩が拗ねる。

 そんな桜彩も可愛らしいな、などと思いつい怜の顔に笑みが浮かぶ。


「それじゃあ今からウチの体重計で調べてみるか?」


「え? あ、それじゃあそうしようかな」


 ふと思いついた怜の提案に桜彩が同意する。

 そして二人は玄関に向けていた足を怜の自室へと変更する。


「それじゃあ桜彩。乗ってみて」


「あ、うん。あ、そのね……」


 体重計に乗ろうとした桜彩だが、その直前で先ほどのように恥ずかしそうにチラチラとこちらの方を見てくる。

 流石に怜としてもその意図を察して桜彩の方へと背を向ける。


「俺は見ないようにするから大丈夫だよ」


「うん、ありがとね。ダイエットに成功したら、怜にも教えるからさ」


 今時の女子高生とは違い、桜彩は自分の体重を親しい相手に教えることを嫌だとは思わない。

 まあそれも普段の体重であればの話ではあるが。


「そっか。それじゃあ楽しみにしてるよ」


「うん。それじゃあ量るね」


 そう言って桜彩が体重計へと乗る。

 しばしの間、沈黙が訪れる。

 そして次の瞬間、桜彩の口から歓喜の声が流れ出た。


「あっ、凄い! 一気に体重が減ったよ!」


「えっ!?」


 その言葉に慌てて背後を振り向く怜。

 そこでは体重計に乗ったまま、桜彩が満面の笑みを浮かべていた。


「怜、ありがとね! ふふっ、ダイエット、成功しちゃった」

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